心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

不眠症の睡眠時間は実質ゼロである

2015-07-04 10:29:43 | 心と身体

私がある人に一か月ほど一日三時間以下しか眠れなかったことがあった、と言った。

すると、その人は「人間って一日に二時間眠れば死なないんですよね」と話していた。

二時間熟睡して、その他の時間にうとうと居眠りしていれば、そうだろう。

芸能人とかで一日三時間睡眠という人は、だいたいそうである。

しかし、睡眠は時間だけではなく質も問われる。

浅い睡眠が延々と続くうつ病や不眠症の睡眠時間は実質ゼロとみなせるほどである。

過眠症とも言われるが、実はまともな睡眠時間はゼロなのである。

まさに「不」眠症である。

一日二時間睡眠vs.ゼロ睡眠である。

ところで、睡眠しないとなぜ死ぬのだろうか。

身体の生理機能が維持できなくなるからである。

精神的苦痛だけではないのである。


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語学は脳に悪い

2013-02-22 15:37:25 | 心と身体

修士課程の大学院生のとき哲学専攻だったが、一科目だけ心理学の授業があった。

担当の教授は教育学科の心理学専攻の学者で、創造性の研究をしていた。

その先生ははっきり言って嫌いだったが、一つだけ気に入った発言があった。

それは「語学の勉強が創造性や独創性の足かせになる」というものである。

具体的には「英語やドイツ語の原書を読んでいるよりも日本語の本を多読した方が創造性の実現に導き、独創的研究を実現しやすい」ということを言っていた。

また「外国語の原書を読んでいるうちにノイローゼになって、研究が停滞し、論文が書けなくなる」とも言っていた。

日本の哲学教育は原書購読が中心であり、研究は大哲学者の思想解釈、哲学書の翻訳、文献理解がほとんどである。

博士論文から啓蒙書まで90%以上がこの傾向に彩られている。

語学は二か国語にしぼり、原書購読はほどほどにした方がよい。

日本語の本を多読しつつ、思索を深め、論文を量産しているうちに、自分のスタイルが身についていくのだ。

また哲学者は専門バカになることだけは避けなければならない。

哲学以外にも心理学、生物学、社会学、物理学、医学などの経験科学に目を配り、文学からも学んだ方がよい。

日本の哲学が欧米に追い付けないのは、語学重視、原書購読重視の教育姿勢と主体性を欠いた客観主義的思想解釈という研究態度のせいである。

欧米人は語学の勉強に時間を割くことなく、哲学に没頭できるのだ。

語学のために脳を使い、その結果哲学的事象と哲学的問題に関する論理的構想力を司る脳の神経システムがひ弱になっているのだ。


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性同一性障害をめぐる心脳問題

2013-02-13 15:35:31 | 心と身体

今朝、NHKで性同一性障害について討論番組をやっていた。

そのなかでナレーターが「性同一性障害は医学的疾患なのでカウンセリングや心理的治療では治りません」と言っていた。

また、招待された精神科医に対して女性タレントが「性同一性障害の男性は脳の障害によって自分を女性と確信してしまうのでしょうか」と問いかけていた。

それに対して精神科医は、頭の当たりを抱えるようにして、「脳ではなくて、その・・・・、心がそう感じるのです」と答えていた。

ここに問題が潜んでいる。

それは心身二元論のパラダイムでは、ある疾患が医学的なもの、つまり身体的ないし生理的なものだとしたら、それはカウンセリングや心理療法の枠外のものである、と決めつけられるということである。

また、最近の脳科学ブームによって心はすべて脳の働きであるという俗説が流布しているので、医学的疾患と聞くと脳の障害だと思い込んでしまう傾向が強い。

どちらも軽薄な考え方である。

医学的疾患ないし脳の障害だからといって、それにカウンセリングや精神療法が不必要だということにはならない。

また、「心」は脳の機能だけから発生するものではなく、人間各自が世界の中で身体を働かせつつ生きていくことの中で生じる生命的認知感情システムである。

だから、精神科医は苦悶しながら「脳ではなくて、その・・・・・、心がそう感じるのです」と答えたのである。

この場合「心」は物質や身体に対置された非物理的精神実体を意味しない。

それは、身体と対人関係と生活状況と履歴すべてを含んだその人の「世界内存在」の経験を指しているのである。

そして、その経験の一契機として脳があるのだ。

性同一性障害には遺伝子の変異や脳機能の障害が関わっていることは確かである。

しかし、人間は社会の価値観の中で生きる対人関係的存在である。

だからカウンセリングや心理的配慮も必要なのである。

心と脳の関係を考えるには常にフレキシブルな思考態度が要求される。


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心の岸辺に赤いスイートピーは咲くのか?

2013-02-11 19:41:40 | 心と身体

松田聖子のヒット曲に『赤いスイートピー』(1982)というのがある。

その曲の歌詞のなかに「心の岸辺に咲いた赤いスイートピー」というくだりがある。

文字通りに受けとる人は「心の岸辺」ってなんだ、心に花が咲くことなんてあるのか、と疑問に思うであろう。

しかし、ほとんどの人はこの歌詞の部分を自然に聴き流し、曲に酔う。

もし、デカルトの心身二元論を採用するなら、心は延長(空間的物体性)をもたない思惟実体なので、心に岸部などあるわけがないし、ましてやそこに花が咲くことなどありえないことになる。

それでは、なぜほとんどの人は「心の岸辺に咲いた赤いスイート゜ー」という歌詞に違和感をもたず、曲として享受するのだろうか。

それは、実は「心」が、デカルトの考えるような思惟実体ではなく、世界の情報構造だからである。

より詳しく言うと、それは世界の情報構造の統覚的内面化なのである。

それゆえ、「川の岸辺に咲いた赤いスイートピー」という空間的事象はそのまま心的イメージとして表象されるのである。

心は決して物体や物質と断絶した非物理的精神実体ではなく、世界へと延び広がり、そこから情報構造を内面に統覚的に摂取する生命的現象なのである。

そもそも自我の統覚作用は、我々人間が世界の中で生きていくことのなかで実現する、情報の生命的統制なのである。

簡単に言おう。

「心」とは「川の岸辺に咲いた赤いスイートピー」そのものなのである。

そして、それは比喩などという生易しいものではなく、厳然たる事実である。

それゆえ、件の歌詞には何の不自然さや不合理性もない。

むしろデカルト的に、そんな表現は心の物体化であり不合理だ、と主張する姿勢こそ心の生命的自然(nature:本性)から疎外された不自然で不合理なものなのである。

 

これがまさに心の岸辺に咲いているのだ!!


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意識と身体、そして格闘技

2012-12-16 12:09:50 | 心と身体

前に書いたように香港のアクションスターのブルース・リーは大学で哲学を専攻し、それを彼なりに武術に応用していた。

彼が創始した格闘技ジークンドーは、東洋的「無」の概念の根差したもので、身体と精神の統一を「自然」に基けるものであった。

武道や格闘技においては、単に怪力を瞬間的に発揮するだけではだめで、心・技・体の統一性に基づいた力の配分とスタミナの維持が要求される。

そして、これを可能ならしめるのが生命的自然に直結した「意識と身体の統合」なのである。

ブルース・リーの場合にそれは東洋的無に根差した「自然体」の技として実現した。

メルロ=ポンティが強調した「生きられる身体」という概念は、こういうところでも役立つと思う。

身体は単に解剖学と生理学と分子生物学が解明する有機物質系ではなく、意識と一体となった「運動体」ないし「世界内属的行為体」なのである。

このように理解された身体性は、格闘技やスポーツのみならず、肉体労働や日曜大工や登山やハイキングやランニングでも体験されるものである。

とにかく、「意識と身体」という問題は極めて奥が深く、この意味を体得したもののみが、格闘技やスポーツにおいて成功し、日常生活においても健康を維持できるのである。

そして医学にも貴重なヒントを与える。

特に心身関係、心脳問題が懸案となる医学の分野に。


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うつ病の食事療法

2012-09-12 08:28:24 | 心と身体

今NHKでうつ病の食事療法について紹介していた。
うつ病の治療は抗うつ剤服用と休養が旧来の第一選択肢だが、食事療法も効果があることが認められていた。

出演者のタレントが「心は脳にあり細胞でできているから、食事や栄養が関与するのは当然だ」と言っていた。
少しナイーヴな発言だが、大枠では正しい。
従来の心身二元論や精神主義的考え方では、うつは精神力によって治すものと誤解されがちだが、あくまで身体の病と捉えた方がよいのである。

アリストテレスは心(プシューケー)の基本性質として第一に「栄養摂取能力」を挙げていた。
これは植物的心と動物的心と人間的心のすべてに帰属する生命的基本性質なのである。


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