心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学A1文章講義(第18回)

2020-06-30 11:28:00 | 哲学

「君自身にではなく自然に還れ」とはどういうことであろうか。

 

我々各人は自我と自尊心をもち、誰よりも自分本人が可愛いものである。

また、自己の内面は自分しかのぞき込むことができない自分の秘境である。

「俺の心は俺にしか分からない」「私の心は私しか分からない」と誰もが思う。

自己の内面、内的意識は自分固有ものであり、私らしさの起源である。

そこで、おいおい喧騒に満ちた外部世界に背を向け、自己の内面に沈潜したくなる。

 

ある哲学者は「真理は自己の内面奥深くにある。自己自身に還れ」と主張した。

ある通俗的哲学者がこれを真似て「君自身に還れ」と主張した。

その人は四七歳で腎臓がんのため亡くなったが、死の直前次のように言ったという。

「人は病気で死ぬのではない。生まれたから死ぬのである」。

 

何か一見奥深いことを言っているように感じるが、実は底の浅い詭弁にすぎない。

生命の本質を理解しているなら、自己の心情にばかりとらわれずに、人間の身体の物質的組成と疾病の成り立ちを顧慮して、自己の死について考えなければならない。

自己の内面や心情ばかりに囚われると、生理的因果関係や病理学的メカニズムを無視したくなる。

それは自分の覚悟にとっては有益、というより快適だが、後に病気にかかる人のことを考えると、自己中としか言えない。

 

人は生まれたから死ぬのではなく、やはり何らかの不慮の事故や病気によって死ぬのである。

天寿を全うしたり、大往生したりしたとても、「生まれたから死ぬのだ」などとは言えない。

我々は公衆衛生の知識を教養として身に着け、それを自己と世人の両方に役立てなければならない。

また、社会全体の健康の維持に役立てなければならない。

 

無責任に「人は病気で死ぬのではない。生まれたから死ぬのだ」などと、昨今の新型コロナウイルス蔓延の状況で主張できるだろうか。

自己の死よりも社会全体の存続を重視するのが成人の意識というものであろう。

大人の態度というものであろう。

 

「哲学は精神論」というのは確かに誤解、間違いだが、一部の哲学者の中には精神論を主張する者もいる。

自己の存在の意味を考える際にも、自己の内面や精神性に偏ってはだめであり、自然内存在、自然との共存、内なる自然について理解しなければならない。

 

テキストに「生命の大河」という言葉が出てくるが、我々はこの大我の一滴であり、すべての生物と自然と物質をあわせて悠久の生命の大河が形成されているのである。

「小我を超えて大我に至れ」と「君自身にではなく自然に還れ」というのは同意であり、表現を変えたものである。

とにかく、ムンクの叫びから太陽壁画へと至る意識の変遷を理解することが肝要である(下の記事を参照)。

https://blog.goo.ne.jp/neuro-philosophy/e/c4512fea4783a642aebff63d92515170

 

 

人は病気や災害で死ぬ。

自分がそういう目に合わないから、あるいは何よりも自分の精神性が大事だからといって、医学や自然科学や防災や疫学について無知であってはならない。

過去のパンデミックや経済恐慌や大災害について少しでも勉強して社会全体や次世代に対する思いやりを身につけなければならない。

自分だけが安心立命、悟りを得るだけでは何の意味もない。

そんなものは放棄してでも生態系全体への思いやりを身に着けるのが真の哲学の在り方だと思うのである。

 

また、死について考える際には、不老不死や霊魂の不滅の観念を絶滅させるために「君自身にではなく自然に還れ」という思想が重要になってくる。

生態系全体の存続と秩序維持のために、我々は君自身(自分自身)にではなく自然に還らなければならないのである。

そして、我々は生まれたから死ぬのではなく、病気や事故によって死ぬのである。

百歳で大往生した場合にも、生まれたからではなく、老衰という病気によって死んだのである。

 

                         その通りだと思うにゃ。

 

 

 


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哲学A1文章講義(第17回)

2020-06-27 10:20:29 | 哲学

今回から第6章「自我と自然」に入る。

 

この章は、

はじめに

1  自我への問い

2  自我・身体・自然

3 能産的自然の自己組織性と自我の創発

4 「君自身にではなく自然に還れ」とはどういうことか

という構成になっている。

 

まず、各人でざっと全体を読んでほしい。

18ページぐらいなので、すぐに読めるであろう。

こういう場合、まず全体の話の流れと構成と内容の大略を捉えることが肝要である。

そのあとで興味を感じた部分を二度読みするのである。

強者は全体をもう一度読み直したうえで、細部を吟味するであろう。

 

ともあれ、この章は「自我」と「自然」の関係を論じている。

そして、結論は「君自身にではなく自然に還れ」である。

 

臨死体験というものがあり、よく死の間際に光が差し込んできて、綺麗なお花畑が広がっている場面が視野に広がる、という体験が告白される。

つまり、死後の世界の開闢であり、天国への入り口というわけである。

しかし、そういう例がすべてではない。

むしろ、自殺未遂、事故による瀕死の状態その他の臨死体験においては、「ただちに真っ暗な無の状態が始まった」という体験が多い。

しかし、それを無視して天国への入り口だけを強調するのが守銭奴たる宗教家の戦略なのである。

 

死後の世界は絶対にない。

それをここで詳しく説明する余裕はないが、無である死の入り口の前には光に満ちたお花畑の代わりに「君自身にではなく自然に還れ」という看板が立っているのである。

そして、それを見た後は真っ暗な無である。

結局、無になることが天国に行くことなのである。

 

以上のことは本文には書いていないが、この章を理解するためには役に立つ。

 

我々各人は自己のかけがえのない「私」というものをもち、一回限りの代替えできない個別的人生の航路を歩んでいる。

ここから、自我というものが精神現象として物質体系としての心のない自然から切り離されるという思考姿勢ないし意識傾向が生まれる。

しかし、その考え方は二重に間違っている。

まず、自我の本性を自然と社会と身体から切り離す、という点で間違っている。

次に、自然をもっぱら機械的物質体系として捉え、その生命性と疑似精神性に目を開けない、という点で間違っている。

 

自我は身体から切り離せえない。

身体はたしかにDNAという情報的物質によって形成される生理的物質体系だが、高度の秩序と何よりも生命性をもっている。

私の生命は身体の生命と同一である。

身体は自然と同様、機械的物質体系として切り捨てられるべきものではなく、心の発生基盤としての生命の形相性に満ちているのである。

そして、この生命の形相性は「能産的自然の自己組織性」というものと深く関係する。

 

中間試験でもこの「能産的自然の自己組織性」の意味が問われていたが、本書ならびに私の思想を理解するための鍵となる概念であることを銘記してほしい。

 

今回はこれで終わりにして、あと一回でこの章の説明は終了する。

テキストの細部は各人で読んでもらって、この文章講義はそれを援助し、思想理解を深めるものとして機能するのである。

とにかく、最終的にいかに自我と自然の関係を理解し、能産的自然の自己組織性を通って、「君自身にではなく自然に還れ」というテーゼを理解できるかが問題である。

それに留意して、テキストを精読することが勝利へと導くのである。

 

    そうだ、そうだ、にゃ


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注射される猫

2020-06-26 21:21:53 | 日記

猫も注射されることがある。

その画像は貴重である。

それゆえ貼る。


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哲学A1文章講義(第16回)

2020-06-23 10:16:35 | 哲学

今日は「脳のセルフモニタリング機能と自我の主観性」ならびに「脳と世界の相互作用による意識の創発」について話す。

 

その前にテキストの当該の箇所、つまり第5章の5と6を読んでほしい。

その内容をそのまま要約するような形で話しても芸がない。

そこで、視点と表現を変えて簡略に二つのことを話そうと思う。

 

まず「脳のセルフモニタリング機能と自我の主観性」について。

 

我々各人は毎日、自分のことを考え、反省し、意識機能を発揮している。

「自分って何て駄目なやつなんだろう」

「昨日は勉強したが、今日はやめておこう」

「あいつは自分のことをどう思っているんだろうか」

「昨日友人に聞かれたけど、高校生のとき、何が楽しかった。また何が悩みごとだった」

「授業で<自分>という題で作文を書くという課題を出されたが、どう書こうか」

 

こういったすべての意識内容ないし思考案件において、我々は自我の主観性を働かせつつ、自己の存在と意識と人格を反省的に捉えようとする。

そのとき各人特有の唯一無比といってよい「自我の主観性」が独特の視点ないし観点を発動させて、それを遂行しようとする。

多くの人は、それを現象的次元、つまり心理的次元で理解しようとする。

「私」は精神的現象であり、物質とは違うという漠然とした観念があらかじめあるからである。

そこで、自我の主観性の物質的基盤には関心が生じない。

感覚とか知覚の現象に関しては脳のどこかが関与しているんだろう、という理解はある。

しかし、自我の主観性や自己の実存、かけがえのない私、繊細で霊妙な自己意識に関しては、脳が関与しているらしいとは思うものの、その相関は理解しがたく思える。

そして、二元論や精神主義的傾向のある人は、心理的現象の中でも自我の主観性を物質的基盤、つまり脳から切り離して、独立の精神現象として捉えたがる。

しかし、それは間違いである。

自我の主観性は、やはり脳の神経活動、その情報処理システムから生まれてくるのである。

その脳の働きとは「セルフモニタリング」という機能である。

 

モニターとはある監視塔が全体の状態を鳥瞰することであり、そのシステムの状態を的確に全体的に把握することである。

このモニター機能は中央監視塔のようなものが、上から下を見下ろすような感じでシステムの全体状況を見渡す、という形で発動することが多いが、

システム自体が主体ないし発動者となって、自己の全体的状態をスキャンし把握することもある。

「セルフモニタリング機能」とはそのことを言うのである。

これは文中に出てくる「生命の目的因」というものと関係する、生物としての人間の脳に特徴的な機能である。

 

一見神秘的に思われる自我の主観性も実は物質的ないし物理的基盤をもっており、その基盤が脳のセルフモニタリング機能なのである。

驚くべきは、自我の主観性や自己という霊妙な現象があるということではなく、脳がセルフモニタリング機能を有している、ということである。

これを理解することが肝要である。

 

しかし、主観性を伴った自己意識や意識全般は脳に基づくとはいえ、それで尽きるわけではない。

脳の神経的情報処理活動は、意識の発生の必要条件ではあっても、必要十分条件たりえない。

十分条件が加わらないと、意識は創発しないのである。

その十分条件とは人と人の交流、コミュニケーションであり、社会の情報構造である。

 

単独の脳の神経活動だけでは意識や諸々の心的現象は生まれない。

生まれたとしても社会性と人間性に欠ける機械的なものである。

言語がなくて、感覚と知覚による条件反射の集合のような心的現象と行動様式になる。

人間的心と自我は社会における他者との交流を通じて初めて生まれるのである。

その「生まれる」ということは、物質的基盤としての脳に全面的に還元できない様態でのものなので、「創発する」と言うべきである。

ただし、この創発の部分を不当に強調すると、二元論的になり、意識と自我を脳から切り離したくなる。

それは避けなければならない。

そのためにも生命の目的因というものを銘記しなければならないのである。

 

意識の創発には社会におけるコミュニケーションとともに世界自体のもつ「情報構造」というものが関与してくる。

これはより包括的概念であり、「脳の世界の相互作用による意識の創発」ということを理解するための鍵となる。

 

脳は身体を通して世界と関与する世界内存在である。

単独で脳だけが存在して意識を、心を生み出しているわけではない。

身体を通して世界と相互作用することによって脳は初めて意識を生み出すのである。

さらに、他者と交流することによって初めて人間的心を生み出すのである。

 

脳と意識、心と脳の関係について簡単にすませがる人は、自己批判しつつ、以上のことをよく考えてほしい。

 

              うーん、納得だにゃ


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哲学A1文章講義(第15回)

2020-06-20 08:57:08 | 哲学

今日は「意識の三階層と脳」について話す。

まず、テキストの第5章第3節を読んでほしい。

 

そこには認知心理学における意識の三階層説が挙げられている。

これは現代の心の哲学や意識哲学に広く受け入れられているものであり、科学と哲学の共有財産となっている。

その三階層とは、我々が普段「意識」と呼んでいるものを厳密に下部層から上部層まで並べたものであり、人間の意識の階層を表している。

その三階層とは、下から

 

1. 覚醒

2. アウェアネス

3. 自己意識

 

である。

 

覚醒とは、睡眠中ではなく目覚めている状態の意識の基本的働き、活動であり、植物以外の生物に広く認められる原始的機能である。

アウェアネスとは、「気づき」であり自分が知覚と感覚の機能を働かせつつ、周囲の世界を認識している状態である。それはまた自己の行動を制御するものでもある。

これはまた「機能的意識」と呼ばれ、自己を十分に意識することなく、行動を出力することに関与し、半ば無意識的な意識機能である。

アウェアネスは意識の中核に当たる機能であり、それは意識と行動の表裏一体性、換言すれば意識と行動をリバーシブルに着こなす生活機能を表している。

次に、自己意識とは、実は我々が普段「意識」と呼んでいるものである。

それは意識の主観性と自我の所有感と連携し、我々人間が「心」とか「意識」と呼ぶものにそのまま置き換えられやすい。

しかし、自己意識=意識という観点は間違いであり、意識は自己意識の基底層としてのアウェアネスと覚醒を必須とする生命機能であることを理解しなければならない。

 

本当に我々は認知科学や心の哲学を深く学ばないと、自己意識をそのまま意識と思い込んでしまう。

これは人間中心主義の主観的心観であり、動物に心を認めない考え方につながる。

その狭い見識はぜひ捨てなければならない。

 

なお、意識の下の二階層は脳の機能と容易に結びつけやすいが、「精神」や「魂」という精神主義的な概念と連携する「自己意識」は、脳から切り離されて理解されがちとなる。

何としても二元論にしがみつきたいのだ。

しかし、自己意識も最終的にはやはり脳の機能と結び付いているものであることが理解されなければならない。

ただし、その際、深い創発主義的心脳関係論の哲学が必要となる。

このことは銘記しておいてほしい。

 

以上のことを顧慮して、第4節「自己意識の現象的質」を読もう。

そこでは生きられる身体の生命感覚と意識の主観性の現象的質感の密着性が指摘されており、それを考慮した上で、

自己意識の現象的質と脳の神経的情報処理の関係を捉えなければならないことが指摘されている。

 

簡単に「心って結局脳なんだろ」とか「精神的現象としての意識とか自我が物質としての脳に還元されるはずがない」という相対立する観点は、

どちらも軽薄なものであり、能産的自然の自己組織性に深く根差す、自己意識と脳の生命的関係性を捉えることが肝要なのである。

 

君たちはこれまで意識と脳、心と脳の関係をあまり深く考えてこなかったであろうが、この機会に深く考える習慣を身に着けてほしい。

そして、脳科学と哲学が協力してこそ、心と脳の関係を深い次元で理解できることに気づいてほしい。

 

僕にも心と意識はあるんだにゃ

 

 

 

 


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哲学A1の二回目のレポート

2020-06-19 02:46:52 | 日記

二回目のレポートを課題として出します。

期末試験の範囲とも重なるが、第4章~第9章のうちで自分で興味をもった章の一つか二つを選択し、前回のレポートと同様の要領で制作し提出する。

再び要約と感想なのだが、前回同様に主観的感情に走らずに、著者の意図を汲んで客観的-論理的に叙述すること。

レポート範囲のうちで第8章は本論と付論からなり、長いので、一章で二章とみなす。

本論と付論のどちらかだけを選んでもよい。

その場合、他の章をプラスしてもよいし、それだけ(一章分書いたとみなす)でもよい。

Toyo-Net Aceのレポート欄にオンライン入力し、提出期間は6月25~7月20日とする。

ツワモノは三つの章に挑戦してもよい。

また、書きたくない人は書かなくてもよい。

ただし、期末試験は必ず受けること。

字数は下限500字~上限5000字とする。

 


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哲学A1文章講義(第14回)

2020-06-16 09:11:05 | 哲学

第5章「意識と脳」の第1節は「心と身体、そして生命」、第2節は「心身問題と心脳問題」となっている。

テキストを各人が読んでいることを前提として、今回はこの二つの節に関連した話をする。

 

我々は生きていくことのうちで、常に自分が心と身体の統合から成り立つ存在であることを自覚している。

ここで「生きていくこと」と言ったが、これを抽象名詞の「生命」に置き換えることもできる。

ただし、前者と後者では少しニュアンスが違うと感じると思う。

 

「生命」は何かいかめしく、学問や科学や厳密な思考が捉える抽象化された現象で、自分の普段のなまの生活から少しかけ離れているように感じる。

それに対して「生きていく」ということは、自分の生活や行動や心情に実感的にマッチする現実性に満ちているように思われるであろう。

哲学では抽象的思考が首位に立ちやすいが、それを分りやすくするためには、こうした「実感的次元」と関連づけるのが得策となる。

 

私は本や講義で、「<心>と書いて<いのち>と読む」ということを何度も強調した。

聴講生は、何やら感ずるところがあるらしく、神妙に聞き入り、うなずいていた。

これが私の匠の技、哲学を分かりやすく説明する匠の技なのである。

 

心と身体は生命によって統合されている、と言われてもピンと来ないかもしれないが、心(いのち)は生きられる身体と一体だと説明されたら、少しは分かりやすいであろう。

こころ、心、いのち、生命・・・・・。

からだ、肉体、身体、生理的活動、生命、いのち、こころ・・・・

こういうふうに並べてみると生活実感とリンクしてくる。

 

とにかく、この段階では十分理解できないと思うので、上記のことを銘記しておいてほしい。

後で具体的な臨床的話題「人生におけるマレイン酸フルボキサミンの有用性」などが出てくるので、そのときより明瞭に理解できるようになるであろう。

人生と慢性疼痛と化学物質(抗うつ薬)の関係についての具体的話である。

 

次に心身問題と心脳問題について。

前世紀の後半から脳科学が急速に進歩するにつれて、哲学上の心身問題は心脳問題へと先鋭化した。

心脳問題の主題は意識と脳の関係である。

特に客観化的自然科学が苦手とする意識の主観的特性と脳の神経生理学的情報処理過程の関係である。

 

精神現象としての主観的意識と物質現象としての脳の生理的過程の関係にどう折り合いをつけるか、これが問題なのである。

多くの人は二元論か還元的唯物論に偏ってしまう。

「精神か物質のどっちかにしてくれ」「心か身体のどっちかにしてくれ」というわけである。

より詳しく言うと、精神は科学によって侵されえない聖域であり、物質とは別次元にある、と考える二元論的精神主義の主張がある。

それに対して、精神現象など幻覚の一種であり、唯一の新実在は物質ないし物理的現象である、と主張する還元的唯物論の思想がある。

ちなみに、この還元的唯物論も実は心身二元論から派生してくる紛い物、誤謬推理の産物である。

 

要するに精神主義も物質主義も同じ穴の狢であり、どちらも二元論を暗黙の裡に前提とし、どちらかに偏っているだけなのである。

そして、この偏向を諫め、修正してくれるのが、生命を心と身体、精神と物質の「媒介項」に措定する思考姿勢なのである。

 

脳科学の進歩は、心の本性を解明してくれるというよりは、従来の二元論的精神主義の息の根を止める、という点に価値がある。

心の本性は、脳の情報処理システムと物質組成だけではなく、政治、経済、部活、試験、恋愛、排泄、食事、旅行、お祭り、結婚式、就職氷河期・・・・・といった日常行動、

ならびに社会の情報構造と深く関係し、脳内に幽閉されているわけではない。

内面的意識と行動と社会の情報構造と脳の機能は四つで一つの生命機能なのである。

で、結局、心脳問題は「心と身体の媒介項としての生命」という基礎から構築され、解明されるべきものなのである。

 

この話は、あとで精神疾患と身体疾患の関係の話のところで、具体的次元で分かるようになるであろう。

 

深い話だにゃー

 

 


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今後の哲学A1の課題について

2020-06-15 09:21:23 | 日記

今後予定している課題は二つです。

一つは前から言っている7月最終土曜日の期末試験。

これは今回の中間試験と同様のもの。

もう一つはレポート。

期末試験の範囲とも重なるが、第4章~第9章のうちで自分で興味をもった章の一つか二つを選択し、前回のレポートと同様の要領で制作し提出する。

このうち第8章は本論と付論からなり、長いので、一章で二章とみなす。

本論と付論のどちらかだけを選んでもよい。

その場合、他の章をプラスしてもよいし、それだけ(一章分書いたとみなす)でもよい。

後で正式に通達するが、提出期間は6月25~7月20日の予定。

ツワモノは三つの章に挑戦してもよい。

字数は500~5000字となる。

 

また頑張るにゃ


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受付時間後の答案提出の減点は1~5点

2020-06-14 18:48:08 | 日記

受付時間を過ぎてから提出された中間試験の答案に関しては、ほとんど減点しません。

ただし、あまり遅いと減点します。

 

 


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答案提出者第一号

2020-06-13 19:05:44 | 日記

直前に第一号が出ました。

すぐに読んで、Sの評価を付けました。


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中間試験の記入をレポート欄に変更した

2020-06-13 17:52:29 | 日記

学生諸君へ。

小テストに回答欄がないということで、急遽レポートに変更しました。

レポートに試験を課題として提出しておいたので、レポート要領でオンライン入力してください。

期限は約24時間後までですが、緊急事態のため20日まで可としました。

なるべく90分以内で回答してください。

 

やっぱり最初の計画通り、論述式テストはレポート欄の方がいいですね。

回答欄が分かりやすいしね。

ということで、期末試験もレポート欄を使う可能性大です。

 


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試験はいかにテキストをよく読んでいるかを評価する

2020-06-09 08:56:06 | 日記

13日の中間試験はいつくかの設問と小設問から成っているが、すべてテキストを熟読しているかどうかによって解答率が決まる。

基礎学力もある程度反映するが、やはりいかに努力したかが影響する。

毎回の文章講義は補助であり、試験においてはあくまでテキストの理解が重要である。

論述と記述から成るが、入力量はレポートの三分の一以下だと思う。

 

中間試験においては敵に勝つより己に克て!!

 

己に克って、泳ぎ切るにゃ。

これが中間試験を受ける君たち各人の姿だ。


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13日の中間試験の受け方

2020-06-08 20:22:27 | 日記

予定通り13日(土曜日)に哲学A1の中間試験を実施する。

ネットエースの小テストの欄で受付時間は16:00~23:00。

この間に制限時間80分以内に記述して提出する。

だから、遅くても21:40までには開始しなければならない。

教室でやると70分の試験だが、オンラインの入力なので80分にしてある。

 

試験問題には番号が振ってあり、順番に答えなけばならない。

シャッフル、つまり順序を入れ替えることはできない。

全部答えるのが理想だが、無理なら半分以上答えればよい。

あくまで80分以内なので。

解答欄に何行以内とか指示してあるが、オンラインの書式がよく分からないので、適当な量を案配して書けばよい。

行数が分かりやすければ、指示通り書けばよい。←だいたいこっちだろう。

16:00から問題が閲覧できるようになるので、それ以降入力すればよい。

 

テキストを読みながら解答することになる。

持ち込みはテキストのみである。

他のを読んでいても時間の無駄になるだけである。

というより、テキストがないと全く解答できない。

 

なお、特殊なシステムの監視によって、答えを教え合ったりすると、ばれて零点になる

自分で80分間よく考えて誠実に書くこと。

 

レポートと違って、テスト形式なので、再提出できない。

これぐらいのことに対応できないと将来、仕事に困るよ。

今からテスト範囲の序~第3章を読み直しておこう。

 

がんばるにゃ


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哲学A1文章講義(第13回)

2020-06-06 10:06:00 | 哲学

今日から第5章「意識と脳」に入る。

 

この章は、

はじめに

1  心と身体、そして生命

2 心身問題と心脳問題

3  意識の三階層と脳

4 自己意識の現象的質

5  脳のセルフモニタリング機能と自我の主観性

6 脳と世界の相互作用による意識の創発

という構成になっており、内容豊富で緻密な論述となっている。

この章は四回使って講義する。

 

哲学において心と脳、ないしは意識と脳の関係が論じられている、ということはあまり知られていない。

特に、哲学を精神論と誤解しており、科学哲学や理系の哲学の存在を知らない場合、思いもよらない。

哲学はその初期から心と身体、精神と物質の関係を論じており、それは2600年間継続した。

それは心身問題(mind-body problem)と呼ばれるものであり、哲学内部でも賛否両論がある。

私は積極的に評価し、二十年以上、この問題に関わってきた。

著作の多くも、これを論じている。

 

心身問題は人間における心と身体の関係を論じるものだが、さらに敷衍して精神と物質という世界規模の問題にも触れる。

君たちも一度は自分の心と身体の関係を意識したことがあると思う。

眠れないほど悩んでいるとき。

癌を宣告されたとき。

インフルエンザで高熱が続いたとき。

原因不明の体調不良に悩まされていたとき。

友達が霊魂の不滅を信じており、それに反感をもったとき。

死後の世界について考えたとき。

家族の誰かが、あるいは自分が脳腫瘍になり、精神症状を伴ったとき。

家族や友人が精神病になったとき。

授業で心と脳の、意識と脳の関係に関する意見を聴取されたとき。

 

このように色々な機会が想定されるが、たまに心と身体、心と脳、意識と脳の関係を考えたことがあると思う。

しかし、だいたい長続きせず、いつの間にか忘れていた、というのが実情であろう。

たいていは「心=脳だろ!!」と言って、「悩む必要なんかない」と一蹴する。

その際、その関係の詳細はおろそかにされ、深く考えられてはいない。

信仰に近い。

反対に精神と物質は全く別次元の次元にあるから、脳と心が同質のはずはない、とのたまう。

いずれにしても、心と身体、心と脳の関係は真剣に問われていない。

この機会にぜひ真剣に問い、緻密に考える姿勢を身に着けてほしい。

 

なお、心脳問題は精神病をどのように捉えるかに関係しており、後の章ともつながる。

 

現代英米の心の哲学は脳科学(神経科学と認知科学)の成果を踏まえたうえで心脳問題を議論しており、中には脳科学のセミプロやプロもいる。

百年前に活躍したアメリカ哲学の第一人者ウィリアム・ジェームズはハーバード大学医学部(医学大学院)の出身で、プロの脳科学者であった。

彼は哲学科を出ていなかったが、医学→生理学→心理学→哲学と専攻を変えて行き、ついにはハーバード大学の哲学科教授になった。

彼が主張した「純粋経験」の概念が西田幾多郎に強い影響を与えたことは有名である。

 

今日はここまでにして、次回は中間試験の後にする。

あらかじめ言っておくと、心と身体の関係を考える際には、その媒介項としての「生命」の意味を深く考える必要がある。

その媒介性を深く考えると言う意味である。

 

なお、来週は試験のため文章講義はなしですが、火曜日に試験の受けたかを指示します。

まぁ、必要ない人も多いでしょうが。

 

こんな問題初めてなんで、まだ水中模索中だにゃ。


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哲学A1文章講義(第12回)

2020-06-02 10:27:05 | 哲学

テキストの第4章第4節は四季の変化・循環と空間の質の関係を論じている。

今は梅雨が始まる季節であり、紫陽花の花が気を引く日頃である。

紫陽花はアジサイと読む。

私は青色の紫陽花に深い質感を感じ、道端の青い、あるいは水色の、あるいは紫色の、あるいは紺色の紫陽花に見惚れる。

紫陽花の色彩は晴れの日よりも曇りの日の方が映える。

 

日本は四季の循環が印象的であり、四つの季節がはっきり区別された特徴をもっている。

どの季節を好きかは人により違うが、好き嫌いを超えて日本の四季は印象的である。

そして、それぞれの季節に独特の空間性、ないし空間の質(感)がある。

冬の空間は、低温ないし極寒と刺すような冷たい風が特徴の閉塞的空間である。

春の空間は、梅→桜→ハナミズキ→躑躅(ツツジ)という名花が順番に咲き誇り、気温も最適で、抜群の空間の質を有している。

夏は太陽の季節。海と夕立のイメージ。ビールがうまい。

とにかく夏の質感は暑苦しいの一言に尽きる。

夏が好きなやつは変態である。

秋はいい。

春の次にいい。

人によっては秋の方がいいと言う。

五月晴れと十月晴れのどちらが良いかは、迷うところである。

どちらも最高である。

秋は湿度が低く、紅葉に至る植物の変化も見事である。

 

めぐる季節の中で我々は、独特の空間の質の変化を経験し、四季のつなぎ目も感じる。

晩冬、晩春、晩夏、晩秋がそれである。

これらの時節には、また独特の空間性があり、クオリアがある。

 

それぞれの季節の空間の質感とその循環を貫くものとして、自然の大生命がもつ悠久の時間の流れがある。

包むと言ってもよい。

季節性の空間質は実は根源的な生命的自然的時間性によって賦活されていたのである。

循環を生み出す生きた時間性である。

それを我々の脳に内在する生物時計が感得するのである。

そして、それは生きられた身体の空間性へと放散される。

 

この節には三島由紀夫の世界的名作『豊饒の海』のことが書かれている。

「春の雪」

「奔馬」

「暁の寺」

「天人五衰」

という四つの巻は、言うまでもなく春・夏・秋・冬を象徴している。

そして、それぞれの巻で主人公が変わる。

変わると言うより、生まれ変わるのである。

輪廻転生である。

しかし、これは現実ではなく小説、つまり作り話である。

三島は魂の輪廻転生など信じていなかったのであり、或ることを象徴・暗示しようとしたのである。

この大著の末尾は次のように終わっている。

 

「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

庭は夏の日盛りの日を浴びてしんとしている。・・・・・・

                               「豊饒の海」完。

                             昭和四十五年十一月二十五日」

 

この日付はもちろんあの市ヶ谷の自衛隊本部での自決の日を指している。

 

輪廻転生など空しい夢にすぎない。

我々は小我を超えた大我、さらには宇宙の大生命に意識を向け替えなければならない。

宇宙の大生命はあらゆる存在の根源であり、東洋哲学の「無」や仏教の「空」や西洋の「神」などすべてを包み超える新実在なのであり、哲学の究極にして永遠のテーマである。

宇宙物理学、分子生物学、量子情報科学などの科学はその追及を援護射撃する子分なのである。

 

わたしたち親子も生命の大いなる連鎖と自然の大生命を象徴しているんだにゃ。


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