2007年の4月に『自我と生命 - 創発する意識の自然学への道』萌書房、2600円という本を刊行した。
この本の基本的意図は心の哲学と生命哲学を融合することにある。
また、副題にも表れているように、「創発する意識の自然学」への途上にある。
目次は次の通り。
第Ⅰ部 創発する意識の自然学の先駆者たち
第1章 ジェームズ-純粋経験
第2章 ホワイトヘッド-有機体の哲学
第3章 ラッセル-中性的一元論
第4章 サール-生物学的自然主義
第Ⅱ部 意識経験と自然
第5章 意識経験と自然
第6章 哲学と脳科学
第Ⅲ部 自我と生命
第7章 自己存在への関心
第8章 自我と生命
第Ⅳ部 生命・時空・意識
第9章 自我を意識する生命
第10章 時間と空間
第11章 生命・時空・意識
これでA5版、230ページである。
ジェームズとホワイトヘッドの影響が強い。
しかし後半の考察は独自のものである。
You Tubeで紹介されている。
哲学するサラリーマンの「死を哲学する」である。
http://www.youtube.com/watch?v=OsKXKm7szLc
ぜひ見てください。
一般に「天才」とは努力なしに優れた成績を出したりや創作を成し遂げたりする人のこと、ないしそうした才能だと思われている。
それゆえ「天才」は容易に「努力」に対置され、努力しても及ばない「天賦の才能」ないし「天性の素質」である、と決めつけられる。
つまり、「天才⇔努力」という対置図式が頭に刷り込まれ、両者は断絶したものと思い込まれるのである。
しかし、この対置図式は誤った二分法の典型である。
多くの天才は大変な努力家である。
「天才とは99%の汗と1%の才能だ」というのは天才発明家エジソンの有名な言葉であるが、これはほとんどの天才に当てはまる。
それではなぜ「天才は努力なしに偉業を成し遂げる人だ」と思い込まれるのだろうか。
それは、天才が一般に流通している「努力の形式」とは違った独特の努力を遂行しているからである。
「独特の」というのは、世間の常識、伝統と権威、因習といったものから外れていることを意味する。
また、多くの天才は、世間体や出世欲や「甘えの構造的な協調性」といったものに背を向け、自分が信じたものに求道者の様相で突き進む傾向が強い。
これは別にかっこつけているわけではなく、本能的にそうするのである。
その結果、出世が遅れるのはいい方で、夭折したり自殺したりして偉業を成し遂げる前に死に、それゆえ歴史に名を残さない者も多々いる。
邪道だとか正統派ではないとかまやかしだとか言われて、同時代人には認められず、死後になって初めて天才として崇められる例も非常に多い。
天才の独創性とは、社会に適応することを犠牲にしてでも実現される独創への意欲、あくなき探究心、純粋な求道者の心に由来するものなのである。
それゆえ、天才は努力しない才能などではなく、キチガイじみた努力であるといった方が適切である。
大学時代の同級生で筑波大付属高校出身の男が、高校生の時に先生が「天才は先生を必要としない」と言った、と話してくれた。
この言葉も「努力しないで得られる才能」という意味ではなく「伝統と権威に逆らい自分の信じた道を歩む」という意味のものである。
なお、天才学の見地からすると、厳密に「天才」と言えるのは学問、科学、芸術、文学の分野に限られ、政治や実業界やスポーツにおける天才というのは比喩にすぎない。
天才とは、人並みの幸福を捨ててでも本能的で純粋な探究心から前人未到の創造的、独創的成果を芸術、科学、文学の領域において絞り出す、キチガイじみた努力家のことを言うのである。
この「本能的」「純粋な」ということが常識的な努力の形式から外れているので、「天才⇔努力」という表面的な対置図式が信じ込まれるのである。
とはいえ、天才に「ひらめき」や「直観」ないし「直感」が働くこともたしかである。
しかし、それは天才以外の人にも天才には劣るが実はあるのである。
それを因習や常識に逆らってでも、あるいは社会への適応を犠牲にしてでも行使できるかどうかが天才と常識的秀才ないし凡人との違いなのである。
『図書新聞』(2016/12/24)に掲載された久保隆氏による『存在と時空』の書評です。
http://kubo1123.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/16109-a012.html
参考にしてください。
もう何度も書いてきたが、備忘録としてまた書いておく。
とりあえず『哲学の諸問題』と『臨床神経哲学への誘い』という本を書きたい。
前者は私にしては恐ろしく平凡なタイトルの本である。
内容は私が重要だと思った哲学の問題を10ぐらいあげて、初心者にもわかりやすいように論じる、というものである。
要するに哲学入門ないし哲学概論である。
ただし、私なりにバイアスがかかっており、アクが強いものになるであろう。
「日本に哲学なし」ということも大々的に主張したい。
後者は2001年に上梓した『脳と精神の哲学』のライトモチーフを受け継ぐ本である。
脳と心の関係を、脳科学と精神医学を参照しつつ、心の哲学の手法で論じるのが、私流の「臨床神経哲学」である。
それはアメリカの神経哲学よりは人間学的であり、臨床哲学的なのである。
タイトルは一見入門書を思わせるが、臨床的な神経哲学の面白さへと引き込むという意味合いのほうが強い。
もちろん、入門書的傾向も兼ね備えたものになるであろうが。
別の案もある。
『意識と生命 ー失われた時を求めてー 』というものである。
あるいは『意識と生命 ー 時間を超えて時間の中で生きる ー』
これはのっぴきならないテーマである。
最後の渾身の力を振り絞って書きたい。