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心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学B1 文章講義(第4回目)

2024-12-21 01:18:29 | 哲学

太宰の『人間失格』は漱石の『こころ』とともに近代日本文学の小説群の中で最も多くの人に読まれた作品である。

文庫本の代表格である新潮文庫において40年間以上、この二作品は売上において毎年、一位と二位を交互に繰り返し、デットヒートを展開している。

実はこの二作品はどちらも非常に暗い内容である。

多くの人は明るくて幸福なものを求めるはずなのに、そうした内容の小説よりも、こうした暗い内容のものが爆発的に売れるのだ。

なぜか。

その理由は簡単ではない。

漱石の『こころ』はたしかに暗い内容だが、それほど毛嫌いされない。

それに対して、太宰の『人間失格』は好き嫌いがはっきり分かれ、嫌いな人はとことん嫌う。

そもそも漱石という作家は日本最高の文豪の一人として尊敬され、愛読者も多い。

しかし、漱石という人間を嫌う人はそれほどいない。

それに対して、太宰に関しては人格そのもの、人間性そのものが問題となり、嫌いな人はものすごく嫌う。

逆に好む人は全身全霊でファンになる。

簡単に言うと、漱石はアクがなくて、太宰はアクが強いのである。

そして、普通、教科書的な文学的評価では漱石の方が上とみなされいる。

国内では特にそうである。

しかし、真に芸術的に、あるいは哲学的に優れているのは太宰の方だとも言える。

これは欧米やアジアという諸外国においては、漱石よりも太宰の方が人気が高く、評価も高く、よく読まれていることからもうかがえる。

歴史に長く遺るのはどちらかと問われれば、太宰だと思う。

特に『人間失格』である。

 

そもそも我々は明るい/暗い、幸福/不幸、強い/弱い、健康/病弱という相対的観点から抜けだす必要がある。

これらの観点、価値観の二元性に囚われているかぎり、太宰の『人間失格』の真価と太宰という人間そのものの意味は分からないのだ。

こうしたことを分からせるために、私はこの短編小説を書いたのである。

それを深く理解してほしい。

そのためには、前回の講義で言ったように、強さと健康と幸福と明るさを求める木俣の方が36歳で末期がんの苦痛から自殺し、暗いものを好む虚弱な村川の方が

長生きし、健康長寿を実現したということ、この対比に着目し、作品全体を読み直さなければならない。

そして、決定打は木俣が『人間失格』を非常に嫌い、村川がそれを生涯の友としたことである。

 

我々は「一見」暗いものから目を逸らし、明るい気分を保ちたくなる。

また「一見」弱い者を嫌い、強い者に憧れる。

また「一見」不健康な者を嫌い、健康なスポーツマンタイプの者を好む。

この短編小説は、これらの「一見」という軽薄な観点を破壊するために書かれたものなのである。

そのことを顧慮して、この作品を熟読してほしい。

 

なお、私と太宰の『人間失格』の関係については、次の最新作を読めば、よく分かるので、興味ある者は読んでほしい。

『新・人間失格』(Amazon Kidle版)→このブログの三つ前の記事を見よ。

 

       そういう意図があったのか。分かったにゃ。

 

        やはり深読みは必要だにゃ。


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哲学B1 文章講義 (第3回目)

2024-12-19 16:43:46 | 哲学

今回は長いタイトルの短編小説について解説する。

そのタイトルは、

「末期がんの苦痛から36歳で自殺した自称・人間合格者」と「健康長寿を満喫した『人間失格』愛読者」

である。

このタイトルからすぐに二人の相対立する登場人物間の人物像の相違と文学的趣味の対立と性格の相違が予想される。

また、二人の間の心理的葛藤と価値観の対立と人生観と健康観の相違が思い浮かぶ。

二人の登場人物は木俣信志と村川卓也である。

これは実在の人物をモデルにしている。

村川は私であり、木俣は哲学科時代の友人である。

だから、私の体験と実際に在った出来事を物語と対話の中に織り込んでいるが、全部がそうだということはない。

創作付加があるのだ。

小説として当然のことである。

多くの小説には作者の経験と体験と人生行路上の出来事が織り込まれているが、学問的、科学的、芸術的、政治・経済的、医学的知識も盛り込まれる。

ここら辺は教養がモノを言う。

私の書く短編小説は深くて広い知識によって体験が装飾されつつ書かれている。

医学と哲学の知見と知識が最もよく使われるが、文学や心理学の知識も応用される。

この作品もそうである。

以上のことを銘記して、この短編小説をよく読んでほしい。

 

まず村川と木俣の太宰治、特に彼の代表作『人間失格』に対する評価の相違に注意してほしい。

ここをしっかり把握しておかないと、全体の意味が理解できなくなる。

また、村川と木俣の性格と人物像と価値観と健康観と人生観と行動習慣の相違と対立にも注意してほしい。

この相違と対立が、一方の若死にともう一方の健康長寿への分岐を生んだのである。

一見、木俣の方が長生きし健康を保ちそうだし、木俣自身もそう思っている。

しかし、木俣は刺激を求めて生きるが好きで、努力や節制を軽蔑している。

それに対して、一見虚弱で若死にしそうな村川は、節制家であり堅実であり粘り強い。

そして、医学知識が豊富である。

 

文学的趣味に関して言うと、木俣は夏目漱石を一番好み、村川は太宰治をこよなく愛している。

木俣は我が強くて、自分の好みを前面にお押し出し、逆に嫌いな太宰を貶す。

それに対して、村川は大人しいので、嫌いなものを貶して、相手を傷つけることがない。

木俣はマウントをとりだがるが、村川は超然としている。

ここに二人の人間性の根本的違いがある。

 

特に注意してほしいのは、木俣の「他人を批判することはできても、自分を批判することができない」という性質である。

これはある種の人間によく見られるものであり、自分に中身がないくせに去勢を張りたがる性質に由来する心性である。

この自己批判を欠く心性が不摂生と刺激を求める欲望追求性と結びついて、木俣を三十代で発がんに追いこんだのである。

それに対して、木俣に年寄臭い節制的生活と馬鹿にされた村川は、そんな誹謗中傷など気にせずに、健康を維持した。

この対比を良く把握してほしい。

 

本作品には健康と病気に関する一般論も登場する。

早死にするタイプと長生きするタイプの対比に関する医学的叙述がそれである。

医学的といっても、専門的なものではなく、家庭医学書レベルのものである。

しかし、ここら辺をしっかり把握しておかないと、なぜ木俣が若死にし、虚弱そうな村川の方が長生きし、健康長寿を満喫したのか、

その理由が分からなくなる。

 

そして、決定的なのは、自殺マニアの太宰を暗いからと蛇蝎のように忌み嫌った木俣が、自殺する破目になったという脅威的事実である。

こうした例は意外に多い。

バイタリティーの塊やクラスの人気者タイプが、意外にも早死にする、ということは科学的に実証されている。

また、健康さの権化のようなスポーツマンは、一般人より平均寿命が6歳も下だという統計的事実もある。

イメージに惑わされはならない。

現実を直視し、健康維持の生理学的メカニズムを客観的に把握しなければならないのだ。

そして、なによりも「他人を批判することはできても、自分を批判することができない」という精神構造の害をしっかり把握しなければならないのだ。

 

以上のことを顧慮して、この作品をよく読んでほしい。

 

あと一回、文章講義をするが、そのときは今回の話をもっと掘り下げ、かつ敷衍して論じることにする。

 

           この作品に溺れそうだにゃ

 

    僕は深みに吸い込まれそうだにゃ


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哲学B1 文章講義 (第2回目)

2024-11-30 07:44:44 | 哲学

前回に続き「精神医学と人生論」について論じる。

今回はこの作品の問題設定そのものを作品の文脈に直接触れずに、問題そのものの核心に触れる形で話しを展開する。

 

精神医学は脳の機能障害としての精神疾患を治療する臨床医学の一分野である。

疾患を治療する臨床医学であるという点では一般の身体医学、内科と外科とか産婦人科と一緒だが、少し違う点がある。

それは、患者の心の悩みないし精神的苦悩と人生問題に関わるという点である。

もちろん、あらゆる身体疾患の患者もまた何らかの精神的苦悩を抱えているのだが、それは病気の本質を形成するものではなく、病気に付随するものである。

ところが、精神疾患の場合、精神的苦悩や人生問題は病気に付随するものではなく、病の核心の一端を形成するものになる場合が多いことになるのだ。

この点において、精神医学は人生論に関わらざるをえなくなる。

精神科医は単に薬物療法によって精神疾患者の脳の機能障害状態を修復するだけではなく、患者の悩みをよく聴き、彼に寄り添い、彼の苦悩を癒さなけけばならないのだ。

これを精神療法という。

いわゆるカウンセリングである。

ただし、精神科医が行うカウンセリングは、単なる悩みごと相談に尽きるものではない。

それは、身体病理と生理学と脳科学の知識に裏打ちされたカウンセリングであり、精神療法なのだ。

この点を忘れてはならない。

作品では精神科医と臨床心理士の違いと共通点が言及されているが、この二つを混同しないでほしい。

そして、日本の精神科医の多くが心理学や人生論や精神療法に弱くて、薬物療法一辺倒に傾きやすい、という点にも注意してほしい。       

 

以上のことを顧慮しても、なお精神医学と精神科の臨床において、脳の機能修復が極めて重要な契機となっていることを理解することが要求される。

これが分からないと、この作品の趣旨も理解できないのだ。

実は精神療法も薬物療法に劣らず患者の脳の機能障害に関わり、その修復に役立っているのである。

しかし、人は心身二元論的観点から脳と精神、脳の機能障害と人生論的悩みは別次元ものと考えてしまう。

その方向に思考が流れがちである。

自分はそうではない、と知ったかぶりをしない方がいい。

この傾向があるなら、ちゃんとそれを認めた上で、この作品を再度読みなおしてほしい。

すると、新しい発見があるはずだ。

それは、脳科学ないし脳病理学的精神医学が人生論ないし人生哲学と接点をもち、その接点を凝視することが、薬物療法と精神療法の有機的統合をもたらすことになる、ということだ。

 

精神疾患者の脳の機能障害と患者の精神的苦悩を全く別次元のものと考えてはならない。

人生論と脳科学を全く別次元のものと考えてはならない。

こうした理解の鍵となるものとして「脳を単なる生物学的器官としてではなく社会的器官として捉えることの重要性」が作品の中で強調されている。

これを論じている部分とその前後に着目してほしい。

 

精神科医は患者の脳の機能を薬物療法によって修復しようとするが、その際、脳を単なる神経生理学的機械としてではく、社会的器官として捉える必要があるのだ。

これは実際の治療の場では諸々の向精神薬処方と精神療法の連携プレー、有機的統合として実現される。

今日の精神療法の主流は認知行動療法と呼ばれるものであり、患者の精神内界の分析よりは、患者の歪んだ思考習慣や偏った行動習慣を矯正することを主旨とするものである。

しかし、その際にも、人生問題や人生の苦悩を無視するわけにはいかない。

脳を社会的器官として捉えることが精神科の臨床において重要な意味をもつということは、精神科的脳理解が患者の心の悩みにも配慮する脳科学であるべきことを示唆している。

脳の機能障害としての精神疾患は、遺伝子的基礎をもつ神経システムの障害であると同時に患者の人間関係のストレスや人生論的悩みにも強く関与する。

そして、精神医学と精神科の臨床は、脳科学と人生論の接点を見出し、それを治療に役立てていかなければならないたのだ。

それは、脳を単なる生物学的器官ないし神経生理学的機械としてみる観点を抜け出して、「社会的器官としての脳」という概念をしっかり理解することが要求される。

この作品の読者にもそれは同様に要求される。

 

今日、精神医学と脳科学では「社会脳」という概念が非常に重視されている。

この社会脳というものを理解しようとするなら、脳科学と心理学、脳科学や精神医学と人生論、ひいては脳科学と哲学の関係に目が開かれてくるであろう。

本作品はそのことに開眼させることを趣旨として書かれたものなのだ。

だから、二人の大学生の共感の端緒たる「薬物療法一辺倒の精神科医に対する反感」ばかりに注目してはならない。

その後の対話の調子の変化と転移後の二人の意識の変化に着目して、精神医学と人生論の関係を「社会脳」という契機に照らして理解する必要があるのだ。

これは一見難しく感じるかもしれないが、ぜひ顧慮しつつ作品を熟読してほしい。

そうすれば、あたらしい視界が開けてくるであろう。

 

         僕は心と脳を同時に病んでいるんだにゃ。

 

でも、精神科医が社会脳という次元を顧慮して精神療法をしてくれるなら人生の悩みも解決するにゃ。


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哲学B1 文章講義 (第1回目)

2024-11-28 12:28:19 | 哲学

この授業は11月30日に本来、対面で行うはずだった講義のオンライン版である。

文章講義にて行う。

この日に扱う予定だった作品は「人生論と精神医学」である。

今、ざっと読み返してみたが、この短編小説集の中でも最も分かりやすい部類のものだと思った。

ただし、一見分かりやすからと自分勝手に、主観的に解釈すると、誤解に流れる破目になる。

このことを銘記して、まず一度この短い小説を各自で読み通してほしい。

 

さぁ、読んだね。

では、解説に入ることにする。

ただし、この作品全体を文脈に沿って忠実に分析して、説明することはしない。

大枠は踏襲するが、言葉を変えて趣旨と内実と哲学的意味を看取できるような要約的説明を行う。

そうしないと、試験の際の解答のガイドになってしまうからである。

 

まず、最初に指摘しておきたいのは、君たちが「精神医学」と「精神疾患」ないし「精神病」というもの、さらには「精神科医」というものについてどういうイメージを持っているかということだ。

もちろん、ある程度精神医学の知識を持った学生もいるであろうし、自分が精神科に通院している学生もいるであろう。

しかし、多くの学生は精神医学と精神病と精神科医について正確な理解を持ち合わせていない。

だいたい、主観的イメージに囚われているというのが実情であろう。

この授業で使っている短編小説集にはいくつか精神疾患を扱った作品があり、前期から出ている学生はこれで四つ目ぐらいかと思う。

また、前期、後期ともに医学的話題が多く、その中に精神医学と精神疾患という馴染みのない分野が登場しているという状態である。

これは誰もが認めることであろう。

知ったかぶりはよくない。

勝手な主観的解釈や感情に流された理解もよくない。

とにかく、作品を精読し、そこに織り込まれた「精神医学と精神疾患の本質」を「偽の理解」から解放して、少しでも真の理解に近づくよう努力することが求められるのだ。

これは無知を自覚して、真の知へ至るという意味ではPhilosophy、つまり「知への愛」としての「哲学」そのものなのだ。

そして、この作品は「精神医学と精神疾患の哲学」として書かれたものなのだ。

ただし、今回は精神医学と人生論の関係に焦点を当てて、これを論じ、物語化した、ということにまず着目してほしい。

精神医学と脳科学、精神疾患の脳の病理、そして精神医学における薬物療法の意義については、これまでの作品で何度か扱ってきた。

しかし、ここにきて、脳科学よりは心理学と精神療法を重視し、薬物療法よりは精神療法を重視する、というような話の筋となっている。

たしかに、そうである。

ただし、これは表面上のことであって、よく読み込んで行くと、あるいは何度も読み返すと、別の趣旨が見えてくる。

それは人生論と生物学、人生哲学と薬物療法の接点を求めるような観点であり、これに気づけないと、理解は軽薄なものとなる。

ここまで頑張って理解しようとする者は少ないかもしれないが、短い作品なので、ぜひ何度も読むか、熟読してほしい。

 

以上が前置きである。

 

それでは物語の大枠と趣旨の説明に入ろう。

この物語は二人の男子大学生の対話を中心に構成されている。

二人の学生のうち一人は心理学専攻であり、もう一人は社会心理学専攻である。

どちらも軽い精神疾患としての神経症をかかえ、それで精神科クリニックに通院している。

そのクリニックの待合室で知り合い、精神医学と精神病に関して意見を出し合うが、それぞれ観点と主張の違いと共通点に注意して読んでほしい。

ちなみに、心理学専攻の学生の方はけっこう精神医学を勉強しており、それなりの知識を持っている。

他方、社会心理学専攻の学生の方はあまり知らない。

この差が二人の対話でどのように現れ、どのような意味をもつかを看取してほしい。

 

二人はそこで出会った精神科クリニックの医師の診察と治療に対して大いなる不満を抱えており、それがどういうものであり、どういう意味をもつかを理解してほしい。

深堀して、理解しておいてほしい。

要点は、そのクリニックの医師が精神療法、患者との対話を疎かにし、薬物療法一辺倒であることに対して二人が共通する不満をもっていたことなのだが、これを確認しただけでは、

本作品の趣旨、本当の狙いはつかめない。

その後の話の流れ、転院後の経過と二人の対話内容の成長、変化を深堀して読み込み、よく理解しようとしなければならないのだ。

そこに、本作品の真の狙いが隠されているからである。

それが何であるかは、次の講義で詳しく述べることにする。

 

とにかく、各学生はこの短い作品、短編小説を最低二回はよんでいてほしい。

次回の配信は土曜日になる。

 

              僕は猫だけど、よく読むにゃ。

 

 

          僕は、もっとじっくり読むにゃ。


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「叫び」から「フィヨルドに昇る太陽」へ  ムンクにおける自然との和解

2024-08-31 02:39:53 | 哲学

北欧ノルウェーの天才画家エドヴァルド・ムンクは精神を病んでいた。

おそらく幻聴があったものと思われ、それは彼の代名詞ともなっている「叫び」に表れている。

「叫び」は1893年、ムンクが30歳のときに製作され、世界美術史に不滅の金字塔を打ち立てた名作である。

この絵に描かれた場所はフィヨルドのほとりの道であり、ムンクはこのとき「自然を貫く叫び」を聴いたのである。

雲が血のように赤く、畝っているのは、喀血を象徴しているらしい。

ムンクがいかなる精神病に罹っていたかは詳細な記録がないが、幻聴があるとするなら統合失調症が疑われる。

いずれにせよ、ムンクは自己の存在を根底から揺るがすような、強烈な不安を感じたのであり、それは幻聴を伴っていたのである。

そして、この「存在の不安に共鳴する幻聴」に対して耳をふさぐ幽霊のような自画像を、阿鼻叫喚を象徴する血の色を背景にして描いたのである。

ここでは自然と自己は対立している。

自己に救いはなく、自然は脅威の相を呈して威嚇してくるかのようだ。

ムンクはそれをありのままに描いたのだ。

それは心象の風景であった。

しかし、ムンクは16年後の1914年に長年の苦悩から解放され、自然との和解・合一に至る。

それを彼は太陽の光が少ない地域である北欧の生命の源としての太陽の光のみを強調した巨大な壁画として描き出した。

それは「フィヨルドに昇る太陽」としてオスロ大学に寄贈され、現在に至るまで大講堂に装飾されている。

二つの色合いが違う画像でそれを観てみよう。

まさに生命の源たる太陽の光の拡散である。

この光をムンクは自己の苦悩の消滅と自然との和解・合一として描いたのである。

この強烈な光は、一切の対立と否定を止揚し、すべてを肯定する、自然の大生命の弁証法的力を象徴しているのだ!!

私は「君自身にではなく自然に還れ」という思想を創案したとき、ムンクから大きな示唆を受けた。

人生に不安や苦悩は尽きず、人はつい心が折れて、絶望し、悲観し、厭世的になる。

そして自然は敵となる。

これは自己の主観的内面性に囚われ、悪循環にはまったことを意味する。

しかし、我々が自己の内面を脱して、自然へと脱自するなら、不安と苦悩は外界へと放散され、自然の大生命へと吸収されるのである。

これは至福以外のなにものでもない。

それは普通対立するものと考えられている幸福と不幸の彼岸にある自然との合一という至福である。

暗闇と極寒の象徴たるフィヨルドを突き破って上る太陽の強烈な光は、それを象徴しているのである。

 


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哲学A1 文章講義 第2回目

2024-06-24 21:26:08 | 哲学

今日は「不老不死を否定した永愛君」の残りの部分について説明する。

 

永愛はがん研有明での膵臓がんの治療に成功し、健康を取り戻した。

そして、その後生命科学の研究に精を出し、定年まで大学に務めた。

また、がん寛解後、出版社から闘病記の執筆を依頼され、それに応じた。

その後、皮村のアドバイスを受け、何冊も本を書いた。

皮村は執筆王であり、著書は既に30冊以上になっていた。

長嶋は、その方面は駄目だが、日立製作所で研究開発に勤しんでいた。

 

しかし、永愛の幸運は長く続かなかった。

74歳のとき、今度は悪性脳腫瘍が発覚したのである。

しかも、最も予後の悪い神経膠芽腫である。

唯一の救いは、永愛が高年齢のためがんの進行が遅いことであった。

だが、2050年になっても神経膠芽腫は難敵であり、膵臓がんのような奇跡的治癒は望めなかった。

ただし、進歩した緩和医療のおかげで永愛は、痛みと痺れ、麻痺などを緩和しつつ、まだまだ思索と執筆に勤しむことができた。

そこで、自分で『生命の本質と安楽死の選択 ―  生命科学と哲学を融合する視点から』を仕上げた。

全身全霊を賭けて、最後の思いを後世に遺そうとしたのである。

それはまさに不老不死の否定による生命の本質の把握であった。

 

また、この作品の最後の方で興味を引くのは皮村が太宰治の『人間失格』の生命学的意義、トランスパーソナル・エコロジー的意義を主張することである。

これは三人が共通の理解に到達した「人間はくだらない存在だ。利己的に自然環境を利用し、それを破壊し、地球を滅亡に追い込む悪魔のような存在だ」という思想に集約される。

野放図に「私は人間合格だ」という人間ほど中身は俗悪で野蛮極まりない。

人間合格者よ、恥を知れ、恥を!!!!!

これがこの作品の最後の方の文章に込められたメッセージである。

 

皮村は永愛が安楽死の施術によって死去した後、『新・人間失格 不老不死を望む人間合格者を徹底して叩く』と『不老不死を拒否した永愛君の栄光』を上梓した。

日本では現在、安楽死は法律によって禁じられている。

そこで、それを望む者はスイスなどに行って、それを施術してもらう。

なぜ、日本は安楽死を嫌うのだろうか。

自殺率が高い割には安楽死を合法化しようとしない。

ちなみに、宗教の全部は自殺を禁じ、最悪の罪とみなす。

なぜ、そうするのか。

お前らにそんな権限なんかないだろう。

なんのことはない。

自殺されると、自分たちの死後の世界詐欺商法が倒産し、信者に自殺されると寄付金を搾取できなくなるからなのだ。

私は自殺した者が地獄に落ちるという宗教の思想を全否定する。

そもそも死後の世界など存在しないのだ。

しかし、死後の世界がないとなると、宗教家たちは困る。

死の恐怖に怯え、死後の世界での幸福の再獲得を求める信者を失うからだ。

金蔓が減るからだ。

彼らの詐欺を信じてはならない。

ぜひ、哲学と生命科学と医学と生物学と心理学の知見を総動員して、あくまで自然主義的、合理的に「死」の意味について考え、死後の世界の全否定の境地に到達してほしい。

 

人間はたしかに利己的な動物である。しかし、限度をわきまえれば問題はないのだ。

しかし、限度を知らず、利権と派閥形成によって一部の富裕層だけが健康と富を何代に渡って確保しようとする。

その代表が裏金政治家たちなのは言うまでもない。

 

各個人がみな90歳以下で死ぬからこそ、人類は存続できるのである。

これは分かりやすいようでいて、ナカナカその真の意味を掴むことができない。

だから、気軽に不老不死などを求めてしまうのだ。

そこの君、君もそう思っていただろう。

いや、今でもそう思っているだろう。

不老不死を求めて何が悪い。

そう思ってないか。

この作品を読み、私の解説を聴いてもまだそう思うなら、あなたはもう生きている資格はな

あっ、大丈夫よね。

だって、死後の世界における霊魂、いやレンコンの不滅があるんだから(笑)

それにしても、不老不死はまた意味が違ってくるよなー。

これを修正するのは難しい。

 

「君自身にではなく自然に還れ」という私の思想を理解してほしい。

これが最も切実に描かれているのは『心の臨床哲学の可能性』の末尾に付された実験小説「ある不幸な唯物論批判者の死」である。

興味ある者は一読を勧める。

23歳の大学生が前立腺肉腫(キング オブ がん、悪魔のようながん)によって死ぬ間際にこの真実に気づくという短編小説だ。

 

         怖いけど、読んでみるにゃ。

 

   面白そうだにゃ。


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哲学A1 文章講義 第1回目

2024-06-23 10:15:45 | 哲学

22日の対面授業をオンラインの文章講義に置き換える、と通達したので、それを実行する。

まだ、体調が不十分なので、今日は書けるだけ書いて、残りは火曜日にupする。

 

15日の講義では「不老不死を否定した永愛君」の前半三分の二を読んで説明した。

そこで、今日は残りの三分の一を要約して説明することにしよう。

 

既に前半部で『アンドリュー』というSF映画にこめられた死生観、生命観、哲学、そして不老不死の否定についての三人(永愛と皮村と長嶋)の議論について詳しく説明した。その際、三人それぞれの考え方と視点の相違についても説明した。

これについては繰り返し説明する必要はないであろう。

しかし、ぜひ読み直して、それぞれの観点の相違について吟味・把握し直してほしい。

生命科学専攻の永愛と機械工学専攻の長嶋と哲学専攻の皮村では、同じ問題についても観点と理解と解法が違ってくることに気づいてくれたと思う。

ただし、皮村は哲学専攻とはいえ、自然科学や工学や医学にもかなり通じた博学の人であり、最も視野が広く、包括的観点に立てることに注意してほしい。

前回までの部分では生物としての人間の心と人工知能の相違と接点が顕わとなり、一見異質に思われる両者に共通の起源があることが示唆された。

それが「能産的自然の自己組織性」というものである。

皮村がこれを説明すると、頭の固い長嶋でさえ納得し、永愛はさらに理解を深めた。

以上は三人がまだ学部生の頃の対話の内容である。

 

今日扱う残りの部分は、その後30年以上経った日の出来事である。

三人は55歳になっていた。

そして、それぞれ希望の職に就き、充実した日々を送っていた。

しかし、ここで悲劇、というより事故が起こる。

永愛に膵臓がん罹患が発覚したのである。

しかも、ステージ4であった。

膵臓がんはすべてのがん種の中で最も悪性度の高いものの一つであり、見つかったときはかなり進行していることが多いので有名だ。

案の定、永愛の膵臓がんはステージ4の状態で発見された。

現在の医学ではこのステージの膵臓がんの5年生存率は7%以下であり、多くが2年か年以内に死んでしまう。

しかし、この短編小説の時代設定は2050年頃になっているので、末期膵臓がんも死病ではなくなっていた。

永愛は最初母校の大学附属病院に入院していたが、ここでは完全な治癒は望めない。

そこで、医学全般に詳しい皮村が腫瘍内科の教授と相談して、現在国内一の治療成績を誇る東京の癌研有明病院への転院を決めたのである。

もちろん、永愛は大賛成であり、すぐに転院した。

そして、有明病院の肝胆膵腫瘍内科で最新の分子標的薬治療と重粒子線治療を受け、見事寛解したのである。

このとき永愛は55歳であった。

2024年時点ではまだほとんどの転移性膵臓がん、末期膵臓がんの患者は二年以内ぐらいに死んでいる。

しかし、医学の進歩はそれを克服した。

ちなみに昭和の時代、がん告知=死であり、かなり高率でがん患者は死なざるをえなかった。

そこで、多くの人が宗教や超自然的力や代替療法に助けを求めた。

2024年時点でもまだこの傾向は残っている。

しかし、医学はその道に逃げることなく、飽くなく合理的な治療法を求め、研究を進めてきた。

不老不死や死後の幸福を求める代わりに、あくまでこの世の人生の内部で可能な限り解決しようとしたのである。

ちなみに、死後の復活、幸福の再獲得を目指すのと、不老不死を求めることは次元が違う。

不老不死は健康な人でもかなりの率で求めるものなのである。

 

なぜ、人は85年の天寿で満足せずに不老不死を求めるのだろうか。

講義でも触れたが、人々が希求する、あるいは想定する「不老不死」は非常に曖昧な概念であり、多くの人は単に死なずにいつまでも生きたいと思うだけである。

私はこの短編でその考え方の愚かさ、軽薄さ、不合理さ、薄っぺらな俗物根性を示唆した。

その私の意図をしっかりとらえることが本短編の精確な読解につながるのである。

 

なお、まだ体調不十分なので、件の作品の残りの部分の解説とその他の講釈は火曜日あたりにupする。

 

ただ、今言っておきたいことがある。

不老不死を望むということは何も個人の生命の永遠の持続、老化を忌避していつまでも健康に生きるという欲望、希望として現れるだけのものではない、ということである。

今、都知事選の選挙運動の最中だが、小池と蓮舫とその他売名、利権がらみで出馬している候補たちの「俗な欲望」にそれは別の形で表れてくる、このことに少しは気づいてほしいのである。

新鋭の石丸伸二は石丸、小池、蓮舫、田母神という代表的候補四人の公開会見で、自分の目的を小池の横の席で力強く「政治屋の一掃」と言い放った。

権力獲得や売名や富の獲得のために政治を利用し、庶民を貧困に陥れて、良心の咎めの欠片もない政治家たち。

仕事をしているふりをしているだけの無能な著名人。

こうした人たちを石丸は「政治屋」と言っているのだが、そういう人たちを全員消し去るべきだ、と主張しているのだ。

彼の口調は極めて堂々としていた。

不老不死へ俗な憧れは、現世においては貧しい人の生き血を吸って富を得ようとする政治屋の「派閥形成」にはっきり表れている。

行政と経済の素人たる小池や蓮舫がなぜ当選し要職につけるのか。

それは政治家たちが「現世における不老不死」「派閥内の繁栄と富の確保と継続」を、マジックと詐欺によって実現しようしているからなのだ。

不老不死の希求は実際の老化と死の忌避ではなく、こういう俗な欲望としても現れてくるのだ。

 

少し話がそれたが、次回はまた作品の残りの部分の解説から始める。

 

なんか、外界では怪しいことがやられてるにゃ。一人だけ信頼できる人がいるにゃ。

 

不老不死を望むのは人間という馬鹿な生物だけだにゃ。特に政治屋。


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哲学B1 文章講義 第3回目

2023-12-23 17:39:47 | 哲学

次は「心と身体の関係はメビウスの帯である」について解説すると思ったかもしれないが、これは省略する。

各人で、この短い小説を読んでおくこと。

 

講義中に「鶏と卵のどっちが先か」という難問の答えは明白だ、と言った。

「卵」が先なのである。

これは創造主と被造物、親と子供の関係のイメージを括弧で括って、宇宙の物質進化における生命の誕生を知ると、理解できる。

より無形の物質に近いものの方が先なのである。

遺伝子の方が先なのである。

リボ核酸とデオキシリボ核酸の方が原子生物たる単細胞生物よりも先であり、卵を産む恐竜や鳥類などの多細胞生物よりははるか先なのである。

イメージに囚われずに、科学的に考えないと、へんな謎かけにはまってしまい、変な方向に行くよ。

心身問題にはちゃんと答えがあるし、合理的な解決法があるんだよ。

しかし、その際、心と身体の関係を「メビウスの帯」として捉えることが肝要なんだ。

 

       僕もそう思うにゃ。     

 

         僕たちのどっちが先かなんて言えないよにゃ。


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哲学B1 文章講義 第2回目

2023-12-23 10:56:44 | 哲学

今回は「抗うつ薬と魂の救済」という作品について論じる。

今度もまたテキスト中のこの作品を未読の者は、この文章を読む前にテキストに戻り、呼んだから出直せ!!

 

さあ、みんな作品を読んだようなので、解説に入る。

 

この作品は「抗うつ薬」による「魂の救済」を題材とした心境小説である。

心境小説というよりは、エッセイまがいの論文と言えるような代物だが、小説には定型というものがないので、型破りの心境小説ということになる。

 

最初の方に極めて印象深い精神科医の文章が引用されている。

それは次のようなものである。

 

「自殺企画が切迫していると思われる症例にはクロミプラミン(アナフラニール)の点滴治療を依頼し、救急処置としてはホリゾン10mgを静注」。

 

恐ろしい。

ショッキングだ。

それに精神の苦悩に対いて物質的処置を最優先している。

自分がこうなったら、どうしよう。

嫌だ。

逃げたい。

そう思うかもしれない。

しかし、それはこういう状態になったことがないからである。

あるいは、よくある少し激しい精神的動揺状態のことを想い出して、この文章の感想を得るので、そう思うのだ。

むしろ、事故による大怪我、ナイフで刺されて大出血、腸閉塞その他による腹部の法外な激痛。

こういうものを想定した方がいい。

自殺企画が切迫した精神疾患者、あるいは健常者のとてつもない精神的動揺、苦悩に対して緊急の抗うつ薬の持続的点滴について感想を得るときには、

こうした極限的肉体的苦痛を連想した方がいい。

これは、これまで講義で何度も触れて来た心身二元論の克服を意味する。

この作品のテーマは心身二元論の克服である。

特にうつ病理解におけるそれである。

それと「痛み」の意味が深くかかわってくる。

 

途中「私」=作者の体験が述べられる。

一つは酷い精神的動揺く

もう一つは尿路結石のこの世で一番の激痛体験。

さらに、二ヶ月ほどの持続とはいえ、原因不明の強い疼痛体験。

 

このうち最後のものに抗うつ薬が奇跡的効果を果たしたことが告白されている。

実体験がある。

私は実は抗うつ薬による慢性疼痛からの奇跡的解放ということに関して半信半疑であった。

医学書その他から、その症例と鎮痛メカニズムについては知っていたが、実体験はやはり強力である。

やはり本当だったんだ。

そのとき私は抗うつ薬ルボックス(マレイン酸フルボキサミン)を神として讃えた。

神なんてその程度のものなんだ、と本文でも述べている。

 

死はたしかに恐ろしい。

生物である人間はいつか必ず死ぬものだということが理屈では分かっていても、感情が勝ってしまう。

しかし、この作品中で述べられるように、死よりも怖いものがあるのだ。

それは末期がんの回復不能の激痛である。

これは死というオプションがついているので、さらに辛い。

しかし、原因不明の回復のめどが全く見えない長期の持続的疼痛、激痛も、それに劣らず辛い。

それに耐えかねて自殺する者もいる。

こうなると、死は不幸や凶事ではなくて「救い」となる。

しかし、早まってはいけない。

諦めるのは早計である。

末期がんの激痛は処置なしだが、30年ぐらい続く原因不明の慢性疼痛は抗うつ薬が救済してくれるのだ。

この際、抗うつ薬は「病は気から」という精神的次元で効くのではなく、脳の痛覚中枢から脊髄後角に向って降りて行く神経線維の束、

下行性疼痛抑制系のノルアドレナリン経路とセロトニン経路の麻痺を修正することによって劇的効果を発揮するのだ。

しかし、心身二元論に囚われていると肉体的苦痛が向精神薬である抗うつ薬によって治るわけがないと思ってしまう。

肉体的苦痛になんで精神科なの、と思ってしまう。

そこで、精神科から逃げて、回復の機会を何十年も逃してしまうのであ。

精神科医の方でも、また整形外科他の身体科の医師の方でも、慢性疼痛に対する抗うつ薬の効果について知らない人がけっこう多いので、こうなるのだ。

 

結局、抗うつ薬による魂の救済というのは、心身二元論の克服を示唆したものであり、痛みの心身両義性を超えて精神の物質性を暗示したものなのである。

 

以上のことを顧慮して、もう一度作品に向ってほしい。

細部を省いたのは、自分で読んで理解させるためである。

 

       痛みはつらいにゃ。僕の心砕くにゃ。

 

       死にたいにゃ。抗うつ薬の点滴たのむにゃ。

 

      治ったにゃ。僕の魂は抗うつ薬によって救済されたにゃ。

 


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哲学B1 文章講義 第1回目

2023-12-20 10:16:28 | 哲学

今日はテキスト『心境小説的短編小説集』の中の五番目の作品「医学と哲学と人生」について文章で講義する。

この講義を読む者は、あらかじめ作品を読んでいなければならない。

必ず一度読んでから、この文章講義を読むこと。

もしテキストを読んでいなかったら、ブログから離れてテキストに向え!!

 

はい、みんな「医学と哲学と人生」を読んだね。

すごく短い作品だから、すぐ読み終えたはず。

それに簡単で読みやすい内容だから、すぐに読み終えたはずだよね。

それでは、解説に入ることにする。

 

この作品は他の典型的なものとは違い、最初からすぐ心境小説が展開し始める。

語り手の「私」のモデルはいちおう私自身だが、百パーセントそうなわけではない。

少し脚色している。

心境小説というものは私小説的性格が強く、だいたい自分の体験や心境を想起して書かれるものだが、少し脚色しているものもある。

また、この「医学と哲学と人生」は、これまでこの授業で扱ってきた短編小説群の中では最も専門用語や哲学議論が少なく、生活感に満ちているので、学生諸君も親しみやすいはずだ。

自分の体験や心境にも重ね合わせやすい。

 

それでは、内容に入ろう。

 

冒頭には私の小学生の頃の嗜癖が書かれている。

それは家庭医学書、あの分厚い家庭医学書を愛読書にしていたことである。

昭和の頃にはどの家庭にも必ず分厚い家庭医学書が一冊常備されていた。

私の家には二冊あり、他にも父親の勤める会社から付与された類書が三冊あった。

この計五冊を私はよく読んでいたのである。

母親に「心配性になるから止めなさい」と言われたが、止められない。

止められない止まらない、のである。

普通の少年、いや大人でも死に至る病の厳しい症状が多数記載された医学書は読みたくないものであるが、私はまるでホラー映画を楽しむしように、読みふけった。

 

読んだ後、恐ろしく不安になり、病気ってこんなに怖いんだ、死にたくない、自分は虚弱気味だから、多分30代で大病になり死ぬかもな、と戦慄、悪寒でがくがくブルブル状態。

だったら、読むの止めなよ、と言われそうだが、止められない止まらないカッパエビセンなのである。

あの頃からあのお菓子はあったのだろうか。

 

古い家庭医学書を読んでいると、医学と治療の進歩をつくづくと感じるが、昔と大して変わらないものもある。

それに最近増えている重病、難病もあるし。

例えば、日本においてかつて「がん」と言えば、まず「胃がん」であった。

それが近年、大腸がん、乳がん、肺がん、前立腺がんの方が優位に立ってきた。

また、昔はがん=死のイメージが強烈で、ほとんど死ぬという感じだったが、近年はかなり長生きするようになってきた。

たしかに、未だに手の打ちようのない悪性度の高いがんもあるが、典型的で症例の多いがんは治りやすくなってきたし、死なない。

治らない、死なない、というよりもがんと共生して何十年も生きられるようになったのである。

また、インターネット全盛のこの時代、ネットには闘病ブログがあふれ、書店には闘病記本がたくさん置かれている。

かつて家庭医学書オタクであった私は、今や闘病ブログ・闘病記オタクになっている。

続けて読んでいる闘病ブログが常に5~10あるが、読んでいるうちに死んでしまうものが多い。

今も、近いうちに死にそうな女医のブログを読み続けている。

これには禁断の楽しみがある。

 

禁断の楽しみと言うと、悪い嗜癖のように思われやすいが、そうでもない。

もし、知人がこういう状態になったら色々アドバイスできるし、自分の健康維持のためにもなる。

死に瀕したがん患者は、他人の役に少しでも役に立てばと思い、あえて無様な自分の状態をさらしているのだ。

それは必ずしも本人にとってマイナスの要素しかないものではない。

むしろストレス解消となるのだ。

やりきれない末期がんとの戦い、あるいは長期の闘病のストレスの愚痴として書くのだ。

応援のコメントも励みになるし、広告収入もある。

 

抗がん剤治療は高くつくからなー。

仕事も休み、収入は減るし。

 

テキストを要約してもしょうがないので、すかしたような文章で間接的に内容に触れているが、どうしても引用したい部分がある。

それは頚髄損傷を負った出版社の編集長の言葉である。

 

「闘病記なんてものは、健康な人が自分はこんな苦しい思いや不自由さを味合わなくて済むんだなー、とその有り難味を再認識するために読むものなんだよなー」。

 

これがその文章である。

頚髄損傷においては首から下の上半身・下半身が全麻痺になる。

それには程度の差があるが、基本一生寝たきりになる。

想像以上に厳しい。

治るタイプのがんよりも数十倍厳しい。

 

私は禁断の楽しみを指摘されたように感じ、いったん恐縮したが、すぐに、「そんなことないよ。それだけじゃないよ。医学、病理学、治療技術、死の意識、患者の心理

に興味が強く、それを自分の臨床哲学と小説執筆のために役立てているんだよ」と言いたくなった。

実際、それは自身の健康の維持、病気になった他人へのアドバイス、臨床哲学の研究に役立っている。

医学自体を趣味でずっと研究、勉強しているが、患者本人の心理、苦しみ、死の意識には並々ならぬ興味がある。

そして、ここから「医学と哲学と人生」という思考案件への思い入れとその心境小説化が実現したのだ。

 

この短編のなかで他に注目してほしい箇所が二つある。

それは「私」の友人の睡眠習慣と安倍元首相のことである。

安倍元首相というよりは、故・安倍元首相ということろが悲しいところだが。

 

私の友人が豪語していた「俺は五時に寝て七時に起きる」ということに着目されたい。

これは二時間睡眠ではなく、14時間睡眠である。

その後、彼は38歳で大腸がんで死んだ。

ここら辺の叙述を良く味わい、その意味を深く考えてほしい。

 

安倍首相に関しては暗殺のことはもとより、彼が抱えていた潰瘍性大腸炎という難病の克服、しかしその後の暗殺ということについて深く考えてほしい。

 

最後の方で「長期療養生活」について書かれている。

今では前述の頚髄損傷などがこれにあたるが、かつては「結核」がこの代表であった。

この長期療養生活についても深く考える必要がある。

これによって「医学と哲学と人生」という思考案件への視界がひらけてくるであろう。

 

以上、内容を体系的に解説することを避け、すかした解説にしたが、この方が君たちのために有益なんだ。

 

最後に、恒例の猫様に登場願う。

 

 

      面白かったにゃ

               ためになったにゃ

 

            この魚のように旨いにゃ


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哲学するブルース・リーと猫

2022-06-09 03:45:53 | 哲学

ワシントン大学哲学科出身のブルース・リーは大変な読書家であった。

A Source Book in Chinese Philosophy (中国哲学の原典) という本を読んでいます。

後ろの本棚には Psychotherapy (精神療法) という本もあります。

ちなみに猫だって哲学します。


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哲学B1 文章講義(第31回目)

2022-01-28 21:53:28 | 哲学

今日で一応、哲学B1の講義は終わりだが、期末試験も終わったので、休講とする。

興味がある者は各自で第10章や三つの付論や実験小説を読んでおくこと。

とにかく、この授業はもういいので、他の授業の試験やレポートに力を傾けてください。

 

新型コロナウイルス蔓延は、まだまだ終わりが見えません。

来年は原則的に対面授業にすると12月頃に大学から連絡があったが、それはコロナが終息しかけていた頃のことである。

その後、何の連絡もない。

おそらく、オンラインにするか対面にするか検討しているのだろう。

この授業のような大人数のものは、この際オンラインの方がいいのである。

コロナが終息しかけても、そうした方が良い。

 

欧米の大学では無駄な対面授業を減らして、オンラインにできるものはそれにするという方針に転換している。

友達とコミュニケーションできないのはつらいが、この際、読書と思索と知識収集に没頭するのもいいと思う。

最初にアメリカの医学者が予想したようにコロナの終息は2024年になるであろう。

 

            僕も孤独に耐えて、勉強するにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第30回目)

2022-01-18 17:57:58 | 哲学

今日は「4 鬱と人生の意味への問いかけ」について話す。

 

この節は言うまでもなく第9章の総括である。

ただし、この短い節について詳しく解説する必要はないであろう。

各自で読めば分かるからである。

しかし、分からない人もいる。

そういう人のために一般的な話をしよう。

 

我々は、何か障壁に突き当たらない限り「人生の意味」について深く考えない。

「私は何のためにいきているんだろうか」

「人間はなぜ生きていくのか」

「苦しいことばかりだし、どうせ時が来れば死ぬのだから、生きていることには大した意味はない」

 

こうした考え方が悪い方に傾き、厭世観がマックスになると、人は自殺する。

この過程を多くの人は純粋に精神的悩みと受け取っている。

しかし、肝要なのは、こうした希死念慮が意識の中に生じているとき、脳内の神経化学的活動はどうなっているのだろうか、と少しは考えることである。

テキストではそのことに注意を促している。

 

人は「人生の意味への問い」があまりに抽象的で、公理や定理や法則を当てはめて答えを導き出すことができないので、考えてもしょうがない、と投げ捨てがちである。

しかし、人生論と脳科学、人生の意味への問いと神経遺伝子、自殺関連遺伝子の関係に目を開けば、この問いが必ずしも観念的で空虚なものとは限らないことが

分かるようになるはずだ。

 

抗うつ薬の効き目などもこれに関連する。

生理学的次元と価値観、人生観、幸福観は密接に関係している。

 

私は年末から年始にかけて右の奥歯の歯茎が大きく腫れ、かなり痛んだ。

もしかしたら歯肉癌か、とも思ったが、よく調べたら、単なる歯肉炎による腫れと結論できた。

歯根に膿が溜まり、大きく腫れ、痛んだのである。

そして、今日、歯科に定期検診に行ったら、まさしくその通りの診断。

しかし、根を治療しても完治する可能性は低く、結局は抜歯になると思うので、しばらく様子見しよう、ということになった。

 

昨日の夜は31歳で大腸がんになり、その後肝臓と肺に転移した女性のブログを読みふけり、私も明日、歯科で「歯肉癌だ」と宣告されるんだろうな、

と一晩中うなされた。

ここにおいて人生論的思考と生理学的、病理学的次元は切っても切り離せない。

 

そして、私は大いなる苦悩を越えて歓喜に至った。

また、あの女性のブログの続きを読もう、と思う。

 

     それって、なんか高みの見物みたいで、いやだにゃ。

 

そうじゃなくて、主は病気の知識を増やして、病人にアドバイスするのが好きなんだにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第29回目)

2022-01-16 09:47:07 | 哲学

今日は「3 心身関係と鬱、そして人生」について講義する。

 

この節ではまず、鬱病が脳の病気であることを強調している。

ただし、脳の病気であるとしても脳腫瘍や脳梗塞やアルツハイマー型認知症のように脳の実質が侵される器質的病変はなく、機能的病変によるものである。

どういう機能的病変かと言うと、セロトニンやノルアドレナリンというモノアミン系神経伝達物質の枯渇であり、これによって絶対的倦怠感に至るような抑鬱症状が発生するのだ。

しかも、この脳の機能的病変には心理的、生活的ストレスが密接に関わっている。

つまり、鬱病における脳の機能障害は神経遺伝子のアンバランスによるモノアミンの枯渇しやすさと枯渇の持続であると同時に精神的ストレス、慢性疲労、過剰労働、パワハラ被害

による心理的発生機序も併せ持っているのである。

しかし、素人目には後者の精神的ストレス、落ち込みのみに目が言って、背景にある脳内の神経遺伝子のアンバランスな働きとモノアミンの枯渇は視野から外れる。

そこで登場するのが「鬱病は甘えであり、本当の病気ではない。根性で乗り切れ」という俗流の精神論と根性論による軽薄な鬱病理解である。

 

我々はこのような軽薄な精神論と根性論を乗り越えて、ぜひ脳と精神両面からの鬱病理解な至らなければならない。

また、鬱病における身体症状を心身症の発生機序に照らして正確に理解しなければならない。

 

そのための貴重な例は芥川龍之介の晩年である。

晩年と言っても、30~35歳なのだが、ここに彼が自殺に至った理由が簡略に、しかも正確に記述されている。

よく読んだほしい。

 

鬱病には人生への絶望からの自殺が伴うが、鬱病でなくても人は人生への絶望から自殺する。

芥川は鬱症状が強い不安神経症だったので、子供の頃からの厭世観、性悪説、悲観主義、人間不信と相俟って、自殺は必然的となったのである。

しかし、彼がその断末魔の苦悩を短編小説に結晶させた芸術家精神は不滅であり、人類の文化が存続する限り、彼の作品は世界中で読み継がれ、

影響力をもち続け、賞賛され続けるであろう。

とすれば、彼の短い一生を無碍に不幸なものと言い切ることはできないであろう。

 

しかし、この節の末尾に書いてあるように、若い頃彼に共感し、私も若死にすると思い込んでいた私は63歳になった今、ますます心身共に健康になり、創作に没頭している。

私の方が哲学を習得しており、浅い哲学理解の芥川は私に負けたのだ。

しかも、私の方がはるかに医学と生理学、特に精神医学と心身医学に通じていたし。

それよりも、生得的資質が違っただけとも言えるが。

 

                うーん、感慨深いにゃ。

 

                うまいにゃ。


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哲学B1 文章講義(第28回目)

2022-01-13 07:42:07 | 哲学

今日は「2 悲哀 対 絶対的倦怠感」について話す。

 

この節は前回言ったことを詳しく掘り下げたような内容となっている。

 

ポイントは「心理的落ち込み」と「本来の医学的鬱病」の違いを「悲哀」と「絶対的倦怠感」の違いとして把握することにある。

普通、うつと言うと、精神的落ち込みを連想するが、本来の精神医学的な鬱病は単にそのような精神的落ち込みではなく、身体症状を伴った心身的生命エネルギーの減衰である。

そこで、甘く見ていると、自殺に至ることになる。

精神的落ち込みでも自殺するが、心身的生命エネルギーの減衰でも自殺するのである。

とすると、自殺は本来の鬱病の病理の核心にはない付随現象であることが分かる。

 

自殺は大変な出来事なので、ついそれにばかり着目して、「鬱病になると自殺の率が健常者の24倍になる」という俗説を鵜呑みにすることになる。

実はこの説に裏がある。

精神的落ち込みと医学的鬱病を一緒くたにして、自殺した人は何らかのうつ状態にあった、というバイアスをそのまま通してしまう、素人の悪癖である。

鬱病の病理の本体は自殺に導くような暗い気分、精神的落ち込みではなく、脳の機能障害を基にした心身的生命エネルギーの減衰なのである。

 

この心身的生命エネルギーの減衰をこの節では「絶対的倦怠感」と表現しているのである。

それに対して、落ち込みの方は「悲哀」と表現している。

この絶対的倦怠感と悲哀を対比して、本来の「鬱病」とにせの「うつ」、いわゆる「落ち込み」を区別しなければならない。

 

      そうだにゃ。全くをもってそうだにゃ。

 

               僕もそう思うにゃ。

 


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