仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

いつもの言葉を哲学する

2024年06月24日 | 日記
『いつもの言葉を哲学する』(2021/12/13・古田徹也著)から。以下転載。

目下からの「あなた」が不快に感じられる理由
 学校における「先生」という呼称をめぐっては、『オトナ語の謎。』の冒頭に、糸井重里さんが高校時代に体験した興味深いエピソードが紹介されている。
 ある日、定年退職を翌年に控えた先生と生意気な生徒が言い争っていた。とはいえ、先生の方は余裕な様子で、口元に軽い笑みさえ浮かべていた。しかし、生徒がある二言を発したことで、先生は突如として烈火のごとく怒り出し、「なんだー・貴様はー」と怒鳴りっけたという。なにも生徒は、「バカ」だの「アホ」だのといった悪罵を投げつけたわけではない。ただ、先生に向かって「あなたは」と言ったのだ。
 おそらくその先生は、「お前」とか「てめえ」などと言われても怒らなかっただろう。
「あなた」という、むしろ丁寧とも言える二人称で呼ばれたことによって、理性では抑えられないほどに感情を逆撫でされたわけである。つまり、そこでの「あなた」という呼称は、自分がその生徒にとっての保護者や恩師ではなく、議論の対等な相手として位置づけられたことを示すものであり、それが何よりも無礼に感じたのだろう。その先生は、まさに「先生」というアイデンティティを-生徒を一方的に指導する立場に身を置く資格ないし権力をー脅かされたのである。
 子どもに対する「先生」という自称、あるいは、「お父さん」や「お母さん」などの自称は、子どもにとって自分がどういう役割を担うべき者かを示すものであり、その意味では、子ども中心の観点が反映されていると言える。
 しかし、同時にこれらの自称は、子どもに対して圧倒的な優位に立ち、強い力を行使できる者の自称だという点にも、心を留めておくべきだろう。たとえば、子どもを性的に搾取しようと近づく男性の、「おじさんはね……」という自称の気持ち悪さには、役割を自称することが帯びうる危険な側面が、これ以上ないほど凝縮されている。(つづく)


1『オトナ語の謎。』、監修・糸井重里、編・ほぼ日刊イトイ新聞、新潮文庫、
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