仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

疎外感の精神病理②

2023年12月10日 | 現代の病理

 『疎外感の精神病理』(集英社新書・2023/9/15・和田秀樹著)からの転載です。

 

厚労省 国立精神・神経センター精神保健研究所社会復帰相談部(当時)は、2003年に「引きこもり」の概念として以下のものを掲げています。

  • 「引きこもり」は、単一の疾患や障害の概念ではない
  • 「引きこもり」の実態は多彩である
  • 生物学的要因が強く関与している場合もある
  • 明確な疾患や障害の存在が見えられない場合もある
  • 「引きこもり」の長期化は1つの特徴である一長期化は、以下のようないくつかの側面から理解することができる

  生物学的側而

  心理的側面

  社会的側面

  • 「引きこもり」は精神保健福祉の対象である。

引きこもりには、さまざまな原因がありますが、大きく6つのものがあると私は考えています。

 1つ目は親子関係です。

 さまざまな調査で明らかになっていることですが、「高学歴の両親がいる家庭に多い」「経済的な余裕のある部長、課長クラス以上の親が多い」とされています。

 引きこもりの専門家やその治療を行う臨床心理士などに聞くと、親の要求水準が高いとそれに子どもが応えられないときに、「自分はダメな人間」とどうしても自己評価が低くなっていくようです。

 2つ目は人間関係のストレスです。

 いじめや仲間はずれをきっかけにして引きこもりになるというのはイメージしやすいと思いますが、後述するように、働いていた人が人間関係のストレスから仕事に行かなくなり、そのまま引きこもるというケースが実は意外に多いのです。

 3つ日は不登校の延長です。。

 文科省の定義では、不登校は、「年度間に連続又は断続して30日以上欠席した児童生徒」のうち「何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的、要因・背景により、児歌生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にある者(ただし、「病気」や「経済的理由」による者を除く)」ということになっています。

 病気や経済的理由がないのに30日以上欠席した場合が不登校ということになるわけですが、不登校を続けていて、それが6ヵ月以上になり、自宅にこもるようになれば引きこもりという結果に陥ってしまうのです。

 4つ目は、受験や就活の失敗、大人の場合は失業を契機とするものです。

 本人が受験に失敗して、希望の学校に入れなかった、あるいは就活に失敗して、希望の会社に入れなかった、あるいはつとめていた会社から解雇されたなどという場合、もう1年受験勉強をしようとか、受かった学校に通ってみようとか、別の会社でもいいじゃないかなどと思えればいいのですが、それで「ダメ人間」になったという烙印を自分に押すことで、外に出ることを怖く感じたり、恥ずかしく感じたりした場合は引きこもるということにつながります。

 5つ目はゲームやネットへの依存です。

 こういうものに依存することで外に出なくなってしまうというのは多くの人がイメージするようですが、引きこもりの専門家には異論があるようです。

 たとえば「社会的引きこもり」という言葉を世に広めた精神科医の斎藤環氏は、引きこもりはゲームに依存するためになるのでなく、引きこもってすることがないからゲームばかりするのだと指摘しています。斎藤氏によると、引きこもりの人はゲーム依存の人たちと違って、とてもつまらなそうにゲームをやるというのです。

 ただ、スマホやインターネット依存が人を引きこもり傾向にするのも確かなようです。

 2014年の総務省情報通信政策研究所の調査によると「ネットのしすぎが原因でひきこもり気味になっている」と回答した高校生が男子生徒の14・2%、女子生徒の10・8%で、計12・4%もいたのですから、スマホが当時より普及した現在のほうがさらに増えているかもしれません。

 6つ目はそのほかということですが、その多くは発達障害(現在は神経発達症が正式な診断名です)や精神疾患によるものです。

 引きこもりというのは状態ですから、たとえば自閉症スペクトラム障害の人が対人関係が苦手で、学校や職場に行くのが苦痛で引きこもった場合も引きこもりにカウントされます。

 あるいは、統合失調症においても自閉、つまり引きこもり状態というのは重要な症状です。

 統合失調症というと、幻覚や妄想が出ておかしな言動をするというイメージが強いかもしれませんが、現在では、この1の症状には薬がよく効くので、むしろ自閉症状が重要な症状と考えられています。自閉症状に多少は効く薬もいくつか開発されてきていますが、やはり引きこもり生活を送る統合失調症の患者さんは少なくありません。(つづく)

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疎外感の精神病理①

2023年12月09日 | 現代の病理

『疎外感の精神病理』(集英社新書・2023/9/15・和田秀樹著)からの転載です。

 

 

便所飯現象は何を意味するのか?

 そうした環境でそだった子どもたちが大人になっても「友達が少ない」「友達がいない」と思われたくない心理を見事に表したものに「便所飯」という現象があります。

 昼ご飯をひとりで食べるのが恥ずかしくて、トイレの個室で食事をするというのです。友達が多いほど偉いという価値観は、とりもなおさず友達がいない人間は、ダメ人間、落ちここれということを意味します。

それで開き直れるのなら問題ないのですが、そうでないのなら、友達がいない姿を隠さないといけないということでしょう。

 高校までであれば、自分の席で食事をすればいいのでしょうが、大学に入ると、学食でひとりで食事をしている姿を見られたくないし、会仕に入ると社員食堂のようなところや近所のランチをやっている店でひとりで食事をしている姿を見られるわけにはいきません。

 2013年発表のサンリフレホールディングス(現杜名一交換できるくん)の調査報告では、2459人の有効回答数に対して12%もの人がトイレで食事をしたことがあると答えています 50代以上では5%にすぎませんが、20代では19%にはねあがります。

 若い人の疎外感恐怖というのは、仲間はずれにされる恐怖だけでなく、仲間はずれにされていると思われるのも怖いということでしょう。

 もらろん便所飯については都市伝説だと言う人もいて真偽を疑う声もあるのですが、私が映画の現場で若いスタッフに話を聞くと、トイレではないが階段の踊り場のようなところで学生時代は食事をしていたそうなのです。理由はやはり、ひとりで食事をしている姿を見られるのが嫌だったということでした。

スクールカーストの中、仲間はずれにされないように気を遺うとか、友達が少ないという事実に直面することが、大人が想像する以上に若者にはつらいことなのかもしれません。そして、それが大学生や社会人になっても続くことが、便所飯問題の本質のように思えてならないのです。

 もともと日本人には、周囲の状況を読めて多くの人と上手に付き合える人間のほうが優秀と考えられる風潮がありました。2021年、ノーベル物理学賞に選ばれた気象学者・眞鍋淑郎さんが「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由のひとつです」と会見で語って話題になりましたが、私も留学して同じことを痛感しました。協調できなくても業績を上げればいいというアメリカの環境と比べて、日本では協調性のない人間、友達の少ない人間は欠陥品扱いです。(つづく)

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レオポンが投げかける問題

2023年12月08日 | 現代の病理

『自分を知るための社会学』(岩本茂樹著)からの転載です。

 

レオポンが投げかける問題

 

 

若い人にとっては聞いたことがないかもしれません。それもそのはず、このレオポンとは、本来、自然界では存在しない種だからです。ヒョウの父親とライオンの母親との間に生まれた動物。それがレオポンです。

 阪神パークで生まれたレオポンは、年々人気が高まり、1973年には年間135万人という同園最多の入場者数を記録しました。今に言えば、珍獣パンダのような人気者だったのです。

 しかし、同じ珍獣とはいえ、レオポンはパンダと違って、自然界の摂理に反して、人間による人工的交雑によって生み出されたもので、繁殖能力がなく、一代限りの動物でしかありませんでした。現在の私かちなら、「なんて倫理観のないことをしたのか」と人間の奢りを問題にすると思います。

 ところが、この時代は、人為的な種間雑種に取り組んでいた時代でした。世界各地の動物園でも雄ライオンと雌トラとの「ライガー」や、雄トラと雌ライオンとの「タイゴン」といった珍獣づくりに取り組んでいました。

70年代の子どもの頃に、何度かレオポンを見に行った北村公哉さん(会社員、46歳)は、「昼間はほとんど寝てて動かない。子どもにはサルとかゾウの方が面白かった」と語っています(長谷川千尋「関西遺産」『朝日新聞』2012年12月12日付夕刊)。北村さんの感想には、当時の子どもが抱く感覚だけではなく、現代の私たちが抱く倫理観をも含んでいるように思えます。

 と言うのも、阪神パークと同じように、自然界に存在しない「ライガー」を大阪の天王寺動物園は1975年に誕生させていました。このライガーは生後間もなく亡くなったのですが、10年経って当の園側か「動物のこととはいえ2度とくり返してはならない過ちである」(『大阪市天王寺動物園70年史』)と述べています。要するに、時代によって我々の価値観が異なり、その都度記憶も上書き保存されていくということではないでしょうか。

 レオポンは、剥製となった今、私たち人間の奢りを戒める存在として、そのまなざしを私たちに向けているように思えてなりません。

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ジェンダー目線の広告観察②

2023年12月07日 | 現代の病理

『ジェンダー目線の広告観察』(2023/9/9・小林美香著)からの転載です。

 

 ホモソ・ホモエロCMに見られる男性中心社会を分析する

 この章の冒頭で、男性向けの脱毛広告のビジュアル表現が大きく分けて四つに分類されると書きましたが、改めてその表現と対応する意味について整理し、確認しておきたいと思います。

 

 表現             対応する意味

  • スーツ姿で腕組み      職業・社会的地位・階層性
  • 白人男性のシックスパック  身体的強靭さ(健常性・人種意識と優位性)
  • 仲間(バディ)表現     誘い・同調圧力
  • 動物や有名ギャラの登場   ふざけ∴几談の要素

 

 このように広告の視覚表現を分類してそれらが意味することを言語化してみると、脱毛広告の中に男性中心社会を構成する価値観がメッセージとして明快に表現されていることがわかります。つまり、これらの広告は、強靭な身体を持って、仕事を通して社会的な地位を獲得することこそが男性として達成すべき目標であり、そのために仲間と連んで行動し、その関わりの中に冗談やふざけ合うコミュニケーションが必要とされていると伝えているのです。脱毛は、個人の身体に直接に関わるサービスであるために、それが身体表象を通して表現されていますが、男性を主なターゲットとする商品やサービスに限らず、男性のタレントやモデルが登場するさまざまな広告においても、男性中心社会の価値観が内包されています。また、このような価値観が男性個人に関わることとして表現されるだけではなく、会社組織のような集合体として表現されるとき、その中に帰属する人は、年齢や職種によって階層化され、個人は帰属集合の中に埋め込まれていきます。

 

・カロリーメイト「Mate 見せてやれ、底力。」(大塚製薬 2016年)

 ポカリスエットやカロリーメイト、オロナミンCなど、大塚製薬の製品CMは概ね、学校や会社という組織の中で、制服やユニフォーム、スーツを着た人物を描き出しているという点で、日本社会の中での「帰属組織における人としての望ましいあり方・規範性」を集約して表しています。「Mate 見せてやれ、底力。」では、高校時代の野球部の先輩後輩同士で、現在も同じ会社で働く男性同上の「男の絆」が描かれています。部活動の厳しい練習、ブラックな労働環境や残業のような厳しい教育・就労環境のハラスメント的な場面を描きつつ、お互いに辛苦を分かち合い、理解して励まし合うふたりの関係を、男同士の絆という美しいものとして描き出しています。苦境の中で支え合う友情・信頼関係が続くこと自体は良いことですが、このような「絆」の物語は、苛酷な男性中心社会のハラスメント環境への耐性と、その中で生き残ることを前提としていて、その構造自体ととてもグロテスクです。(以上)

 

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ジェンダー目線の広告観察①

2023年12月06日 | 現代の病理

『ジェンダー目線の広告観察』(2023/9/9・小林美香著)、こんな見方があるのかと興味深く読みました。以下転載します。

 

このようにジェンダーに対する見方・捉え方が性別二元論に限定されない、包括的なものになってきたとはいえ、社会は消費生活や教育、就労、公共空間など、生活のあらゆる局面において、性別二元論を前提に設計されています。ここで「ジェンダー表現」として取り上げる「表現」とは、人の表情や、内面の表現・表出(expression)というよりも、社会の中でさまざまな方法を用いて表されている様態、[表象」のことを指しています。[ジェンダー表現]は、多くの場合「男・女」という二分に基づく差異・違いとして認識できるように企図されており、そのような表現を通して、性別二元論が社会を運用する上での揺ぎない「規則」であり、そのことに疑問を挟む余地はないように繰り返し刷り込まれていきます。性別二元論が社会において支配的な価値観であることは間違いなく、二元論に基づく「ジェンダー表現」は長年にわたって形成されてきたものであるがゆえに、容易には変えがたいものとみなされています。

 

  トイレのピクトグラムから考えるジェンダー表現

 しかしあらゆる[表現]がそうであるように、「ジェンダー表現」もまた、社会や文化、時代の中で変化する側面を持っています。現代社会の中で「規則」として機能している「ジェンダー表現」の代表例と言えるのが、公共トイレで使われるピクトグラムです。日本では、青の棒人間は男性、赤のスカートを履いた形の人は女性を表すものとして広く理解されており、色と形が男女の性別を識別する手がかりになっています。もし仮に色が入れ替わり、女性の形を青、男性の形を赤で表現したら多くの大を混乱させてしまうことでしょう。このような色分けの仕方は、世界共通で行われているものではありません。空港など海外の公共空間のトイレ標識の多くは、単色のピクトグラムで表現されています。日本でも単色のピクトグラムが使用されている施設もありますが、高速道路のサービスエリアで元から設置されていた単色のピクトグラムの脇に、色分けピクトグラムのラペルが貼ってあるのを目にしたことがあるという話を知人から聞いたことがあります。つまり、色分けに馴染んでいる人が多く、単色のピクトグラムを見ただけでは咄嗟に判断ができず、間違ったトイレに入りそうになって混乱したという声が寄せられたために、利用者の混乱を解消するための対処策として色分けピクトグラムを追加して組み合わせたのであろう、ということです。コミュニケーションの手段としてのピクトグラムの良し悪しは、何よりもまず「わかりやすさを基準として判断されますが、その判断を下すのは利用者であり、その地域で通用するルールと、国際基準に照らし合わせたルールのどちらが優先されるべきなのかということは利用者層がどのように構成されているかによっても変わってきますし、結果的に単色と色分けピクトグラムの両方が併置して用いられるようになったのは、利用者に対する伝わりやすさを追求した結果と言えます。(つづく)

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