「君自身にではなく自然に還れ」とはどういうことであろうか。
我々各人は自我と自尊心をもち、誰よりも自分本人が可愛いものである。
また、自己の内面は自分しかのぞき込むことができない自分の秘境である。
「俺の心は俺にしか分からない」「私の心は私しか分からない」と誰もが思う。
自己の内面、内的意識は自分固有ものであり、私らしさの起源である。
そこで、おいおい喧騒に満ちた外部世界に背を向け、自己の内面に沈潜したくなる。
ある哲学者は「真理は自己の内面奥深くにある。自己自身に還れ」と主張した。
ある通俗的哲学者がこれを真似て「君自身に還れ」と主張した。
その人は四七歳で腎臓がんのため亡くなったが、死の直前次のように言ったという。
「人は病気で死ぬのではない。生まれたから死ぬのである」。
何か一見奥深いことを言っているように感じるが、実は底の浅い詭弁にすぎない。
生命の本質を理解しているなら、自己の心情にばかりとらわれずに、人間の身体の物質的組成と疾病の成り立ちを顧慮して、自己の死について考えなければならない。
自己の内面や心情ばかりに囚われると、生理的因果関係や病理学的メカニズムを無視したくなる。
それは自分の覚悟にとっては有益、というより快適だが、後に病気にかかる人のことを考えると、自己中としか言えない。
人は生まれたから死ぬのではなく、やはり何らかの不慮の事故や病気によって死ぬのである。
天寿を全うしたり、大往生したりしたとても、「生まれたから死ぬのだ」などとは言えない。
我々は公衆衛生の知識を教養として身に着け、それを自己と世人の両方に役立てなければならない。
また、社会全体の健康の維持に役立てなければならない。
無責任に「人は病気で死ぬのではない。生まれたから死ぬのだ」などと、昨今の新型コロナウイルス蔓延の状況で主張できるだろうか。
自己の死よりも社会全体の存続を重視するのが成人の意識というものであろう。
大人の態度というものであろう。
「哲学は精神論」というのは確かに誤解、間違いだが、一部の哲学者の中には精神論を主張する者もいる。
自己の存在の意味を考える際にも、自己の内面や精神性に偏ってはだめであり、自然内存在、自然との共存、内なる自然について理解しなければならない。
テキストに「生命の大河」という言葉が出てくるが、我々はこの大我の一滴であり、すべての生物と自然と物質をあわせて悠久の生命の大河が形成されているのである。
「小我を超えて大我に至れ」と「君自身にではなく自然に還れ」というのは同意であり、表現を変えたものである。
とにかく、ムンクの叫びから太陽壁画へと至る意識の変遷を理解することが肝要である(下の記事を参照)。
https://blog.goo.ne.jp/neuro-philosophy/e/c4512fea4783a642aebff63d92515170
人は病気や災害で死ぬ。
自分がそういう目に合わないから、あるいは何よりも自分の精神性が大事だからといって、医学や自然科学や防災や疫学について無知であってはならない。
過去のパンデミックや経済恐慌や大災害について少しでも勉強して社会全体や次世代に対する思いやりを身につけなければならない。
自分だけが安心立命、悟りを得るだけでは何の意味もない。
そんなものは放棄してでも生態系全体への思いやりを身に着けるのが真の哲学の在り方だと思うのである。
また、死について考える際には、不老不死や霊魂の不滅の観念を絶滅させるために「君自身にではなく自然に還れ」という思想が重要になってくる。
生態系全体の存続と秩序維持のために、我々は君自身(自分自身)にではなく自然に還らなければならないのである。
そして、我々は生まれたから死ぬのではなく、病気や事故によって死ぬのである。
百歳で大往生した場合にも、生まれたからではなく、老衰という病気によって死んだのである。
その通りだと思うにゃ。