仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「自己決定権」という罠

2021年03月07日 | 日記

『「自己決定権」という罠:ナチスから新型コロナ感染症まで』 (2020/12/25・小松美彦・今野哲男著)、


初版から約20年、このたび増補された決定版です。自己決定権が台頭してきた理由は、高度成長を経てわが国に「豊かな社会」が成立し、多様な個性やライフスタイルへの欲求の高まりを「選べる」という社会になったこと。また急激な都市化は、農村と都市、親戚、会社という「共同体」を解体したこと。人々の自由な生き方を認める社会となったことなどが挙げられる。

 

本書では、「自分のことは自分で決める権利」は、1960.70年代のアメリカ社会で喧伝され、日本では、1980年前半、脳死・臓器移植から、推進派が推進の決定版として「自己決定権」を持ち出したとあります。著者は、否定派ですが、その結論は下記の部分でしょう。

 

『「人間の尊厳」という概念が、「自己決定権」と同じような意味合いをもって全面登場しました。つまり、一つの戦略的な罠、「安楽死・尊厳死」を推し進める概念装置として、重要な位置を占めるようになったのです』
『結論から述べましょう。「人間の尊厳」という美しく絶対的だと思われてきた概念が、生権力の核心中の核心であり、「生きるに値する/生きるに値しない」という線引きの根底に横たわっているのです』

少し長くなりますが、森鴎外の『高瀬舟』を批判しているの、その部分を転載します。

 

「高瀬舟」には乗れない

 安楽死・尊厳死を扱った古典として、森鴎外の「高瀬舟」(『山淑人夫・高瀬舟』新潮文庫、一九六八年、所収)があります。… 多くの場合、あの小説を読む読者は、病に苦しんで自殺を企てた弟を幇助した、罪人・喜助の立場に感情移入して読み進めることになると思います。これも、自分のことのようにという直接的な感情移入ではなく、高瀬舟で護送している同心・羽田庄兵衛の語りと関心に引き寄せられながら、いわば庄兵衛になり代わって、傍観者的に喜助の居すまいを感じ、声に耳を傾けることになると思うのです。

 庄兵衛は、はじめから喜助の物腰に対して好意を感じています。殺人を犯した罪人であるのに、ただの悪人ではないと感じているわけです。それゆえ、殺したことに何か子細かあるに違いないということで、喜助の話を引き出すことになります。

 そうやって庄兵衛と一緒になって喜助の話を聞いていくと、短い小説のクライマヨクスに至って、はたしてやむにやまれぬ子細かあったことが語られます。つまり自害を決行したものの死にされずに悶え苦しんでいる弟を発見し、喜助を見るに見ねて弟を死なせてげた、というのです。

 このような喜助の語りが終ったときに庄兵衛が感じるまさしく慈悲殺に対する肯定的な感情は、作者・鵈外によってあらかじめ仕組まれた読者と庄兵衛の一休化という構成意図によって、読者にも自然に納得できるようにできています。

 あからさまに述べると、この小説では、庄兵術は鴎外その人だといってよいと思います。つまり、鴎外には慈悲殺を肯定するという予断があって、そのことを読者に納得させるために、このの作品を構成し、書いたといってよいと思うのです。ですからこの作品は、よく世間で言われるような、慈悲殺の是非を根本から問うものではありません。慈悲殺を認めさせたい考えていた鴎外が、自分の考え方を広めるために書いたプロパガンダ小説なのではないでしょうか。(以上)

 

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