元大阪市長・橋下徹と在特会の桜井誠の討論です。
男の言い合いとして大変参考になります。
コミュ力がつきます。
双方向の。
元大阪市長・橋下徹と在特会の桜井誠の討論です。
男の言い合いとして大変参考になります。
コミュ力がつきます。
双方向の。
今回は空間の深い意味について話す。
我々は自分の身体を生きている。
それは体感と体調と運動を伴い、常に空間性を帯びている。
空間の中で身体を動かすと同時に、その身体運動の空間性が独読の感覚を伴って享受される。
それはまた独特の質感でもある。
生きていることそのもの質感と言ってもよい。
空間の深い意味は、この生命的質感に着目したとき浮き上がってくる。
我々はまた環境の中で生きる有機体である。
環境には社会的と自然的の両側面が属し、その中で我々は他者と関わりながら生活しているのである。
他者との関係は社会的距離感としても現れ、適度な距離を保ちつつ親近感を保有する必要がある。
この人間関係における「私」同士の社会的距離感の絶妙な調整が空間の深い意味の別の側面を形成する。
テキストにはトランスパーソナル・エコロジーのことが書いてあるが、これは自己中心性を抜け出して環境と他者に配慮する生態学的意識を示唆する。
もともと生態学という学問なのだが、自ら実践すべき道徳的事柄でもあるのだ。
緊急事態宣言が一旦解除されたが、今回の自粛期間に、人との距離感と感染の嫌味な関係に悩んだ人は多いと思う。
それと同時に人間の生活に本当は必要のないものの活動の休止が命令された。
スポーツその他である。
しかし、我々は「生活に必要なもの」「役に立つもの」「食うためのもの」だけを追い求めてよいのだろうか。
プロスポーツは皮肉にも最も金になるものの一つだが、生活を確保するためにはむしろ邪魔になった。
オリンピックによる無駄遣いは母子家庭や貧困学生や障碍者や東北の被災者を死に追いやった。
だから、スポーツやオリンピックや芸能や芸術は必要ないだろうか。
よく、哲学は役に立たないと言われる。
厳密には、金にならない、出世の役に立たない、難しいだけで生活の指針にならない、死後の世界を肯定してくれない‥‥等々である。
ところが、こうして自粛、無給、大量失業、連鎖倒産、大恐慌へと発展していきそうな情勢からすると、人類滅亡の危機がリアルになってくる。
そもそも人間は何のために生きているのだろうか。
自然と宇宙はなぜ生まれたのだろうか。
こんな金にならないことを根底から考えることを今我々は要求され始めた。
つまり、哲学をせざるをえなくなったのである。
哲学なしには人類は滅びる。
あるいは、人類は本当にこの地球、宇宙に必要なのだろうか、と哲学的に問わねばならないのである。
そして、不必要だと分かったなら、無駄な努力はやめて、この世から立ち去らなければならない。
うんにゃー
前に言った通り6月13日に中間試験を実施します。
範囲はテキストの序~第3章までで、論述・記述型試験になります。
トヨネット・エースの小テストの欄で回答することになります。
13日の16時~23時を提出期限とします。
(試験問題は16時に小テストの欄にアップロードされます)。
その中で制限時間の80分以内に回答してください。
非常事態には期限を延長したりします。
まぁ、大丈夫だと思いますが。
繰り返しますが、小テストの欄で制限時間80分となります。
テキストがないと回答できません!!
これが決定版です。
今回は第4章の第1節と第2節について話す。
ハイデガーの『存在と時間』は20世紀最高の哲学書の一つ、プルーストの『失われた時を求めて』は20世紀最高の小説の一つである。
両方とも読んだ方がよい逸品だが、必ずしも読まなくても我々は件のタイトルが惹起する哲学的問題を自分で考えることができる。
「存在と時間」という問題設定は、何か分からないが、とにかく我々の心をくすぐる。
人生の意味、生命の意味、存在の意味・・・・、それと時間の関係。
我々各自の人生の持ち時間は限られているし、刻々と過ぎ去る時間は我々の生命と存在の根底に関わっているように感じる。
その漠然とし曖昧模糊とした感情ないし深層意識を直視して、刻々と過ぎ去る時間と自己存在の関係を考えてみればよい。
その際、自己の存在だけではなく、世界全体、宇宙全体の存在にも思いを馳せるのである。
こうした問いは答えがすぐ出てくるような代物ではない。
しかし、自分で一度この問題を考えてみるのである。
その際、テキストの当該の箇所を参照すればよい。
さらに興味がある学生は、私の他の著書『存在と時空』を読めばよい。
また、ハイデガーの『存在と時間』に挑戦するのもよい。
次に「失われて時を求めて」という思考案件ないし意識について。
これは問題というよりは思考案件であり、深い意識である。
我々は時々過去を思い出し、懐かしんだり後悔したりする。
そして、それを取り戻したり反復したくなる。
しかし、過去は二度と戻ってこない。
また、後悔が強く、過去の汚点や苦しい思い出を消し去りたい衝動に駆られる。
しかし、消せない。
結局、失われた過去は、文字通りの仕方では取り戻せないのである。
しかし、たんなる「失われた過去」と深い意味での「失われた<時> 」は違う!!
「失われた時を求めて」という意識は、単に過去をやり直そうだとか、タイムマシンに乗って帰ってみようだとか志向しているのではない。
それは、存在の意味、人生の意味、生命の意味を根底から規定する「根源的時間性」を志向しているのである。
つまり、「失われた時を求めて」という思慕的意識において、我々は自己と世界の存在の根源、人生の真の時間的意味、魂の故郷を求めているのだ!!
次に「時間の中で時間を超えて生きる」ということ。
我々は、通俗的な不老不死、霊魂の不滅、死後の世界などの観念を完全に捨て去って、時間の中で生きるという現実を直視しなければならない。
その中で「時間を超えて生きる」という普遍的姿勢が獲得できるのである。
それも、あくまで「時間の中で」である。
有限な各自の人生の時間の中に生命の大いなる連鎖の痕跡を見出し、時間泥棒にそそのかされてあくせくと生活して、存在の真の意味を見失っている自己の意識を
根源的時間性に向けて深めるのである。
これは天上への超越ではなくて、自然と市民社会と大地という肥沃な地盤への下向きの超越である。
齢を気にしたり、寿命を気にしたり、自由時間が少なすぎることを嘆く前に、時間泥棒の誘惑、翻弄に逆らって、時間の中で時間を超越するのである。
これは不老不死や霊魂の不滅の対極にある哲学的姿勢である。
これによって男女ともに知的ダンディズムが身に着き、ニヒルな男の色気や陰りのある知的な美貌(女性)を獲得できるのだ。
鶴は千年、亀は万年、しかし猫は質に満ちた20年!!
そして、はかない命を恋のため捧げるのだ。
それを歌った森山佳代子の1970年のヒット曲『白い蝶のサンバ』の動画
https://www.youtube.com/watch?v=jqj7fb-r9pA
テキストの第4章は時間と空間を論じている。
哲学入門書の中で初心者を顧慮して書かれたものなので、難解な哲学的時空論も少しは分かりやすいと思う。
時間と空間は古くから哲学の根本問題であり、それは世界と自己の存在の両方に張り渡された問題系である。
また、人間の意識や身体性や生命とも関係している。
さらに、何といっても人間存在、さらには「存在」そのものの意味にも関わってくる重要な現象である。
時間と空間はまた古くから物理学の根本問題でもあるが、西洋の物理学の起源は古代ギリシアの自然哲学にあるので、結局この根本問題を介して哲学と物理学は結びつくのである。
時間と空間はまた心理学や生物学や社会学や文学においても取り扱われる。
なぜなら、それは世界の根本構成と自己の意識と経験の根本構成に関わる万物の根本枠組みだからである。
以上のことを顧慮して、第4章を読んでほしい。
まず「はじめに」を熟読しよう。
ここで問題の所在と根幹が理解できる。
本ないし章を読むときは、序や前書きに書いてあることをしっかりと押さえておくことが肝要である。
次に第1節「「存在と時間」と「失われた時を求めて」」に読み進もう。
ここでは哲学者ハイデガーの『存在と時間』と小説家プルーストの『失われた時を求めて』が取り上げられているが、それの概略を解説するのが主旨ではない。
この二つのタイトルに示唆されている哲学的根本問題意識に注意を促し、各自がそれを考える基盤を与えようとしているのだ。
「存在と時間」・・・・我々の有限な人生と宇宙ないし大自然の悠久の時間の流れの対比の中で現れる自己存在の意味への着眼。
「失われた時を求めて」・・・・自己の存在の根拠へ遡ること。魂の郷愁。失われた過去の回顧と後悔、ならびにそれの未来に向けての取り戻し。
こうしたことを繊細な精神をもって読解することがこの節を理解するための鍵となる。
第3節は時間から転じて空間の問題を扱っている。
ここでは空間の量的性質ではなく、その質的性格が着目され、空間の深い「意味」が浮き彫りにされる。
その際、我々各自が自ら生き抜いている身体の性格、つまり「身体性」ないし「生きられる身体」というものに注意が促される。
こうした概念はあまり考え事がないと思うが、この機会によく考えてほしい。
身体と空間の関係は生態学(エコロジー)にも関わり、重要である。
第4節はいくぶん文学的に、情緒に訴えるような形で「四季の変化・循環と空間の質」について述べている。
四季の循環、めぐる季節の中で君たちは何を思うだろうか。
それぞれの時節で、どのような空間意識、あるいは時間意識をもつだろうか。
それを感じ取ってほしい。
また、この節では三島由紀夫の世界に誇る名作・遺著『豊饒の海』が取り上げられている。
第一巻「春の雪」に始まる、この四部作は四季の循環を象徴し、それを三島は仏教の唯識思想で統一している。
しかし、その結末は輪廻転生を完全否定するものであり、末筆の日付はあの自決の日の朝となっている。
私の見るところ日本最高の哲学者は西田幾多郎でも廣松渉でもなく三島由紀夫である。
まぁ、世界レベルでみるとたいたことないが、ニーチェには並ぶか、若干勝っていると思う。
どちらも文人哲学者であり、三島自身ニーチェを好んでいたし。
面白そうだにゃ
テキスト第3章第4節には次のような文章がある。
そもそも「私」は常に「私ならざるもの」によって脅かされ、励まされ、暗示され、何か「より広いもの」に向けて誘導されている。
これは最初、2012年に出版された自著『創発する意識の自然学』で述べられ、今回のテキストのこの節で詳しくその意味を説明されたものである。
その説明は各自で読んでもらうことにして、ここではまた新たな説明を付け加えたいと思う。
私は子供の頃から内向的で神経質で、常に自分の内面と闘ってきた。
それゆえ私の意識は複雑で深い。
内的対話が豊富で内省力が強く、自己意識と自己存在の分析が緻密なのである。
自己への関心が強いと、自分を対象化するようになり、対象化する主体と対象化される自己の二元分裂が生じる。
私は人に比べて「自分が二人いる」と思うことが多い。
誰もがそういう体験をすると思うが、私は特に多い。
一体「自分が二人いる」とは、いかなることなのであろうか。
「悪魔のささやき」とか「良心の呵責」とか「内面的葛藤」という言葉が流布しているのは、実は誰もがこの自己分裂を体験している証拠である。
アニメ的に脳の内部の様子を悪魔と天使の対決として描いたものがよくある。
その際、天使は小我を超えた大我を示唆し、「私」の中の「私ならざるもの」ないし「私を超えたもの」を暗示する。
それは、自己の生命を超えて自然の大生命と直結し、何か「より広いもの」とつながっている。
それは、個々の「私」を超えて、生命の大元に深く根付き、私の日常の意識の流れを対象化し反省する能力をもっている。
この大我にあたるものが、自己の主観性に囚われた小我を対象化し反省し、自己を拡散しようとするのである。
生命の本質を考えるにあたって以上のことは極めて重要である。
私個人の「死」とそれに対する実存的不安は切実で、小我は一見かけがえのないもののように思われるが、生命の大いなる連鎖と自然の大生命に思いを馳せるなら、
それらと直結した大我の重要性が分かるはずである。
死生観と自我理解ないし自己意識は密接に関係し、自己のかけがえのなさに囚われると、自己の中に自己を超えたものが潜んでいることが分からなくなる。
私の中には私を超えたものが潜在し、自我と自然を融合する方向に導こうとするのだ。
その誘導、ささやきに気づくことが、生命の深い意味を感得することにつながる。
その際、我々は一見個々の存在として分断しいるように見えて、根底においては皆つながっているのだ、という深い生命観を我々各自に授けてくれる。
問題は「私の個性」「私のかけがえのなさ」が平板化され、全体主義へと溶かし込まれるかのような印象をこうした主張から感じてしまうことにある。
そんなことは全くない。
我々各自は自分の個性を生かし、同時に他人の人格と個性と趣向を尊重し、個人主義の王国を築くことができるのだ。
そもそも、「小我を超えた大我に至れ」という主張のどこに個人主義を否定する要素があると言うのだろうか。
生命の大いなる連鎖の呼びかけに聴き入るという姿勢は、個性と創造性と自由をいかんなく発揮する人生を各自に約束するであろう。
それと同時に世界平和と環境保護に尋常ならざる寄与をするであろう。
これによって各「私」は、自然の大生命と一体になるのだ。
僕は生命の源の中を泳いでいるんだにゃ。
今回は「ない方がよいはずの死はなぜあるのか」について話す。
我々人間を含めたすべての生物は基本的に死を避け、自己の生命を維持しようとする。
これはあらゆる生物に共通する生命維持の本能によるものであり、身体的な生命感情に基づいている。
ただし、言うまでもなく、心的現象である感情、意識、思考には生物種によって高低がある。
その差をここで詳しく説明することはできないが、人間(現生人類)において、その生命感情は知的に最高のレベルに達していることに疑いはない。
しかし、本能という点では他の生物も決して人間に劣っていない。
この点は基本として頭の中に叩き込んでおいてほしい。
意識と思考と知能が高度になると、当該の生物は度を過ぎた生命維持の感情を正当化する、という方向に逸脱する。
分を守って、平均寿命ないし健康寿命を全うすることで満足すればよいものを、それを超えて、あるいはそれをはるかに超えて生きたいという願望にかられるのである。
いわゆる不老不死の願望である。
古来、あるゆる人種に宗教ないしそれに準ずるものがあり、不老不死や霊魂の不滅や死後の世界の実在へ信仰を様々なバリエーションにおいて所有してきた。
宗教の起源は「死の恐怖」にあり、これから人を開放するために様々な方策を取り、恐怖と不安に慄く人を勧誘してきた。
その戦略の代表は、言うまでもなく死後の世界の実在と個人の霊魂の不滅であり、これによって「藁にもすがる思いの死に面した人」を勧誘してきた。
もちろん、その証拠や証明はないが、藁にも縋る思いの人の「感情」をターゲットにすると、それらがないことがむしろ功奏するのである。
人は限界状況に直面すると、不合理の方を信奉するものである。
これは軽薄な反自然主義、反科学主義、反合理主義、超能力信奉であり、幼稚な思考と意識の産物である。
ただし、彼らを諭そうとしても無駄である。
論理や合理性や自然性を抜け出すことが合理的で(あれっ?)、正義だと思ってしまうからである。
宗教は多かれ少なかれ以上のような感情に訴える、巧妙な詐欺であり、基本的に金もうけを狙っているにすぎない。
福祉活動などはそれを隠すための箕(ミノ)のである。
死を避けられないことはほとんどの人が自覚しており、自然の定めであることを理解している。
しかし、それを超えて不死ないし不老不死の願望を抱くことは人情であり、それを否定することもまた冷徹な知性主義として躊躇われもする。
問題はここにある。
感情は普通、理性や知性に対して劣ったものとみなされているが、実は極めて重要な心的現象なのである。
このことは意外にも脳科学の側から強く主張されてきた。
脳科学やそれに基づいた心理学では理性と感情の二元対置は乗り越えられ、理性も感情の一部とみなされる。
そして理性よりも感情の方が普遍的で包括的で高い位置にある、と主張される。
それに対して、反科学主義、反自然主義、超合理主義を信奉する人たちは旧来の「理性vs.感情」という対置図式に囚われている。
要するに、反科学主義の宗教信奉者の方が頭でっかちになってしまっているのである。
あるいは「心でっかち」になっている。
とにかく、死を避けて不老不死を達成することなど不可能であり、それはむなしい夢であることを悟らなければならない。
仏教や老荘思想ではある程度それが理解されているが、哲学と文学と科学では広く支持され、受け入れられている。
我々は科学と結託した哲学の深い自然主義によって死後の世界と霊魂の不滅を完全否定し、世界平和の確立を目指さなければならない。
これを簡潔に歌い上げたのが、かのジョン・レノンのイマジンであることは多くの人が知っている。
私が授業中「ジョン・レノンのイマジンを知っている人は手を上げてください」と言ったら、ほとんどの学生が挙手していた。
肝要なのはなぜ忌々しい「死」が、わざわざこの世にあるのか、ということである。
そんなものない方がよいではないか。
いや、本当はないんだよ。
やっぱりあるから、諦めな。
何を諦めるの。
諦めることなんかないよ。
死があることが幸福の源泉なんだよ。
えっ、それってどういうこと?
現在、地球上には七十数億人の人間が生存しているが、これらが全部不老不死になると、二百年後には全人類が死滅してしまうのである。
この中の人たちが皆、80歳~90歳、あるいはもっと若くして死んでくれるから、残りの人や次世代の人が生存を維持できる仕組みになっているのである。
肝要なのは生命の本質への視点を「個」から「集合レベル」へと転換することである。
人間だれしも自分が一番かわいいし、個の尊厳というのは分かる。
しかし、その尊厳とやらも全体としての生命の「個の死」による連鎖の上に維持されているのである。
これは全体主義を意味するものではなく、生命の大いなる連鎖へのトランスパーソナル・エコロジー的視点からの生命の本質看取を示唆するものである。
我々は根底において皆つながっている。
死は分断というよりは結合であり、霊魂の不滅はその対極にある詐欺である。
とにかく、意識を根本的に転換し(これは感情の適正化、理性vs.感情という対置図式の克服も意味する)、生命の仕組みついての深い理解から死の積極的意味を看取することが要求される。
絶対そうだよにゃー
テキスト第3章の第2節は「この宇宙に生命と意識が誕生したという驚異的事実」を論じている。
これは生命論と存在論の接点を示唆する問題である。
さらに宇宙論も関わってくる壮大な問題設定である。
普通、生命の本質を考える場合、万物の根元とか宇宙の始原について顧慮しない。
全く顧慮しないわけではないが、そこまで深く考えることはないのである。
しかし、哲学的生命論ないし生命哲学の究極は存在論と合流し、個々の生命体の生死を超えた森羅万象(宇宙の全存在、宇宙の大生命)にまで視野が広がる。
思索ないし思考が深まる、と言ってもよい。
一応、150億年前にビックバンによって誕生したとされる宇宙は、物質の分子的進化を累進させ、今から約40億年前に生命の原基となる有機高分子RNAとDNAを創発させた。
ここで「創発させた」というのは、単純な因果関係を超えて予想もつかない突発的様相において進化的に、つまり前向きに、未来につながる生成的様態において「発生した」ということである。
高分子の場合には「結晶化した」と言われる。
とにかく、我々が今日よく使うRNA(リボ核酸)とDNA(デオキシリボ核酸)がこの宇宙の物質的進化の中で偶然発生したのである。
これは近代科学の機械論的自然観、ならびに生命現象を物理・化学的過程へと還元する従来の唯物論的生命観からはうまく説明がつかない。
生命の「創発」は単純な因果関係を超えた偶然性をもっているのである。
しかし、これは消極的な投げやりな説明ではなく、「創造性」「進化」「発展」「生成」というポジティヴな意味を含んでいるのである。
特に「創造性」という契機は重要である。
このように宇宙の物質の分子的進化における生命の創発は、「生命を生み出すような物質は近代科学ないし古代から続く機械論的物質観だけでは説明がつかない」ということを示唆する。
つまり、なぜか進化し複雑化し生命を創発せしめ、ひいては精神現象まで創発せしめた物質系は、従来の物理学と化学が規定するような単純なものではなく、ある神秘的要素を含んでいる、
ということを暗示しているのである。
しかし、ここから物心二元論や神秘主義や宗教に逃げてはならない。
あくまで、哲学と科学の協力による自然主義的で合理主義的な思考法によって事の本質を見抜くことが要求されるのである。
その際「情報」という概念が重要な役割を果たすことになる。
それについては後の方の章で詳しく説明されるので、今はこれぐらいにしておく。
とにかく、我々の意識は脳内の神経的情報処理の産物だとしても、その背景には宇宙の物質進化における生命の創発との連続性が控えており、結局はアリストテレスの形相因と目的因を顧慮しなけれ
ばならないのである。
このこともまた後の方の章で詳しく説明される。
我々の身体も脳も意識もその基盤に「形相因と目的因を含んだ情報的物質」があり、それによってそのシステムと秩序が形成されているのである。
我々が「なぜ私はこのときここに存在し、あの時あそこに存在するのではないのか。なぜそもそも世界と私は存在するのか。なぜ死すべき運命なのに生きてゆかなければならないのか」という問いを
発する意識の背景には、以上に述べたような「この宇宙に生命と意識が誕生したという驚異的事実」が控えているのである。
なお、この節での重要な点は「生命」が「物質」と「心」の中間に位置し、両者を統合する媒介的契機となる、ということである。
特に生命と心、生命と意識の関係に注目してほしい。
(注) アリストテレスが言う「形相因」は物事、存在物、生物の本質に関わる原因概念であり、「目的因」とはそれらが何のためにあるのか、何を目指して生成・進化するのかに関わる原因概念である。我々が普通「原因」というと、まず「質料因」と「始動因」を考える。質料因とは要するに物質的基盤、構成に関わる原因概念であり、始動因とは物事の存在や運動や活動の開始、始動に関わるん概念である。近代科学に毒された常識的自然観では、形相因と目的因は無視される。これは近代科学の機械論的自然観と技術万能主義の弊害である。それに対して、現代のニューサイエンスでは形相因と目的因が洗練された形で復興している。そして、哲学との協力関係が見られる。
びっくりしたにゃー
アマゾンでもう少し待てば入荷するだろうし、白山生協に入荷せよとメールで促しておいた。
また出版元の萌書房のHPからも注文できます。
http://www3.kcn.ne.jp/~kizasu-s/
ただし、生協の通販サイトをうまく使えていない可能性もあるので、もう一度試すか、問い合わせしてください。
早い時期に買わないとこうなる。
(注意) さっきで生協からメールが来て、70部入荷したそうです。
今回からはテキストの第3章「生命」について三回に渡って解説していくことにする。
三回と言っても三週間に渡るものではなく、二週間、つまり16日~23日の間でなされるということである。
なお、もともと教室で行う通常の講義を想定して書かれたシラバスは、大まかな流れに相当するものとして理解してほしい。
第3章「生命」は、この、このテキストの中で最も重要な章の一つであると同時に哲学入門という目的にとっても肝要なものである。
この章は「はじめに」から始まって、
1 人はなぜ生命の本質的意味を問うのか
2 この宇宙に生命と意識が誕生したという驚異的事実
3 ない方がよいはずの死はなぜあるのか
4 生命の大いなる連鎖と自己存在
という四つの節からなっている。
この内容を三回に分けて解説するのである。
その際、内容はテキストをもってる学生諸君が精読すればよいので、単に内容をかみ砕くような説明ではなく、本質を突くような話にしたいと思う。
ただし、この章の中の重要な文章は随時取り上げられて、敷衍的説明がなされる。
今日は「はじめに」と第1節について話すことにするが、その前に「生命」とはそもそも何であるのか、ということに関する重要な事柄を指摘しておく。
君たちの中には「生命」について既に中高生の時にある程度考えたことがある人もいるであろう。
しかし、それはおそらく統一性を欠く思索に終わり、曖昧模糊なままで放置されていると思う。
また、そもそも生命の本質など一度も考えたこともない人も多いであろう。
ただし、人間や生物(特に犬や猫)の「死」に面して、漠然と死生観的な感慨に浸ったことがあるはずである。
自分の身近の現実世界でもそうだが、報道や記事やテレビドラマや小説や漫画を通して、死生観に連結する「生命」の意味への問いかけのはしくれを味わったことぐらいはあると思う。
この章で論じられていることは、「生命」の本質的意味への哲学的に本格的な問いかけであり、それは科学との協力関係が顧慮されている。
哲学と科学の協力関係のもとで生命の本質的意味を問いかけること、これに興味をもってもらわないと、この章は理解できないし、読む意味も解説を聞く意味もない。
我々人間は人情に即して、基本的に我一身、あるいは最愛の人(私の分身に近い)の切実な「死」を通して、「生命」の意味を考えるものである。
他方、生物学や生命科学や医学が生命と死の問題を自然科学的に探究していることは知っているが、それはそれで尊敬するとして、自分は文系だから、
その内容には深入りしなくてもいいだろう、と逃げ腰になっているであろう。
この章の「はじめに」と第1節で主張し強調されているのは、そのような及び腰と浅い観方では、生命の本質など 問いえないということである。
そこでは生命の本質を問うためには、文系的思考と理系的思考の統合が必須であることが強調されているが、それは同時に文理融合の哲学が科学的データを統制して、
生命の本質に立ち向かうことを意味する。
そこではまた、前章でも触れられた現代のニューサイエンスにおける反唯物論的姿勢と有機的自然観への着目が促されている。
とにかく、日本人の頭に常識のカビとしてこびりついた「哲学は精神論」「科学は物質主義でガチガチの因果決定論」というウイルスを除去しなければならない。
死生観から生命の意味を問い始め、そこから哲学に興味をもつのは何ら問題ない。
しかし、直前に指摘した悪しき傾向、ウイルスはぜひ除去してほしい。
この章の序と第一節は以上のことを念頭に置いて読めばかなり簡単な内容である。
それを「難しい」とか「分からない」とか「こんな考え方は変だ」と思うのは、自分の無知の無自覚に由来する。
philosophyに対する邪魔者、その理解の障壁は、軽薄な固定観念、風聞に由来する臆見なのである。
ちゃんと勉強しないと、分からないよ。
私はもう十数年間、生命の哲学を研究してきた。
それに付随して、生物学、生命科学、医学、心理学、脳科学を研究してきた。
また、この本では生命の本質的意味の説明原理として取り上げていない重要な事柄がある。
それは英語のlifeが日本語では「生命」「生活」「人生」という三重の意味を包含している、ということである。
これは何も英語のlifeの深くて広い意味を指摘したものではなく、「生命」が人文・社会・自然という三方向に分散しつつも、最終的には統合的に理解されるべきことを示している。
これは医学ないし医療に、特に精神医学における患者の病態のbio-phyco-social(生物-心理-社会)三次元の統合的理解と対処に相即するものだが、現実を理解するための文理融合、物質と精神の統合、
心身二元論の超克などを示唆する重要な姿勢である。
生命の本質や価値や意味は、それが生活や人生というものと連携し、遺伝子による生理システムによる基盤とともに政治、経済、人間関係、精神状態、自粛要請と倒産と自殺といった事柄とも密接に
関係していることを頭に叩き込まなければならない。
これは次節以下の内容と深く関係している。
特に「ない方がよいはずの死はなぜあるのか」という思考案件と深く関係している。
その意味でも序と第1節の精読が求められるのである。
君たちは「人生」や「生活」を遺伝子の働きによる「生理学的システムによる生命活動」と全く別次元のものと考えていなかったか?
医学、特に精神医学では、この別次元とみなす姿勢は全く通用しないのである。
今回のコロナウイルスによる連鎖倒産を見よ!!
大学生の貧困化、退学、自殺の可能性を見よ!!
生物・社会・精神は統合的に理解されるべきなのである。
そして、その姿勢を生命の本質的意味への問いかけの基盤としなければならないのだ。
僕もそう思うにゃ。
第1回目のレポートの提出は今月の30日までなので忘れないこと。
また、まだテキストの買い方が分からないとメールをよこす学生がいるが、白山生協の教科書通販サイトのこと知らないのか?
そこで買うのが王道である。
中間試験は少し早めだが6月13日に実施しようと思っている。
基本的に7限の時間帯の19:55~21:25ということになるが、答案はオンラインでその前後の4時間以内ぐらいに提出時間を限定して受理することにしよう思っている。
範囲はテキストの序~第3章まで。
テキストを読みながら解答することになる。
おそらく、文章講義はその先の章まで進んでいると思うが、中間試験の範囲は上記のものとする。
そして、期末試験は7月の最終週の土曜日の夜になると思う。
範囲は第4章から終わりまで。
その他、小レポートと小テストを一回ずつやると思う。
また、300人近い履修生を抱えているため、個別の成績開示や説明はできない。
ただし、確実に受理し、評価するので心配いらない。
最後の成績発表で判明することになる。
毎年のごとく単位認定と評価は甘いので、あまり心配しないこと。
とはいえ、Sを取るのは難しい。
Aも少し難しくなった。
オンライン化のせいで試験とレポートの回数が増えたからである。
また、試験とレポートを全部こなさないと単位を取れないということはない。
B以下でいいなら、一つ二つは抜かしてもよい。
しかし、AとSを狙うなら全部こなすのが条件となる。
厳しーにゃー
昨日の番組で池江璃花子さんは、自分が白血病になってオリンピックに出場できないことなったことについて、「その方がよかった。実はそれを望んでいた」という意外な本音を吐露していた。
その理由として、自他からの並々ならぬプレッシャーのことを述べていた。
つまり、メダル獲得という重責の心理的圧力に苛まれていたことを告白していた。
強いストレスが免疫力を弱め、感染症やがんの発生を助長することはよく知られている。
池江さんの白血病がそうだとは言い切れないが、何らかの形で関与していたことは否定できない。
もちろん、過酷な肉体的鍛錬も関与していたであろうし、遺伝子的基盤もあったであろう。
しかし、心身共に無理が重なっていたことは確かなのである。
池江さんは突然、急性リンパ性白血病発症を医師から告知され、当然絶望し、その後の過酷で「しんどい」治療を数か月続けた。
「しんどい」という関西弁を池江さんは好んで使うが、彼女の苦痛と苦悩をよく表している。
とにかく、白血病などのがんの治療は過酷で副作用が強烈である。
特に抗がん剤による化学療法は想像を絶する苦しみを伴うことがある。
池江さんは番組の中で何度も「死んだほうがましなような苦しみだった」と語っていた。
造血幹細胞移植も受けだが、これも地獄の苦しみを伴った。
そのどん底、地獄からなんとか生還し、一応日常生活に戻れたが、あの筋肉隆々だったアスリートの肉体は無残にやせ細っていた。
彼女は今年の3月まで、先述の本音の裏の真の本音として、今年の東京オリンピックに出れないことを歯ぎしりして悔やんでいたと思う。
ところが、その頃、日本は東京を中心として中国由来の新型コロナウイルス感染症が広がり始め、ついにオリンピックの一年延期が決定する。
一年延期といっても実質中止のようなものである。
これをニュースで知った池江さんの心情は複雑なものであったろう。
まさか「ざまあみろ。私を差し置いて二流選手が出るなんて百年早い!!」などという悪魔のささやきが彼女の心を占拠するわけはない。
しかし、人間の本音として、そういう気もちはないわけがないのである。
これによって彼女の暗い気分、絶望、劣等感が少し癒されたことは想像に難くない。
ただし、それは裏を返せば「自分と同じように悔しい思いをしている仲間が大量に増えた」という微かな喜びでもあるのだ。
他人の不幸は蜜の味と言ったら失礼に当たるが、そんなに聖人君子ぶる必要もないだろう。
それよりも池江さんの心情の核心にあたり、事の真相に関与するのは彼女の次の発言である。
彼女は今回、東京オリンピック出場の夢を立ち切られた健康な選手たちの気持ちについて「めちゃめちゃわかる。目の前の大きな目標を失った感じ。当たり前のことが非日常になっちゃう。ある日突
然」と、自身が白血病になった時の気持ちを思い出すように語ったのである。
これは重要な注目すべき発言内容である。
我々は平和で順調な日々の生活を送っていると、いつのまにか平和ボケ、安泰ボケ、悩みのない健康馬鹿、薄っぺらいリア充になってしまう。
これは「日常性」というぬるま湯に浸りきって、「非日常性」ないし「危機的状況」ないし「突発事象」に対して極めて鈍感になってしまうことを意味する。
ところが、ある日突然この平和で順調な日常性が座礁し、「非日常性」が突出してくることがある。
それは老若男女、金持ち・貧乏、勝ち組・負け組、正規・非正規、健康・不健康の区別を無視して万人に平等に襲い掛かってくる。
そして、それに見舞われた者は皆、これまで何ともないと思っていた日常性が極めて貴重なものだったのだ、という意識に支配される。
池江さんは緊急事態宣言が発令され、外出自粛要請が続く日々の中で次のような意識を発露している。
「正直病院から出て、まさか日常生活でこういうふうになるとは思っていなかったので、正直ちょっと残念というか…仕方ないんですけど。皆の自由が奪われちゃうってのもあるけど、普通に生活しているのは当たり前だけど、当たり前じゃないし、そういう日常生活に対する感謝を考えさせられた」。
我々のうち彼女のように急性白血病に罹って生死をさまよう者は極めてまれである。
だから、病苦を他人事のように思ってしまう。
しかし、そうこうするうちに我々全員が病苦によらない極めて深刻な災難に見舞われることになった。
新型コロナウイルスのパンデミックの進展による自粛要請である。
選抜甲子園大会中止、大相撲無観客取り組み、百貨店、飲食店、ジム、映画館、ライブハウス、パチンカス屋その他の全面的に近い休業。
そして、小中高などの学校の数か月にわたる休校。
大学ではほとんどすべて遠隔オンライン授業となり、学生の5人に1人が退学を考える事態に急遽転落した!!
こうした苦境を去年の末まで、いや今年の3月まで誰も想像だにしなかった。
こんなことありえない、という意識に支配されたいた。
私は十年前からこうした危機的突発事象の可能性について授業中繰り返し訴えてきたが、学生は上の空で「そんなことないよ。心配しすぎだよ」という顔付で聴いていた。
ただし、私自身が思い描いていたのは地震に代表される自然災害による危機的状況であり、今回のような感染症は顧慮していなかった。
しかし、東京オリンピックを邪魔するなんらかの凶事が高い確率で起こるという憂慮はどうしても消えなかった。
そして、やっぱり起こった。
しかも、最悪の形で。
今、この記事を書いている最中にも上尾市の緊急防災の有線放送で不要不急の外出自粛を強く要請している。
今回の災害は巨大地震や原発事故や巨大台風や戦争のような派手さはないが、実はその破壊力は絶大である。
これまでの人類の歴史において最大の死者を出してきたのは戦争でも巨大自然災害でもなく感染症なのである。
中世ヨーロッパにおけるペストや1929年前後のスペイン風邪パンデミックなどがその代表だが、今回のはそれと少しニュアンスが違う。
医学や医療制度や衛生習慣・制度が格段に発達した現在の世界だが、その文明化と人口増加とグローバル化が仇となって、経済への打撃を介した貧困死、自殺の危険性が極限まで高くなってしまった
のである。
若い人を中心としてまだ楽天観に浸されている人は、この経済崩壊、医療崩壊、大量失業、学業断念、就職超氷河期の訪れということが分かっていないのである。
ただし、若者でも既に苦境に立たされ、明日の生活もままならない人は身に沁みて分かっているだろう。
飲食業、ホテル、旅館、タクシー業界、バス運転手の中には絶望する人が蔓延し始めた。
絶望とは死に至る病であり、身体が健康なままで死ぬのである。
私は実は日常性が若い頃から嫌いであった。
逆に非日常性が突出してくるとハイになるのである。
理学部に飽き足らず、哲学に進んだのも納得である。
私がリア充を軽薄な馬鹿と罵ったら「リア充とはリアルが充実しているという意味だから、先生の批判は当たってない」と反論してきた学生がいたが、今の世界的危機、外出抑制についてこの
学生は何を思うであろうか。
「人との接触を極力避け、社会的距離を空け、会食、合コン、飲み会などもってのほか」という世界的命令はリア充死刑に当たるのではないだろうか。
リア充とはリアル、つまり積極的外交の現実が充実しているだけの快楽主義なのである。
それは弱い者、孤独な暗い人、病人に対する蔑視という意識に支配されている。
リア充肯定者本人はそれを認めないであろうけど。
偽善的だからである。
私は、安倍や小池はリア充だと思うが、大阪府知事や北海道知事はそうだと思わない。
後者は真の社会貢献者、道徳実践者であり、それこそ日常性の快楽主義のぬるま湯を超えた「社会的現実」「集合的福祉」「他人への真の思いやり」という「反リア充的な現実」が充実している
ということなのである。
今や皆が哲学しなければならない事態となった。
それも人類絶滅の危機とトランスパーソナル・エコロジーの関係を見据えた超-哲学を。
とにかく、改めて生態系の中での人間存在の意味を深く考えなければならない。
パチンカス屋も。
数回前の記事でテキストの序と第1章の読み方を簡略ながら指南したし、その内容の要約と感想をレポートの課題にしたので、今回は先に進むことにする。
つまり、第2章の読み方を指南することにする。
この章は哲学の根本問題たる「存在」を主題としている。
古来、哲学は存在の意味を問いかけてきた。
それは宇宙、自然、世界の根源ないし根本的存在原理への問いかけであり、同時に自己存在の意味への問いかけでもある。
つまり、哲学における「存在の問い」は世界と自己双方へと張り渡された「意味」への問いかけなのである。
それは生命や人生の意味への問いとか宇宙の始まりと終焉といった、より通俗的な問題に薄められて理解可能なものである。
いきなり「存在」の意味を問うことに立ち向かおうとしても、あまりに抽象的で太刀打ちできない人が多いと思う。
そこで、少し敷居を下げて人生の意味や死生観や宇宙の始まりと終わりといった問いに置き換えてみるのも一興である。
また、あまりに精神的な意味や価値にこだわって存在の意味を問おうとすると、抽象化と現実遊離に陥ってしまう。
そこで、自然、物理、生理といった次元も顧慮するのである。
第2章ではこの関連で「存在と重力との意外な関係」とか「身体性と生命と存在」とかが論じられている。
そして、「存在」概念は「自己組織化する<場>」として究極的に理解されるべきことが主張されている。
その際、地球の磁場の中での人間の存在と意識の成立が言及されているが、これは生態系の中における人間存在の立ち位置ということに連なる。
少し難しく感じるかもしれないが、我々は自然の能動的生命産出力、つまりその恩恵の下に集団的生命の維持を可能化しているのであり、それを忘れることはできない。
我々は自然によって生かされて生きているのであり、自然は機械的物質体系ではなく、生命性を有し秩序を自己産出する力、つまり「自己組織性」をもつ「有機体」なのである。
「有機体」とは生物ではない存在者の生命性を表す言葉である。
東洋哲学では「自然」を「じねん」と読む。
これは「自ら然る」ということを意味し、古代ギリシャ哲学の自然概念たるピュシス(自らたち現れて自己展開する生成的な生きた自然)とかなり似ている。
第2章を理解するためには以上のことを咀嚼しておく必要がある。
まぁ、あまり肩に力を入れないで、とりあえずこの短い章をさっと読んでみればよい。
この章以後、哲学の根本問題が順次取り上げられていくが、そのことも顧慮して、一番目に根本問題として取り上げられた「存在」の意味を考える手がかりを得てほしい。
一回目のレポートの提出期限は今月末だが、その後は大きいレポートではなく、小テストや小レポートと定期試験(中間と期末で6月下旬と最後の週あたり)を予定している。
とりあえず、今はレポートの作成と第2章の読みに専念してほしい。
なお、通信環境と聴講生の数の関係で動画はもちろん、音声の配信もしないことにしました。
(注意)今夜NHKで水泳選手の池江璃花子さんの特集番組が放送されます。
池江さんは今年開催されるはずだった東京オリンピックにおけるメダル候補として期待されながらも、急性白血病に罹り、厳しい闘病を経て、現在まだ休養中です。
生命の意味から生存=存在の価値への問いかけの発展にとって興味深いと思うので、ぜひ観てください。
NHKの放送は19:30~20:30でこの授業の時間と重なっています。
前回も書いたように、この文章講義は土曜日以外にも配信される。
内容はテキストの内容の一部の解説やそれに関連する事柄が多いが、それ以外のことも話題となる。
例えば、哲学そのものや生き方そのもの社会情勢などである。
また、心と身体の関係や人類の存在価値や自然災害なども取り上げられる。
東日本大震災や今回の新型コロナウイルス感染症から進んで人類滅亡の可能性なども話題となる。
そもそも人間の本質を考える哲学は、文学や宗教や芸術と違って、自然科学的知識や理系的思考も必要とし、それを思索に活かしていかなければならない文理融合の学問なのである。
私が専攻する科学哲学と心身問題(心の哲学、意識哲学、心脳問題)は、まさに文理融合の思考(ないし理論)体系である。
ちなみに、日本では哲学科は文学部に属す文系の学問とみなされており、教養科目でも人文学類に配属させられている。
しかし、日本でただ二つ理系の哲学科をもつ大学がある。
東京大学と京都大学である。
この二つの大学では、文学部哲学科とともに教養学部に科学史・科学哲学専攻という理系の哲学科をもっている。
さすが日本を代表する頭脳の二大学である。
しかし、この二大学を含めて日本の全大学の哲学科と教養科目の哲学の教員・研究者たちの九割以上は文系脳のもち主であり、科学音痴、理数科目苦手が多い。
私はもともと理学部志望で、中学と高校の科目では英語と数学と理科全科目が大変得意で、それらの定期試験の平均点は95点ぐらいであった。
英語だけは99点が最高だったが、数学と理科ではよく100点をとった。
それに対して国語と社会は70~85点であった。
地理だけは90点台だったが。
そのような理系少年だった私が人生問題と文学に没頭して、にわかに哲学に興味をもち始めたのが、高校を中退した17歳のときである。
理系にないものとして、簡単に挙げられるのは諸作家や諸思想家の自己主張とともに現在の北海道知事や大阪府知事の仕事ぶり(リーダーシップ)である。
理系の学者や職業人は現実社会では文系の管理職や経営者や役人にこき使われるロボットのような印象がある。
自己主張や自己思想や社会全体への目配りがないのである。
リーダーシップもなく、オタク的な要素が強い。
理系の人皆がそうだと言うわけではないが、彼らは思いの外ロボット的で、生きた計算機ないし機械というイメージが強い。
主体性と能動性が感じられない高知能の機械のように見える。
自然の中での人間の在り方、社会の構成と個人の存在価値の関係、心と身体の関係から人間の生き方を考えること、こうしたことすべては文理融合の哲学的思考法を必要とするのである。
過去の偉大な思想家の思想を紹介し解説するだけでは哲学学であってphilosophy(哲学そのもの)ではない。
この講義では本当の哲学的営みとはどういうものか、そのためにはどういう姿勢と方法論が必要か、ということから初めて、次第に「哲学を超えた哲学」つまり「超-哲学(super-philosophy)」へと進展していく。
それは22世紀へと向けた思索であるが、果たして来世紀にも人類は存続しているのか、はたまた絶滅しているのかは分からない。
しかし、たとえ明日自分が死のうとも、地球が破滅しようとも、我々は花に水を注いでやらなければならないのである。
私は長年の間、ヒューマニズムを超える宇宙の大生命の価値に思いを馳せてきた。
それが「自然の大生命に向けての自己の乗り越え」という思想を生み出し、「君自身にではなく自然に還れ」という標語に集約される文理融合の哲学として結晶化したのである。
その意味を少しでも分かってもらえたらと思っている。
今回は一般的な話題であったが、次回はテキストの一部の解説と読み進め方の指南とする。
人間の生命の尊厳を超えた宇宙の大生命を遠望し見つめる筆者の近影↓