一昨日(25.3.23)彼岸の説教に寄せていただいたお寺に「明日ありとおもうこころの仇桜夜半(よわ)に嵐のふかぬものかわ」[親鸞聖人](九歳の歌と伝説)の言葉とお坊さんの顔を描いた掛軸がかかっていました。
そのとき思ったことですが、真実の言葉は、時には人を傷つけるということがあります。たとえば、子を失い悲しんでいる中で「無常」だと言われれば、腹が立ちます。それはその人が置かれている悲しみを無視する響きがあるからです。逆に人は、体験される悲しみを通して「無常」を体得していきます。体得したからといって人生が光り輝くということでもありません。
しかし本当に豊かなものに出会ったときは、太陽の光が、光を発することのない惑星を照らして光り輝かせるように、その出会いに連なる出来事を意味づけ光り輝かせるということがあります。
幸い浄土真宗という仏道では“念仏”という本当に豊かなものが如来の側から告げられて行きます。『仏説無量寿経』に「たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。」
とすべてが滅び火となって燃え尽きようとの、滅ぶことなき豊かさであると説かれています。
この念仏の法を伝えることに、もっと情熱を傾けるべきだろう。自分に。
そのとき思ったことですが、真実の言葉は、時には人を傷つけるということがあります。たとえば、子を失い悲しんでいる中で「無常」だと言われれば、腹が立ちます。それはその人が置かれている悲しみを無視する響きがあるからです。逆に人は、体験される悲しみを通して「無常」を体得していきます。体得したからといって人生が光り輝くということでもありません。
しかし本当に豊かなものに出会ったときは、太陽の光が、光を発することのない惑星を照らして光り輝かせるように、その出会いに連なる出来事を意味づけ光り輝かせるということがあります。
幸い浄土真宗という仏道では“念仏”という本当に豊かなものが如来の側から告げられて行きます。『仏説無量寿経』に「たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。」
とすべてが滅び火となって燃え尽きようとの、滅ぶことなき豊かさであると説かれています。
この念仏の法を伝えることに、もっと情熱を傾けるべきだろう。自分に。
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