本願寺出版刊月刊誌『DAIJO』に2022年4月号から毎月、執筆者無記名のコラムに執筆しています。出版社から三か月は掲載しないでとのことで、期限切れから掲載しています。
24年11月号掲載文です。
社会的役割
ある寓話がある。遠い異国の海辺に近い村では、丘の上の基地の砲台で、毎日、正午に号砲が鳴り、誰もがそれで時間を合わせるのが何百年もの慣わしになっていた。村にとって正午の号砲は、日の出や日の入りと同じく一つの自然現象で、午前と午後を区切る規則正しい出来事だった。一人の少年が、ふと疑問を抱いた。「あの大砲はいったいどうやってちょうど正午を知り、大砲を鳴せるのだろう?」。ある日、彼は丘を登り砲兵に尋ねた。「どうやって毎日ちょうど正午に号砲を鳴らしているんですか?」。砲兵はにっこり笑って、「隊長の命令さ。そのために隊長は一番正確な時計を身につけて、その時計の時間がいつもちゃんと合っているように管理しているんだ」と答えた。それを聞いた少年は隊長のところへ行ってみた。隊長は、精巧に作られ、正確に時を刻む時計を、誇らしげに見せた。「じゃあ、この時計はどうやって合わせるんですか?」。「週に一度、町まで散歩するときに、いつも必ず町の時計屋の前を通る。そのときショーウインドウに飾ってある立派な古い大時計に、この時計を合わせるんだ。町でも大勢の人が、この大時計を使って時間を合わせているんだよ」。
次の日、少年は時計屋を訪れ、「ショーウインドウの大時計の時間は、どうやって合わせてるんですか?」と尋ねた。時計屋はこう応じた。「そりゃあ、このあたりの誰もが使ってきた一番確かな方法だよ。正午の号砲で合わせるのさ!」。
大砲と大時計。その時の常識にそった行動が、新しい常識を生み出し、常識が常に変化し続けていく。この寓話だと、いつの間にか、昼夜が逆転するということもありそうだ。
自分とは何者か。田中優子氏が『未来のための江戸学』に興味深いことを記されている。江戸時代、商人や武士は、同時にいくつもの名前を持つ傾向があった。仕事上で名乗る名、狂歌を詠むときの狂名、俳諧のときの俳名、絵画を描くときの雅号、文章の執筆に使う名前などである。アイデンティティは「自己同一性」と訳される。つまりは一貫性であり、他者との違いの認識である。多名とは無名、自己がないということは他者がいないということ。この価値観は、インドでは当たり前の感覚であり、これはアジア一般に共通していた可能性がある。江戸時代は、アイデンティティに価値を置かず、自己と他者を同時に考えられる文化、生命の関連と相互作用を感じ取る文化であったという。
人はその時代の常識によって人間性が色づけされる。近代に入り、1950年頃までは、社会で共有された価値観があり、その価値観に沿って行動すれば、周囲の人々から認められ、自分の行為の価値を確認できた。ところが近年は、価値観の多様化と共に、承認を得るための行動基準が見えないために承認不安が強くなっている。世間的な価値観に追従したり、自己責任という自分で決定しなければならない不安を生み出し、西洋的な個の確立がないままに自分探しをしていると言ったところが現代だ。
常識は常に変わり続けている。であるならば、出来るか出来ないかではなく、どのように変わるべきなのかという一つの正しさを指し示すことも、本願寺派教団の社会的使命だろう。理想的な生き方。これは浄土真宗の信心の本質ではない。しかし教団である以上、社会的な役割を担っている。
宗教哲学者の西谷啓治(1900一1990)は、「現代には宗教がなく、宗教には現代がない」と説き、「仏教には社会倫理の問題が欠如している。…現代の人間の生活のもとに基本的な力として働いていることがなければならない」(『仏教について』法蔵館)と指摘している。生活の中で能動的に機能する信心のあり様を説くことが求められている。
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