仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

植物的死生観

2020年04月02日 | 日記
熊本への飛行機の中で『死と生』 (新潮新書・2018/7/13・佐伯 啓思著)を読みました。これは『新潮45』に連載していた記事に加筆したものです。以前(2018.2月号)に連載されたものを2回、紹介したことがあります。「仏教を楽しむ 佐伯」で検索してください。

『新潮45』で読んでいなかったものを一つだけ紹介します。第7章に「あの世を信じるということ」の中に書いてあるものです。

「死後の世界」を信じる若者たち
 近年の世論調査によると、日本人の半数近くが「死後の世界」の存在を信じているようです。産経新聞社が出している『別冊正論‥霊性・霊界ガイド』に様々な世論調査の結果が載っていますが、NHKの放送文化研究所の調査(平成20年)によると、「死後の世界」の存在を信じている人は44%で、信じていない人(30%)をかなり上回っています。平成10年の同じ調査では、信じる派が37%、信じない派が35%ですから、10年間ほどで、「死後の世界」信仰派は相当増えました。また別の調査では、昭和33年と平成20年を比較すると、「あの世を信じる」人は20%から38%へと約2倍になり、一方「信じない」派は、59%から33%へと半減に近い状態になっています。

 さらに、この調査に関しては少し向白いことがあって、時代別に見ると、昭和33年の調査で「死後の世界」に肯定派の割合が確実に高いのは65歳以上の高齢層(この層の35%)ですが、それが平成20年では32%へ少し下がっている。ところが、29-34歳の若者層てには、昭和33年には13%だったものが、平成20年では46%にまで増加している。これはかなりの数字でしょう。要するに、若年圈ほど「あの世」を信じていることになる。 

この調査の面白さは、飽食と平和に満ちたこの日本で、強い信仰心もないくせに、なぜ、半数近くの人が「祖先の霊」を肯定的にとらえ、「あの世」を肯定するのか、という点にあります。確かに、それは奇妙なことなのです。 

個人が、ほとんど、ひとりで死と向きあわざるを得ない。にもかかわらず、「死」や「死後」を意味づける物語は、確かな形では存在しないのです。
 こうした漠然たる不安がわれわれを取り巻いています。われわれの誰もが、やがて自分の身の上に襲いかかる「死」をうずうず感じている。そして、その場合に、「先祖の霊」や「死後の世界」や「輪廻転生」といった言葉が記憶のなかからよみがえってくる。それが何を意味するのかなどわかりません。ただこうした観念がわれわれの深層心理の内にいまだに保持されているのです。

日本の場合、そのもっとも基底にある死生観を取り出せば、農耕社会的な生命観と霊魂による生死の連続性の観念といってよいでしょう。哲学者の伊藤益氏が「日本人の死-日本的死生観への視角‐」(北樹出版)という書物のなかで、日本人の死の観念の特質として「植物物的死生観」と「生死連続観」をあげていますが、この説け私には納得できるものです。 神道に関わる日本の宗教的な原型が、農耕社会と深くかかわっていることはよく指摘されることです。

 日本人の自然観は、農耕社会的な生成の観念、つまり次々と命を生み出し、やがて朽ちてゆくという。一種の植物的な生命観を原型にしていることは容易に推測のつくことでしょう。そして、多産豊穣の人地毋神的なものへの崇拝が強いこともまた十分に予測のつくことでしょう。すると、その延長上に、伊藤氏が述べるような「植物的死生観」が生成しても不思議ではありません。
 確かに、人の人生は、芽が出て生育し、やがて花が咲くように青春を迎え、実がなる成年をへて、秋のモミジのような最後の美をとどめつつ、花も葉もいずれ散ってゆく、というような観念はいまでも健在でしょう。「花が散るごとく散らん」とはよくいかれることで、散りゆく桜花に人生の最後を重れることは西行の昔から、靖国で会おうといつか特攻に至るまでずっとかわらずわれわれの死生観の底を流れている。(以上)

現代人のあの世の存在を信じる派が多いのは、心の底に根づいている「植物的死生観」にあるという結論です。
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