心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

意識と生命

2017-03-29 00:24:43 | 脳と心

アメリカの心の哲学の第一人者ジョーン・サールは生物学的自然主義の立場から、意識が呼吸や消化や光合成と同様の生物学的現象であると主張している。

つまり、意識はデカルトが想定したような非物質的実体としての魂の働きではなく、脳の生理的機能だというわけである。

しかし、サールは唯物論をけっして認めないので、意識を脳の神経生理学的過程や計算論的過程に還元してしまうことはない。

なぜなら、意識には「私」ないし自我という主体があり、その一人称的な現象特性はけっして三人称的な生理学的過程に還元できないからである。

それでは、そうした還元不能な意識は脳の神経生理学的過程から二元論的に分離されるべきなのであろうか。

けっしてそうではない!!

たしかに、脳の物質的組成や生理的過程や計算論的システムは外部から客観的に観察され、データ化しうるものだが、自我に代表される意識の主観的特性は内側から当人のみが確認しうるものである。

しかし、だからといって脳と意識が二元論的に分離されることはない。

意識と脳の間には「創発」の関係があるのだ。

脳の要素的研究では知りえない「脳の自己組織化的全体特性」があり、この全体特性は神経科学と認知科学の守備範囲を超えているのである。

しかし、この「脳の自己組織化的全体特性」はけっして超自然的なものではないし、科学の限界を示唆するものでもない。

それは、還元主義的科学の分析的手法によっては捉えられないが、システム論的科学の創発概念によって把握可能な生命現象なのである。

脳は脳単独で機能するものではなく、身体に有機統合され、環境と交互往還的に(注)情報処理活動を行う、人間の生きた情報処理システムなのである。

それゆえ、脳と意識の関係の考察は常に身体と世界という要素を顧慮してなされなければならない。

要するに、意識とは脳をもった人間が世界の中で生きていくことの中で実現する「生命と情報の自己組織化活動」の自己集約化として主体的生命現象なのである。

そして、その主体としての「私」はけっして神秘的なものではなく、他者とのコミュニケーションから生まれる社会的現象である。

それゆえ、それは唯一無比のものではなく、他者との社会生活を円滑にするための「道具」なのである。

他者が道具なのではなく自分が道具なのである。

 

(注) この「交互往還的」ということが内部と外部、主観と客観の二元対立の克服を示唆する。ハイデガーの世界内存在の概念やジェームズの純粋経験の概念はその見本である。


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自覚しているときの脳の状態

2016-07-16 20:03:46 | 脳と心

我々は普段とりたてて自己を意識するときはないが、自己の意識や思考や記憶や表象内容に注意が向かうときがある。
そのとき「意識の内容」とそれを対象化的に観察・スキャン・分析していてる「意識の主体」があるように思える。
「思考の内容」に関しても、「記憶の内容」や「表象の内容」に関しても同様である。
さらに、「私」がこれらを総じて対象化しつつ観察している「意識の主体」である、という「自覚」の感覚もある。

人間の脳が並列分散型の情報処理を行い、諸々の認知・知覚要素を自己組織化的に統合しつつ、意識と行動の統一性にもたらしていることはよく知られている。
問題は、この脳の神経システムの自己組織化的統合作用が、どうして「私が意識の主体である」という高次の自覚的感覚を伴うのか、ということである。
これを旧来の心身二元論によって説明しても無意味である。
それは問題からの逃避に過ぎない。
高次の統覚的自覚の感覚は、あくまで脳の神経システムの機能なのである。

その際、脳は機械装置のように、外界に対して閉じた因果系として理解されてはならない。
脳は身体に有機統合され、環境および他者と相互作用する生命的情報システムなのである。
前頭連合野と大脳辺縁系の連携を中核とした脳の自己監視システムは、脳内で完結する閉鎖系ではなく、環境世界と相互作用する開放的情報システムなのである。
それは人間という社会的生物が他者と交渉しつつ生活するうえでの生命的認知情報システムである。

それゆえ、もっぱら脳の神経システムの中に経験の主体ないし意識の主体としての自我のありかを求める姿勢は必ず挫折する。
自我は脳に局在化されずに環境へと延び広がった生命システムないし社会的存在なのである。

そもそも最近の脳科学は「社会脳」という概念を重視し、脳をもっぱら生物学的ないし生理学的存在としてではなく、社会的存在としてみることを推奨している。

とにかく、自己の意識すら対象化する高次の精神現象としての「自我」という観念に囚われて、自我を脳の外の非物質的次元へと引き込んで理解してはならない。
また、自我を脳の内部に還元し解消してもならない。

「私」という感覚、つまり自我は、最終的には個体性と人称性を超えた自然的心の産物なのである。

このことを新著『創発する意識の自然学』は扱っている。
また、この問題意識は『自我と生命』→『心の哲学への誘い』→新著と受け継がれてきたものでもある。

「自覚しているしているときの脳の状態」は、また改めて深く掘り下げて考察しなければならない問題である。


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リベットに自由意志はあったのか

2014-11-22 08:57:59 | 脳と心

神経科学者ベンジャミン・リベットは我々が自由意志を発動する0.5秒前に大脳の補足運動野において準備電位が高まっていることを実験の結果明らかにした。

この実験結果は、我々が有していると信じている自由意志が幻想であり、我々は神経ロボットであることを意味する、という解釈がある。

このロボット説に反発するのは、二元論者、精神主義者、現象学者などである。

そもそも自由意志、あるいは自由とは何であろうか。

「自分が生理的プロセスや遺伝子によって操られた機械であることを否定する原理」あるいは「そのように主観的に確信すること」であろうか。

そもそも自由か非自由かというジレンマが間違っている。

我々は半分自由で半分決定論的なのだ。

まぁ、それはいいとして、もしリベットの実験結果から自由意志否定ないし決定論を帰結させようとするなら、提案者リベットの自由意志も当然否定されることになる。

なるよね。

じゃあ、リベットも自己の脳の生理的プロセスに操られて件の実験を行ったのだから、その提案も結論もリベットのものではなく特許も彼には帰属しないよね。

しかし現実には彼は大見得を切って実験結果と学説を公表した。

じゃあ、やはり自由意志らしきものはあるんだ。

そう、半身を決定論と生理に浸した自由意志がね。

このことを突いた解釈はあまりないような気がする。

 

まだ、私自身の考えが整理できていないので、詳しい考察はまた後で、改めてします。 

とりあえず下條信輔訳『マインド・タイム 脳と意識の時間』(岩波書店)を読んどいてください。

私も熟読します。


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脳の社会的相互作用

2014-05-02 15:27:31 | 脳と心

近年、脳科学は脳をもっぱら生物的ないし生理的存在として理解することをやめて、それを社会的存在として把握することを目指している。

生物の脳は、進化の過程で神経系が中枢化を推し進めて出来上がった情報処理器官であり、それは生ものの生理的臓器でもある。

人間の脳は、あらゆる生物の脳の中で最も大脳新皮質の割合が大きく、思考と記憶と意識の力において群を抜いている。

脳の内部での神経的情報処理は、神経細胞間の電気化学的信号伝達によってなされるが、その情報処理を促すのは脳の外部の環境世界からの情報入力である。

人間の脳を構成する約1000億個の神経細胞の核の中には遺伝情報を含んだDNAがあり、それによって脳内の情報処理の先天的基盤が形成されている。

この先天的基盤がないと、1+1=2も「右の反対は左」も甘いも辛いも大きいも小さいも暑いも寒いも分からない。

しかし先天的基盤だけでは意識に代表される心的機能は生じない。

心が生まれるためには先天的基盤に加えて外界からの情報入力が必要なのである。

外界からの情報入力には、自然的環境からの感覚的-知覚的情報、社会的環境からの人間関係的情報があり、後者には他人とのコミュニケーションが含まれる。

我々の脳は、乳幼児期から学童期、思春期、青年期にかけて他人とのコミュニケーションを繰り返しつつ、次第に熟成してゆく。

もちろん先天的基盤があるので、全く他人と交流しなくても、動物的な知覚と行為の能力を脳は獲得する。

しかし、言語や自己意識は他人とのコミュニケーションなしには決して生じないのだ。

前世期の中頃から急成長した脳科学は、主に成人の脳の生理的情報処理の機能に着目して研究を進めてきた。

その際、「単独の脳の神経システムにおける情報処理からいかにして心的現象がうまれるか」ということが眼目であった。

この「単独の脳」という点は何気ないが、実は注意が必要であり、落とし穴を示唆している。

医学と生物学は人間の身体の構造と機能を探究する際に、まず個体内の単独の臓器や組織を探索する。

それから、臓器間の、あるいは生理的システムにおけるそれらの位置づけを探る。

そして、全体像を得ようとする。

脳の研究もそうであった。

しかし、脳はあらゆる生体器官の中で最も環境世界へと開かれ、それとの強い関係性において構造と機能が出来上がっている。

また、脳は他人の脳との社会的相互作用なしにはけっしてその本来の機能を獲得できない。

それゆえ、脳の機能の本質を捉えたいなら、とりわけ繊細な自己意識や美感を脳の神経システムがいかにして実現できるかを知りたいなら、

単独の脳を調べているだけではだめで、複数の脳の社会的相互作用が個体の脳の機能にどのようにフィードバックするかを解明しなければならない。

つまり、脳の物質的組成や神経的情報処理の様式を調べているだけでは、脳を生理的機械とみなすに等しく、社会的存在としての脳という観点が抜け落ちてしまうのである。

これは、脳科学の合間に社会心理学でも勉強していればよい、というような悠長な話ではない。

脳科学の中核に「社会的相互作用」という観点を据えて、脳の神経システムが環境世界と相互作用する様式を「心の社会の脳内実現」として捉えてゆかなければならない、

ということを言いたいのだ。

 


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自閉症がMRIで診断可能に

2013-10-27 09:07:52 | 脳と心

一般に「自閉症」は性格の問題とか心の病と思われており、親のしつけが原因だなどと誤解されている。

それはまるでダウン症が親のしつけが原因だと言うに等しい。

また癌が先祖の祟りだと言うに等しい。

どちらも前近代的な迷信である。

自閉症(発達障害)は、先天的脳障害なのである。

それが最近、MRI(磁気共鳴画像法)によって診断可能となった。

次の記事を参照されたい。

http://news.ameba.jp/hl/20131026-160/

また、この記事に対するコメントにもある通り、「自閉症が脳の障害だとは知らなかった。心の病だと思ってました」という意見は驚くほど多い。

また「自閉症」という言葉自体が誤解を招きやすい。

この言葉は、社交嫌い、人間嫌いの変人に対しても使われるからである。

おそらく、「自閉症」という言葉は、「精神分裂病」や「痴呆」と同じように近いうちに消え、「発達障害」になるであろう。


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脳と精神の間としての自我

2013-08-30 00:27:49 | 脳と心

歌手の宇多田ヒカルの母親の歌手・藤圭子が先週自殺した。

精神病だったらしい。

精神科医の和田秀樹さんは「統合失調感情障害」が疑われると分析していた。

 

これに触れ、またこのブログの過去の記事を読み返しているうちに、「自我と脳」の関係をまた深く考察したくなった。

自我と脳の関係を神経哲学の立場から考察したいのである。

私がたてた神経哲学は認知神経哲学と臨床神経哲学の二部門から成り立っている。

この両側面から自我と脳の関係を徹底的に論じたいのである。

その際、「脳と精神の<間>としての自我」という観点が基幹となる予定である。

自我と脳の関係は脳科学と心理学と哲学の共通テーマであり、心脳問題の核心に当たる。

かつてジェームズがこの問題に取り組み、ポパーとエックルスが大々的に論じた。

非常にポピュラーな問題であると同時に最も難解で深遠なこの問題にどう取り組むか。

答えは出るのか。

否、そんなことはどうでもいい。

死ぬほど興味のあるこの問題と徹底的に格闘したら、ノーベル賞も夢ではなかろう。

否否、とにかく面白いからのめりこむのだ。

 


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「脳が分かれば心が分かるのか」という主張の真意

2013-08-15 09:58:54 | 脳と心

この主張の真意は「脳と心は別の存在次元にある」とか「心の本質は物質としての脳と関係ない精神的なもの」だとかいうことと全く関係ない。

消費税の増税が心に及ぼす影響は誰もが実感しているが、脳と心の関係を考える際にはそのことはあまり顧慮されない。

とかく政治経済に関する事柄は「心」の概念として重視されない。

こういう神秘性の全くない生活的な事柄こそ「心」ないし「意識」の核心を構成してるんだけど・・・・。

「心」は政治経済的、歴史的、風土的、IT企業的、交通信号的、東京メトロネットワーク的なのだ!!

ちなみに東京メトロネットワークとか山手線とかなんとかの23区の複雑な鉄道網って、

脳の神経回路網と似てるよね!!

東京都にも心や意識があるんじゃないの?

ここらへんに考えるためのヒントがありそうやね。

 さあ、脳科学の本をまた読まなくちゃ。←こころらへんが二元論者や反脳科学主義者とちがう と・こ・ろ

 

 


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山本貴光・吉川浩満『心脳問題』を買った

2013-08-15 09:28:57 | 脳と心

2004年6月に出版された山本+吉川著『心脳問題 「脳の世紀」を生き抜く』(朝日出版社)をアマゾンのマーケットプレイスで350円で買った。

「脳が分かれば心が分かるのか」をスローガンとしたこの本は、脳科学の限界を「心」の概念を分析しながら論じたものである。

前から概要は知っていたのだが、この本には私の2001年の『脳と精神の哲学 心身問題のアクチュアリティー』(萌書房)の影響が表れているように思えてならない。

少なくとも触発しているだろう。

この本の参考文献表には私の『脳と精神の哲学』は掲載されていないが、山本と吉川のHP『哲学の劇場』だったかどこかに2004年の8月に「『脳と精神の哲学』に続く河村氏による心脳問題の書第二弾」として、その年の6月に出版された『意識の神経哲学』が紹介されていた。

とにかく『心脳問題』は脳をめぐる科学と哲学の対話に大変な波紋を投げかけ、今日まで影響を遺している。

一部には心脳問題は不毛だと主張する人もいるが、脳還元主義は年ごとに勢力を弱め、「心」の概念を脳を超えて自然的世界、環境世界、社会の情報構造へと拡張して理解する傾向が強くなってきている。

これに合わせて脳科学では「社会脳」の概念が重視されてきている。

問題は「心」が脳に還元されない超自然的精神実体だということではない。

そう思われるから、誤解の輪はどんどんひろがるのである。

問題は「社会」と「生活」と「世界の情報構造」というところにある。

「生活世界」である。

「心」はそこに住み着いた生態的現象なのである。

それを脳の神経システムの働きに還元しようとするから、無理が起きる。

心脳問題は、そこに目をつけて、脳を含んだより広大な「生命的情報世界」の中で「脳と心の関係」の再把握を狙っているのである。

まあ、その前に「脳しかない」という能無しの発言を徹底して批判し、同時に「心しかない」という唯識論的主張も粉砕しておかなきゃならないんやけどね。


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脳が分かれば心が分かるのか

2013-04-10 14:58:48 | 脳と心

20世紀の後半、特に終わりの20年は世界中で脳科学の旋風が巻き起こった。

脳科学は次々に脳の神経部位が心の諸要素を受け持っていることを解明していき、人々に「脳が分かれば心が分かる」という信念を植え付けるようになった。

ちょうどその時期、解剖学者の東大医学部教授・養老猛さんの『唯脳論』が出版され、脳科学はブームとなった。

しかし、前の記事にも書いたように、脳科学は心そのものではなくて脳が心の発生に関与する部分を解明しているにすぎない。

それでは、なぜ脳科学があれほどもてはやされ、脳が分かれば心が分かるという詐欺商法を生み出したのであろうか。

それは、古来の精神vs.物質という特異な問題設定のせいである。

古来、精神主義や二元論の信者たちは心を物質の汚濁から離れた神聖なものと受け取ってきた。

そして、これに反発する者は、そうした信念を不合理で非科学的なものとみなし、それと真逆の方向に、つまり唯物論、唯脳論の方向に奔ってしまったのである。

この不毛な二陣営の対立を最終的に乗り越えるものに前世期末の脳科学が祭り上げられたのである。

これは結局は古来の精神vs.物質という間違った問題設定に翻弄されたものであり、精神主義者と唯脳論者の双方が誤った方向に逸脱してしまったことを意味する。

脳が心の発生をサポートしていることに疑いはない。

この点で心を物質的脳から別の存在次元に置こうとする二元論は間違っている。

しかし、脳が行っているのは状態依存的な情報処理にすぎないので、心の本質たる世界の情報構造は脳の神経システムの働きをいくら調べても分からない。

それゆえ唯脳論は間違っている。

繰り返すが、心の真の発生元は、脳の系統発生を可能ならしめたのと同じ根源、つまり世界の情報構造なのである。

これが分からないと、心の本質の解明において脳科学の受け持っている仕事の位置と範囲が分からなくなる。

脳科学は重要な方法であると同時に限界をもっているのである。

このことは最近、脳科学者の側からもさかんに言われている。

それを論じた代表的な啓蒙書として、酒井克之『脳科学の真実 - 脳研究者は何を考えているのか』(河出ブックス、2009年)を挙げておく。

よく、「脳を調べただけでは心は分からない」と言うと、「それは哲学者の思弁だ」とか言われるが、もはやそんな時期ではないのである。

脳科学自体が脳科学の限界と節度をわきまえ始めたのである。

*『脳科学の真実』のアマゾンのリンク↓

 http://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E8%84%B3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%8B-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%9D%82%E4%BA%95-%E5%85%8B%E4%B9%8B/dp/4309624057

 


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心と脳の関係をどう考えるか(初級編)

2013-03-03 16:30:49 | 脳と心

先日、精神病(統合失調症)が疑われる若者の父親から、息子に病院へ行くように説得してほしい、という依頼を受けた。

そこで本人に会って、「その精神症状は薬を飲んで治すべき精神科領域の病気であり、基本的に脳の神経システムの不調だ」と説明した。

しかし本人は、「今行ってる歯医者には抵抗はないが、精神科には行きたくない」と言う。

自分は今たしかに精神的に不安定で幻聴や妄想があるが、それは精神の領域に属すもので薬で治すもののように思えない、というわけである。

そしてはっきりと言った。「精神って非物理的なものでしょう」と。

一体20代の彼はどこからこういう思想を獲得したのであろうか。

精神が非物理的なものであるという考え方はデカルトの心身二元論そのものである。

日本語の「精神」と「心」はほぼ同一の意味だが、「精神」のほうがより人格性や超動物的性格を含意し、「心」はやや機能的意味合いが強い。

それゆえ、自己の尊厳としての精神は物質の汚濁を超えた神聖な領域に属す、と思い込まれやすい。

心に関してもほぼ同様である。

こういうふうに素朴に精神と物質、心と脳ないし身体を別次元のものとみなす姿勢は、哲学的に心身問題、心身関係について深く考えたことのない人に広くいきわたっている。

医学部出身の哲学者ジェームズが言ったように「常識は基本的に二元論的なのである」。

おまけに彼は辛辣にも付け加えた。「通俗的哲学も二元論的である」と。

他方、心身問題や心脳問題に疎い一般人の中には「心は脳の働き以外の何物でもない」とか「心とは脳そのものである」とか「心は本当は存在しない幻想であり、物質としての脳だけが実在しているのだ」といった素朴な唯脳論的観点を保持して自得している人がいる。

彼らはドヤ顔で唯脳論を賛美し、心の存在を脳に還元するか、心の存在を否定する。

一般人に見られる素朴二元論と素朴唯脳論はどちらとも「心」という概念を深く考えることなしに、それを「脳」と同一の存在地平において捉えている(この際、心を精神に置き換えても事情は変わらない)。

まず、「脳」は有機分子によって構成された「質量をもつ物体」つまり「実体」である。

それに対して、「心」は「質量をもつ物体」としての「実体」ではない。

こう言うと、心が何か超感覚的ないし超自然的存在であるかのように解釈する人が多い。 ←ここが実は落とし穴!!

「心が実体ではない」というのはそういう意味ではなくて「呼吸や消化や代謝が実体ではない」というのと同じで生理的自然性を意味するのである。

肺や胃や腸や肝臓は実体だが、呼吸や消化や代謝は生理的「機能」であって、「実体」ではないのだ。

それと同じように、「心」は意識や記憶や感情や知覚によって構成される「機能系」であって、実体としての脳と同一の存在地平にはないのである。

それゆえ、心は呼吸や消化や代謝や排泄と同様の生理的機能であり、生命的機能なのである。

それではなぜ心は他の生理的機能と違って「精神的実体」として受け取られやすいのだろうか。

それは「心」が複数の認知・感情機能を統覚的に統制する「自我という核をもった機能的現象」だからである。

「私」という不動の一点によって統制された機能系としての「心」は、その「存在の重み」感から、容易に非物質的実体として理解されてしまう。

そして、それに反発するものは唯脳論に迎合して、心の本質を生命機能主義的に理解する機会を放棄してしまうのである。

五木寛之に『青春の門』という作品があるが、心脳問題に疎い人の心と脳の関係理解は、まさしく青春の門の前でうろうろしている未熟な青年のようである。

ちなみに、哲学者や脳科学者のなかにもこうした門前でうろうろしているような「カテゴリー・ミステイクおやじ」が沢山いる。

心というものは世界内存在(社会環境と自然環境の中で生き、行動する存在)のプロセス的機能なのであり、それは脳を超えて環境世界へと延び広がっているのである。

また、脳自体が生物進化のプロセスで生物が環境へと適応するためにそのシステムが形成された情報処理器官であり、その神経システムの構築は環境世界の情報構造を内部に移入したものなのである。

それゆえ、脳の神経システムの情報処理様式を調べて分かることは、結局環境世界の情報構造の理解を反映したものであり、脳独自のものはないのである。

環境世界の情報構造という一つの根源から脳と心が生じるのであり、両者の本質と関係を知るためには、心と脳両者の世界内存在の様式を解明し、それを生命論的に統制して理解しなければならないのである。

精神主義者や二元論者は、心を脳の働きとみなすことをカテゴリー・エラーだとかほざくが、彼らが「世界の情報構造への心と脳の等根源的共属性」を知らないのは目に見えている。

精神と脳を別の存在次元に置こうとする彼らこそ、ギルバート・ライルが言ったように、カテゴリー・エラーを犯し、「機械の中の幽霊」という心観に囚われているのである。

そして、最初の話題に戻って言えば、精神病の症状が薬で改善されるということは、心が物質に還元されることではなくて、それが君の世界内存在の生理的機能の一角に作用する、ということを意味するのである。

薬の分子構造はリセプターに作用する「情報」だしね。

あの白い球としての錠剤は単なる物塊ではなくて「情報」なんだよ。

君の人生を左右するような。


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茂木健一郎さんの想い出

2012-12-02 14:07:14 | 脳と心

茂木氏には一度会ったことがある。

日本現象学会のシンポジウム「現象学と脳科学 - クオリアについて」のパネリストを共に務めたときである。

それは2006年11月の雨の土曜日で会場は慶應大学の三田キャンパスであった。

議論は私と茂木氏の論戦となったが、私が提案した「脳科学と現象学の協力による心脳問題とクオリア問題の解決の方向性」が勝利を収めた。

つまり神経現象学による心と脳、意識と脳の関係の解明の方向性が優位を認められたのである。

私はとりあえず現象学会向けの原稿を用意し、これならこの学会の科学音痴の連中でも理解できるだろうと思い、メルロ=ポンティとヴァレラに依拠した論を展開したのである。

実は私はその数年前に現象学会を退会しており、会員ではなかった。

それに、私はそのときわざと雑な原稿を用意し、本番でどういう意見が出るかを楽しみにしていた。

つまり、新奇なアイデアの創発を期待していたのである。

しかも、討論の際には完成間近だった『自我と生命』の内容に関連することを大分話した。

案の定、最後の質問者がドモリ気味にプラグマティズム的意見を述べた。

彼は「意識は他者との共同生活のための道具だ」と叫んだのだ。

これは現象学的意見ではなく、プラグマティズムのそれである。

「現象学会にも少しは骨のあるやつもいるんだ」と感心した。

その後・・・・・、タップアウトしてうなだれている茂木氏を尻目に私は会場を後にした。


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脳と精神

2012-10-12 20:11:27 | 脳と心

脳と精神の関係をどのように理解たらよいであろうか。

精神科に通っている学生で、自分が統合失調症であることを頑として認めたがらない者がいる。
主治医は彼のことを思って病名を伏せ、うつ病であると告げている。
しかし、処方している薬はエビリファイ、ジプレキサ、セロクエルであり、明らかに統合失調症の治療薬である。

この学生は、「自分はうつ病か発達障害であり、統合失調症ではない」と言い、頑として譲らない。

かつて「精神分裂病」という病名だったころ、患者本人に告知することはほとんどなかった。
しかし、「統合失調症」に改名されてから、積極的に告知するようになった。

件の学生の性格からして、パニックを引き起こしそうなので、病名を伏せているのであろう。

それよりも問題なのは、学生が「俺は脳の病気であって、精神の病気ではない」と主張する点である。
もし自分が精神の病気なら、異常者ないし道徳的頽落者だということになり、自己の尊厳が穢される、と危惧しているのであろう。
これは、言うまでもなく無知と偏見に由来する臆見にすぎない。

彼をはじめとして多くの人は脳と精神の関係を二元論的に捉えている。
精神医学的に言うと、脳の病気=精神の病気なのであり、両者の間に断絶はない。
しかし、精神医学と哲学的心脳問題に疎い多くの人たち(医療関係者を含む)は、脳と精神の関係を概ね二元論的に捉えている。
これは唯脳論を主張した養老猛さんにも実はあてはまる傾向だ、と言ったら意外であろうか。

脳と精神は実体的に区別されるものではなく、一つの生命システム(生活者の実存)における二つの側面である。
そして、その二つは説明の文脈において区別され、安易に混同されてはならない。
これは認識論的ないし説明論的区別であり、存在論的ないし実体的区別ではない。
ところが、説明の様式の相違がそのまま実体的区別に置き換わりやすいのが、脳と精神の関係の理解の場面に特徴的なことなのである。

ある現象学専攻の哲学研究者に「精神病は脳の病気だ」と言ったら、彼女は憤慨し、「薬が効くから脳の病気なの?」と言って立ち去った。
明らかに彼女にとって精神病は脳の病気ではなく、現象的精神の病気なのである。
しかし、現象的精神と脳の間に説明様式の区別はあっても実体的区別はない。
脳と精神は一つの根源的存在たる心身的生命システムの二局面なのである。


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自我と脳

2012-08-29 15:26:17 | 脳と心

自我と脳の関係は心脳問題の核心に当たる。
自分で自分の身体を動かし、自分だけの記憶をもち、黙して語らない内面的意識をもっている「私」、つまり「自我」は脳のどの部位に局在化されるのだろうか。
直前に言ったように、自我には身体運動を制御する自由意志、自己同一性に裏打ちされた記憶、他人がアクセスできない内面的意識というものが帰属する。
まだあるが、とりあえず身体運動の制御、自由意志、個人的記憶、内面的意識といった複数の要素から「自我」は成り立っている。

身体を欠いた自我はない。
自由意志の担い手ではない自我はない。
記憶との関係を離れた自我はない。
内面的意識を欠いた自我はない。

とりあえず、これが自我の特性である。
これは人間各自が生きていくための自己統制機能の核を意味する。

かつてヒュームは自我を知覚の束と定義し、単一の形而上学的実体としての自我の存在を否定した。
また、ジェームズは経験の主体を実体ととしての自我ではなく経験それ自身であるとした。

哲学以前の我々の日常的感覚では、「私」はたしかに存在し、意識の内奥から自己の身体運動と知覚作用と思考と意志を統制しているように思われる。
というか、文字通りそう「感じる」。
自我は生活の担い手、責任者、取締役として、要するに「生命の本質」の顕現である。

自我と脳の関係を考える場合、自我が複数の要素の集合体であり、単なる自覚作用に還元できないことを顧慮しなければならない。
「私はほかの誰でもないこの私なのだ」「我思う、ゆえに我あり」という自覚が自我の本質なのではない。
自我はもっと多元的なシステムなのである。

脳が並列分散型の情報処理を実行しながら、全体としてのシステムの統一を自己組織化的に達成していることは、よく知られている。
個々の認知モジュールとそれに対応する神経モジュールがシステム的に統合されつつ、最終的に自我による統一感を伴った心的活動を発現せしめるのである。

とすれば、脳神経システムの自己組織化的統合作用こそ、自我の統覚的意識の発現元だと言える。
しかも、脳は身体に有機統合され、環境と相互作用する生活的情報システムである。
また、自我は他者、環境と相互作用しつつ自らの活動範囲を周囲世界に投げ渡す、世界内存在ないし社会内生活体である。

自我と脳の関係をとらえる際には、「単一の実体」とそれに対応する「脳内の神経相関項」の関係に着目してはだめで、もっと多元的な対応関係の考察から始めるべきである。
その際、人間の心的システムの自己組織性(MS1)と脳内神経システムの自己組織性(BS2)の生命的統一性を有機体と環境の関係から捉えなければならない。

自我と脳の関係については、後で詳しく考察したい。


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