心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

古いキリンビール

2012-09-30 17:04:57 | 日記
前の記事で書いたビール初体験のとき飲んだのはキリンビールだとおもう。
生ではない、今でいうラガービールである。

そういえば、2-3年前に、その味を再体験したくて、復刻版のキリンラガービールを飲んでみた。
それは毎日飲んでいるアサヒのスーパードライや前に毎日飲んでいたキリン一番搾りとは違って、古くさい洗練されない味、しかし独特のビールの旨さ、なつかしさを感じさせた。
その懐かしい感じの昭和の瓶ビールの味は、ほんのわずかビール初体験の味を再現させたが、その再現度は二〇パーセント以下であった。
やはりあの味は還ってこなかったのである。

しかし、今の生ビールを飲んでいるとき、たまーにあの味が蘇るときはある・・・・・・な。

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内面的な意識の状態は存在しない?

2012-09-30 16:18:42 | 意識・心理学

ギルバート・ライルは『心の概念』の中で実体的な「内的意識状態」は存在しないと明言している。
これは多くの人の直感ないし日常感覚に反する見解である。

我々は日常自分の内的意識が機能し確かに存在していることを直感している。
そして「自分は自分である」という自己同一性の意識を堅持し、自己意識の統一性と継続性を自覚している。
それなのにライルは内的意識の状態の「実体性」を否定する。
これをどう理解したらよいのだろうか。

我々は確かに私秘的な内的表象世界と思考世界と知覚世界と記憶世界があり、それに直接アクセスできるのは自分だけだと理解している。
しかし、我々は四六時中自分を意識し、自己の内的世界にアクセスし続けているであろうか。
我々の日常生活のほとんどは外的対象や環境世界の状態や諸々の情報への関心に費やされ、内的意識への関心は時折生じるだけである。
むしろ意識よりも外的知覚と密着した行動が優先権を持っている。
そして、その行動がとん挫したり静止したとき初めて内省が生じるのである。

問題はここにある。
ライルによると内省は常に「回顧」という形をとる。
我々は激怒したときリアルタイムで自己の意識や感情を反省できるだろうか。
できないのである。

内面的意識は常に生活的行動に遅れてやってくる。
しかし自覚的クオリアが鮮烈なので、その存在性が「実体」にまで高められやすくなる。
デカルトはもろにこの罠にはまってしまったのである。

行動に遅れてやってくる内的意識は実体として存続するものではなく、一時ファイルのようなものである。
現実にあるのは心身的生命体の世界内行動なのであり、それは実在の何に値するシステムなのである。

捉えがたい「私」という観念は幻想である。
「私」とは経験の契機なのである。
意識と経験の関係についてはまた後で論じよう。


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非常食

2012-09-27 17:55:10 | 日記
ところで、前の記事の写真のうち、立てかけた本の後ろに写っているのは、RITZの非常食用の缶である。
賞味期限は2017年。

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新著ができた

2012-09-27 17:49:25 | 日記
新著が出来上がり、出版社から送られてきた。

目次と内容はすぐに書きます。
定価は3500円+税。
A5で304ページ+α。
来週の後半にはジュンク堂などの大型書店の科学哲学/分析哲学のコーナーに並ぶと思う。

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ハイデガーと道元

2012-09-25 21:34:53 | 哲学

ハイデガーの『存在と時間』と道元の『正法眼蔵』の「有時」の章って似てるって言われるね。

私の蔵書の中に、Steven Heine,Existential and Ontological Dimensions of Time in Heidegger and Dogen(State University of New York Press,1985)という本がある。
次著のための重要な参考文献だ。
しかし、日本人好みの比較思想的観点からではなく、自然哲学的・科学哲学的存在論の観点から読み、参考にするつもりだ。


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秋が来た。そして暖冬か。

2012-09-25 21:18:20 | 日記
ついに待望の秋が来た。
今年の夏は長かったなー。
晩夏のクオリアを味わう前に秋に突入したって感じかな。

気象庁の長期予報では今回の冬は暖冬らしい。
前回の冬は寒かったからなー。

そろそろ次著『存在と時空』の準備に取り掛かろう。
といっても、時間論の本から読み始めるだけだが。

基本的にハイデガーの時間論とメルロ=ポンティの空間論を融合し、それをアレクサンダーの時空論で統制し、ホワイトヘッドの自然有機体説の存在論で締めるつもりだ。
存在論の方法論に関する練り上げにも力を込める。
その際、存在の場所的性格と自己組織性が、存在論と生命論の接点へのまなざしから論究される。

ハイデガーの『存在と時間』は未完であり、最も大事な「時間と存在」の前で途切れている。
ここで彼は存在のテンポラリテート(有時性、存在時間性)を解明しようとしたのだ。
私は私の哲学的立場からこの問題に挑戦したい。
つまり、数年後に出る『存在と時空』は新・『存在と時間』の試みなのである。

道は長い。
道は無窮なり。

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時東一郎著『精神病棟40年』

2012-09-23 17:53:31 | 書評

昨日、時東一郎『精神病棟40年』宝島社を読み終えた。
今年の2月に出た本で定価が1300円だが、アマゾンのマーケットプレイスで750円で買った。

時東氏は16歳で統合失調症を発症。
17歳のとき精神病院に入院の後、40年以上の間ほとんどを精神病院に入院してすごした。

彼の病状はそれほど重いと思えない。
統合失調症の妄想型と思われるが、躁病に近い病状で、対人接触性は良い。
いわゆる分裂質の性格者ではなく、陽気で社交的である。

しかし、入院した精神病院がいわゆる悪徳タイプのもので、資金源のために生かさず殺さずの長期入院にはめられてしまったのである。
義母との不仲という家庭事情も退院と社会復帰の障壁となり、社会的入院の廃人の道をまっしぐらに歩んでしまった。

この本を読んでまず感じたのは、他の精神病闘病記や入院録とちがって、雰囲気と心理が明るいということである。
とにかく、たいした症状もないのに、これほど長く入院させられた症例はあまりない。

時東氏は自他ともに彫の深いハンサムを認めるイケメンであった。
入院中にドイツ人というあだ名をつけられたり、多くの女性に惚れられている。
そして本人は話好きで子供好きで明朗な健康優良児であった。
空手も有段者で、入院中に自己防衛のために、絡んでくる奴を殴り、肋骨を折っている。
しかし、それは仕方なくやったことで、生涯で唯一の暴力行為であった。

かつて、統合失調症が精神分裂病と呼ばれていた頃、分裂病の病前性格が盛んに議論され、分裂病と言えば分裂質の性格類型と結び付けられやすかった。
ミンコフスキーの言う「現実との生ける接触の欠如」だとかブランケンブルクの「自然な自明性の喪失」という分裂病者の実存様式の性格付けは、分裂病者を人嫌いの暗い性格者として特徴づけることを助長した。
精神病理学というものは、とかく本質主義に流れやすい。
分裂病者の中にはたしかに非社交的で内向的な人もいるが、そうでない人も多い。
プレコックスゲフュール(分裂病臭さ)という印象も疑わしい。
こうした印象や性格付けは二次的なもので、統合失調症の本質的病理を表していない。

統合失調症の診断の指標は、幻聴と被害妄想である。
この二つは、覚せい剤中毒とアルコール中毒にもみられるもので、比較的平板な症状であり、精神病理学的深みはない。
しかし、それは統合失調症の生理的病変の直接的表現として大変重要である。
覚せい剤使用とアル中が排除されて幻聴と被害妄想があるなら、まず統合失調症である。
もちろん、その幻聴と妄想には特徴があり、専門医や識者にはすぐ分かる。

統合失調症は深刻な人格の病などではなく、脳の自己モニタリング機能の障害なのであり、それにドーパミンなどの神経伝達物質の伝達異常が修飾因子として加わるのである。

私が大学生だったとき、同級生で看護師をしていた人(30歳)が「分裂病者の特徴は他人と一緒にいても不安感が強くて、同調できず、緊張感が解けないことだ」と言っていた。
彼女はミンコフスキーや木村敏にかぶれていたのだが、笑えるな。
それって神経症の症状だよ。
かつて対人恐怖症と呼ばれ、今「社交不安障害(SAD)」と呼ばれる病気の人の特徴だよ(笑)。
この病気は別名「あがり症」(笑)と呼ばれ、マイレン酸フルボキサミンなどのSSRIと認知行動療法の併用によって著しく改善する神経症だって(藁)。

とにかく「分裂質」というかつての陰湿な性格付けは抹消しないといけない。
これは、私の授業に出ていた統合失調症の学生からの印象からも言える。

しかし、たしかに対人疎通性の悪いタイプの糖質もあることはあるな。
ヘーベフレニー(破瓜型分裂病)には多いだろうな(現、解体型統合失調症)。
ちなみに「破瓜」って瓜を二つに割ると8になって、それが二つだから16になり、16歳ぐらいに発症することを示唆しただけなのに、何か深刻なイメージで受け取ってるバカっているよね。


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精神医学と心脳問題(続×3)

2012-09-23 09:38:17 | 精神医学

心脳問題を考える際には、脳と心の関係を非二元論的に捉える必要がある。
脳と心は、存在次元が異なる二種の実体ではなく、一つの生命システムの二側面なのである。
双方は、生命が生命個体においてシステムを形成する際の両翼であり、説明の文脈において区分される生命システムの構成契機なのである。

二元論は物質としての脳と精神としての心を実体的に峻別する。
それに対して、唯物論ないし還元主義は物質としての脳を唯一の実在と考え、心を一種の幻とみなすか、それを脳に還元する。
これら二つの立場の中道を行くものが、精神病、特に内因性精神病の本質の理解のために必要となる。

前の記事で精神障害における外因性と内因性と心因性の区分に触れたが、この三区分は大まかな指標であって、すべての精神疾患がこの区分にすんなり収まるわけではない。
しかし、精神疾患の分類と本質、そしてそれへの対処法を知るためには大変役立つ。
唯物論的思考法では、外因性、つまり身体因性のものがもっとも理解しやすく、内因性のものは遺伝子の変異に還元され、心因性のものは、身体因性か遺伝子の変異に還元される。
また、二元論的思考法では身体因性のものは精神病ではなく身体病とみなされ、心因性のものだけが精神病の名に値するものとみなされる。そして、内因性の概念は理解されない。
これら二つの立場は現実に即すものではなく、机上の空論である。
精神疾患は、心身統合的な社会内存在としての生命システムないし生命個体の「生きられる脳」の心的病なのである。

一般的思考法は、まず実体つまり物体としての脳があり、心はそこから発生する現象形態とみなす傾向が強い。
しょせん実在するのは脳のであり、心は一種の幻だというわけである。
しかし、情報を物と心の区別が生じる以前の真実在であるとする存在論的見地からすると、脳も心も情報からできており、両者の間に存在的優位関係は成り立たない。

脳は、生命個体のゲノムが形質発現して出来上がった遺伝情報的神経システムである。
この点で脳は既に心と同じ情報的存在性格を付与されているのである。
この性格は、脳が環境と相互作用する情報処理システムであることを顧慮すると、より分かりやすくなる。
人間の脳は、生物進化の過程で環境世界の情報構造を神経システムに刻印しつつ熟成した高度の情報処理器官である。
つまり、脳は物質的基盤が「情報」としての遺伝子であり、その神経システムの秩序は「環境世界の情報構造」と「生命個体の環境への適応と他者との共存」の共振ないし共鳴によって形成されたものなのである。

我々が普段「心」と呼んでいるものは、脳のこうした情報的存在性格とどれだけ違うであろうか。
ただ説明の文脈が違うだけではなかろうか。
つまり、脳も心も基本的に「情報」でできているのだが、静観的にもの的・定量的に把握しようとすると脳の解剖生理的性格として現れ、動態的にこと的・定性的に捉えようとすると心の現象的性格として理解されるだけなりのである。
これを理解するためには心の物質的性格を理解しなければならない。
そして脳の心的性格も理解しなければならない。

精神医学における内因性精神病の心身両義性ないし心脳両義性という問題の提起は、基礎科学としての脳科学にも「脳と心」という問題を深く考えるきっかけを与えるのである。

精神医学の臨床の現場や精神病の具体的症例に照らした考察は次の機会に譲る。


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新著のカバー

2012-09-21 22:55:22 | 日記
来月初頭に出版される『創発する意識の自然学』のカバーである(クリックすると拡大されます)。

帯には「自然の大生命の躍動的前進に根差した意識の根源学構築への最終章・・・・」と書いてある。
A5で304ページ(本文)なので、それなりの厚さはある。
出版社によって同じページ数でも、紙が違うと本の厚さに違いが出る。
萌書房は比較的厚くなるほうである。

目次、内容に関してはおいおい紹介します。
とにかく、出版を楽しみにしていてください。

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精神医学と心脳問題(続々)

2012-09-19 15:54:57 | 精神医学

心脳問題はときおり不毛だと言われることがある。
心脳問題の祖先たる心身問題は、これまで再三不毛だと一部の人から言われてきた。

心身問題や心脳問題を不毛なものにする、ないしは不毛なものに思わせるのは、精神と物質を全く別の存在次元におく二元論的思考法である。
二元論的思考法によると、精神としての心は物質としての脳とは別の存在次元にあり、脳に関する生理学的説明によって心の本質は捉えられないものと主張される。
この思考法が、非科学的で超自然的な次元へと心を囲い込み、自然科学や医学の手の及ばない聖域とみなされるのである。

心身問題と心脳問題が不合理で非科学的で不毛な議論だというイメージを喚起するのは、これらの問題が二元論的思考ないし精神主義的哲学のイメージをまとい、宗教やオカルトまがいのいかがわしいものに思われるからである。
つまり、心脳問題を論じる哲学者は、「心は脳に絶対還元できない。それとは別次元にある。脳科学がいくら進歩しても心の本質は理解できない」ということをひたすら主張しているように感じるのである。
その姿勢は何か進化論を否定するキリスト者を思わせる、というわけである。

しかし、そうした感慨は、下衆の勘繰りに過ぎない。
山形浩生の言葉「俺には心脳問題はくだらないものとしか思えない」はそれを象徴している。

山形はデネットの本を訳したりして、哲学にも興味をもっているようだが、思索は浅く、思想は薄い。
彼は、デネットが科学に詳しく、科学を大幅に取り入れた哲学議論をしているので、尊敬するとか言っているが、よく分かってないな。

デネットは現代における心身問題と心脳問題の第一人者なのである。
しかし、デネットは決して二元論を認めないし、脳から独立した精神実体としての心の存在も認めない。
むしろ、彼は自我と意識の存在を脳内認知モジュールの複合的情報処理の過程に向けて消去しようとする、消去主義の第一人者なのである。
それはまた機能主義とも呼ばれるが、そうした立場を堅持しつつ、実体としての心を行動や情報処理の過程へと解体することが、彼にとってまさしく心身問題ないし心脳問題を解くことなのである。

以上のように、心脳問題は「心と脳は別次元の存在だ」などということを証明しようとするものではなく、心と脳の関係を脳科学や認知科学と対話しつつ、人間的現実に照らして解明するものなのである。
この意味で、心脳問題は心脳関係論と言った方が誤解を免れやすい。

精神医学と心脳問題の関係を理解する際、まず心脳問題が上述のような心脳関係論であることを銘記しなければならない。
しかし、多くの人は(哲学的)心脳問題と聞くと、「精神は脳に還元できない」という二元論的思想をイメージしてしまう。
また逆に、多くの人はフォーク・デュアリズムとでもいうべきものにどっぷりと浸かっており、心と脳を漠然と二元論的に理解し、「心は心。脳は脳」というふうに考え、心的次元と物質的次元の統合的次元などという高尚な問題には目を開けない。
私の授業に出ていた学生の多くは、「(内因性)精神病が脳の病気なのか、心の病気なのか、ということは、前世期から繰り返し論じられてきたことだ」という文章に対する感想として、「精神病が脳の病気なのか、心の病気なのか」ということは考える必要がない、脳の病気である精神病と心の病気である精神病をケースバイケースで取り扱えばいいじゃないか、と書いていた。
このような無手勝流の意見は多くの素人にみられるものである。
問われている「内因性精神病」つまり統合失調症と躁うつ病(双極性気分障害)は「心因性」の精神障害と「外因性」つまり身体因性の精神障害の中間にあり、それこそ心的病と脳的病気の中間ないし両義性という性格をもっているのである。
だから、それが「脳の病気なのか、それとも心の病気なのか」と問われるのである。
ところが、学生や素人は、この三区分(心因性、内因性、外因性)を度外視して、「心か脳かのどっちかにしてくれ」という二分法的思考に奔ってしまう。
これでは、心と脳をシステム論的に統合しつつ内因性精神病(狭義の「精神病」ないしthe 精神病)の本質を理解しようとする意図など、皆目見当つかないことになる。

精神医学と心脳問題の関係を理解するためには、あるいはその理解を実り豊かなものにするためには、以上のことを銘記しなければならない。
「脳と心」「意識と脳」「自我と脳」「精神と脳」といった脳科学の最高の問題は、実は精神医学との対話において深められ、実り豊かなものとなるのである。

またしても長くなりすぎたので、続きは次の記事に書くことにします。


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精神医学と心脳問題(続)

2012-09-19 09:52:58 | 精神医学

1950年代にクロールプロマジンという統合失調症の薬が登場して以来、精神医学は薬物療法全盛期を迎えた。
それまでは、電気ショック療法やインシュリン・ショック療法や精神外科(ロポトミー)しか手の打ちようがなかった統合失調症が薬で改善するようになったのである。
その後、レボメプロマジン、ハロペリドールなどの抗精神病薬が次々と生まれた。
これによって、統合失調症の幻覚妄想、興奮、乱暴などはかなり抑え込まれた。
しかし、精神療法との併用はあまり顧慮されず、薬漬けという状態であったことは否めない。
また、初期の薬は副作用も強く、興奮は治められたものの、精神機能の修復と社会生活技能の向上は置き去りにされた。
これに陰性症状が加わると、患者はいわゆる廃人状態で、一生精神病院で暮らす羽目になった。
この傾向は大分改善されたが、今なお残っている。
特に、今50-60歳以上の入院患者は、初期の治療がお粗末だったので、ホスピタリズムに陥っている。

その後、新世代の非定型抗精神病薬が開発され、副作用が改善されるとともに、効き目も増した。
リスペリドンなどがその代表である。
リスペリドンが出たときは、これで統合失調症は治る、と医療関係者の間で騒がれたが、やはり期待の6-7割の成果しかあげていない。

抗精神病薬は患者の脳内の神経伝達物質の量を調節することを主たる薬理作用としている。
どの神経経路に作用するかも重要である。
統合失調症は基本的にドーパミンという興奮性の神経伝達物質の過剰が関与しているとみなされている。
初期の抗精神病薬はどれもドーパミンの過剰伝達を抑えるものであった。
その後、ドーパミンだけではなく、グルタミン酸やセロトニンやノルアドレナリンなどの伝達物質も関与することが分かり、それらの伝達量を調節することに眼目が置かれ始めた。
その際、ドーパミンを全面的に抑え込むのではなく、少し流して、他の伝達物質との連携を向上させようとすることに眼目が置かれた。

単純頭の人や還元主義の信奉者は、脳内の神経伝達物質の異常が精神病の原因なのだから、その特定と選択的薬物療法の精密化さえできれば、精神病は治療できると考えるであろう。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さないのである。
そもそも、統合失調症はドーパミンその他の伝達物質が「原因」となって引き起こされるものではない。
それらの伝達物質は病状の進行や治癒の過程を修飾する因子なのである。
しかし、分かりやすく、実証的に定量化して捉えやすいので、クローズアップされやすいのである。

もっと大きな神経システムないし心的システム、いや生活システムが統合失調症の発生と悪化、そして寛解・治癒の中核を担っている。
それには遺伝子も関わっている。

もちろん、統合失調症患者の脳における神経細胞の脱落とそれによる委縮、その部位にかんするデータは前から出ている。
しかし、それは粗大なものではなく、患者によってばらつきがある。

一体、統合失調症の原因は何なのであろうか。
古くから脳病理学のデータを無視した心因論は多々あった。
心因論の信奉者は脳ではなくて精神自体が病んでいるのだと考える。
この傾向は、精神分析学者や精神病理学者などのインテリ層からど素人にまで及んでいる。
医学部を出た心理派の精神科医は脳や薬理にも通じているから、その心因論は穏当だが、ど素人の心因論は目も当てられない。

とにかく、古くから「精神病は脳の病気なのか、それとも心の病気なのか」という議論は尽きないのである。
これは哲学上の心脳問題に関わる事柄である。
多くの人は単純な二分法を好むので、心脳問題といった屁理屈庭関わらずに、脳か心かのどっちかにしてくれ、と吠える。
心脳問題とその祖先である心身問題は、よく不毛だと言われる。

心は脳の機能、それでいいじゃないか。
わざわざ心脳問題など考える必要がない、というわけである。
しかし、精神病の難治性に直面すると、やはり了解と説明の関係に定位した心脳問題に関する熟考の必要性を感じる。

またしても長くなったので、続きは次の記事に譲ります。


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ようやく涼しくなりそうだ

2012-09-19 08:21:21 | 日記
昨日の夜からの雨でようやく涼しくなりそうだ。
気分がいい。
しかし、今年は東北と北海道も9月がずっと暑かった。
暑い夏の後には大地震がある、というジンクスがあるが・・・・
北海道の太平洋側から青森県にかけて危険が指摘されてるからなー。

日本は試練の時期を迎えつつあるな。

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生活保護の不正受給

2012-09-16 16:50:27 | 社会・政治

前の記事の追加。

最近、生活保護の不正受給が増えている。
隠れて仕事をしつつ、生活保護を受けているのである。

最近のワーキングプアの月収より生活保護の支給額の方が高いなら、わざわざ働かないで生保に移行しよういうわけである。
これこそ「いい人をやめれば楽なる」の典型じゃないか。

その他の例。
医療ドラマ『白い巨塔』で戝前教授の誤診と殺人を批判し患者側の証人となった里見助教授と柳原医局員は、あくまでいい人を貫いた。
そして、大学を追われた。それに対して、医学部の隠蔽工作に協力した医局員たちは、いい人をやめたがゆえに、大学に残り、将来安泰となった。
しかし、その後戝前は自ら癌に罹り、死んでしまう。そして、戝前派の医局員たちは路頭に迷う。
といっても医者だから何とかなるのだが、おちぶれることに変わりない。
もう一つの例。
福島第一原発の安全ケアを手抜きし、社員の福利厚生と経常利益向上を第一に考えていた東京電力の幹部と管理職の連中。
彼らはいまだに福島の人たちのことよりも自分たちの保身を優先的に考えている。
彼らもまた、いい人をやめれば楽になる、という信条によって動かされている。
しかし、その姿勢は結局は身の破滅をもたらすのである。
東京電力の内部で会社の方針を批判したら間違いなく左遷か解雇であろう。

くだらねー
つまんねー
みっともねー

こういう連中に今、自然の脅威が襲い掛かりつつある。
いい人をやめれば楽になる、とかほざく前に、少しは自然と人間の共存、労働の意味、貨幣の無意味、経済優先の弊害について考えやがれ。


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いい人をやめると楽になるのか

2012-09-16 16:29:38 | 日記
最近書店で『いい人をやめると楽になる』という本が目につく。
前からこの種の本はあったと思うが、最近また増えたようだ。

いい人をやめると本当に楽になるのか?
くそまじめや頭でっかちが嫌だとか、要領のいい世渡り上手になりたい、という意味だと思が、軽薄だなー。

まず、世の中、いい人と悪い人にきれいさっぱり二分されるわけではない。
また一人の人間の中にもいい人の部分とずる賢い部分が共存している。

はっきり言おう。
競馬場や歓楽街にたむろしたり、ネットカフェで寝泊まりしたり、ホームレスになったりしている人たちに「いい人」はいない。
真面目に生活設計を立てて、そこそこ他人に尽くしてきた人たちは、そういう境遇には落ちない。
上記の人たちは、いい人をやめたからこそ、生活が苦しくなり、悲惨な状態になったのである。

もう一つ。
振込詐欺で荒稼ぎしている奴らはみな、いい人をやめて楽になろうとしたのである。
もう一つ。
今国民的問題になっている「いじめ」も、いい人をやめて楽になろうとする姿勢の産物である。
いじめる生徒も黙認する教師も隠蔽しようとする学校や教育委員会もみなそうである。

これでもなお、いい人をやめて、快楽主義を野放図に肯定しようとするのか、アホ!!

とにかく野放図な楽天主義と軽薄な性善説は捨てて、もっと人間の本質を深く見つめる必要がある。
そのためには、意外だが太宰治の『人間失格』が役に立つ。
『走れメロス』と『人間失格』を合わせて読むと、もっと効果的である。

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男前の哲学者

2012-09-16 09:30:38 | イケメン

男前の哲学者と言って、まず思い浮かぶのは、ルソー、ウィトゲンシュタイン、キルケゴールなどである。
カントも知的で端正だが、いかんせんセクシーさがない。
女たらしのルソーとホモだったウィトゲンシュタインが双璧だろうか。

日本の作家の方が分かりやすい。
イケメンだった人は多い。
有島武郎、太宰治、芥川龍之介、五木寛之、志賀直哉などである。
三島由紀夫に関しては賛否が分かれるであろう。

男前やイケメンだったから、その威光で、その七光りで、作品や業績の評価が増幅されるわけではないが、イメージは格段に良くなる。

そもそも名著を遺した天才は、その肖像とともに後世に伝えられるからね。

ちなみに、有島は女に超絶にもてたが、ホモからの誘惑もすごかったらしい。
また、本人は面食いで、奥さん、心中した愛人は美人で有名だった。
しかし、彼が良心的な人であったことには変わりない。
彼の肖像は大学教授兼作家として威厳に満ちている。
晩年は禿げたが。


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