心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

俺って世界一流レベルの哲学者なの?

2015-11-24 23:52:43 | 哲学

今日、萌書房経由である人から献本を頂いた。

ある人は元大阪女子短期大学の学長の三好正満先生である。

三好先生は今年の8月に『末期がんとともに生きる爺から孫たちへの最後の手紙 宇宙の果てから心の奥底まで』(文芸社)という本を上梓した。

それを私に献本してくれたのである。

さっそく、ざっと目を通してみたが、その中の次の文章が目を引いた。

「私が関心を持った哲学者として、ソクラテス、アリストテレス、カント、ヘーゲル、ベルクソン、ニーチェ、河村次郎を挙げることができる。独学だが、死に際になって私が今学んでいる哲学は、面白くてしょうがない。ただ、哲学は、ことさらに難しそうな話が多いのには閉口するね。哲学者は、もっと、わかりやすく話してもらいたいものだ。とくに、西田哲学がそうだと私は思う」(p.114以下)。

私自身、単なる哲学研究者を超えて真の「哲学者」になろうと努力してきた。

その目標は遠くアリストテレス、カント、ハイデガー、ホワイトヘッドであり、近くでは西田幾多郎、廣松渉であった。

現代英米の心の哲学者たちも並びたい目標である。

それゆえ三好先生の発言には大変勇気づけられる。

やはり夢ではなかったんだ。

少なくても西田や廣松は抜くか並ぼうと思っていたが、まさか世界最高峰のアリストテレス、カント、ヘーゲルに並ぼうとは。

しかし、まだやり足りてない。

後5冊は書かなきゃならない。

これまで9冊書いてるから、死ぬまでに全部で14から20冊にしたい。

しかも私は非常勤の身分でこれをやり遂げたし、これからもやろうとしているのだ。

この点はアリストテレス、スピノザ、フォイエルバッハ、パースなどの境遇と似ている。

私の哲学的営みは常に科学と対話しつつなされてきた。

その点に農学博士の三好先生は興味をもってくれたのである。

 

詳しいことはまた後で書くことにする。

三好先生にも返事を書かなきゃ。

忙しいけど。

 


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最初の著書『時間・空間・身体』

2015-11-23 09:21:58 | 自著紹介

私が最初に出版できた著書は1999年の『時間・空間・身体-ハイデガーから現存在分析へ』醍醐書房、2300円である。
この本は一刷1700部、増刷二刷1200部、計2900部のうち2700部ぐらい売れた。
目次は次の通り。

第Ⅰ部 ハイデガー哲学
 第1章 基礎的存在論における時間の問題
 第2章 時間と存在論的差異
 第3章 時間・空間・自己-自己論について
 第4章 現存在の空間性と身体性
第Ⅱ部 現存在分析的精神医学
 第5章 メダルト・ボスの幻覚論をめぐって
 第6章 メダルト・ボスの心身論の変遷-フロイトとハイデガーの間で
 第7章 ブランケンブルクにおける身体論と心身問題
 第8章 現存在分析と生物学的精神医学

これで四六版、245ページである。
書評が週刊読書人と図書新聞に載った。後者では「凡百の哲学研究書が難解な専門用語をふりかざすだけに終始するのに対して、科学と対話しようとする本書は、学際的な研究が求められる今日、真に範とすべき業績であろう」と激賞された。



アマゾンのリンク
http://www.amazon.co.jp/%E6%99%82%E9%96%93%E3%83%BB%E7%A9%BA%E9%96%93%E3%83%BB%E8%BA%AB%E4%BD%93%E2%80%95%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%8B%E3%82%89%E7%8F%BE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%B8-%E6%B2%B3%E6%9D%91-%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/4925185020/ref=sr_1_6?s=books&ie=UTF8&qid=1345075973&sr=1-6


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天才論の名著

2015-11-15 23:08:10 | 書評

天才について論じた本は多数あるが、その中でおすすめなものを数点あげよう。

1. ロンブローゾ『天才論』。翻訳は辻潤によるものが『辻潤全集 第五巻』(五月書房)として出されている。イタリアの犯罪学者ロンブローゾが精神病理学的見地から天才と狂気の関係を論証した古典中の古典。天才と狂気の関係は古くから指摘されてきたが、彼によってこの関係は確定的なものとなった。しかし、あまりに狂気との関係づけが強調されているきらいがある。最後の章でそっと「正気の天才」を論じているが。

2. E・クレッチマー『天才の心理学』(内村祐之訳、岩波文庫)。『体格と性格』で有名なドイツの精神医学者クレッチマーの名著。ロンブローゾと同様に天才を狂気と関係づけて天才の本質を解明しようとしているが、精神病理学的により精緻な考察となっており、こちらの方がおすすめである。第三部の天才の肖像集が面白い。

3. 宮城音弥『天才』(岩波新書)。日本における天才論の先駆けであり、新書の割には内容は充実しまくりである。天才は狂気であるというよりは社会不適応である、という指摘は面白い。独創性の実現のためには因習を破り、社会への適応を犠牲にする必要があるのだ。一番読みやすい。

4. W・ランゲ=アイヒバウム『天才 創造性の秘密』(島崎敏樹・高橋義夫訳、みすず書房)。ランゲ=アイヒバウムはドイツの精神病理学者で、やはり天才と精神障害の関係を重視しているが、ロンブローゾやクレッチマーよりはその傾向が弱い。彼は、天才を「関数概念」として捉え、「天才」という個人よりも「天才」という「ものの見方」があるのだ、と指摘した。少し地味だが、面白いことに変わりはない天才論の必読書である。

5. 飯田真・中井久夫『天才の精神病理 科学的創造の秘密』(中央公論社)。二人の精神医学者が病跡学の見地から天才的科学者の創造性の秘密を解き明かした名著。病跡学は主に文学と芸術における天才と精神病理の関係を解明する学問だが、飯田と中井はこれを科学者に応用した。その功績は絶大である。はっきり言ってめちゃくちゃ面白かった。これまで10回ぐらい読んだ。「分裂病圏」と「躁鬱病圏」と「神経症圏」に分けて、それぞれの科学者の精神病理と科学的創造性の関係を考察しているが、とにかくめちゃくちゃ面白い。特に分裂病圏のニュートンとウィトゲンシュタインに関する考察には引き込まれる。ウィトゲンシュタインは哲学者だが、数学基礎論や論理学も専攻していたので、この本の考察対象になった。彼の他の伝記よりも数倍面白かった。

6. 福島章『天才 創造のパトグラフィー』(講談社現代新書)。パトグラフィーとは病跡学のことである。福島は有名な犯罪心理学者であり、日本における天才論の草分けである。これまでの天才論の系譜そのものの叙述で目新しいことはないが、よくまとまっており、初心者にはおすすめである。ゲーテのIQが185でニュートンのIQが125であることを指摘してくれているのは初心者にはありがたいことであろう。識者には周知のことだが。

天才の概念は一般に誤解されており、基本的なことすら知らない人が多い。

まず、芸能や経営やスポーツの世界に天才などいないのである。

天才は天賦の才能などではない。

天才は社会への適応を犠牲にした独創性の実現なのである。

 

コメント (1)
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さすがプロ

2015-11-05 09:01:19 | 日記

私の知人で、ビールの飲みすぎでビールの飲めない体になった人がいる。
彼は毎晩2リットル以上のビールを十数年飲んでいたのだが、血糖値と血圧が上がってドクターストップがかかったのである。
別の豪傑は、朝仕事に行く前に500ccの缶ビールを一本飲んでから家を出、昼休みや三時休みたまに会社の外の販売機で飲んでいた。
そして、家に帰ると350ccの缶ビールを4-6本を毎晩の飲む。
休日は朝から飲み始め、一日350ccの缶を8本ぐらい飲む。
彼は若く見える方だが、35歳頃髪が真っ白になった。

私はそんな無茶な飲み方はしない。
適量をしつこく毎日、一生飲み続けるのである。

私の大学の先輩の哲学研究者で酒豪の人がいた。
ある講演会の懇親会の席で、私が彼に「今ビールを旨く飲むために、昼食後水分を摂っていない」と言ったら、彼は「さすがプロ!!」と唸った。
しかし、その人はその後酒の飲みすぎで52歳で死んでしまった。
私は彼のことを思い出すと、いつも「さすがプロ!!」というあのときの言葉を想起する。
いい言葉だなー。
彼の最高の哲学的業績だよ、と思うorz


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我々はいつビールのおいしさを感じ始めたのか

2015-11-04 10:33:52 | 日記

デネットは『解明される意識』の中で「我々はいつからビールの旨さをしったのか」という問いを投げかけている。
あの苦い飲み物を何歳から美味しいと思うようになったのであろうか。
あるいは、いつから普通不味さの代表と言われる苦さが旨さに変わったのであろうか。
あるいは、我々が子供のころから思春期にかけて試に飲んでみたビールの味はどのようなものであっのか、今思い出せるであろうか。
換言すれば、そのとき体験した味覚クオリアをビール党になった今、ありありと再現できるであろうか。
11歳の時試に飲んでみたビールの味と45歳の今毎晩おいしく飲んでいるビールの味は「違う」ものなのであろうか。

私は、たしか小学校5年生のときに近所の悪がきの勧めで初めてビールを飲んだ。
あの時の味は完全に忘れたようで、意外に覚えている。
確かに苦く、ジュースのように飲みやすくはないのだが、吐き出したいほど不味くは感じなかった。
コップ一杯分だったので、苦痛を感ぜずに飲み干してしまった。
そのとき何か「禁断の味」「禁断の旨さ」というものを感じた、想い出がある。
円座を組んで数人の仲間と飲んだのだが、その雰囲気も加わっていた。

20代の後半から冬以外は毎日のようにビールを飲んでいるが、時折物足りなく感じることがある。
そして、ビールが一番うまかったのは、実は小学生の時初めて飲んだときの「あの味」だったのではないのか!! という気がしてならない。
あの味に、あの味覚クオリアに還帰して、あるいはそれを再現してみたい、それこそ最高のビールの旨さ、醍醐味だ、という気がしてならない。
これって変な感覚だよね。
でも奥深いことでもあるよね。

ようするに「ビールすれっからし」になった私が「ビール初体験」にもどって最高の快感をまたかんじたいのであろうか。
「感じる」というよりは「かんじる」だよね。


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