心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

慶應 理工だとガッカリ 医学部だと最高の銀メダル

2016-11-28 09:27:02 | 受験・学歴

東大や京大の工学部、あるいは東工大を目指している受験生がそれらに落ちた場合、行先は滑り止めないし併願校の定番・早慶理工となる。

早稲田の理工と慶應の理工は私立の工学部の頂点であり、それなりの価値を有し、国立の上位校と比べても何ら遜色ない。

伝統と実績では早稲田に軍配が上がり、慶應は最近のし上がってきた感がある。

今から20年以上前では早稲田理工は慶応工に大差をつけて、私立工学部の頂点に立っていた。

しかし、その後慶応工学部は理工学部に改編され、次第に実力と実績を増し、慶應ブラントを最大限に引き出しつつ、ついに偏差値で早稲田理工を超えることになる。

偏差値というのは水物で真価を計る絶対的指標たりえないが、一応の目安にはなる。

この偏差値で慶應理工は、先進理工以外の早稲田理工系のみならず、東工大をも超え、京大に追い付く勢いなのである。

しかし、工学系で国立上位と私立の間には壁がある。

設備と研究力が違うからである。

特に旧帝上位と東工大が相手だと慶應理工はかなり分が悪い。

そこで、東大・京大・東工大を目指していても夢かなわず、浪人してもまたしても失敗し、やまなく慶應理工に入学するはめになる。

そのときのガッカリ感は半端ない。

旧帝中位以下だとそこまで落ち込まないし、研究志向でないならば、就職と出世に有利な慶應で満足するであろう。

その他筑波・千葉・神戸・横国あたりだと、まず落ち込まない。

それどころか、それらを蹴って慶應理工を選ぶであろう。

しかし、東大や京大が相手だとガッカリなのである。

ここには私立理工系の悲哀がある。

ただし、同じ私立理系でも医学部となると話は違ってくる。

慶應の医学部は理工学部とは格が違い、上位旧帝の医学部とタメをはれる威光をもっている。

かつて、慶應医学部は東大理Ⅲとともに受験界の頂点に立っており(京大医より毎年上だった)、今でも医学(医療)界において東大とともに全国レベルでトップに立っている。

そこで、東大理Ⅲないし京大医学部を目指しつつ、それがかなわず併願校の慶應に受かった場合、理工の場合とは違って「ガッカリ」というのはまずない。

特に京大や阪大や東北大の場合、それらを蹴ってでも慶應医を選ぶ強者がいるのだ。

かつて日本医師会会長の武見太郎の威光に後押しされていた時は、東大理Ⅲを蹴って慶應医に来る者もいた。

当時の慶應医の学費は初年度300万。次年度から140万。つまり、年間学費140万だったのである。

この学費は私立としてはだんとつに安く、今の理工学部と変わらない(貨幣価値の変動を顧慮しても大した差ではない)。

今でも旧帝医蹴りは一定数おり、2012年には開成から東大理Ⅲ蹴り慶應医進学が出た。

ある人は「東大理Ⅲ(ないし京大医)落ち慶應医は最高の銀メダルだよ」と言っていた。

まさにその通り。

高くなった慶應医の学費が苦にならない者は、あたかも金メダルは逃したが銀メダルをもらったかのように満足できるのである。

たとえば、早慶にほとんど関心のない灘高校でも慶應医だけは尊敬しており、毎年一定数の合格者を出している。

今年度は10人であった(筑駒、開成に続いて第3位)。

医科歯科に見向きもしないで、関東では慶應医だけ受け、2-3人だが入学するのである。

これも「最高の銀メダル」の証である。

 

 


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平成版『白い巨塔』の出演者たち

2016-11-22 00:26:29 | テレビドラマ

http://desire2012.sakura.ne.jp/television/fuji_tv.html


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ビートルズのゲット・バックの動画

2016-11-21 23:57:55 | 動画

有名なアップルスタジオの屋上でのライブ。

https://www.youtube.com/watch?v=GIKXRhC2jdY


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京都大学における学部の階層

2016-11-15 20:31:11 | 受験・学歴

東大と並び称される旧帝国大学の京都大学における学部の階層について考えてみよう。

 

まず、学問的ならびに社会的評価から見た学部の階層。

1位 理学部

2位 医学部

3位 文学部

4位 法学部

5位 薬学部

6位 工学部

7位 経済学部

8位 総合人間学部

9位 教育学部

10位 農学部

京大と言えば湯川秀樹、朝永振一郎を皮切りに数人のノーベル賞を出した理学部が第1位なのは異論ないであろう。

数学のフィールズ賞も日本で一番出している。

また、ここの出身者だけではなく、名古屋大学から来た二人の学者もノーベル賞を受賞していてる。

まさに日本における物理学の星である。

2位は文学部を挙げてもよかったが、やはり基礎医学日本一の医学部にした。

やはり社会的には医学の方が圧倒的に評価が高いし。

3位が文学部なのはアカデミズムとリベラリズムが融合した京大ならではである。

哲学を初めとして極めて充実している。

他は認知心理学(意識と脳の関係の研究)の苧阪直行などが光っている。

4位は東大ほど学内での地位は高くないが、やはり名門で充実しているので法学部である。

5位は昨今の全国的人気高騰に照らして薬学部にした。

6位は理学部の陰に隠れた工学部である。

さすがにノーベル賞学者も輩出しているが、理学部に比べると威光が弱い。

やはり京大は実学より基礎の理学と哲学が強いのだ。

7位は京大があまり力を入れてなさそうな経済学部にした。

経済学部自体は最近全国的に人気が高騰しているが、京大内では影が薄い。

8位は元の教養部である総合人間学部だと思う。

文系と理系の融合であり、内容は面白そうだが、やはり伝統と格式においてまだまだである。

9位はどこの大学でもだいたい下位の教育学部とした。

かつて河合隼雄というユング派心理学の大家がいたが、学部自体のマイナー感は否めない。

10位は京大のお荷物、農学部とした。

ここは東大はもとより北大の農学部よりも下に見られている。

なんといっても獣医学専攻がないし。

ある人が「京大の農学部の教授は理学部に行ったら助手にしかなれんよ」と言っていたことを思い出す。

 

次に就職や社会的成功を顧慮した順位を挙げる。

1位 医学部

2位 工学部

3位 薬学部

4位 法学部

5位 経済学部

6位 農学部

7位 理学部

以下順不同。

もはや説明無用であろう。

京大とてもこの観点から見れば、全国的傾向に沿ってこうなるのだ。

今後かつてのように世間的評価において京大理学部が栄光ある地位に返り咲くことはあるだろうか。

文学部もしかりである。

まぁ、20年では無理であろうが。


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新著の別の画像

2016-11-11 22:18:48 | 自著紹介

新著『存在と時空』の別の画像です。

こちらの方が実物の色合いに近いです。

で、飛翔する鳥のデザインも鮮明です。

価格2800円だが、大学の生協で買うと2520円+税。

十分安い。

アマゾンのリンク↓

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次に書きたい本のタイトル

2016-11-01 20:37:27 | 備忘録

今日、次に書いてみたい本のタイトルを思いついた。

忘れないために書き残しておこうと思う。

 

まず『意識・生命・時間』あるいは『意識と生命の接点としての時間』。

これは私の意識哲学を時間論の方向へと発展させたものとなる。

とりあえず意識と生命の関係を論じたいのだが、それを何とか時間論と結び付けたいのである。

もともと私は時間哲学を専門としていた。

その後、意識哲学と生命哲学に転向したのだが、最後に時間哲学を結節点として意識と生命の関係を論じたいのだ。

とりあえずベルクソンの『物質と記憶』を批判的に検討し、プルーストの『失われた時を求めて』のライトモチーフを継承したい。

それを創発的生命主義の意識哲学の文脈に引き込むのが味噌となる。

 

次に『崩壊する自我の自然 - 自殺に関する臨床哲学的考察 -』。

この主タイトルの響きはいい。

迫りくる自我崩壊の危機に面して人は恐怖と戦慄を覚え、底知れない不安に陥る。

その様態をありのままに描き、自然へと還る人間の逆説的栄光を解き明かしたいのだ。

精神的に追い詰められての自殺は実に痛ましいが、自然主義の観点からすると、一つの生命現象として美の光を放っているかのように感じる。

要するに自殺について哲学的に考察したいのである。

しかも、それは精神医学や臨床心理学に通じる「臨床哲学」的方法によってなされる。

その際、際立った自殺の例、つまり際立った「崩壊する自我」の例を取り上げたい。

とりあえず、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫という作家の自殺が念頭に浮かぶ。

この四人は十代の頃から私の心をつかんで離さなかった。

彼らの自我崩壊の病跡から説き起こして、自殺に関する臨床哲学的考察を展開したいのである。

 


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