
「ゆたかさをどう測るか ――ウェルビーイングの経済学』 (ちくま新書・2025/2/7・山田鋭夫著)からの転載です。
一人当たりGDP
以上、GDPの功罪について見てきたが、本書の本題からすれば「一人当りGDP」に焦点が当てられなければならない。それは「国民のゆたかさ」を知るための簡便かつ代表的な指標とされてきたからである。GDPの問題点はそのまま一人当たりGDPの問題点にもつながるが、後者はまた「国民のゆたかさ」の指標たりうるには固有の難点をもっている。
つまり一人当たりGDPは、GDPを人数で除した数字だから、その国の「平均所得」を示すものである。しかし、多数の貧者と少数の富者からなる国の一人当たりGDPが、比較的平等な所得分布を示す国のそれと同価になることだってありうる。
大多数の国民の所得はそのままであっても、数名の大富豪がさらに所得を伸ばしたならば、「国民のゆたかさ」(平均所得)は増大するという、めでたい(?)結果を見ることになる。貧富格差が異常に拡大しているといわれる今日、平均所得は増大しているが中位所得は低下している。中間層が沈下し没落しているのである。この問題は看過できない。
さらに少々先走って二言すれば、一人当たりGDPという「ゆたかさ」指標は人びとのウェルビーイングの真実に迫りえているのか。
アメリカ資本主義の最盛期ともいえる一九五八年、制度学派の経済学者J・K・ガルブレイスはその名も『ゆたかな社会』という名著を出版した。世界大戦終了直後、社会を覆っていた資本主義の「成熟と停滞」という観念は、その後のアメリカ的繁栄のなかでいつしか過去のものとなり、時のアメリカでは経済成長はすでに「通念」と化していた。同じころ、アメリカは世界の先頭をきって「高度大衆消費時代」を享受しているのだという、W・W・ロストクの経済成長段階論がもてはやされていた。そういった成長の宴のまっただなか、ガルブレイスはいち早く通念に挑戦する。「成長」や「ゆたかさ」への重大な懸念を表明する。成長はある種の「有害な傾向」を生み出している、と。
名づけて「依存効果」。その要約的主張を聞いてみよう。
礼会がゆたかになるにつれて、欲望を満足させる過程が同時に欲望をつくり出していく程度が次第に大きくなる。これが受動的におこなわれることもある。すなわち、生産の増大に対応する消費の増大はで示唆や見栄を通じて欲望をつくり出すように作用する。
高い水準が達成されるとともに期待心大きくなる。あるいはまた、生産者が積極的に、宣伝や販売術によって欲望をつくり出そうとすることになる。このようにして欲望は生産に依存するようになる。欲望は欲望を満足させる過程に依存するということについて今後もふれる機会があると思うので、それを依存効果と呼ぶのが便利であろう。
要するに「欲望を満足させる過程が同時に欲望をつくり出していくことであり、「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」のだという。
このように「依存効果」によって、欲望は自己増殖していく。それが「ゆたかな社会」の現実だと、ガルブレイスはいう。あたか心回転する踏み車のなかで走り言づけるハツカネズミのように、消費者は欲望の無限増殖の罠に陥り、購買と消費に駆り立てられていく。
その結果、欲望が充足されればされるほど不満足感に襲われる。物的にゆたかになればなるほど、ゆたかさを感じなくなる。こうして「ゆたかな社会」では、物質的貧困に代わって精神的な飢餓が定着することにたった。GDP成長に上る「ゆたかな社会」とは、このような「有害な傾向」を有しており、新たな持病をかかえこんだのである。
戦後市民社会論の代表的論客たる内田義彦にあっては、そこからさらに深い思索へと到達している。その内田に即して、あらためてマクロ市民社会論の到達点を見届けておこう。
内田にも幾多の市民社会概念が混在しているが、思想的に成熟した晩年の作品にあっては、市民社会はもっと抽象化され九ところで捉えなおされる。近代市民社会論から抽象的市民社会論へと思考が深化していく。その抽象化されたところで捉えなおされた市民社会とは、①人間が人間らしく生きるということ(ゆたかな生)が自己目的となる社会であり、②一人ひとりの人間が生きているということそれ自体の心つ絶対的な意味と重さが尊重されるという意味で人権・生存権が確立した社会であり、そしてそれは、③さまざまな社会形態をくぐりぬけて歴史的に貫徹し、人類史の伏流を形成しつつ次第次第に実現していくものとしてあった。たんなるセクターとしてでなく、あるいぱたんなる歴史的一段階としてでなく、社会総体としてこれが紆余曲折はあれ歴史貫通的に現実化していくというのが、内田の到達した市民社会像である。(以上)
一人当たりGDP
以上、GDPの功罪について見てきたが、本書の本題からすれば「一人当りGDP」に焦点が当てられなければならない。それは「国民のゆたかさ」を知るための簡便かつ代表的な指標とされてきたからである。GDPの問題点はそのまま一人当たりGDPの問題点にもつながるが、後者はまた「国民のゆたかさ」の指標たりうるには固有の難点をもっている。
つまり一人当たりGDPは、GDPを人数で除した数字だから、その国の「平均所得」を示すものである。しかし、多数の貧者と少数の富者からなる国の一人当たりGDPが、比較的平等な所得分布を示す国のそれと同価になることだってありうる。
大多数の国民の所得はそのままであっても、数名の大富豪がさらに所得を伸ばしたならば、「国民のゆたかさ」(平均所得)は増大するという、めでたい(?)結果を見ることになる。貧富格差が異常に拡大しているといわれる今日、平均所得は増大しているが中位所得は低下している。中間層が沈下し没落しているのである。この問題は看過できない。
さらに少々先走って二言すれば、一人当たりGDPという「ゆたかさ」指標は人びとのウェルビーイングの真実に迫りえているのか。
アメリカ資本主義の最盛期ともいえる一九五八年、制度学派の経済学者J・K・ガルブレイスはその名も『ゆたかな社会』という名著を出版した。世界大戦終了直後、社会を覆っていた資本主義の「成熟と停滞」という観念は、その後のアメリカ的繁栄のなかでいつしか過去のものとなり、時のアメリカでは経済成長はすでに「通念」と化していた。同じころ、アメリカは世界の先頭をきって「高度大衆消費時代」を享受しているのだという、W・W・ロストクの経済成長段階論がもてはやされていた。そういった成長の宴のまっただなか、ガルブレイスはいち早く通念に挑戦する。「成長」や「ゆたかさ」への重大な懸念を表明する。成長はある種の「有害な傾向」を生み出している、と。
名づけて「依存効果」。その要約的主張を聞いてみよう。
礼会がゆたかになるにつれて、欲望を満足させる過程が同時に欲望をつくり出していく程度が次第に大きくなる。これが受動的におこなわれることもある。すなわち、生産の増大に対応する消費の増大はで示唆や見栄を通じて欲望をつくり出すように作用する。
高い水準が達成されるとともに期待心大きくなる。あるいはまた、生産者が積極的に、宣伝や販売術によって欲望をつくり出そうとすることになる。このようにして欲望は生産に依存するようになる。欲望は欲望を満足させる過程に依存するということについて今後もふれる機会があると思うので、それを依存効果と呼ぶのが便利であろう。
要するに「欲望を満足させる過程が同時に欲望をつくり出していくことであり、「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」のだという。
このように「依存効果」によって、欲望は自己増殖していく。それが「ゆたかな社会」の現実だと、ガルブレイスはいう。あたか心回転する踏み車のなかで走り言づけるハツカネズミのように、消費者は欲望の無限増殖の罠に陥り、購買と消費に駆り立てられていく。
その結果、欲望が充足されればされるほど不満足感に襲われる。物的にゆたかになればなるほど、ゆたかさを感じなくなる。こうして「ゆたかな社会」では、物質的貧困に代わって精神的な飢餓が定着することにたった。GDP成長に上る「ゆたかな社会」とは、このような「有害な傾向」を有しており、新たな持病をかかえこんだのである。
戦後市民社会論の代表的論客たる内田義彦にあっては、そこからさらに深い思索へと到達している。その内田に即して、あらためてマクロ市民社会論の到達点を見届けておこう。
内田にも幾多の市民社会概念が混在しているが、思想的に成熟した晩年の作品にあっては、市民社会はもっと抽象化され九ところで捉えなおされる。近代市民社会論から抽象的市民社会論へと思考が深化していく。その抽象化されたところで捉えなおされた市民社会とは、①人間が人間らしく生きるということ(ゆたかな生)が自己目的となる社会であり、②一人ひとりの人間が生きているということそれ自体の心つ絶対的な意味と重さが尊重されるという意味で人権・生存権が確立した社会であり、そしてそれは、③さまざまな社会形態をくぐりぬけて歴史的に貫徹し、人類史の伏流を形成しつつ次第次第に実現していくものとしてあった。たんなるセクターとしてでなく、あるいぱたんなる歴史的一段階としてでなく、社会総体としてこれが紆余曲折はあれ歴史貫通的に現実化していくというのが、内田の到達した市民社会像である。(以上)
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