日伊文化交流会

サークル「日伊文化交流会」は板橋区で生まれ、元東都生協登録サークルとしてイタリア好きの人たちが集まり楽しく活動しています

「古代ローマ帝国 1万5000キロの旅」(アルベルト・アンジェラ著・関口洋子訳/河出書房新社)を読みました

2021年10月16日 | イタリアの歴史

「古代ローマ帝国 1万5000キロの旅」(アルベルト・アンジェラ著・関口洋子訳/河出書房新社)を読みました

 

イタリアで人気の ローマ帝国等の歴史ドキュメンタリー番組UlisseをYou Tubeで見る機会があり その番組の人気司会者アルベルト・アンジェラ氏の書かれた著書の日本語版を早速読みました!!

1枚のセルティウス貨が ローマ帝国各地をかけめぐりながら織りなす物語で ワクワクしながら読み進めました💖

 

氏の前作の「古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活」も読みましたが こちらは1日の時間の中でのローマの人々の生活を切り取って描いた物語です

一枚のセステルティウス貨が トラヤヌス帝下のローマ帝国で様々な人の手に次々とわたり それに伴って様々な土地とそこに住む人々の様子が生き生きと描かれて 大変興味深く ぶ厚い本ですが飽きずに読み通すことができました

一番のクライマックスは ローマの大競技場キルクス・マクシムス(チルコ・マッシモ)での剣闘士の戦いのシーンですね チルコ・マッシモは 当時はコロッセオよりも重要な娯楽の場だったそうです

また当時の公衆浴場テルマエ・ロマエは 交流の場としても有名でしたが この温泉のために当時たくさんの木が伐採されたこと そしてコロッセオの剣闘士との闘いで殺された多くの猛獣たちが ヨーロッパ各地から連れてこられる間に 何割も旅の途中で死んでゆき コロッセオやチルコ・マッシモの舞台に出てもやはり動物たちはどのみち殺される運命にあり とてつもない浪費が行われたこともわかりました

「ローマ歴史講座」で習った緋色(porpora)のトーガ ローマ帝国のステータス・シンボルともいえる 元老院の貴族や皇帝のトーガの色ですが この緋色を出すために アッキガイ科のシリアツブリガイという貝から ごくわずかに取れる物質を取り出すため 地中海でこの貝が絶滅してしまうほどだったとのこと これは知りませんでした

 

ローマ帝国時代の調味料ガルム(魚醤)についても紹介されていました  今はナポリ南部の漁村で ガルムの流れを汲む調味料として コラトゥーラが作られていますね

ローマからロンディニウム(ロンドン)  パリ トリ―ア メディオラヌム(ミラノ) リミニ オスティア スペイン プロヴァンス バイア エジプト インド メソポタミア エフェソスへと  旅は1枚の貨幣が人の手から手へと渡されるのに伴い続きます 

終盤で  トラヤヌス帝本人がメソポタミアの地で偶然 自分の横顔の掘られたこのセルティウス貨を手にするシーンはとても印象的でした

古代ローマの領土を最大にし 富と繁栄をもたらしたトラヤヌス帝の時代に舞台を据えたこの物語に惹きこまれました

古代ローマ帝国1万5000キロの旅」は こちら

 

P.S.  10月初めの週末の イタリア各地での反グリーンパスの大規模デモで 極右政党フォルツァ・ヌオヴァの党首等数名が逮捕とDeutsche Welleで聞き イタリアの新聞サイトを調べてみると 暴力的なこの政党の禁止・解散を求めるとありました

 


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フィレンツェ発【オンライン体験ツアー】ダンテ没後700年記念! ダンテと「神曲」丸わかり講座に参加しました(2021.1.21)@みゅうオンラインツアー

2021年02月03日 | イタリアの歴史

フィレンツェ発【オンライン体験ツアー】ダンテ没後700年記念! ダンテと「神曲」丸わかり講座に参加しました(2021.1.21)@みゅうオンラインツアー

 

ダンテ・アリギエーリ没後700年を記念してのオンラインツアーに zoomで参加しました

このダンテの予習と 翌々日の「マントヴァとサッビオネータ」の予習を一緒にやったら 神曲で出てきたヴェルギリウスがマントヴァの近くの生まれなので 頭の中でごちゃごちゃになってしまいました(笑)

オンラインツアーでは とても分かりやすくダンテの生涯について また神曲について説明していただきました!

フィレンツェにあるダンテの家(museo Casa di Danate)についてのエピソード

かのベアトリーチェとダンテが再開したサンタトリニタ橋(il ponte Santa Trinità)のこと  

ベアトリーチェの墓とされている教会についての論争について 

この時代は 精神的な愛と 実生活を営む結婚相手とは別と考えられていたので 互いに別の相手と結婚しても思いは続き そのためベアトリーチェが24才の若さで病死したあとも ダンテは深い悲しみを「新生(La vita Nuova)」という作品に昇華させていったのですね

ダンテが 1289年 24才でカンパルディーノの戦い教皇派vs皇帝派)に参加できたのはなぜか? 等々興味深いお話を伺いました

1301年に 教皇派内部の白派(ダンテが所属)を黒派が破り ダンテはフィレンツェを追放され  以降亡くなるまで北イタリアを放浪することになるのですね...

最後はラヴェンナで 1321年9月14日 マラリアで亡くなります 56才でした

ラヴェンナの墓をめぐってはフィレンツェと紛争があったとのこと 追放しておいて今さら...ですよね~

       *        *        *

後半は「神曲(Divina Commedia)」についてお話していただきました♪

「神曲」と和訳したのは森鴎外ですね ボッカチオが"Divina"を付け加えました

すべて三行詩(Terza rima)で韻を踏んでおり(rimare) ものすごく構造のしっかりした作品です

神曲は こちらから 33ヶ国語で聴けます!

 

地獄編(Inferno)で 一番上の浅い罪のところは 辺獄(リンボ/Limbo)といって 洗礼を受けていない罪とのこと

煉獄編(Purgatorio) では ベアトリーチェがダンテを迎えに来るのですね 他にも亡くなった知人も登場します

天国編(Paradiso)は 一番上がエンピリアン(Empireo)といって 至高天は目もくらむような光に包まれています

天国編が最も抽象的で難しいそうです

今年はダンテ没後700年の記念イベント(ヴィーヴァ・ダンテ ラヴェンナ2020/2021)も オンラインであります

みゅうツアーは 他にもローマ散歩とか色々あるので 他にも参加しようと思います

金額も手ごろで1時間なので♪ 

「フィレンツェ発【オンライン体験ツアー】ダンテ没後700年記念! ダンテと「神曲」丸わかり講座は こちら 

次回は2月26日です!

 

次はこちらを聞きます♪ 「すべての道はローマに通ず」 (2/10,3/10)

 


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ローマ歴史講座30 「 La dinastia costantiniana ~ コンスタンティヌス朝 ローマ帝国皇帝たち ~」に参加しました(2020.12.20)@高円寺ピアッツアイタリア

2021年01月29日 | イタリアの歴史

ローマ歴史講座30 「 La dinastia costantiniana ~ コンスタンティヌス朝 ローマ帝国皇帝たち ~」に参加しました(2020.12.20)@高円寺ピアッツアイタリア



もうじきローマ歴史講座も終わりに近くなり 2020年最後の回となりました 最後に近づくにつれて参加者が増えてきますね この日はコンスタンティヌス朝の 主にコンスタンティヌス1世の子供たちと ユリアヌスをやりました

337年にコンスタンティヌス1世が亡くなってから 4人の皇帝が残りました
西のコンスタンティヌス2世(Costantino Ⅱ)←二男  コンスタンス1世(CostanteⅠ)←三男  東のコンスタンティウス2世(Costanzo Ⅱ)←二男  ダルマティウス(Dalmazio)←甥 です

(一族でよく似た名前でとても紛らわしいのですが 家族が継承する時代とのことで 名前も貨幣に刻まれた顔も似ていたそうです)


コンスタンティヌス2世(CostantinoⅡ)は 326年に 異母兄弟(fraellastro)つまり父の先妻の息子のクリスプス(Crispo)が殺されたため 長男となりました 
ところが コンスタンティヌスⅡ世の命により 兄弟3人のパワーを脅かすであろう コンスタンティヌス王朝(dinastia)の男性の親戚(コンスタンティヌス1世の父親コンスタンティウス・クロルスと マクシミアヌスの義理の娘テオドラとの間に生まれた 名門中名門の子孫たち)を殺せという粛清(purga)が実行に移され その中に甥のダルマティウスも含まれていたのですね(337)

当時はコンスタンス1世(CostanteⅠ)はまだ若く粛清を免れ コンスタンティヌス2世(CostantinoⅡ)も皇帝になってわずか3年 340年に 23才で 弟コンスタンス1世との領土争いによって アクィレイア近くで殺されて川に棄てられ ダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)を受けました

こうして東西に2人の皇帝となりました (コンスタンス1世とコンスタンティウス2世)

   *    *    *


337年に西の皇帝となったコンスタンス1世(Costante Ⅰ)は若いものの才能もありましたが 人民からも軍からもあまり愛されていませんでした

マグネンティウス(Magnenzio) (generale dux)は簒奪者 (usurpatore) でした そのマグネンティウスを皇帝にすることを コンスタンス1世(CostanteⅠ)は 親族のみがCesareになれると反対するのですね でもその親族は皆殺されてしまっていて...

350年にマグネンティウスは30才前後だったコンスタンス1世を殺します コンスタンス1世は祖母ヘレナに捧げられたピレネー山脈にあるoppidum Helena教会に隠れますが 引きずり出され討たれたそうです

けれどその後 マグネンティウスはコンスタンス1世の兄である共同皇帝コンスタンティウス2世と対立します

351年 コンスタンティウス2世(CostanzoⅡ)は要塞(カストルム)に戻る時 マグネンティウスの騎兵隊が裏切り マグネンティウス(Magnenzio)は大負けします

そしてマグネンティウスの弟のデケンティウス(Decenzio)は西へ Londrum(今のロンドン)で自殺します 当時は自殺は今とは異なり プライドを守るための行動とされていたそうです

マグネンティウスはイタリアへ敗走し353年リヨンで自殺します その後コンスタンス1世は神格化された(divinizzato)とのこと

当時 アリウス派(arianesimo)とニカイア派(niceno)の対立があり 今ではたいしたことのないように思えますが 当時はニカイア公会議(Concilio di Nicea I)で 激しい論戦が交わされ 東西の違いにまで発展してゆきました


 *    *    *

さて コンスタンティウス2世(CostanzoⅡ)は30年間ほどパワーを持ち在位も長かったです
キリスト教を優遇し 猜疑心の強さから粛清をたびたび行ないました
父と同様熱心なキリスト教徒でしたが 父帝とは反対にアリウス派(l’Arianesimo)を支持し 司教アタナシウス(Vescovo Atanasio)を迫害しました

ササン朝ペルシャとの対立があり シャープール2世( Sapore Ⅱ)という王とのトラブルを抱えていました

追いつめられた簒奪者マグネンティウスが353年に自殺したため コンスタンティウス2世はローマ帝国で唯一の正帝となったのですね 
東方正帝の期間はアンティオキアにいて そして唯一の正帝となってからはイタリア本土のメディオラヌム(ミラノ)を自身の拠点としました
 

   *    *    *

ユリアヌス(Giuliano)

コンスタンティヌス1世の甥(異母兄弟の子供)に当たります 
最後の「異教徒皇帝」として知られ 異教復興を掲げてキリスト教への優遇を改めたため「棄教者(apostata/古代ギリシャ語)」とも呼ばれています

頭もよく哲学的で ハドリアヌスのような立派な皇帝でした


    *    *    *

コンスタンティヌス1世が337年に亡くなったあと 父であった西方正帝コンスタンティヌス・クロルス(Costanzo Cloro)の男系親族と妻テオドラは粛清されますが ユリアヌスはわずか6才だったため免れました 
また ユリアヌスの腹違いのいとこのガッルス(Gallo)は 病弱で子供だったため殺されませんでした 
そしてガリアに行かされ 妹は熱で亡くなります 
ガッルスの政治はひどく 従妹であるコンスタンティウス2世はガッルスを処刑(esecuzione)してしまいます


ユリアヌス(Giuliano)は家庭教師であった宦官マルドニオス(Mardonio)によって 古代ギリシア・ローマの古典や神話も教えられました
341年 コンスタンティウス2世によって 11才だったユリアヌスとガッルスは6年間 皇帝領のマケッルム(Macellum)に送られ その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され 奴隷の仕事を手伝い読書をしながら6年間を過ごしたそうです

348年 ユリアヌスはコンスタンティノープルに戻り 20才くらいでキリスト教に対する態度も変わったそうです
キリスト教への優遇政策を廃止し 「異端」とされた者たちに恩赦を与え キリスト教内部の対立を喚起しました
異教祭儀の整備を進め ユダヤ教のエルサレム神殿の再建許可を出しました 

354年 ガッルスが亡くなり ユリアヌスが疑いをかけられますが コンスタンティウス2世の皇妃エウセビア (Eusebia) が唯一の擁護者として皇帝に働きかけ 疑いが晴れました 
355年 副帝就任と同時にコンスタンティウスの妹ヘレナ(Helena)という 従姉にあたる女性と結婚しました

トルク(torcere)といって 首に巻く大きなネックレスをつけて それは取れなかったのだそうです 嫁にもつけますが離婚したらはずすのだそうです 参加した私たちは初めて知りました!

361年 小アジアにてコンスタンティヌス2世は熱で亡くなります 皇帝になって24年間 44才でした 
臨終の際、後継者としてユリアヌスを指名したといわれます
でも 363年ペルシア遠征で ユリアヌスはクテシフォンで テントの中で鎧を脱いでいた時に 列の最後にトラブルが起きてその服装のままで飛び出し 脇を投げ槍で刺されて亡くなってしまうのですね 

兄弟間での帝位争いが続いた時代でした...

*    *    *


スペインのvilla romana di Centocellesはコンスタンス1世の墓を置く霊廟が供えられ 世界遺産にもなっているそうです

コンスタンティウス2世(Costanzo Ⅱ)は わざわざアレキサンドリアから運んできたオベリスク(l'obelisco)チルコ・マッシモ(Circo Massimo)に建てさせます 
そのオベリスクは 今はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂( basilica di San Giovanni in Laterano)の前にあるとのこと

写真: トリ―アの皇帝浴場

ローマ皇帝一覧は こちら

ピアッツアイタリアのローマ歴史講座は こちら

マニアックな講座を開催してくださるピアッツァイタリア様に 心よりお礼申し上げます

また ビザンツ帝国についても引き続き教えてくださることになったため 「ローマ史再考: なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか (NHKブックス 1265)」(田中創著)という本を読みました ちょうど習ったところが出てきて大変参考になりました💕

第1回から欠かさず参加しています リポートはまたそのうち♪


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来年のビザンツ帝国セミナーシリーズの準備に「ローマ史再考」「物語 イタリアの歴史」をお正月休みに読もうかな💕

2020年12月26日 | イタリアの歴史
来年のビザンツ帝国セミナーシリーズの準備に「ローマ史再考」「物語 イタリアの歴史」をお正月休みに読もうかな💕


先日ようやく届いた本は 『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』(田中 創著/NHKブックス)でした

3年間続いた月イチのピアッツアイタリアのローマ歴史講座もそろそろテオドシウス帝で終わりに近づき 終わり頃に参加された方もいらして もっと早くから参加したかっただろうな...と 

なので次なるマニアックなビザンツ帝国セミナーシリーズが 来年の私のプログラムです 
語学だけじゃダメだなと思って 料理 美術 映画 旅行 購読 日本文化紹介 検定 イタリアの生協 世界遺産 スピーチコンテストと14年もあれこれやってきて ようやくたどりついた感じですね~イタリアの歴史!
マルタ先生が イタリアの高校で自分が教わったように ご自分の旅行等の体験を交えて ローマ帝国時代の細かなことまでパワフルに説明してくださいます そのあとで本やイタリア語プリントを読むと よ~くわかります

ただ歴史はもともと苦手な自分としては 面白そうな皇帝やそのまわりの人物がいないといささか苦痛なこともあるので(笑) 前にNHKラジオ講座で聞いたことのある テオドシウス帝の娘で数奇な運命を辿った「ガラ・プラキディア」が登場するところまで来つつあるので それを目当てに頑張ってイタリア語プリント読みます♪

そして ガラ・プラキディアについて日本語で書かれた本が たしかうちにあったはず...と探してみましたらありました! 
物語 イタリアの歴史 解体から統一まで」(藤沢道郎著/中公新書) 他にも「イタリア 24の都市の物語」(池上英洋著/光文社新書)もあるのですが出てこない..
ガラ・プラキディアの人物像はそれだけ魅力があるのですね お正月休みに読むのが楽しみです♪

あとは「ドイツ2020年を振り返って」のビデオ復習を年内に イタリア語のC1のリスニングCD 西語の接続法問題集と続きます

来年は6月に西検が開催されれば4級を受けて もし開催されなければ10月の伊検1級と時期がかぶるので まず受かることのない伊検1級よりは まだ受けたことのない西検4級を優先させようかなと... なので6月の西検は開催してほしいのですが...(;´∀`)

昨年の今頃はイタリア語スピーチコンテストでエネルギッシュに活躍していたことが嘘のように 空気の抜けた風船みたいに静かに勉強しています...



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ローマのティベリナ島の病院を取り上げた「K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症(Syndrome K)」を見ました(2020.8.12放映)@NHKドキュランド

2020年10月13日 | イタリアの歴史

ローマのティベリナ島の病院を取り上げた「K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症(Syndrome K)」を見ました(2020.8.12放映)@NHKドキュランド


K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症」(NHKドキュランド)を録画で見ました

イタリア語を学び始めた14年前 ある大学の講座でローマのティベリナ島について聞きましたが ここにはカトリック系のファーテベネフラテッリ (よい行いをせよ という意味)病院があって 今もまだやっていると聞きました(当時の語学力は乏しくて覚えていません)

それがこのコロナ禍にあって 第二次大戦中にイタリア人医師たちが謎の伝染病を創り上げ ユダヤ人たちをナチスから救ったという事実があらためて注目を浴び 映画にもなったそうです

イタリア人の 機転を利かせて苦境を乗り切るメンタリティー 不屈の反骨精神を感じました

       *       *       *

第二次世界大戦中 ローマのユダヤ人コミュニティも ナチスによるユダヤ人迫害の標的となっていました

ユダヤ人たちを救うため ローマのティベリナ島(テヴェレ川の中州)にあるカトリック系の「ファーテベネフラテッリ病院」((Ospedale San Giovanni Calibita Fatebenefratelli) )の医師とスタッフたちが 偽の感染症「シンドロームK(K症候群/Syndrome K)」を作り出し 数々のユダヤ人を救ったというドキュメンタリーです

1943年7月 ムッソリーニ政権が倒れたあと 新イタリア政府は連合国側と協力して 以前の同盟国であったナチスドイツに宣戦布告しましたが 北部とローマはイタリア社会共和国(サロ共和国)としてナチスの支配下にありました 

また当時の教皇ピウス12世は ナチスのユダヤ人迫害に対し明確な非難をしておらず 戦後も批判を受けてきました 

1943年10月16日 ローマのユダヤ人コミュニティ・ゲットーへのナチスによる手入れが始まり 数百人がアウシュヴィッツに送られました
1938年 イタリアでは人種法が認められましたが この一斉検挙でもってようやく命の危険を身近に感じた一握りのユダヤ人家族たちが 居住区であるユダヤ人地区からはわずか200メートルにあるティベリナ島にあるこの病院に助けを求めたのです

医師たちは彼らを患者として受け入れ 実在しない感染症「シンドロームK(K Syndrome)」を病名としてカルテに記して 特別病棟を作ってユダヤ人を保護したのです

この「シンドロームK」は 筋金入りの反ファシスト活動家のジョバンニ・ボッロメオ医師によって名づけられました

暗号名のKは ドイツ軍のイタリア戦線司令官アルベルト・ケッセルリンク ナチスローマ警察長ヘルベルト・カプラーの頭文字ですが 2人は後に戦犯として有罪となっています 
また結核(Koch Syndrome)その他の病名もKであることからKという文字が使われたそうです

1944年6月5日に連合国軍がローマを解放 ナチスによる迫害は終わりますが このファーテベネフラテッリ病院の使命と医師たちの機転は ナチスの恐怖に対する勇敢な行為として高く評価され 2019年にはドキュメンタリー映画『Syndrome K』が製作され 2020年1月に公開されました

番組よりピックアップ:

ファーテベネフラテッリ病院では 3人のイタリア人医師が命の危険をかえりみず ユダヤ人たちを保護していたのです 自分にどんな運命が待っていようとも…

「最後に勝つのは 勇気です」

米ホロコースト記念博物館 フレミング女子のインタビュー:  ユダヤ人がたよりにできる施設がたくさんあるローマのような街は珍しかったのです

教皇ピウス12世は 当時中立を保とうとしていました

ジョヴァンニ・ボロメオ(Giovanni Borromeo)内科医長は 反ファシストでした

アドリアーノ・オッシチーニ(Adriano Ossicini)医師は反ファシスト活動家であり ナチスに逮捕され拷問を受けました

ヴィットリオ・サチェルドーティ(Vittorio Sacerdote)医師は ユダヤ人だったためアンコーナの病院を解雇され 縁あってここで働くことになったのです

これは架空の病気であり 病院の一部を完全な隔離病棟にしました
きわめて高い感染力があり 重い神経疾患をひきおこすというものでした 
病院内に秘密の無線基地を作りレジスタンスと連絡を取り 印刷機も備えて秘密のビラも印刷していました
偽造カルテや書類は完璧で  50人ほどの患者たちはずっと入院はせず 数人ずつ退院させ 修道院に入れさせ 患者は入れ替わりました

1943年10月16日 一斉検挙が始まりナチスがユダヤ人をとらえにきました 病院にあった無線機を地下の暖房器具の中に隠しました  

ローマで暮らすユダヤ人は約13,000人 みな結束が固かったのです
修道院や近隣住民が手を差し伸べました 
この一斉検挙のあと ユダヤ人たちが入院させてほしいと頼みにきたのです

医師たちは 偶然できた30分の空白時間の間に にせ患者たちにドイツ兵の前で咳をするように言いました 感染症の恐怖に無敵のSSも怖れをなしました

ボッロメオ医師の息子のインタビュー:
10月末にナチスが病院にユダヤ人と反ファシストを探しにやってきた時 父は「シンドロームK」の病棟に一行を案内し いかに恐ろしい病気であるかを説明し 病棟内の捜索を許可したのですが 
大変感染力が強く神経障害をもたらすと聞くと ナチスは中に入ることを拒否し去って行ったそうです

1944年6月4日  北上する連合国軍によりローマはようやく解放され ナチスはローマから撤退しました
ローマのユダヤ人の8割が生き延びました イタリア人の善意のおかげでした

ボロメオ医師の息子にインタビュー: 「父は言った 私たちは人類というひとつの人種だ 
医師になったのは天職だと
怖くなかったかと尋ねると母は言った すごく怖かったけど あれが私たちの運命だったの と」

サチェルドーテ医師: 「勇気を持ち 誠実でいれば 人生は美しいものになる そう信じています」
オッシチーニ医師:  戦後も勤務し続け本を執筆し 2019年没 


「最後に勝つのは 勇気です」

ナチスのローマ占領後 4,500人以上のユダヤ人が 教会や修道院などバチカン所有の施設に身を隠しました
そのほとんどが ナチス占領下を生き延びたのです...

ユダヤ人を救った架空の感染症「シンドロームK」(2020.9.10)は こちら

映画「Syndrome K」(2020)は こちら (trailerが見られます/英語)

* 写真は ローマのティベリナ島 うしろの茶色の建物がファーテベネフラテッリ病院です


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ポンペイの修復作業終了(2020.2.18)&フォーリ・インペリアリでロムルス伝説の石棺を発見(2020.2.17)

2020年02月22日 | イタリアの歴史
世界遺産ポンペイの修復作業終了(2020.2.18)&フォーリ・インペリアリでロムルス伝説の石棺を発見(2020.2.17)

世界遺産ポンペイの大規模修復作業が 2020年2月18日に終了しました

管理予算不足や悪天候が原因で一連の倒壊が起き 2013年に世界遺産を取り消す可能性があると警告され 2014年から大規模修復作業が始まりました 

グラディエーターを描いた鮮やかなフレスコ画が発掘されたり 2018年に発見された家屋跡に書き残された文字から ベズビオ火山の噴火は西暦79年8月24日ではなく 同年10月17日以降だったことも分かりました

そのことを書いた記事「ローマ歴史講座⑫「La tragedia di Pompei ポンペイの悲劇」に行き噴火10月説等を聞いてきました(2018.11.18)@高円寺ピアッツァイタリア」は こちら

ニュース「鮮やかによみがえる古代都市、ポンペイの修復作業終了」(2020年2月20日)は こちら


    *     *     *

ローマのフォーリ・インペリアリFori Imperiali/皇帝たちのフォルム)の地下から 紀元前6世紀(VI sec. a.C.)の石棺(sarcofago)が発見されました ロムルス信仰(culto di Romolo)に関わるものとして 今注目を浴びています

Curia-Comizio(コミティウム/民会)のそばで見つかり 約1,4メートルの長さがありおそらく祭壇(altare)と思われます
石棺(sarcofaco)はカンピドーリオ(Campidorio)の凝塊石(tufo)の中から掘り出され おそらく紀元前6世紀にさかのぼると思われます



ラピス・ニゲル/Laips Niger が地下で発見されていますが ここには ローマ建国の王ロームルスの墓があるという伝説があります

「ローマは宝もので私達を驚かせてくれる フォロ・ロマーノの中に新しい考古学の感動的な発見 地下室で見つかった紀元前六世紀の石棺  調査を行った研究者チームのおかげだ」とVirginia Raggiローマ市長は語った

ニュース"Fori Imperiali, scoperto sarcofago del culto di Romolo: "Ritrovamento eccezionale"は こちら


続報 "Ipogeo scoperto al Foro Romano: "Non è tomba di Romolo ma cenotafio per il suo culto""は こちら (2020.2.21)

フォロ・ロマーノで発見された地下墳墓はロムルスの墓ではなかったが、ロムルス信仰の何かの記念碑  とのこと

    *     *     *

2020年2月21日(金)朝のNHKニュースでやっていましたが ヴェネツィアのカーニバルは 昨年のアクア・アルタの影響等で今年の観光客は4割減 今年か来年には「モーセ計画」という堤防が完成の見通し というものです

モーセ計画については1980年代にヴェネツィアに行った時に 友人が計画の遅れを嘆いていましたっけ...汚職等問題が色々あるようです 早く完成するとよいですが 

ニュースを見ながら 東京の 通称地下神殿と呼ばれる「首都圏外郭放水路」のことを思い出してしまいました 

追記
新型コロナウィルス拡大の影響により ヴェネツィアのカーニバルは中止となりました (2020.2.23)
詳しくは こちら

* 写真は2014年に行った時のポンペイ

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トラヤヌスのフォロから出土されたディオニュソス神の頭部&ネロの秘密の部屋の発見のニュース(2019年5月)

2019年06月02日 | イタリアの歴史
トラヤヌスのフォロから出土されたディオニュソス神の頭部&ネロの秘密の部屋の発見のニュース(2019年5月)




先日のピアッツアイタリアの「ローマ歴史講座」(5/26)で ちょうどハドリアヌスをやってた時に ふと 
「おととい トラヤヌスのフォロから 大理石のディオニュソス神の頭部が出土されたんですよね~」と
先生がおっしゃったので 「あっ もしかしてこれですよね~?」と取り出しました新聞記事!!
ん~準備しといてよかった ^^) _旦~~


フォーリ・インペリアーリ
 ローマのトライアヌス帝のフォロの工事現場から 大理石のディオニュソス(Dioniso)神の頭部が出土したというニュースです

via Alessandrinaで昨年12月に再開された掘削(scavi)で トラヤヌスのフォロと道をつなぐ工事で見つかった"bellissima sorpresa"(嬉しいサプライズ)とのこと

"Fori imperiali, dagli scavi riemerge una testa di divinità: è Dioniso"の記事は こちら


先生も昔 ナポリで船が一艘まるまる出土してきたことがあったというお話をしてくださり イタリアはどこもそんな感じよ...とのこと

以前読んだ アレッサンドロ・ジェレヴィーニ先生のエッセイ集「dolce italiano」の中にも 親戚の家のそばの工事現場から 突然遺跡が発見されたため工事が中断...とかいうエッセイがあったのを思い出しました


ついでに 「ネロの黄金宮殿、「秘密の部屋」を発見(2019.5.11)」というニュースも...

ネロ皇帝のドムス・アウレア(Domus Aurea/黄金宮殿)で 修復作業中にきめ細かなフレスコ画で飾られた秘密の部屋が見つかったというもの

考古学チームは 秘密の部屋につながる穴を偶然発見したそうです
その部屋はケンタウロスやギリシャ神話の神パンなどの 神話に関する絵で彩られており この部屋を
サーラ・デッラ・スフィンジェ(Sala della Sfinge/スフィンクスの間)」と命名したそうです

この大発見は 「紀元60年代のローマの雰囲気」を垣間見ることができるものだそうで 部屋はとても華やかで
保存状態もとてもよいそうです
 
記事は こちら




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今年もやりますイタリア文化セミナー「イタリア統一の歴史とイタリア語の誕生(前半)」開催のお知らせ(2019.3.17)@吉祥寺LCI

2019年02月05日 | イタリアの歴史
今年もやりますイタリア文化セミナー 「イタリア統一の歴史とイタリア語の誕生(前半)」開催のお知らせ(2019.3.17)@吉祥寺LCI

毎年春の恒例のLCIイタリア文化セミナー 今年は「イタリア統一の歴史とイタリア語の誕生」です!


イタリアという国はいつ頃 どのように誕生したかご存知ですか
世界でも最も愛されているこの国の 興味深い歴史にご興味のある方はぜひ 3月17日(日)の文化セミナーにご参加ください

セミナーでは イタリア半島を占領していたヨーロッパの大国 また 占領下から独立をもたらした革命運動など
イタリア統一前の地理的・政治的状況について見ていきます。

1861年に統一されたイタリアですが まだ当時 単一の言語と単一の文化を持った国ではありませんでした
今日話されているイタリア語は 長い改革と変化の過程の後に生まれました

それ以前のイタリアでは 人々はどんな言語を話していたでしょうか?
この画像を見ると 1859年から戦後までの間の 政治的地理の変化がわかります
この区分は地理的なものだけでなく 言語的なものでもありました

3月のセミナーでは イタリア統一の歴史とイタリア語誕生について イタリア人講師の視点でお話し 
日本語の通訳・解説付きで分かりやすく学べます

【日時】2019年3月17日(日)12:00~14:00  
【参加費】一般:4,500円 LCIイタリア語生徒:4,000円
【講師】Veronica Serrao (日本語通訳あり)
於 吉祥寺LCI

セミナーは こちら

毎年参加していますLCIの文化セミナー!! とても分かりやすく教えてくださいます


* どんな予習をしようかな~ とりあえず「ガリバルディ」についての講演録 「イタリア文化辞典」これは近所の図書館にありましたよ!! ぶ厚いのでその部分だけ読んでもよし♪ あとは「Che storia!」というイタリアの歴史についてのテキストを読んでおこうかな~💛

日伊協会監修の「イタリア文化辞典」...2011年に出版されてから何年もたっていますが 今は当時よりイタリアに詳しくなった(はず)なので かえって内容がすっと頭に入ってきます(笑)

     *       *       *

こんなコースも見つけました こちらは 「ベリタリア イタリア語・文化教室」主催の【イタリア歴史コース】(全5回)です:


<日程> 火曜 10:30~12:00 3/5スタート (3/5, 4/2, 5/7, 6/4, 7/2 ) 全5回 中級~
【内容】分かりやすいテキストとCD-ROMを用いて、1600年に渡る時代の歴史をたどりながら、魅力的な旅をしていきます。
全5回/月1回のレッスンです。*要入会金
講師:Matteo Schenone  マッテオ・スケノーネ    22,600円


コースは こちら

べリタリアは こちら

* 長年勉強していると イタリアの歴史を知らないとイタリア人とまともにしゃべれない...と痛感したという話を聞くようになり自分もそう思います 
なので始めました ← じつは日本史も世界史も苦手なんですよ私(笑)





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「歴史で学ぶイタリア語(中級)」で古代ローマのおさらいをしました(2018年)@(公財)日伊協会

2019年01月23日 | イタリアの歴史
「歴史で学ぶイタリア語(中級)」で古代ローマのおさらいをしました(2018年)@(公財)日伊協会



ファビアーナ先生の「パエストゥム」のセミナーに参加したことがきっかけで イタリアの歴史をおさらいしようというコース「歴史で学ぶイタリア語(中級)」に 体験レッスンを受けて申し込みました! 

レベルは中級ですが なんといっても内容が面白いのです それに簡単なイタリア語で説明してくださるので 複雑な日本語の本をたくさん読むよりも はっきり言ってわかりやすい!!

さらにこの時期 ピアッツアイタリアの「ローマ歴史講座」(月1回)まで取っており歴史漬けでした(笑) ここでは「ローマ人の物語」(塩野七生)も順番にお借りして読みました

ここピアッツアイタリアの歴史講座で習ったことが 日伊協会のレッスンで数か月あとにちょうど出てくるので よい復習になりました! ちゃんと記事にまとめているのに忘れるんですよ...
君主制の7人の王の名前を聞かれて とっさに一人しか思い浮かばなかった私...(;´∀`)
 

以下は特に覚えておきたい言葉等です:

Sumeri シュメール人
Cartaginesi カルタゴ人
Fenici フェニキア人 (ギリシャ人の呼んだ名前)
celta ケルト人
sannita  サムニウム人
lucana ルカ―ニア人 (今のバジリカータ州)
popoli italici 古代イタリアの民族

metallurgia 治金学
agrimensore 土地測量技師

fonti orali 証言等の言葉の情報源
fonti scritte 手紙等の書かれた情報源
fonti materiali ミイラや寺等の物の情報源
fonti visive   壁画やモザイク等の見ることのできる情報源

città-stato 都市国家
lucumone エトルリアの各国家の首長
il sarcofago 石棺

la periodizzazione 時代区分
Monarchia 君主制 (7人の王がいた時代 509 a.C.まで)
Repubblica 共和制 (509 a.C.~27 a.C.) カエサル暗殺は44 a.C.
Impero 帝制 (27 a.C.~ 476 d.C.) 西ローマ帝国が滅ぶまで

patrizio パトリキ 古代ローマの貴族 (padreを表すpaterが語源)
plebeo  平民、下層民
schiavo 奴隷
cliente  クリエンテス 特定の貴族の保護を受ける平民
clientelismo 縁故主義
comizi curiati クリア民会
gens  ゲンス 族 
senato 元老院
liberti 解放奴隷
oligarchia 寡頭政治 少数独裁政治
la cittadinanza romana ローマ市民権
servo della gleba 農奴
colonato 小作農 コロナ―トゥス


centuria  百人隊 ケントゥリア (80人だったそうです)
manipolo  中隊
coorte 歩兵隊  (数百人)
legione 軍 レギオン (数千人)

mamertini マメルティニ (マルスの子たち)
mercenario 傭兵
casus belli 開戦理由
quinque remi 五段櫂船 
corvo コルウス 
assediare 包囲する


テキスト"Che storia!"は こちら

歴史で学ぶイタリア語(中級)」は こちら
イタリアの歴史をエトルスキから現代までイタリア語でざーっとやるそうです ここには息の長いコースがいくつかあるのですよね ^^) _旦~~

素晴らしいコースを開講してくださいました(公財)日伊協会様に 心よりお礼申し上げます


* 写真はコロッセオと ティトゥスの凱旋門(2008年10月)



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ローマ歴史講座⑫「La tragedia di Pompei ポンペイの悲劇」に行き噴火10月説等を聞いてきました(2018.11.18)@高円寺ピアッツァイタリア

2019年01月12日 | イタリアの歴史

ローマ歴史講座⑫「La tragedia di Pompei ポンペイの悲劇」に行き噴火10月説等を聞いてきました(2018.11.18)@高円寺ピアッツァイタリア




ヴェスヴィオ火山
の噴火(eruzione del Vesuvio)が 実は8月ではなく 10月だったということ (ついこの10月の調査結果で) そして 噴火でやられたのはポンペイ(Pompei)やエルコラーノ(Ercolano)だけじゃなくて スタビアエ(Stabia)オプロンティス(Oplontis)もあったんだということも 私にとっては新発見でした

2014年秋に行ったポンペイ(わずか1時間でしたが) その時のことや 日本で見たポンペイのテレビ番組のことを思い出しながら 大変興味深く聞きました 

辞書にはヴェスヴィオ(Vesuvio)火山の噴火は「79年8月24日」とありますが それがひっくり返るかもしれないなんて...

  ← 噴火の地図 当時の地名はラテン語

79d.C
.の噴火よりも前の 62d.C.に 実は大きな地震(terremoto)があったこと また ヴェスヴィオが休火山(vulcano dormiente)であることを知らずに人々が住んでいたこと また いったんは噴石等がやんで 人々が戻ってきてしまったこと ガスで窒息死したこと たくさんの軽石(pomici)が降り積もり 逃げようにも扉等が開かなくなったこと

のちに発掘で人型の空洞が見つかりセメントで型を取ったこと 山の形が噴火前と後で変わってしまったこと 溶岩(colata di lava)が海まで流れこんだこと等...

また一方 ヘルクラネウム/エルコラーノ(Ercolano)は小さい街(まるで熱海のような)ですが 今は骸骨(scheletri)が発見されており その写真も見せていただきました  

外にいた人々は一瞬で燃えて(煮えて)しまったそうです(Le persone all'aperto sono state vaporizzate all'istante) かれらは1981年に発見され 船で海から逃げようとしたのだとのことでした 新しい街は噴火の跡の上に建てられました

 
皇帝ティトゥス(Tito)は 壊滅してしまったポンペイの街を立て直すのをあきらめたとのこと 1700年代末には 新しいポンペイの街が発掘されてできました
ヴェスヴィオ火山は現在まで 長い期間を置いて5回程噴火したそうです

地鳴り(boato)とともに始まった この大噴火のマグマ(magma)が冷えて固まった火成岩(rocce vulcaniche)はポンペイ市を埋没させました

ポンペイとは異なり エルコラーノ(ヘルクラネウム)は火砕流(piroclastici)に襲われ 当時の木製の階段や縄などが 炭化した(carbonizzato)状態で保存されています

大プリニウス(il Vecchio Prinio)のこと

小プリニウス(Plinio il Giovane)
が 叔父の大プリニウスが見た噴火の様子を 友人である歴史家タキトゥス(Tacito)に送った2通の手紙が 重要な証言となりました 学術的に記録してあったためです

海軍大将(generale ammiraglio) でもあった大プリニウス(il Vecchio Prinio/ガイウス・プリニウス・セクンドゥスGaius Plinius Secundus)は ヴェスヴィオ火山噴火の時に ミセヌム(Misenum)に駐留していましたが 船でスタビアエ(Stabiae)に向かい 友人たちを助けに行きますが 友人ポンポニウス(Pomponiano)の家に泊まり 翌朝噴火の様子を外に出て見ようとして あるいは家にいるのは危険と判断して外に出て 有毒ガスの蒸気を吸って亡くなってしまいます(è morto soffocato da vapori tossici)
 
これらの手紙によると大プリニウスは ヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から 松の木のような形の 26kmもある暗い雲が火砕流となり 山の斜面を急速に下り 海にまでなだれ込んだのを見たと記録していたそうです

地震のあとで海の水がみるみる引いていった後に 津波がおきました

噴火前のフレスコ画には 噴火前のヴェスヴィオ火山が描かれていますが 山頂はひとつでした 

それが噴火のあとは山頂が2つに分かれてしまったのです その低い方のmonte sommaは噴火によってできた山で それほど激しい噴火だったことを物語っています 

10月説について

小プリニウスの手紙には「9月の9日前 すなわち8/24」と書かれていたそうです: "nonum kal septembres", cioè nove giorni prima delle Calende di settembre, data che corrisponde a 24 agosto.

ですがおそらく修道士たち(monaci)が何度も書き写しているうちに 最初の古いものはagostoとあったが 他はすべてottobre と書かれていたとのこと
古いものの方が信ぴょう性が高いことから 今までagostoと考えられていたのですが 少しずつ夏ではなかったのではないかとの様々な調査結果が出てきて 10月説が浮上したそうです

たとえばfrutta secca carbonizzata(乾燥したフルーツの炭化したもの)が発見されたり 寒い時に使うbracieri(火鉢)が発見されたり...

いちじく(fico)の実や くるみ(noci)は秋ですね そしてドリア(dolia)というたるに入ったワインの原料であるmosto(villa Reginaにて) そして下の記事にあるような壁の落書き(契約についての日付が書かれていた)も発見されたのです

また ティトゥスの戴冠式(79年6月28日)のあとの15回目のacclamazione(民衆の同意)が9月8日であり そのmoneta(貨幣)も見つかったともあります

詳しくは こちら

当時のラテン語のカレンダーは 15日を起点としており その何日前とか何日後と数えたそうです それによって10月24日ではないかとの説が取られました
ちなみに講師の先生の高校の歴史の教師は 当時から10月だと考えていたそうです!やっぱりそう考える人はいたのですね~

      *      *      *

 ← 2014年11月に行った時のポンペイの写真

エルコラーノの発掘(Scavi archeologici di Ercolano)

1738年にヘルクラネウム(現在のエルコラーノ)が また1748年に ポンペイが再発見されました

エルコラーノにあるvilla di Papiri は 地下30メートルに彫られた家で 一階にギリシャ語の図書館 2階にラテン語の図書館 3階はまだ未発掘 
papilo(パピルス)は炭になってしまったのですが 巻物(rotoli di papiri)を広げなくとも 今はレーザー技術で読めるようになったそうです

ボスコレアーレBoscorealeの発掘は1700年代半ばから始まりました Torre Annunziataに続く道を作る間に作られたmura romane(ローマ時代の城壁)等です 

農業もあり 土の中から仮面(maschera)が出てきたり 劇場(teatro)も発見されて まだ未発掘の部分も多く 保存だけでも膨大な予算がかかるのですね

埋め戻されたものもある中で Villa Reginaは 今も唯一見られるvillaだそうです 


オプロンティスでは トッレ・アヌンツィアータ(Torre Annunziata)の中心に遺跡がありますが "di Poppea"という villa d'otium(休暇用の別荘)があり 他にも発掘中のところもあります 

スタビアエ(Stabia)にある villa di Ariannaはvilla d'otium  そして Villa San Marcoなど ほんとにポンペイだけじゃないんだなって思いました

ポンペイの遺跡の発掘(gli scavi archeologici di Pompei)


そして 私も行ったことのあるポンペイの街の地図を見てゆきました:

 ← ポンペイの遺跡を歩く(2014年)

多くの発掘品(reperti recuperati)は Museo Archeologico Nazionale di Napoli(ナポリ考古学博物館)に収蔵されています ← 私も行きました~

アボンダンツァ通り(Via dell'Abbondanza)
 馬車が通れるようになっている石造りの幹線道路 私も歩きました 懐かしいです...

その他 Casa di Lora  Casa di Tiburtino Casa dei Vettii 衣服の洗浄をしていた Casa di Fullonica  teatro di Iside(イシスの神殿) 世界遺産となったので 新しい発掘の前に今の遺跡を守ることが大切とのこと 

スタビアエ(Stabia)は美しく お勧めの街とのことです 知らなかった!! 今までポンペイしか行ったことがなかったのです...

pompei.it
は こちら

最後に当時のビデオを見て終了しました 噴火前は実に美しい街だったのですね...


世界遺産「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域(Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata)」は こちら 

ピアッツアイタリアのローマ歴史講座は こちら ←  次は1月20日(日) ドミツィアヌスです!

先生からいただいたポンペイ他の遺跡のプリントより:

ラテン語 建築専門用語等の 単語は こちら

思いがけず ローマ時代のラテン語や建築様式等の単語に出合うことができました! いただいた資料十数ページ読み込んでよかった( `ー´)ノ


 *      *      *

10月説について 予習編:

記事は こちら
"dell'eruzione: avvenne il 24 ottobre del 79d.C." 

これは ポンペイのヴェスヴィオ火山の噴火は 実は79年10月24日だった という記事です

今までは8月24日だと考えられていたのですが...

"La scritta è datata al sedicesimo giorno prima delle calende di novembre corrispondente al 17 ottobre." とあります

家屋跡に刻まれていたのは「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日 すなわち10月17日」という文字だとのこと
これは イタリア語の記事の方には10月17日が「噴火の1週間前」とありますので 17+7=24日となるのですね 
また 当時使われていたユリウス暦では 10月は31日まであります これで計算が合いました

壁にその記述が残されていたのと 秋に小さな実をつける枝の鋳型が残っていたことなどから 8月ではなく10月説が明るみに出たそうです 
この家は噴火の前にちょうど改修中で operaio(作業員)がたまたま日付を壁に書き残していたおかげなのですね!!

日本語の記事は こちら

記事: 西暦79年8月24日ではなく、同年10月17日以降だった可能性が出てきた
同遺跡にある家屋跡に この日付を意味する文字が書き残されているのが新たに見つかったのだ 考古学者チームが2018年10月16日発表した

また行ってみたくなりました ポンペイ... 

* 写真は2014年11月に行った時のポンペイの家のかまど



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クリスマスセミナーに参加して キリスト教とクリスマスについて聞いてきました(2018.12.16)@高円寺ピアッツアイタリア

2018年12月24日 | イタリアの歴史
クリスマスセミナーに参加して キリスト教とクリスマスについて聞きました(2018.12.16)@高円寺ピアッツアイタリア


いつもローマ歴史講座に出ているので 歴史に大変詳しいマルタ先生のクリスマスのお話を楽しみにしていました♪ やはりたくさんプリントをくださり(笑) 映像とともにたくさんのクリスマスにまつわる深い話を聞いて大満足!!

マルタ先生手作りのdolceは Panpepato 胡椒のきいたナッツ類のまぜこんである硬いパンです♡

 ← panpepato

まずはアドベントのカレンダー(il calendario dell'Avvento)のお話  12月1日からカレンダーの窓をひとつずつ開けると中から小さなプレゼントが...💛 

クリスマスツリー(l'albero natalizio)
は 北欧が発祥というお話も聞きました キリストとは無関係で 原型は北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の 「ユール」という冬至の祭で使われていた常緑樹の樫(かし)の木なのです 
森の中の一番美しい木を燃やして 神に捧げたそうです
ドイツの民をキリスト教に改宗させる試みがなされましたが 樹木信仰が根強かったので 樫を樅(モミ)に変えることでキリスト教化したとのこと 

次は il /presepepresepio プレゼーペ についてのお話を色々... 馬小屋とも洞窟とも言われていますね 私はナポリでたくさん見ましたよ~プレゼーペ♪ 
これは アッシジの聖フランチェスコ(San Francesco d'Assigi)が1222年に最初に作ったのだそうです!!

そしてクリスマス市 これはバチカンのサンピエトロ寺院の前のものが とても美しいそうです

さてそして12日25日は「キリストの生誕を祝う」日とされていますが 昔はそうではなく「太陽の誕生日」でした!

Dies Natalis Solis Invicti (Día del Nacimiento del Sol Invicto)
 無敵の太陽の誕生の日 という意味ですね

アウレリウス帝(Aureliano/在位270~275d.C.)の時代では この太陽信仰と結びついていたそうで 12月25日を 太陽の誕生した日と定めたそうです  

詳しくは こちら

Il Natale costituisce un esempio significativo di come una tradizione pagana (異教の) sia stata assorbita dal Cristianesimo e abbia asunto un nuovo significato.
クリスマスは いかに異教の伝統がキリスト教に吸収され 新しい意味を持ったかという 意味のある例を作る とあります(プリントより)


また クリスマスの起源として 古代ローマでは 農業の神であるサートゥルヌス神(saturno)を讃える サトゥルナリア祭(Saturnali)も  12月17日から23日にかけて行われていたそうです
そして 冬至(il solstizio d'inverno/12月22日前後)にも お祝いがあったのですね 

また キリスト(Gesù)の真の誕生日は 実はわかっていないというお話も伺いました 

マタイによる福音書(il Vangelo di Matteo)にも他の資料にも記されていないのですね 
ただ 福音書には ユダヤの支配者ヘロデ王(Erode/73~4a.C.)が 新しい王(イエス・キリスト)がベツレヘムに生まれたと聞いて怯え 2才以下のすべての子供を殺させたという「幼児虐殺(strage degli innocenti)」について書かれており それには7a.C.~4.a.C. とあります

In base ai Vangeli, le uniche fonti storiche disponibili, la data e ipotizzabile intorno al 7-4a.C.
唯一の有効な史料である福音書に基づいて、(キリスト誕生の)日付はおよそ紀元前7~4年あたりだろうと推測される とあります (プリントより)

また この世に生まれた日(la nascita terrestre)よりも 処女受胎(concepimento verginale)の日 そして天に召された日の方を大切にするのだそうです

* 西暦1年はキリストの生まれた年と決められており 紀元前を表すB.C.は「Before Christ」すなわち「キリスト前」という意味である しかし実際にはキリストが生まれた年は紀元前8年から紀元4年ごろまで諸説ある(wikipedia)

ローマ人は「0(ゼロ)」を知らなかったため 紀元前(avanti Cristo)の次はすぐに 紀元後(dopo Cristo)1年 という年号がつけられたのだそうです 
あとから イスラム教だったスペインから「0」という概念が入ってきたのだそうです 
また ユリウス暦とグレゴリオ暦について ヨーロッパ各国でのミサについても その言語等について伺いました 当時字の読めなかった人々に フレスコ画やミサでもって キリストのお話や信仰を伝えていったのですね

また 正教会(ortodossa)のうちユリウス暦を使用するものは グレゴリオ暦の1月7日に該当する日にクリスマスを祝うそうです 太陽ではなく星を祝う日でした

また洗礼(battesimo)は 生まれた赤ちゃんがすぐに死んでしまうような時代だったため 生後すぐに洗礼を行い 天国に召されるようにしたといいます


そしていよいよクリスマスの歌を聴かせていただきました:

Adeste Fideles/Fideli(神の御子は今宵しも) これはパバロッティの美しい歌声を聴かせていただきました~💛

そして musica laica(ジングルベルソング等の 世俗の音楽)と musica sacra (レクイエム等の 宗教音楽) についても伺いました 

laica di Natale はsacraではないクリスマスソングのことです


tu scendi dalle stelle
この可愛い歌も聴かせていただきました

さらにA. Bocceliの歌声でもこの曲を聴かせていただきました! "Canzonini natale musica sacra"ですね!

イタリアでは クリスマスはPasqua(復活祭)の次に大事な宗教行事ですが 世界ではクリスマスが一番大事な宗教行事です 

昔はあまり綿密な日付を残さず だいたい〇才くらいに亡くなった という感じで年齢をまるめて(rotondata)記録してあるのだそうです 

最後は素晴らしい歌声を聴けて もう何度もリフレインしながら家路につきました~💛


「クリスマスセミナー」は こちら

素晴らしいセミナーを開催してくださいましたピアッツアイタリア様に 心よりお礼申し上げます

Buon Natale!!




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「ローマ帝政初期の権力継承と女性 - ドムス・アウグスタ(アウグストゥスの家)の役割 -」を聞いてきました(2018.10.20)@星美学園短期大学公開講座

2018年11月02日 | イタリアの歴史
「ローマ帝政初期の権力継承と女性 - ドムス・アウグスタ(アウグストゥスの家)の役割 -」を聞いてきました(2018.10.20)@星美学園短期大学公開講座



今回はとても楽しみにしていました 月1回の「ローマ歴史講座」で ローマ誕生からカエサルそして 今ティトゥスにたどり着いたところで ちょうど進み具合が合っていたのと 講師の先生が古代ローマの歴史の裏話を「まるで誰かがそこにいて聞いてきたかのように」まことしやかに話してくださるので 面白くて引き込まれてしまって...もっと聞いていたかったです(#^.^#)


日本等東アジアの国にとっての王位継承は 直属の男子が基本ですが 古代の西洋ではめったになく 未成年は特殊であり 最後の妻の連れ子を後継者にしたりする例もあるし 五賢帝時代などは優れた人を養子にしていたのですね

virtusというラテン語は「男らしさ」「美徳」という意味があり まるで女はそこにいないかのようです ローマ時代は建前(男尊女卑)と 実体(女傑が出現)がずれていたのだそうです


ドムス・アウグスタ
とは アウグストゥスのドムス(タウンハウス)という意味で 「アウグストゥスの家」とも訳され これは本来は一戸建ての家を指しますが 帝政期になると「家族」familiaという人間集団を指すようになってきました 

ドムスの定義については 小さなドムスの中に複数のファミリアが属していたこと それらが婚姻等によって結合されてドムスを形成していたのです

また当時は 父権に属さない結婚が通例となっていて 夫と妻は別々のファミリアに属しており 複数のファミリアが結合されてドムスが形成されるということですね 
つまり既婚女性は 婚姻に際して夫の父権(manus手権)に属さねば 実家の家父長権に服する 文字通り「娘」の地位にあるのですね

この形式の結婚が共和制中期から増えていったのだそうです 実家に籍が残ったままということです 
また子供は男2人 女1人というケースが多いのは これは生まれたあとに人数を調整していたのではないかと...

夫が亡くなった場合は 財産は主に子供に継承され妻には継承されない 夫婦間の財産の移動は1/10までとされ 夫の財産は妻を介して外に出てゆかないということですね なるほど~ 
 
ドムス・アウグスタの誕生 - リーウィアとオクタヴィアヌスの結婚 –

そのドムス・アウグスタですが オクタヴィアヌスとリーウィアの結婚で誕生したとのことです
カエサル暗殺のあとで 軍歴もない若造だったオクタヴィアヌスは カエサルの遺書の中に後継者と書かれてあったことだけが頼りで 名門出身の人妻 リーウィア・ドゥルシラとの強引な結婚(再婚)によって 勢力を拡大してゆくのですね

そしてリーウィアと前夫との子ども ティベリウスと大ドゥルススを引き取りますが 彼らはのちにアウグストゥスの後継者争いに巻き込まれてゆくのですね 

妻リーヴィアの他に ドムス・アウグスタの形成に関与した女性といえば オクタヴィアヌスの姉の小オクタヴィア そしてアウグストゥスの娘(大)ユーリアですね

結局アウグストゥスの実子は 娘大ユーリアしかいなくて 彼女は最初の夫マルケッルス(アウグストゥスの姉の息子)の死後 アウグストゥスの腹心アグリッパに嫁ぎますが その子供たち ガーイウス・カエサル ルーキウス・カエサルもまた後継者争いへと 結局若くして死んでゆきますが... それらを「家系図」を見ながらひとつひとつ説明していただきました (古代ローマを知るには家系図が必須ですね)

アウグストゥスの娘 大ユーリアは 二番目の夫アグリッパの死後はティベリウスと再婚します このティベリウスは アウグストゥスの妻リーウィアと前夫との子どもで第2代皇帝となり 弟が大ドゥルスス(のちに戦病死)です 

身体が弱かったというアウグストゥスがマラリア熱で瀕死の状態から 一気に氷で冷やして治したエピソード等 初耳でした 

アウグストゥス広場(Forum Augustus)と マルス神殿の建設

2a.C. ガーイウスとルーキウス・カエサル兄弟は フォロ・ロマーノの北側でアウグストゥス広場とマルス神殿の建設の指揮を執りました これはカエサルがこの2人を後継者にしようとしたことを示しているとのこと しかし二人とも夭折してしまうのですね...

ティベリウスはカエサルの死を受けてアウグストゥスの養子となり 14d.C. アウグストゥスがノーラの別荘で亡くなると 後継者となります 


ドムス・アウグスタの時代 - ティベリウスの権力継承と リーウィアの変貌 -


アウグストゥスの相続は 遺言により養子ティベリウスと 妻リーウィアを相続人として名前も敬称させ「ユーリア・アウグスタ(Iulia Augusta)」と名乗らせました

カエサル家の莫大な遺産は 養子ティベリウスが2/3 妻リーウィアが1/3を相続し これによりリーウィアは 皇帝となった息子ティベリウスと政治的に対等の立場に立ったといえます そのため「従順な妻にして 横暴な母親」と のちに政治に介入するようになった彼女は評されます

これは アウグストゥスの死後に 妻リーウィアを養女として アウグストゥスの名を継がせて「アウグスタ(Iulia Augusta)」を名乗ったことが大きいとのことです 
ティベリウスもTiverio Caesar Augustusと名乗りますが 母の死後に暴君と化したのです それからアウグストゥスの死についての興味深い ホントのような嘘のようなエピソードも聞きました!


ゲルマニクス一家 


ティベリウスの弟の 大ドゥルスス(戦病死)の息子たち 兄のゲルマニクス 弟のクラウディウス第4代皇帝(言語障害があったとされ 「妻の尻に敷かれなければ落ち着かない」と揶揄された)に話は移ります 早すぎる死で その死因について等 様々な話をしていただきました 

ゲルマニクスの未亡人の大アグリッピーナ(アグリッパとユーリアの娘)は ティベリウス(ユーリアの次の夫)と対立の末 島流しに遭って餓死したそうです 

その大アグリッピーナと ティベリウスの長男(養子)ゲルマニクスの子供に 第3代皇帝のカリグラ(ガーイウス)*がいますが のちに暴君となってしまい 妹ドゥルシッラとの姦通も古代から取りざたされています  
  * この項目の下に家系図があります

このカリグラの妹の小アグリッピーナ 彼女はクラウディウスの妻の死のあとで彼と再婚しますが 叔父と姪との結婚を強行したのですね 彼女の血筋は大変よく(アウグストゥスやティベリウスの血を引く家系) ドムス・アウグスタの主流に位置する女性でした 

そして 小アグリッピーナは 夫クラウディウスの死後(毒茸暗殺説も...) 前夫との息子ネロを第5代皇帝に即位させます そして「アウグスタ」として政治に大きな影響を与えたのですが のちに暴君となるネロによって殺されてしまいますね

私はこの講座の前書きを読んで「きっとネロの母親が話に出るにちがいない」と思っていたのですが その通りでした('◇')ゞ

こうして ネロの死とともに「ドムス・アウグスタ」の時代は終わりを告げるのですね 

歴史家タキトゥス曰く ネロの次の皇帝ガルバは 「アウグストゥスはドムスの中で後継者を探したが 私は国家 res publicaの中で探した」と述べたと言います

こうして ドムス・アウグスタの時代が終焉を迎え 女が権力を持つ時代もなくなってゆきました  


ローマ帝国について ほどよく知っているが さほど詳しいわけではないくらいの今の私が ちょうどよかったのかな(笑)? 色々な話に驚いたり感心したりしながらの2時間講座でした!!

公開講座は こちら

とても興味深い講座を開催してくださいました星美学園短期大学様に 心よりお礼申し上げます




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「歴史で学ぶイタリア語」の体験レッスンに参加して早速申し込みしてきました♪(2018.3.28)@(公財)日伊協会

2018年03月30日 | イタリアの歴史
「歴史で学ぶイタリア語」の体験レッスンに参加して早速申し込みしてきました♪(2018.3.28)@(公財)日伊協会



10年もあちこちの語学学校に通い続けてきましたが ようやく初めて日伊協会のレッスンを取ります といってもずっと会員ですし 単発セミナーにはしょっちゅう顔出してるし 昨年のスピーチコンテストでもお世話になったので初めてという気はしませんが(笑)

10年もやってると たくさんあるテーマの中からようやく取り組みたいものが絞られてきて 今の私にはちょうどそれが「歴史で学ぶイタリア語」だったというわけです
 
ピアッツアイタリアでも月1回の「ローマ歴史講座」を受講しているのと 世界遺産検定も受けているので こんどはイタリア語でイタリアの歴史を学ぶのもいいなと思い立ち 「古代遺跡パエストゥム ― ギリシャ・ローマの足跡を訪ねて」の特別セミナー(2/17)に引き続き 考古学(archeologia)がご専門のファビアーナ先生の体験レッスンを受けてきました ^^) _旦~~

イタリア語で古代から現代までのイタリア史を通覧する」というこのコース 体験ではまず「エトルスキ(gli Etruschi)」をやりました ローマ帝国以前の民族です

2回程他校のセミナーでエトルスキをやっていたので 知っている写真等も出てきて懐かしかった!! 3度目なので予習なしでも大丈夫でした(笑)

しかし 恥ずかしいことに 地中海を取り巻く古代の国々の地図に 文明(civiltà)の名前(Egizi, Cartaginesi, Persiani, Fenici等)をはめ込む問題をたくさん間違えてしまい...これで世界遺産検定2級受けますなんて...恥ずかしくて言えないよね~(/ω\) 

世界遺産検定の勉強の時は 100均で買った世界地図も見ながらですが また復習しないとね!! いい刺激になりました

フェニキア人(Fenici)は カルタゴに来てCartaginesiと呼ばれるようになったとのこと 

ケルト人(Celti)は北から来たミステリアスな民族で ストーンヘンジも建てたそうです ← ちょうどケルト民族の本を読んでいたところでした~

それとこのレッスンでは イタリアの小中学生が学校で習うように学ぶことができるのが嬉しいです♡ 歴史のビデオも これは小学生向けよ!と言って見せてくださいました(笑)

エトルリア人の女性はギリシャとは違って 宴会にも男性と共に出席し 石棺にも男女ともに像が描かれています エトルリア人は戦いを好まず文化的なため だんだんと衰退しました エトルリア語はギリシャ語とアルファベットが似ているそうで どこから来たのか?については諸説あります
考古学用語(fonte positivo, fonte negativo等)も少し習いました 考古学がご専門の先生に習うのって初めて!!

今まで受けて来た歴史セミナー 読んできたイタリア語が頭の中にふつふつと浮かんできて これはもぉ予習なしでぶっつけ本番 総仕上げと思って受けてゆこうと思いました (みっちり予習して受けてきたのですが 日伊学院IPAも予習なしぶっつけ本番形式で 私にとっては総仕上げでした) イタリア語レベルは中級のコースなので語学面では問題なく あっこれ世界遺産ですよね!?と言ったりと 世界遺産の知識も総動員で楽しかった!(^^)!

水曜午後で8回講座
なので これからローマ帝国 中世 ルネサンス...と延々続きます♪ 夜はこのあと 月1回の世界遺産旅行講座(クラブツーリズム主催)ラストの「ドイツの世界遺産」に行き これでようやくひと区切り そして春からは新しいコースが始まります!!

今は7か所くらいの単発レッスンや月イチ講座を取っているので 毎週のレッスンは無理でも 月1~2回なら通えそうです イタリア文化会館の図書室でも歴史の本を2冊ずつ借りて読み続けているので これからはこのテーマで 世界遺産検定と両方で頑張ります!(^^)!

「歴史で学ぶイタリア語
」(水曜午後)のコースは こちら


* 写真は エトルスキのSarcofago degli Sposi(夫婦の石棺) 男女が平等だった証ですね


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ローマ歴史講座①「ローマ -王政時代と共和制時代- (ROMA L’età regia e repubblicana)」に行ってきました(2017.7.23)@高円寺ピアッツァイタリア

2017年08月13日 | イタリアの歴史
ローマ歴史講座①「ローマ -王政時代と共和制時代- (ROMA L’età regia e repubblicana)」に行ってきました(2017.7.23)@高円寺ピアッツァイタリア


エトゥルスキ講座(全2回)」に続き 次のピアッッアイタリア歴史講座は ローマ帝国です!!

それが私ってば せっせと予習したのはいいけど カエサルからあとの時代を予習していったら ロムルスとレムスからみっちりていねいにやってくださり(笑)... まっいいか~この時代はあまり資料もないし~初めて聞く名前ばかりでした~( `ー´)ノ


まずはざっくりとローマ帝国を時代で分けてみると(予習部分):

753 a.C. ロムルスがローマ建設 7人の王による王政ローマの時代 (第1回目にやったところ)
509 a.C.  王政が終わり 共和制となる ポエニ戦争やグラックス兄弟の改革 スパルタクスの乱 第1回・第2回三頭政治 独裁官カエサルの暗殺等を経て
27 a.C. 元首制(帝政/プリンキパトゥス)となる アウグストゥスから始まり5人の皇帝 Pax Romanaの200年  暴君ネロのキリスト教迫害 五賢帝時代 ローマ領域最大 セウェルス期 軍人皇帝時代 
   
284年 ディオクレティアヌス帝により 専制君主制(ドミナトゥス)と テトラルキア(四分割政治) ミラノ勅令でコンスタンティヌス帝がキリスト教公認(313年) ゲルマン民族大移動 コンスタンティノープル遷都(330年)ecc...

395年 テオドシウス帝の死後 東西に分裂 
476年 西ローマ帝国 滅亡

1453年 東ローマ帝国 滅亡... と続くわけですね

     *      *      *

まずはローマの7つの丘の写真から始まりました~ この時代のことはすべてleggenda(伝説、伝承)によるものです

マルス神の息子 ロモロ(Romolo)とレモ(Remo)について詳しく トロイア戦争で敗走したトロイア人英雄(eroe troiano)のアイネイアス(Enea)がイタリア半島のラティウムに上陸し 現地の王の娘を妻としてラウィニウムを築きます

アイネイアスの息子アスカニオス(Ascanio)が アルバ・ロンガ(Alba Longa)という新しい街をつくります
そしてアスカニオスの息子アムリウス(Amulio)が 兄ヌミトル(Numitore)から王位を奪ってしまうのですね...
ヌミトルの息子は殺され 娘のレア・シルヴィア(Rea Silvia)は 「もし双子が生まれたら アスカニオスの街を破壊するであろう」という予言のために 処女を義務づけられた「ヴェスタの巫女(Vestale)」にされてしまいます
 
ところが 彼女が眠ったすきにマルス神(il dio Marte)が彼女と交わり 双子が生まれました 
予言を恐れた叔父アムリウスが 双子を川に流しますが 運よく雌狼(lupa)に助けられ羊飼い夫妻に育てられ 長じて 大叔父(アムリウス)を討ち 祖父のヌミトル王の復位に協力し...というわけです

なので ローマ建国のロムルスとレムスは マルス神と トロイア人アイネイアスの末裔の娘レア・シルヴィアの娘なのでした...といっても伝承なのですが


さて 紀元前753年4月21日にロームルスが王になり テヴェレ川の畔のパラティーノの丘(colle Palatino)に都市ローマを建設したのですが なぜロームルスが双子のレモを殺したのか? それは ロームルスがパラティーノの丘に Pomerio(ポメリウム、聖域)という聖なる境界(il confine sacro)を造ったのですが レモは武器を持ってその中に入ってしまったからなのだそうです

そしてロームルスは Romaを作ったEponimo*(名祖/なおや)となりました
  * 民族や地との名の起こりとなった実在もしくは伝説の人物 

そのロームルスが作ったのは: Senato(上院) Esercito(軍隊) Leggi(法律) Gens(族) です

最初のローマはラテン人の国でした やがて隣のサビーニ人の娘たちを策略により略奪して妻としてそのまま和平を結び サビーニ部族をあげてローマに移住しますが この時のシーンを描いた絵や彫刻「サビーニ人の略奪(il Ratto delle Sabine)」をじっくり鑑賞しました ← 彫刻はフィレンツェのシニョーリア広場にあります

     *      *      *

さて7人の王について:

初代ロームルス Romolo(753-716 a.C.)上記参照): 最期は 715a.C.のある日雷雨が襲い 玉座を見ると王はどこにもいなかった この時王は死んだとされました 

第2代ヌマ・ポンピリウス Numa Pompilio (715-673 a.C.)

ロムルスを誰が暗殺したかという噂が飛び交いなり手がおらず 市外の賢者であるサビーニ人のポンピリウスを 市民と元老院が選びました 
"Re Sacerdote"(聖職者の王)と呼ばれ 哲学と瞑想を好み 温厚で彼の時代はローマに戦争は起こらなかったそうです

またローマ内部の部族同士のいさかいをなくしました ローマ歴を12ヶ月の太陽暦に改め 農業をすすめ 宗教改革も行い ローマ神話の骨格と神の名も決めました ヴェスタの神殿とヤヌスの神殿(Tempio di Vesta e Giano)を建てました このヤヌスの神殿の扉は戦争のときは開かれ平和なときは閉じられるとされ ヌマの治世中はずっと閉じたままでした 


第3代 トゥッルス・ホスティリウス Tullio Ostilio (673-641 a.C.)

ラテン人で Il "Re Guerriero"と呼ばれ 上院の集うクリア族区(Curia)を創り 近隣で最大のラテン人都市アルバ・ロンガを征服し 王を殺して街を破壊しましたが アルバ市民はローマ市民として迎えられ その中にカエサル等を輩出したユリウス一門が含まれていたそうです
神を信じず戦いは強かったそうで 伝説によると 神がいなづま(fulmine divino)を放って彼を討つシーンが教科書に載っていたとのことですが 本当はSenatoが討ったのではとされています


第4代 アンクス・マルキウス
Anco Marzio (640-616 a.C.)

第2代のヌマの孫でサビーニ人の王 戦を行う傍ら 商人で貿易に長け il "Re Mercante"と呼ばれました 
海辺のオスティアを征服してローマの外港としました ローマに塩をもたらしました テヴェレ川に最初の橋である スブリチョ橋(il ponte Sublicio)を作りました 平民(Plebe)をつくりました
ここまでは ラテン人とサビーニ人が交代で王になっていました

第5代 タルクィニウス・プリスクス Tarquinio Prisco (616-579 a.C.)

エトルリア人で第4代アンクス・マルキウスの養子で「古風王」と呼ばれました 騎兵(cavalleria)を強化し 上院を100名から200名に増やしました
チルコ・マッシモ(il Circo Massimo)という 戦車競技場の原形を作りました
パラティーノの丘の北部に下水溝を通し 湿地の水をテヴェレ川に排水し干拓するという下水道のクロアカ・マッシマ(Cloaca Massima)を作りました
「ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(il Tempio di Giove Capitolino) をカンピドーリオの丘(Campidoglio)に建て  故郷のエトルリアから技術を導入して水道橋を作り 産業が活性化しました 
平民に食べ物を施すことで反乱を防いだそうです 

先王アンクス・マルキウスは彼の素質を見抜き養子としました その先王の死後に実子に代わりローマの王となったのですが 王位を狙う先王の息子により暗殺されてしまいます ただしその息子は王になることに失敗したそうです
 


第6代 セルウィウス・トゥッリウス
Servio Tullio (578-535 a.C.)

第5代タルクィニウスの婿のエトルリア人です 「セルウィウスの城壁(Mura Serviane)」を建設しましたが これはローマの七つの丘を囲む大規模なものだったそうです
軍政の改革も行いました 部族(tribù)と財産登録(censo)を導入し (今でいう)国勢調査(censimento)により人数等を把握しました 
il Tempio di Diana をアヴェンティーノの丘(Avventino)に作りました 
 
が あろうことか 娘トゥッリア(Tullia)とその夫タルクィニウス(Tarquinio Prisco/第5代王タルクィニウス・プリスクスの息子(figlio)により暗殺されてしまうのです...
自分の夫を王にするために父親を暗殺するという...絶句しました( ;´Д`)

第7代 そして最後の王 タルクィニウス・スペルブス Tarquinio il Superbo (535-509 a.C.)

傲慢王(スペルブス)」と呼ばれるこの王は 前王(義父)の葬儀を禁じ 先王派の議員を殺し 承認されぬまま自分で王になった(salire al trono con la forza)ということで評判も悪く 殺人と暴力とで民を統(す)べていたため ローマの外に遠征中にローマの民から棄てられ 追放されてしまったのだそうです
  
エトルリアと同盟を結びましたが 強大なエトルリアの属国のようになってしまいます ちなみに第5代からの王はすべてエトルリア出身です

* superboは「傲慢な」という意味ですが ここから来てたんですね!

この第7代王の追放により とうとう紀元前509年(509 a.C.)王政が終わるのです そしてこれ以降は共和制ローマとなります 
まぁこれだけのことがあれば 「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれたというのも 無理はありませんね...

I romani aboliscono (廃止する)la monarchia (君主制) e nel 509 a.C. inizia la Repubblica (共和制) con i primi Consoli (執政官).

     *      *      *

 
また他にも 古代ローマの行政区分の構成について詳しく伺いました:

パトリキ(Patres/Patrizio) は100人いた Gens-Gentes (族)は家族の集合体で patriarca, Pater(家父長)のもとに組織された 王政においては上院(Senato)が王を選んだ 
クリア民会(la Curia)はフォロ・ロマーノにある上院の集う場 
部族(le Tribù) は3つあり(Latini, Sabini,Etruschi) それぞれが10クリア部族(curie)に分かれており 合計30のTribùがあった

 * 都市ローマはティティエス、ラムネス、ルケレスの3つのトリブスからなり、各トリブスは10のクリアに、各クリアは10のゲンスに区分されていた。(Wikipediaより)


ローマ時代の暦(calendario)カレンダーについて:
 
ロムルス暦: ロームルス(Romolo)の時代にはまだ1年は10ヶ月と30日しかなく 3月に始まり 冬の61日間はどの月にも割り当てられていなかった (農耕暦だったので 畑仕事のない季節に日付は必要なかったとされます)
1月と2月が加えられたのは 第2代のヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilio)の時代で 1年ごとに2月の最後に27日間が加えられたり加えられなかったりしたそうです

また 執政官ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaio Giulio Cesare)は抜本的な改暦を決意し 紀元前46年の暦に 1年を365.25日とする太陽暦(calendario solario) に移行させ ユリウス暦を制定しました
記録に残る限り最も1年の日数が長い年は このローマ暦紀元前46年です

詳しくは こちら


最後に この時代の名残をとどめる「オスティア」がおススメ♪ 港があり ローマからも近くて 熱海みたいな感じで 別荘も多くて ぜひいらしてくださいとのことでした!!


ローマ歴史講座は こちら
 ← タイトル通りにはいかず 共和制までいかなかった(笑) ← この際だから みっちりじっくりやってください♡ 
イタリア語を学んでいない方も参加されてるので かなり日本語がメインです♪

2回目は 2017年9月3日(日)です!(^^)! 
Roma: l'età repubblicana
ローマ : 共和制時代



* 写真はフォロ・ロマーノ(Foro romano) 左がカストルとボルックスの神殿 右がウェスタ神殿 




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第2回「イタリア統一150周年記念連続文化セミナー」に行ってきました(6/23)

2011年06月24日 | イタリアの歴史

第2回「イタリア統一150周年記念連続文化セミナー」に行ってきました(6/23)


6月23日(木)夜 公益財団法人日伊協会で開催された 第2回「イタリア統一150周年記念連続文化セミナー」に行ってきました

第2回は「リソルジメントをめぐるイタリア映画」と題して イタリア統一運動(リソルジメント)を題材にして描かれた3本の映画を一部鑑賞しながらのセミナーで 監督の意図や他作品との比較 音楽や俳優について 映画の特徴などについて話してくださいました

山猫」(ヴィスコンティ監督)「副王家の一族」 (ファエンツァ監督)そして今年上映された「我々は信じていた」(マルトーニ監督)について紹介され セミナー参加者のほとんどがこの3作品をすでに観ており熱心に聞いていました

「副王家の一族」のラストシーンでは 主人公の貴族の息子が(最初は父親の権力に抵抗していたが 父親の死後その権力をこそ求めるようになり 議員となる)晩年語るセリフが「イタリアは統一したが イタリア人はまだ成っていない」というようなセリフで これがまさに今回の連続セミナーのテーマ「イタリアは成った、イタリア人を創らねばならない」を象徴するセリフだったことがあらためて分かりました

ヴィスコンティ監督は19世紀文化の最後の後継者であったとのこと
ネオリアリスモの作品の中には「もしすべてがこのままであってほしいのならば すべてを変えなきゃいけない」というセリフがあるそうです 
このことは貴族であるファエンツァ監督の「副王家の一族」でも共通しています 貴族にとっては今での栄華が失われるかもしれないという激動の時代でしたから 
ここで描かれる貴族はシニカルかつグロテスクです この貴族の娘の悲恋のエピソードは見ていて悲しくつらい...

3作品の中では最も最近紹介された「我々は信じていた」は イタリア人にとっても難解な作品で それでもその迫力は時代背景がつかみ切れなくとも身に迫るものがあり 惹きつけられます
リソルジメントの立役者の一人であるジョゼッペ・マッツィーニが出てくるシーンが紹介され 実はイタリア映画には歴史物が少なく ましてやガリバルディが出てくる映画は実は作られていないのだそうです 

日伊協会のセミナーはいつも たいてい時間延長で熱心な話が続きます 聞きごたえあり(*^_^*)
ちなみに 第3回のイタリア統一150周年記念連続文化セミナーは 「アルベルト憲章(イタリア王国憲法)から共和国憲法へ」というテーマで開催されます(7/28)
明治維新とイタリア統一との比較 今回話題となったイタリアの国民投票は 実はこのイタリア統一の時からあったそうで それについても分かりやすく語ってくださるそうです 会場は今回も満席で 時節柄暑かった~(;^_^A 


そして実はこの同じ日に 公益財団法人 日独協会では 川口マーン恵美の「ドイツの選択 ~脱原子力を推し進める力~」というセミナーが開催されました 
日伊協会のセミナーを早々と申し込んであったので こちらには夫のみが参加 私も実は聞きたかった~(>_公益財団法人日伊協会HP: http://www.aigtokyo.or.jp/
公益財団法人 日独協会HP: http://www.jdg.or.jp/


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