『韓国人には理解できない 謙虚で美しい日本語のヒミツ』(2022/10/3・呉善花著)からの転載です
日本語は心のなかでへりくだる気持ちを含んでいる言葉
日本人が受動態を頻繁に使うことは、私にとって大きな謎でした。ところが、私は、人前でスピーチをする機会が増えた頃に、「受動態で表現することは、日本人の性格と深く関わっているのではないか」と気付いたのです。受動態を意識しながら「日本人とは何か」を探っていくのはとても面白くなりました。
スピーチで冒頭の挨拶をするとき、韓国語なら「皆さんが見ているから、緊張しています」と言うでしょう。一方、日本語なら「皆さんに見られて、緊張しています」と話すのが自然です。
「皆さんが見ているから」という言い方は、直線的です。これに対し、「皆さんに見られて」という受動態で話すたびに、私は体をくねくねと曲げないといけないような気持ちになってしまいます。
さらに日本語に慣れてくると、頭のなかもくねくねと曲げなければならなくなったのです。この感覚は私のイメージなので、伝わりにくいかもしれませんが、韓国語の能動態に慣れきっていた私にとって、受動態で話すことはとても疲れる作業でした。
ところがあるとき、私は気付きました。受動態で話す前に、心のなかで「問題は自分のほうにある」という気持ちになれば、すんなりと話せたのです。「私を見ている皆さん」ではなく「皆さんに見られている私」という気持ちになると、視線は自然と自分の側に向かいます。すると、自らを省みて、自然と謙虚に頭を垂れるような気持ちになり、受動態ですらすら話せるようになったわけです。
例えば、私がテーブルの上に本か入ったコップを置き、後で飲もうと考えてその場を離れたとしましょう。ところが、帰ってくると水がなくなってしまっていた。その場合、韓国人は必ず、「誰かが飲んでしまった」と言います。その表現には、水を飮んでしまった自分以外の誰かを責める気持ちが含まれているのです。これに対し、「誰かに水を飲まれた」は、水を飲んだ人ではなく、水がなくなった現象そのものにスポットライトを当てています。そして、水を飲んだ人を責めず、むしろ、こんなところに水が入ったコップを置いた自分が悪いというような気持ちが表れているのです。
いったん責任を相手ではなく自分のほうに置いて、「私か悪かった」という気持ちをもつことで、私の気持ちはとても穏やかになりました。そして、そうした気持ちを導く日本語の受動態のあり方をさらに探っていけば、日本人の本質にたどり着けるのではないかと考えたのです。(つづく)