仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

旃陀羅表記②

2023年02月21日 | 現代の病理

旃陀羅、変成男子のついて、『宗報』(2019.7月号)で、岩本先生の娘さん岩本智依氏が「経典から差別の現実を学ぶということ」を執筆されておられます。

 

https://www.hongwanji.or.jp/news/upload_img/jinken_shuhou_1907.pdf

 

「おわりに」の部分だけ転載します。 

 

親鸞聖人は阿闍世や韋提希など『観無量寿経』の登場人物について、その社会で差別をし、差別をされるという苦しみの中で生き、み教えに差別・陂差別から解放され救われていった存在だと見ておられます。そのため経典の中には「栴陀羅」に関わる身分差別や「女人往生」という性差別、さらには『無量寿経』第四一願に関わるようないわゆる「根欠」といわれた障害者差別など、赤裸々な差別の現実が説かれています。しかし決してそれは差別を肯定するものではなく、すべての人を平等に救うという差別を否定する仏意を私たちに伝えてくださるものです。親鸞聖人は経典に説かれる阿闍世や韋提希に、また被差別民である「旃陀羅」に、自分自身と重ね、そして彼らの差別・被差別の現実を自らの問題として怒り、そして差別を克服する様子を通して、ご自分の生き方を問われました。

この経典に述べられている差別は、部落差別や性差別、また社会モデルや合理的配慮といった新たな課題を含めた障害差別など、現代社会においてもなお差別の現実として私たちが直面している問題です。

 しかしこれらの親鸞聖人の経典と向き合われた姿勢を忘れた時に、私たちは経典の中に記されている差別語や差別表現を、単に「言葉」として読み、自らの差別の正当性に利用したりしてしまいます。本来は差別の現実の中に生きる私たちの生き方を問うているはずの経典を、差別を温存助長し差別に利用する「差別経典」にしてしまう、まさに親鸞聖人が経典と向き合われた「随順仏語」「順彼仏願」とは真逆の僧侶の姿であることを忘れてはいけません。(以上)

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