西丸四方は『精神医学入門』において次のような心因性朦朧状態の症例を挙げている。
「或る鉄道作業員は組合大会でつるしあげられた後失踪し、九日目に帰宅した。ただ汽車に乗っていなければならないという気もちしかなく、大阪、仙台、青森の駅を通ったことは思い出せた。無料パスの自分の名を見て、これは誰だろう、どうしてこんなもので汽車に乗れるのかといぶかったことも思い出せた。このパスでうまく旅行し、食事も摂ったらしてが、このことについては思い出せなかった」。
身体運動がスムーズになされているとき、意識は内面へと向かわず、周囲世界へと拡散される。
つまり、意識のもつ再帰的な働きが抑制され、身体運動を制御するための「覚(awareness)」として機能するのである。
これは、要するに意識が身体のとなり、環境の中で有機体が生命を維持するための道具となる、ということである。
そして、この傾向が極まると「覚」の機能すら消尽点へと向かい、朦朧状態となる。
鉄道員の症例では、意識混濁は目立たないが、意識が狭くなって少しのものだけしか意識されず、過去から現在までの自己の歴史の意識も絶たれ、以前の自分とは連絡のない別の人間になっている。
つまり、注意の機能が、生存を維持するために最低限にまで低下し、行為の主体が自分であるという再帰的意識がほとんどなくなる。
しかし、基本的な社会的行為とそれを可能ならしめる身体運動の空間性は維持される。
件の鉄道員の場合、普段やりなれて習慣として身に付いた「汽車に乗って駅をめぐる」という行為は、滞りなくなされている。
これは、無意識の習慣的身体性のなせる業である。
ただし、ここで「無意識の」というのは、全く意識に上ってこないとうことではなく、意識に上ってきていることが自覚されないということなのである。
換言すれば、普段の我々の意識的行為は注意と短期記憶の数珠つなぎからなっているが、朦朧状態においては注意と連動した短期記憶が現れてはすぐに消え、結果として「短期記憶の速やかな記憶喪失の数珠つなぎ」となってしまうのである。
それゆえ、朦朧状態においても意識は失われているわけではなく、その再帰性と記憶への保存が損なわれている、とみなされるのである。
これは格闘技、特にボクシングの試合中に時折起こることである。
いわゆる「記憶が飛んだまま試合を続け、その経過を覚えていない」という、あの状態である。
以上に述べた「朦朧状態の意識」は決してレベルの低いものではなく、意識の根源的自然を示唆する貴重な現象である。
これを私は2007年の『自我と生命 - 創発する意識の自然学への道』の第11章で論じた。
なお、デネットの『解明される意識』(青土社)とメルロ=ポンティの『知覚の現象学』(みすず書房)も参照されたい。