ローマ歴史講座⑫「La tragedia di Pompei ポンペイの悲劇」に行き噴火10月説等を聞いてきました(2018.11.18)@高円寺ピアッツァイタリア
ヴェスヴィオ火山の噴火(eruzione del Vesuvio)が 実は8月ではなく 10月だったということ (ついこの10月の調査結果で) そして 噴火でやられたのはポンペイ(Pompei)やエルコラーノ(Ercolano)だけじゃなくて スタビアエ(Stabia)やオプロンティス(Oplontis)もあったんだということも 私にとっては新発見でした
2014年秋に行ったポンペイ(わずか1時間でしたが) その時のことや 日本で見たポンペイのテレビ番組のことを思い出しながら 大変興味深く聞きました
辞書にはヴェスヴィオ(Vesuvio)火山の噴火は「79年8月24日」とありますが それがひっくり返るかもしれないなんて...
← 噴火の地図 当時の地名はラテン語
79d.C.の噴火よりも前の 62d.C.に 実は大きな地震(terremoto)があったこと また ヴェスヴィオが休火山(vulcano dormiente)であることを知らずに人々が住んでいたこと また いったんは噴石等がやんで 人々が戻ってきてしまったこと ガスで窒息死したこと たくさんの軽石(pomici)が降り積もり 逃げようにも扉等が開かなくなったこと
のちに発掘で人型の空洞が見つかりセメントで型を取ったこと 山の形が噴火前と後で変わってしまったこと 溶岩(colata di lava)が海まで流れこんだこと等...
また一方 ヘルクラネウム/エルコラーノ(Ercolano)は小さい街(まるで熱海のような)ですが 今は骸骨(scheletri)が発見されており その写真も見せていただきました
外にいた人々は一瞬で燃えて(煮えて)しまったそうです(Le persone all'aperto sono state vaporizzate all'istante) かれらは1981年に発見され 船で海から逃げようとしたのだとのことでした 新しい街は噴火の跡の上に建てられました
皇帝ティトゥス(Tito)は 壊滅してしまったポンペイの街を立て直すのをあきらめたとのこと 1700年代末には 新しいポンペイの街が発掘されてできました
ヴェスヴィオ火山は現在まで 長い期間を置いて5回程噴火したそうです
地鳴り(boato)とともに始まった この大噴火のマグマ(magma)が冷えて固まった火成岩(rocce vulcaniche)はポンペイ市を埋没させました
ポンペイとは異なり エルコラーノ(ヘルクラネウム)は火砕流(piroclastici)に襲われ 当時の木製の階段や縄などが 炭化した(carbonizzato)状態で保存されています
大プリニウス(il Vecchio Prinio)のこと
小プリニウス(Plinio il Giovane)が 叔父の大プリニウスが見た噴火の様子を 友人である歴史家タキトゥス(Tacito)に送った2通の手紙が 重要な証言となりました 学術的に記録してあったためです
海軍大将(generale ammiraglio) でもあった大プリニウス(il Vecchio Prinio/ガイウス・プリニウス・セクンドゥスGaius Plinius Secundus)は ヴェスヴィオ火山噴火の時に ミセヌム(Misenum)に駐留していましたが 船でスタビアエ(Stabiae)に向かい 友人たちを助けに行きますが 友人ポンポニウス(Pomponiano)の家に泊まり 翌朝噴火の様子を外に出て見ようとして あるいは家にいるのは危険と判断して外に出て 有毒ガスの蒸気を吸って亡くなってしまいます(è morto soffocato da vapori tossici)
これらの手紙によると大プリニウスは ヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から 松の木のような形の 26kmもある暗い雲が火砕流となり 山の斜面を急速に下り 海にまでなだれ込んだのを見たと記録していたそうです
地震のあとで海の水がみるみる引いていった後に 津波がおきました
噴火前のフレスコ画には 噴火前のヴェスヴィオ火山が描かれていますが 山頂はひとつでした
それが噴火のあとは山頂が2つに分かれてしまったのです その低い方のmonte sommaは噴火によってできた山で それほど激しい噴火だったことを物語っています
10月説について
小プリニウスの手紙には「9月の9日前 すなわち8/24」と書かれていたそうです: "nonum kal septembres", cioè nove giorni prima delle Calende di settembre, data che corrisponde a 24 agosto.
ですがおそらく修道士たち(monaci)が何度も書き写しているうちに 最初の古いものはagostoとあったが 他はすべてottobre と書かれていたとのこと
古いものの方が信ぴょう性が高いことから 今までagostoと考えられていたのですが 少しずつ夏ではなかったのではないかとの様々な調査結果が出てきて 10月説が浮上したそうです
たとえばfrutta secca carbonizzata(乾燥したフルーツの炭化したもの)が発見されたり 寒い時に使うbracieri(火鉢)が発見されたり...
いちじく(fico)の実や くるみ(noci)は秋ですね そしてドリア(dolia)というたるに入ったワインの原料であるmosto(villa Reginaにて) そして下の記事にあるような壁の落書き(契約についての日付が書かれていた)も発見されたのです
また ティトゥスの戴冠式(79年6月28日)のあとの15回目のacclamazione(民衆の同意)が9月8日であり そのmoneta(貨幣)も見つかったともあります
詳しくは こちら
当時のラテン語のカレンダーは 15日を起点としており その何日前とか何日後と数えたそうです それによって10月24日ではないかとの説が取られました
ちなみに講師の先生の高校の歴史の教師は 当時から10月だと考えていたそうです!やっぱりそう考える人はいたのですね~
* * *
← 2014年11月に行った時のポンペイの写真
エルコラーノの発掘(Scavi archeologici di Ercolano)
1738年にヘルクラネウム(現在のエルコラーノ)が また1748年に ポンペイが再発見されました
エルコラーノにあるvilla di Papiri は 地下30メートルに彫られた家で 一階にギリシャ語の図書館 2階にラテン語の図書館 3階はまだ未発掘
papilo(パピルス)は炭になってしまったのですが 巻物(rotoli di papiri)を広げなくとも 今はレーザー技術で読めるようになったそうです
ボスコレアーレBoscorealeの発掘は1700年代半ばから始まりました Torre Annunziataに続く道を作る間に作られたmura romane(ローマ時代の城壁)等です
農業もあり 土の中から仮面(maschera)が出てきたり 劇場(teatro)も発見されて まだ未発掘の部分も多く 保存だけでも膨大な予算がかかるのですね
埋め戻されたものもある中で Villa Reginaは 今も唯一見られるvillaだそうです
オプロンティスでは トッレ・アヌンツィアータ(Torre Annunziata)の中心に遺跡がありますが "di Poppea"という villa d'otium(休暇用の別荘)があり 他にも発掘中のところもあります
スタビアエ(Stabia)にある villa di Ariannaはvilla d'otium そして Villa San Marcoなど ほんとにポンペイだけじゃないんだなって思いました
ポンペイの遺跡の発掘(gli scavi archeologici di Pompei)
そして 私も行ったことのあるポンペイの街の地図を見てゆきました:
← ポンペイの遺跡を歩く(2014年)
多くの発掘品(reperti recuperati)は Museo Archeologico Nazionale di Napoli(ナポリ考古学博物館)に収蔵されています ← 私も行きました~
アボンダンツァ通り(Via dell'Abbondanza) 馬車が通れるようになっている石造りの幹線道路 私も歩きました 懐かしいです...
その他 Casa di Lora Casa di Tiburtino Casa dei Vettii 衣服の洗浄をしていた Casa di Fullonica teatro di Iside(イシスの神殿) 世界遺産となったので 新しい発掘の前に今の遺跡を守ることが大切とのこと
スタビアエ(Stabia)は美しく お勧めの街とのことです 知らなかった!! 今までポンペイしか行ったことがなかったのです...
pompei.it は こちら
最後に当時のビデオを見て終了しました 噴火前は実に美しい街だったのですね...
世界遺産「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域(Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata)」は こちら
ピアッツアイタリアのローマ歴史講座は こちら ← 次は1月20日(日) ドミツィアヌスです!
先生からいただいたポンペイ他の遺跡のプリントより:
ラテン語 建築専門用語等の 単語は こちら
思いがけず ローマ時代のラテン語や建築様式等の単語に出合うことができました! いただいた資料十数ページ読み込んでよかった( `ー´)ノ
* * *
10月説について 予習編:
記事は こちら
"dell'eruzione: avvenne il 24 ottobre del 79d.C."
これは ポンペイのヴェスヴィオ火山の噴火は 実は79年10月24日だった という記事です
今までは8月24日だと考えられていたのですが...
"La scritta è datata al sedicesimo giorno prima delle calende di novembre corrispondente al 17 ottobre." とあります
家屋跡に刻まれていたのは「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日 すなわち10月17日」という文字だとのこと
これは イタリア語の記事の方には10月17日が「噴火の1週間前」とありますので 17+7=24日となるのですね
また 当時使われていたユリウス暦では 10月は31日まであります これで計算が合いました
壁にその記述が残されていたのと 秋に小さな実をつける枝の鋳型が残っていたことなどから 8月ではなく10月説が明るみに出たそうです
この家は噴火の前にちょうど改修中で operaio(作業員)がたまたま日付を壁に書き残していたおかげなのですね!!
日本語の記事は こちら
記事: 西暦79年8月24日ではなく、同年10月17日以降だった可能性が出てきた
同遺跡にある家屋跡に この日付を意味する文字が書き残されているのが新たに見つかったのだ 考古学者チームが2018年10月16日発表した
また行ってみたくなりました ポンペイ...
* 写真は2014年11月に行った時のポンペイの家のかまど
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