心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

自覚しているときの脳の状態

2016-07-16 20:03:46 | 脳と心

我々は普段とりたてて自己を意識するときはないが、自己の意識や思考や記憶や表象内容に注意が向かうときがある。
そのとき「意識の内容」とそれを対象化的に観察・スキャン・分析していてる「意識の主体」があるように思える。
「思考の内容」に関しても、「記憶の内容」や「表象の内容」に関しても同様である。
さらに、「私」がこれらを総じて対象化しつつ観察している「意識の主体」である、という「自覚」の感覚もある。

人間の脳が並列分散型の情報処理を行い、諸々の認知・知覚要素を自己組織化的に統合しつつ、意識と行動の統一性にもたらしていることはよく知られている。
問題は、この脳の神経システムの自己組織化的統合作用が、どうして「私が意識の主体である」という高次の自覚的感覚を伴うのか、ということである。
これを旧来の心身二元論によって説明しても無意味である。
それは問題からの逃避に過ぎない。
高次の統覚的自覚の感覚は、あくまで脳の神経システムの機能なのである。

その際、脳は機械装置のように、外界に対して閉じた因果系として理解されてはならない。
脳は身体に有機統合され、環境および他者と相互作用する生命的情報システムなのである。
前頭連合野と大脳辺縁系の連携を中核とした脳の自己監視システムは、脳内で完結する閉鎖系ではなく、環境世界と相互作用する開放的情報システムなのである。
それは人間という社会的生物が他者と交渉しつつ生活するうえでの生命的認知情報システムである。

それゆえ、もっぱら脳の神経システムの中に経験の主体ないし意識の主体としての自我のありかを求める姿勢は必ず挫折する。
自我は脳に局在化されずに環境へと延び広がった生命システムないし社会的存在なのである。

そもそも最近の脳科学は「社会脳」という概念を重視し、脳をもっぱら生物学的ないし生理学的存在としてではなく、社会的存在としてみることを推奨している。

とにかく、自己の意識すら対象化する高次の精神現象としての「自我」という観念に囚われて、自我を脳の外の非物質的次元へと引き込んで理解してはならない。
また、自我を脳の内部に還元し解消してもならない。

「私」という感覚、つまり自我は、最終的には個体性と人称性を超えた自然的心の産物なのである。

このことを新著『創発する意識の自然学』は扱っている。
また、この問題意識は『自我と生命』→『心の哲学への誘い』→新著と受け継がれてきたものでもある。

「自覚しているしているときの脳の状態」は、また改めて深く掘り下げて考察しなければならない問題である。

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