大宮第二公園にある紫陽花園には数万株の紫陽花がかつて咲き誇っていたが、近年は寂しい様相を呈している。
次の画像は2006年6月の紫陽花園のものであるが、この頃まではこのように多様な色の紫陽花が見事に咲き誇っていたのである。
大宮第二公園にある紫陽花園には数万株の紫陽花がかつて咲き誇っていたが、近年は寂しい様相を呈している。
次の画像は2006年6月の紫陽花園のものであるが、この頃まではこのように多様な色の紫陽花が見事に咲き誇っていたのである。
次の画像は近所の猫である。
この白黒の猫は今頃になると、いつもこのようにエアコンの室外機の上に座っている。
夕方私が通るときたいていいるので、携帯で写すことがある。
人に懐いているので、逃げない。
ちなみに、飼い主はこの室外機のある医院である。
この画像は2011年の8月のものであるが、今日ようやくPCに取り込むことができた。
我々は皆、幸福になりたいという願望をもっている。
誰も好きこのんで不幸になりたがる人はいない。
不運や不遇から不幸に陥落するのである。
しかし、ここで、各人において幸福観が多種多様であり、それと同様に不幸観も違うとことを顧慮しなければならない。
リア充とオタクでは幸福感が大分違う。
知的な人とスポーツマンでも大分違う。
その他、様々な観点から人によって幸福観が違うと言える。
不幸観も同様である。
分かりやすいし指標として着目すべきなのは「欲の深さ」と「道徳意識」である。
欲が深いと幸福の尺度が格段と高くなり、不幸への恐怖心も強烈となる。
高収入のときに多額のローンを組み、リストラされても贅沢癖が治らない人は、自己破産と自殺への道を邁進してしまう。
それに対して、物欲が弱い人は、浮き沈みが少なく、質素に暮らす傾向がある。
カントは「幸福になることを目指さずに幸福に値する人間になることを目指せ」と言ったが、リア充や六本木ヒルズ族には馬の耳に念仏である。
彼らは幻想を追い求め、経済の虚飾を理解せず、自然の恩恵と生命への畏敬の念が欠如しており、そもそも道徳意識が希薄なのだからしょうがない。
不幸な人を救おうとする人はそれだけで幸福なのである。
てゆうか、幸福も不幸も北と南、夏と冬、右と左みたいなもので、単なる区別の指標に過ぎないよ。
また、幸福感は各人の人生観や主観に依存するから、幸福と不幸の対立を乗り越える観点へと、意識を上昇させることを目指すべきだなんだよ。
それができたら、「世界に何が起ころうと私は絶対に安全だ」というウィトゲンシュタインの境地に至ることができるであろう。
また、私が言う「君自身にではなく自然に還れ」という言葉の意味も分かるようになるであろう。
「あまちゃん」で種市先輩(福士蒼汰)がユイ(橋本愛)を初めて見た場面。
狙ってる目つきがいい。
と言うより、アキをカモにしてユイに接近しようとした種市先輩はあくどい。
海女さんたちから「今時珍しい好青年だと思ってたら、とんだタヌキ*だった」と言われるわけだ。
(画像を大きいものに変え、コメントを加えたのでトップにもってきました)。
*タヌキは人をだますという言い伝えがある。
以下にupする画像は2008年の6月の大宮第二公園(さいたま市大宮区)の菖蒲と紫陽花である。
その後、両方とも病気でこのように咲き誇らなくなったので貴重な画像である。
ただし、紫陽花はすでに数が激減していた。
その前の年まではまさに一面に咲き誇っていたのだ。
最後の画像の紫陽花は珍しい種類のものである。
当時私はこの近辺に住んでいた。
私の大学での講義に出ているA君は、この前の中間試験の成績が極めて低かった。
しかし、彼は熱心で毎回講義に出てくる。
ついに最前列に座り、授業中に突然質問するようになった。
彼は「試験で点数を取り、いい評価をもらうことよりも、哲学的に物事を深く考える技能を身に着けたいんだ」と言っていた。
素晴らしい姿勢である。
まったくもってphilosophicalである。
結果として評価はCになるであろうが、A君はそんなことは気にしないであろう。
多くの学生に見習ってほしい学習態度だ。
といっても大人数の講義形式の授業で突然質問するのはマナー違反で、薦められない。
さっきネットサーフィンしていたら慶應大と早稲田大と京都大の楽勝科目の掲示板に行きついた。
2005年~2012年ぐらいの話題だが、各大学とも多数の楽勝科目を抱えているようだね。
最近、各大学では楽勝科目を改善して行こうとする傾向にある。
それにある程度の意味があるのは確かだが、本当は無意味である。
問題は単位認定が楽勝か激辛かではなくて、その講義の内容が充実していて深く、役に立つものかどうかということにある。
そして、その楽勝科目に多数の学生が毎回近く出席して、教養や専門知識を獲得し、新たな勉学の意欲を掻き立て、生活や就職やクリエイティウ゛な活動に結び付けれれば、無意味に激辛な講義の数億倍の価値があると思う。
それは経営コンサルタントの講演を聴きに行く人が、それに自らの会社の命運を賭けるのと同様である。
大学の一般教養の科目は有益な講演を理想とすべきである。
私の授業には一旦単位を取得してもまた出てくる学生がいる。
内容に興味があり、年ごとにテキストが変わるので、わざわざ出てくるのである。
前に3年連続して出ていた学生がいた。
楽勝科目が問題なのは、学生に主体性がなく、単位を取ることだけに関心をもつからである。
ちなみに、東大の医学部や京都大の理学部では講義の出席率が極めて低いらしい。
これは数十年来の傾向であり、日本を代表する俊英を多数輩出したこうした学部の授業に楽勝科目が多数あるということは何を意味するのであろうか。
楽勝科目の排除の裏には、大学側の推薦やAOによる学生の受け入れ態勢が控えている。
地頭のよい学生、基礎学力が高い学生、自主的に勉強する研究の鬼には楽勝科目も激辛科目も両方有益である。
しかし、従来の大学生の学力水準、知能水準を満たしていない学生にとっては、楽勝科目は弊害があるのだ。
そこで教授や講師はしかたなく、単位認定を厳しくしていくのである。
腐敗した政治を打破するために、ついに猫が市長選に出馬した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130618-00000096-reut-int
アラスカではすでに猫の市長が誕生している。
http://labaq.com/archives/51754576.html
もちろん猫には政治ができない。
しかし、腐敗した政治を打破するシンボルにはなれる、という趣旨で擁立されたのである。
40歳以上の人、特に50歳以上の人ならタイトルの意味が分かるであろう。
実は一昨年の大学の哲学の試験でテキスト『意識の神経哲学』の中に出てくるこの英文(?)の意味を問うた。
答えはテキストの中に書いてあるのだが、その箇所を探すのは大変である。
そこで学生は自分流に解釈して答案を書いていた。
たとえば直訳調に「存在をあることは十であり、それがあることである」(笑)と解釈していた。
・・・・・・・
おそらく年配の人は大笑いしているであろう。
これは昭和期の中学英語の初めのころに教師がもちだす「騙し文」である。
to be to be ten made to be
これはそのまま「飛べ、飛べ、天まで飛べ」を意味する。
つまり、この日本文のローマ字バージョンなのである。
ところが、それを知らない人は英文だと思い、なんとか訳そうとするのである。
「あることはあることは十であることであり、それがあることだ」(笑)
おそらく今の中高ではこの騙し文を使わないのであろう。
冗談が分からないのではなく、外情報(exformation)つまり言外の意味、暗黙の了解事項が分からないのである。
それを諭し、分からせるための例文なのである。
建築系の資格の最高峰・一級建築士試験の合格者の出身大学別ランキングは次の通りである。
1 | 日本大学 | 205 |
2 | 東京理科大学 | 101 |
3 | 芝浦工業大学 | 82 |
4 | 早稲田大学 | 82 |
5 | 近畿大学 | 73 |
6 | 工学院大学 | 63 |
7 | 京都工芸繊維大学 | 56 |
8 | 大阪工業大学 | 48 |
9 | 明治大学 | 46 |
10 | 法政大学 | 44 |
11 | 金沢工業大学 | 43 |
12 | 名城大学 | 42 |
13 | 関西大学 | 42 |
14 | 千葉大学 | 42 |
15 | 東海大学 | 42 |
16 | 東京工業大学 | 42 |
17 | 神戸大学 | 38 |
18 | 広島工業大学 | 35 |
19 | 大阪市立大学 | 35 |
20 | 愛知工業大学 | 34 |
21 | 千葉工業大学 | 33 |
22 | 武蔵工業大学 | 31 |
23 | 東京電機大学 | 30 |
24 | 福岡大学 | 30 |
25 | 名古屋工業大学 | 30 |
上位25校のうち18校が私立大学の工学部で占めていることに注目されたい。
このランキングを見ると、偏差値と合格者数が順位的に比例しないことが分かる。
特に東京圏の私立大学の工学部の実績には目を見張るものがある。
受験生は大学を選ぶ際、偏差値や大学のブランドばかり気にしないで、こうした実績のデータを顧慮した方がよいのである。
今日の「あまちゃん」を観て分かる通り、アキは母・春子の教育方針は間違っていた。
てゆうかエゴの塊、自己中、支配欲がばれ、間違いが顕わになったのである。
そして、その決定打を下したのが、春子の母、つまりアキの祖母の思いやりであった。
もともと春子は高校時代どうしようもない不良で、自分勝手に家出して東京でアイドルになろうとして挫折した前科をもっている。
そして、娘のアキをいつも「暗くて、地味で、協調性がない、どうしようもない子」と貶している。
アキのよい面は既に地元で認定されているのに、あくまでその価値を認めようとしない。
これは我執によるものである。
つまり、自分が実現でなかったアイドルへの道への執着心が、アキへの嫉妬心として現れているのである。
はっきり言ってその心性は幼稚である。
それに対して、祖母の態度こそ真の親の思いやり、つまり娘(孫)の「主体性」への信頼心を体現しているのである。
春子は自分の過去を棚上げし、自分の失敗や欠点は無視して、アキを貶してばかりいる。
こんな奴は教育の敵でしかない。
まさしく星一徹の女版である。
既にこのブログ内の星一徹に対する批判の記事へのアクセスも増えているが、改めて閲覧してほしい。
サイドバーの「巨人の星」のカテゴリーからアクセスできます。
この前、東京近辺(さいたま市)に生まれてから40年間住んでるけど、一度もお台場に行ったことがない、という人がいた。
また、もっと前に東京23区(そのときは渋谷区千駄ヶ谷)に30年住んでいて一度もお台場に行ったことがない、という人もいた。
その人に「お台場に船で行くと面白いよ」と言ったら、「はぁ、手漕ぎ船で行くんですか」と聞いてきた。
・・・・・・・・
目が点になったorz
こういう人って意外に多いんだよね。
お台場は東京一の観光地だよ。
ただし行くときは日の出桟橋から水上バスで行ったほうが数倍楽しい。
片道460円な。
JR浜松町駅から15分歩くと日の出桟橋に到達する。
これが日の出桟橋だが、水上バスはこんな立派なクルーズではない。
これが標準的な水上バスだ。
これに乗って約20分でお台場に着くのだ。
途中の晴海ふ頭にはいつも白い船が停留している。
そして、さらに進むとレインボーブリッジが見えてくる。
ブリッジをくぐると数分でお台場に着く。
お台場の船着き場に近づくと美しい造形のホテルが目に入ってくる。
そして、有名なフジテレビ本社のビルが眼前に迫ってくる。
この裏には新しいショッピングビルができた。
これでお台場のSCは三つとなった。
なお、帰りは夕暮れ時か暗くなってから船に乗ると夜景が天国になる。
岩波文庫から熊野純彦氏による『存在と時間』の新訳が全4冊で出る予定で、すでに第1巻が出ている。
私はこれまで翻訳4種類と原書で計20回ぐらい通読しているので(正確には延20回か)、もう読む気はない。
暗記するぐらい読んでいるのだ。
それよりも3年後に完成予定の『存在と時空』のためには、アリストテレスの『形而上学』をもう一度読まねば。
これもこれまで5回通読しているが、もう一度読む。
また、プラトンの『ソフィスト』『パルメニデス』『ティマイオス』、アリストテレスの『自然学』ももう一度読みたい。
さらにメルロ=ポンティの『知覚の現象学』の身体と空間のところも読みなおさねば。
サミュエル・アレクサンダーのSpace,Time and Deityも最近読みなおしたが、まだ後半部を読み残してるし。
ホワイトヘッドの『過程と実在』その他も読みなおさねば。
ということで、『存在と時間』の新訳は無視です。
熊野氏は私と同い年だが、彼は翻訳と哲学史に没頭していて、私は体系的哲学書の創作ないし独自の哲学理論体系の構築に専念している。
ハイデガーが今いたらどっちの姿勢を高く評価するかな?
地位や経歴が問題にならないのは、一生非常勤講師(から私塾経営)みたいなものだったアリストテレスの例をみれば明らかだが。
昨日、電車に乗ってたら竹野内豊の缶コーヒーのポスターが目に入ってきた。
ポスターのデザインがよかったせいもあると思うが、かなりのイケメン度に圧倒された。
竹野内は1971年東京都生まれの人気俳優。
現在、日本屈指のイケメン俳優である。
髭があったほうがイケメン度が増すように思われる。
朝ドラ「あまちゃん」の小泉今日子がうざい。
説教くさいおばさんを演じてきたが、ついに今日はアキを殴ってしまった。
表側は親としての思いやりだが、裏側は自分がなれなかったアイドルへの道をアキが進もうとしていることに対する嫉妬である。
「ひっこめババア」のヤジに対して憤った姿が痛々しい。
春子(小泉)の母親、つまりアキの祖母も春子の態度に呆れていたではないか。
とにかく若い女に対するババアの嫉妬は醜い。
また、体罰への批判が盛んな今の教育情勢からすると、春子の暴力は悪の見本である。
春子の姿勢は星一徹と同様の偽善であり、家族内奴隷制であり、独裁者の態度であり、要するに自己中なのである。
教育の現場からも春子の暴力を批判する声が上がることを期待する。