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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

生きづらさの民俗学⑤

2024年08月30日 | 現代の病理
『生きづらさの民俗学――日常の中の差別・排除を捉える』(2023/11/4・及川祥平編集, 著,川松あかり編集, 著,辻元侑生編集, 著)からの転載です。


好井が構想する「排除と差別の社会学」が目指すのは、加害者と被加害者を明確に分けて「告発」を試みるものとは少し異なる。彼が提案するのはむしろ、誰からも告発されなくても、自分の中に宿る差別する可能性を、自分で意識化することである。同書の中で好井は、たとえばバラエティ番組やニュースなどでわたしたちが日常的に触れ、“普通”だと考えている物物事や知識には、すでに差別を成りたたせる過剰な決めつけや歪められた思い込みが仕組まれていると述べる。わたしたちの多くは“普通”でありたいと思うものである。だから、わたしたちが“普通”であろうと日々身に付けつくり上げていく知識もまた、差別する可能性をはらんだものになってしまうというのである。
 だが、“普通であること”がすでに差別する可能性を含んでいるとは、どういうことだろうか。これについて、歴史学の視点から「生きづらさ」について論じてきた松沢裕作の論義からさらに考えてみよう。松沢はその名も『生きづらい明治社会』という本で、民衆思想史で有名な安丸良夫が提唱した「通俗道徳」という言葉を用いて議論を展開している。「通俗道徳」とは、「人が貧困に陥るのは、その人の努力がたりないからだ、という考え方」のことである。逆に言えば、わたしたちが勤勉に働き、倹約して貯蓄し、親孝行するという、誰もが普通に「良いこと」だと感じるようなことをしていれば、お金に困ることもないし家族円満になるはずだ、というわけだ。そして、実際にある程度まで人は努力すれば富や権力を得ることができるため、この主張を真っ向から否定することは難しいのだという。
 しかし、松沢によればこれは「わな」である。現実には、いくら真面目に努力しても人は何かの拍子に貧困に陥ったり、貯蓄するほどの収人が得られなかったりするものだ。そもそも、競争社会の中で経済的な勝行となることは容易ではない。ところが、「通俗道徳」にはまり込んでいた明治時代の人びとは、貧困な人がいればそれはその人の努力が足りなかったからだ、当人が悪いのだ、と考えた。このように、政争への敗行や「辿俗道徳」からの脱落者に冷たかった明治社会は、「生きづらい」社会だったというのである。
 「通俗道徳のわな」にかかっていたのは、明治時代の人たちだけだろうか、松沢はそうではないという。現代社会にも、「努力すれば成功する」「競争の勝者は優れている」という「通俗道徳」的な思考法がはびこっている。この「通俗」すなわち、普通゛を当たり前に受けしにめることこそが、わたしたちを「生きづらさ」へといざなうのである。
 柳田國男は、人びとの平凡な幸福への願いの切実さを説き、“普通”な幸福が人びとに訪れることを願っていたかもしれない。だが、その幸福イメージはすでに「通俗道徳のわな」にとらわれていた。わたしたちは「通俗道徳」にしたがって正しくあろうとし、それによって謙虚にも、“平凡”で“普通”な幸福をつかみたいと願う。好井の議論に戻れば、そのとき、同時にわたしたちは“普通””から排除される他者を差別する可能性をはらむ。そしてまた松沢の言うように、容易には“普通”を手にできないわたしたち自身もまた、自己自身によって差別され、「生きづらさ」を感じるのである。
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