心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学B1 文章講義 第3回目

2023-12-23 17:39:47 | 哲学

次は「心と身体の関係はメビウスの帯である」について解説すると思ったかもしれないが、これは省略する。

各人で、この短い小説を読んでおくこと。

 

講義中に「鶏と卵のどっちが先か」という難問の答えは明白だ、と言った。

「卵」が先なのである。

これは創造主と被造物、親と子供の関係のイメージを括弧で括って、宇宙の物質進化における生命の誕生を知ると、理解できる。

より無形の物質に近いものの方が先なのである。

遺伝子の方が先なのである。

リボ核酸とデオキシリボ核酸の方が原子生物たる単細胞生物よりも先であり、卵を産む恐竜や鳥類などの多細胞生物よりははるか先なのである。

イメージに囚われずに、科学的に考えないと、へんな謎かけにはまってしまい、変な方向に行くよ。

心身問題にはちゃんと答えがあるし、合理的な解決法があるんだよ。

しかし、その際、心と身体の関係を「メビウスの帯」として捉えることが肝要なんだ。

 

       僕もそう思うにゃ。     

 

         僕たちのどっちが先かなんて言えないよにゃ。


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哲学B1 文章講義 第2回目

2023-12-23 10:56:44 | 哲学

今回は「抗うつ薬と魂の救済」という作品について論じる。

今度もまたテキスト中のこの作品を未読の者は、この文章を読む前にテキストに戻り、呼んだから出直せ!!

 

さあ、みんな作品を読んだようなので、解説に入る。

 

この作品は「抗うつ薬」による「魂の救済」を題材とした心境小説である。

心境小説というよりは、エッセイまがいの論文と言えるような代物だが、小説には定型というものがないので、型破りの心境小説ということになる。

 

最初の方に極めて印象深い精神科医の文章が引用されている。

それは次のようなものである。

 

「自殺企画が切迫していると思われる症例にはクロミプラミン(アナフラニール)の点滴治療を依頼し、救急処置としてはホリゾン10mgを静注」。

 

恐ろしい。

ショッキングだ。

それに精神の苦悩に対いて物質的処置を最優先している。

自分がこうなったら、どうしよう。

嫌だ。

逃げたい。

そう思うかもしれない。

しかし、それはこういう状態になったことがないからである。

あるいは、よくある少し激しい精神的動揺状態のことを想い出して、この文章の感想を得るので、そう思うのだ。

むしろ、事故による大怪我、ナイフで刺されて大出血、腸閉塞その他による腹部の法外な激痛。

こういうものを想定した方がいい。

自殺企画が切迫した精神疾患者、あるいは健常者のとてつもない精神的動揺、苦悩に対して緊急の抗うつ薬の持続的点滴について感想を得るときには、

こうした極限的肉体的苦痛を連想した方がいい。

これは、これまで講義で何度も触れて来た心身二元論の克服を意味する。

この作品のテーマは心身二元論の克服である。

特にうつ病理解におけるそれである。

それと「痛み」の意味が深くかかわってくる。

 

途中「私」=作者の体験が述べられる。

一つは酷い精神的動揺く

もう一つは尿路結石のこの世で一番の激痛体験。

さらに、二ヶ月ほどの持続とはいえ、原因不明の強い疼痛体験。

 

このうち最後のものに抗うつ薬が奇跡的効果を果たしたことが告白されている。

実体験がある。

私は実は抗うつ薬による慢性疼痛からの奇跡的解放ということに関して半信半疑であった。

医学書その他から、その症例と鎮痛メカニズムについては知っていたが、実体験はやはり強力である。

やはり本当だったんだ。

そのとき私は抗うつ薬ルボックス(マレイン酸フルボキサミン)を神として讃えた。

神なんてその程度のものなんだ、と本文でも述べている。

 

死はたしかに恐ろしい。

生物である人間はいつか必ず死ぬものだということが理屈では分かっていても、感情が勝ってしまう。

しかし、この作品中で述べられるように、死よりも怖いものがあるのだ。

それは末期がんの回復不能の激痛である。

これは死というオプションがついているので、さらに辛い。

しかし、原因不明の回復のめどが全く見えない長期の持続的疼痛、激痛も、それに劣らず辛い。

それに耐えかねて自殺する者もいる。

こうなると、死は不幸や凶事ではなくて「救い」となる。

しかし、早まってはいけない。

諦めるのは早計である。

末期がんの激痛は処置なしだが、30年ぐらい続く原因不明の慢性疼痛は抗うつ薬が救済してくれるのだ。

この際、抗うつ薬は「病は気から」という精神的次元で効くのではなく、脳の痛覚中枢から脊髄後角に向って降りて行く神経線維の束、

下行性疼痛抑制系のノルアドレナリン経路とセロトニン経路の麻痺を修正することによって劇的効果を発揮するのだ。

しかし、心身二元論に囚われていると肉体的苦痛が向精神薬である抗うつ薬によって治るわけがないと思ってしまう。

肉体的苦痛になんで精神科なの、と思ってしまう。

そこで、精神科から逃げて、回復の機会を何十年も逃してしまうのであ。

精神科医の方でも、また整形外科他の身体科の医師の方でも、慢性疼痛に対する抗うつ薬の効果について知らない人がけっこう多いので、こうなるのだ。

 

結局、抗うつ薬による魂の救済というのは、心身二元論の克服を示唆したものであり、痛みの心身両義性を超えて精神の物質性を暗示したものなのである。

 

以上のことを顧慮して、もう一度作品に向ってほしい。

細部を省いたのは、自分で読んで理解させるためである。

 

       痛みはつらいにゃ。僕の心砕くにゃ。

 

       死にたいにゃ。抗うつ薬の点滴たのむにゃ。

 

      治ったにゃ。僕の魂は抗うつ薬によって救済されたにゃ。

 


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哲学B1 文章講義 第1回目

2023-12-20 10:16:28 | 哲学

今日はテキスト『心境小説的短編小説集』の中の五番目の作品「医学と哲学と人生」について文章で講義する。

この講義を読む者は、あらかじめ作品を読んでいなければならない。

必ず一度読んでから、この文章講義を読むこと。

もしテキストを読んでいなかったら、ブログから離れてテキストに向え!!

 

はい、みんな「医学と哲学と人生」を読んだね。

すごく短い作品だから、すぐ読み終えたはず。

それに簡単で読みやすい内容だから、すぐに読み終えたはずだよね。

それでは、解説に入ることにする。

 

この作品は他の典型的なものとは違い、最初からすぐ心境小説が展開し始める。

語り手の「私」のモデルはいちおう私自身だが、百パーセントそうなわけではない。

少し脚色している。

心境小説というものは私小説的性格が強く、だいたい自分の体験や心境を想起して書かれるものだが、少し脚色しているものもある。

また、この「医学と哲学と人生」は、これまでこの授業で扱ってきた短編小説群の中では最も専門用語や哲学議論が少なく、生活感に満ちているので、学生諸君も親しみやすいはずだ。

自分の体験や心境にも重ね合わせやすい。

 

それでは、内容に入ろう。

 

冒頭には私の小学生の頃の嗜癖が書かれている。

それは家庭医学書、あの分厚い家庭医学書を愛読書にしていたことである。

昭和の頃にはどの家庭にも必ず分厚い家庭医学書が一冊常備されていた。

私の家には二冊あり、他にも父親の勤める会社から付与された類書が三冊あった。

この計五冊を私はよく読んでいたのである。

母親に「心配性になるから止めなさい」と言われたが、止められない。

止められない止まらない、のである。

普通の少年、いや大人でも死に至る病の厳しい症状が多数記載された医学書は読みたくないものであるが、私はまるでホラー映画を楽しむしように、読みふけった。

 

読んだ後、恐ろしく不安になり、病気ってこんなに怖いんだ、死にたくない、自分は虚弱気味だから、多分30代で大病になり死ぬかもな、と戦慄、悪寒でがくがくブルブル状態。

だったら、読むの止めなよ、と言われそうだが、止められない止まらないカッパエビセンなのである。

あの頃からあのお菓子はあったのだろうか。

 

古い家庭医学書を読んでいると、医学と治療の進歩をつくづくと感じるが、昔と大して変わらないものもある。

それに最近増えている重病、難病もあるし。

例えば、日本においてかつて「がん」と言えば、まず「胃がん」であった。

それが近年、大腸がん、乳がん、肺がん、前立腺がんの方が優位に立ってきた。

また、昔はがん=死のイメージが強烈で、ほとんど死ぬという感じだったが、近年はかなり長生きするようになってきた。

たしかに、未だに手の打ちようのない悪性度の高いがんもあるが、典型的で症例の多いがんは治りやすくなってきたし、死なない。

治らない、死なない、というよりもがんと共生して何十年も生きられるようになったのである。

また、インターネット全盛のこの時代、ネットには闘病ブログがあふれ、書店には闘病記本がたくさん置かれている。

かつて家庭医学書オタクであった私は、今や闘病ブログ・闘病記オタクになっている。

続けて読んでいる闘病ブログが常に5~10あるが、読んでいるうちに死んでしまうものが多い。

今も、近いうちに死にそうな女医のブログを読み続けている。

これには禁断の楽しみがある。

 

禁断の楽しみと言うと、悪い嗜癖のように思われやすいが、そうでもない。

もし、知人がこういう状態になったら色々アドバイスできるし、自分の健康維持のためにもなる。

死に瀕したがん患者は、他人の役に少しでも役に立てばと思い、あえて無様な自分の状態をさらしているのだ。

それは必ずしも本人にとってマイナスの要素しかないものではない。

むしろストレス解消となるのだ。

やりきれない末期がんとの戦い、あるいは長期の闘病のストレスの愚痴として書くのだ。

応援のコメントも励みになるし、広告収入もある。

 

抗がん剤治療は高くつくからなー。

仕事も休み、収入は減るし。

 

テキストを要約してもしょうがないので、すかしたような文章で間接的に内容に触れているが、どうしても引用したい部分がある。

それは頚髄損傷を負った出版社の編集長の言葉である。

 

「闘病記なんてものは、健康な人が自分はこんな苦しい思いや不自由さを味合わなくて済むんだなー、とその有り難味を再認識するために読むものなんだよなー」。

 

これがその文章である。

頚髄損傷においては首から下の上半身・下半身が全麻痺になる。

それには程度の差があるが、基本一生寝たきりになる。

想像以上に厳しい。

治るタイプのがんよりも数十倍厳しい。

 

私は禁断の楽しみを指摘されたように感じ、いったん恐縮したが、すぐに、「そんなことないよ。それだけじゃないよ。医学、病理学、治療技術、死の意識、患者の心理

に興味が強く、それを自分の臨床哲学と小説執筆のために役立てているんだよ」と言いたくなった。

実際、それは自身の健康の維持、病気になった他人へのアドバイス、臨床哲学の研究に役立っている。

医学自体を趣味でずっと研究、勉強しているが、患者本人の心理、苦しみ、死の意識には並々ならぬ興味がある。

そして、ここから「医学と哲学と人生」という思考案件への思い入れとその心境小説化が実現したのだ。

 

この短編のなかで他に注目してほしい箇所が二つある。

それは「私」の友人の睡眠習慣と安倍元首相のことである。

安倍元首相というよりは、故・安倍元首相ということろが悲しいところだが。

 

私の友人が豪語していた「俺は五時に寝て七時に起きる」ということに着目されたい。

これは二時間睡眠ではなく、14時間睡眠である。

その後、彼は38歳で大腸がんで死んだ。

ここら辺の叙述を良く味わい、その意味を深く考えてほしい。

 

安倍首相に関しては暗殺のことはもとより、彼が抱えていた潰瘍性大腸炎という難病の克服、しかしその後の暗殺ということについて深く考えてほしい。

 

最後の方で「長期療養生活」について書かれている。

今では前述の頚髄損傷などがこれにあたるが、かつては「結核」がこの代表であった。

この長期療養生活についても深く考える必要がある。

これによって「医学と哲学と人生」という思考案件への視界がひらけてくるであろう。

 

以上、内容を体系的に解説することを避け、すかした解説にしたが、この方が君たちのために有益なんだ。

 

最後に、恒例の猫様に登場願う。

 

 

      面白かったにゃ

               ためになったにゃ

 

            この魚のように旨いにゃ


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哲学するブルース・リーと猫

2022-06-09 03:45:53 | 哲学

ワシントン大学哲学科出身のブルース・リーは大変な読書家であった。

A Source Book in Chinese Philosophy (中国哲学の原典) という本を読んでいます。

後ろの本棚には Psychotherapy (精神療法) という本もあります。

ちなみに猫だって哲学します。


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哲学B1 文章講義(第31回目)

2022-01-28 21:53:28 | 哲学

今日で一応、哲学B1の講義は終わりだが、期末試験も終わったので、休講とする。

興味がある者は各自で第10章や三つの付論や実験小説を読んでおくこと。

とにかく、この授業はもういいので、他の授業の試験やレポートに力を傾けてください。

 

新型コロナウイルス蔓延は、まだまだ終わりが見えません。

来年は原則的に対面授業にすると12月頃に大学から連絡があったが、それはコロナが終息しかけていた頃のことである。

その後、何の連絡もない。

おそらく、オンラインにするか対面にするか検討しているのだろう。

この授業のような大人数のものは、この際オンラインの方がいいのである。

コロナが終息しかけても、そうした方が良い。

 

欧米の大学では無駄な対面授業を減らして、オンラインにできるものはそれにするという方針に転換している。

友達とコミュニケーションできないのはつらいが、この際、読書と思索と知識収集に没頭するのもいいと思う。

最初にアメリカの医学者が予想したようにコロナの終息は2024年になるであろう。

 

            僕も孤独に耐えて、勉強するにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第30回目)

2022-01-18 17:57:58 | 哲学

今日は「4 鬱と人生の意味への問いかけ」について話す。

 

この節は言うまでもなく第9章の総括である。

ただし、この短い節について詳しく解説する必要はないであろう。

各自で読めば分かるからである。

しかし、分からない人もいる。

そういう人のために一般的な話をしよう。

 

我々は、何か障壁に突き当たらない限り「人生の意味」について深く考えない。

「私は何のためにいきているんだろうか」

「人間はなぜ生きていくのか」

「苦しいことばかりだし、どうせ時が来れば死ぬのだから、生きていることには大した意味はない」

 

こうした考え方が悪い方に傾き、厭世観がマックスになると、人は自殺する。

この過程を多くの人は純粋に精神的悩みと受け取っている。

しかし、肝要なのは、こうした希死念慮が意識の中に生じているとき、脳内の神経化学的活動はどうなっているのだろうか、と少しは考えることである。

テキストではそのことに注意を促している。

 

人は「人生の意味への問い」があまりに抽象的で、公理や定理や法則を当てはめて答えを導き出すことができないので、考えてもしょうがない、と投げ捨てがちである。

しかし、人生論と脳科学、人生の意味への問いと神経遺伝子、自殺関連遺伝子の関係に目を開けば、この問いが必ずしも観念的で空虚なものとは限らないことが

分かるようになるはずだ。

 

抗うつ薬の効き目などもこれに関連する。

生理学的次元と価値観、人生観、幸福観は密接に関係している。

 

私は年末から年始にかけて右の奥歯の歯茎が大きく腫れ、かなり痛んだ。

もしかしたら歯肉癌か、とも思ったが、よく調べたら、単なる歯肉炎による腫れと結論できた。

歯根に膿が溜まり、大きく腫れ、痛んだのである。

そして、今日、歯科に定期検診に行ったら、まさしくその通りの診断。

しかし、根を治療しても完治する可能性は低く、結局は抜歯になると思うので、しばらく様子見しよう、ということになった。

 

昨日の夜は31歳で大腸がんになり、その後肝臓と肺に転移した女性のブログを読みふけり、私も明日、歯科で「歯肉癌だ」と宣告されるんだろうな、

と一晩中うなされた。

ここにおいて人生論的思考と生理学的、病理学的次元は切っても切り離せない。

 

そして、私は大いなる苦悩を越えて歓喜に至った。

また、あの女性のブログの続きを読もう、と思う。

 

     それって、なんか高みの見物みたいで、いやだにゃ。

 

そうじゃなくて、主は病気の知識を増やして、病人にアドバイスするのが好きなんだにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第29回目)

2022-01-16 09:47:07 | 哲学

今日は「3 心身関係と鬱、そして人生」について講義する。

 

この節ではまず、鬱病が脳の病気であることを強調している。

ただし、脳の病気であるとしても脳腫瘍や脳梗塞やアルツハイマー型認知症のように脳の実質が侵される器質的病変はなく、機能的病変によるものである。

どういう機能的病変かと言うと、セロトニンやノルアドレナリンというモノアミン系神経伝達物質の枯渇であり、これによって絶対的倦怠感に至るような抑鬱症状が発生するのだ。

しかも、この脳の機能的病変には心理的、生活的ストレスが密接に関わっている。

つまり、鬱病における脳の機能障害は神経遺伝子のアンバランスによるモノアミンの枯渇しやすさと枯渇の持続であると同時に精神的ストレス、慢性疲労、過剰労働、パワハラ被害

による心理的発生機序も併せ持っているのである。

しかし、素人目には後者の精神的ストレス、落ち込みのみに目が言って、背景にある脳内の神経遺伝子のアンバランスな働きとモノアミンの枯渇は視野から外れる。

そこで登場するのが「鬱病は甘えであり、本当の病気ではない。根性で乗り切れ」という俗流の精神論と根性論による軽薄な鬱病理解である。

 

我々はこのような軽薄な精神論と根性論を乗り越えて、ぜひ脳と精神両面からの鬱病理解な至らなければならない。

また、鬱病における身体症状を心身症の発生機序に照らして正確に理解しなければならない。

 

そのための貴重な例は芥川龍之介の晩年である。

晩年と言っても、30~35歳なのだが、ここに彼が自殺に至った理由が簡略に、しかも正確に記述されている。

よく読んだほしい。

 

鬱病には人生への絶望からの自殺が伴うが、鬱病でなくても人は人生への絶望から自殺する。

芥川は鬱症状が強い不安神経症だったので、子供の頃からの厭世観、性悪説、悲観主義、人間不信と相俟って、自殺は必然的となったのである。

しかし、彼がその断末魔の苦悩を短編小説に結晶させた芸術家精神は不滅であり、人類の文化が存続する限り、彼の作品は世界中で読み継がれ、

影響力をもち続け、賞賛され続けるであろう。

とすれば、彼の短い一生を無碍に不幸なものと言い切ることはできないであろう。

 

しかし、この節の末尾に書いてあるように、若い頃彼に共感し、私も若死にすると思い込んでいた私は63歳になった今、ますます心身共に健康になり、創作に没頭している。

私の方が哲学を習得しており、浅い哲学理解の芥川は私に負けたのだ。

しかも、私の方がはるかに医学と生理学、特に精神医学と心身医学に通じていたし。

それよりも、生得的資質が違っただけとも言えるが。

 

                うーん、感慨深いにゃ。

 

                うまいにゃ。


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哲学B1 文章講義(第28回目)

2022-01-13 07:42:07 | 哲学

今日は「2 悲哀 対 絶対的倦怠感」について話す。

 

この節は前回言ったことを詳しく掘り下げたような内容となっている。

 

ポイントは「心理的落ち込み」と「本来の医学的鬱病」の違いを「悲哀」と「絶対的倦怠感」の違いとして把握することにある。

普通、うつと言うと、精神的落ち込みを連想するが、本来の精神医学的な鬱病は単にそのような精神的落ち込みではなく、身体症状を伴った心身的生命エネルギーの減衰である。

そこで、甘く見ていると、自殺に至ることになる。

精神的落ち込みでも自殺するが、心身的生命エネルギーの減衰でも自殺するのである。

とすると、自殺は本来の鬱病の病理の核心にはない付随現象であることが分かる。

 

自殺は大変な出来事なので、ついそれにばかり着目して、「鬱病になると自殺の率が健常者の24倍になる」という俗説を鵜呑みにすることになる。

実はこの説に裏がある。

精神的落ち込みと医学的鬱病を一緒くたにして、自殺した人は何らかのうつ状態にあった、というバイアスをそのまま通してしまう、素人の悪癖である。

鬱病の病理の本体は自殺に導くような暗い気分、精神的落ち込みではなく、脳の機能障害を基にした心身的生命エネルギーの減衰なのである。

 

この心身的生命エネルギーの減衰をこの節では「絶対的倦怠感」と表現しているのである。

それに対して、落ち込みの方は「悲哀」と表現している。

この絶対的倦怠感と悲哀を対比して、本来の「鬱病」とにせの「うつ」、いわゆる「落ち込み」を区別しなければならない。

 

      そうだにゃ。全くをもってそうだにゃ。

 

               僕もそう思うにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第27回目)

2022-01-10 07:38:01 | 哲学

今日から第9章「鬱と人生の意味への問いかけ」に入る。

この章では「うつ」と書かないで、わざと「鬱」と漢字で書いてある。

それの方がインパクトが強いからである。

その意図は読んでもらえば分かる。

 

本章の構成は次のようになっている。

 

はじめに

1 がん 対 鬱

2 悲哀 対 絶対的倦怠感

3 心身関係と鬱、そして人生

4 鬱と人生の意味への問いかけ

 

相変わらず整合的で論理的な構成であり、順を追って読んでいけば、誰でもよく理解できるはずである。

 

今日は「はじめに」と第1節について話す。

 

序では鬱が単なる精神的苦悩、あるいは心理的落ち込みではなく、心身両面に渡る生命エネルギーの減衰であることが指摘されている。

これは最も基本的で重要な「鬱」ないし「鬱病」理解のための基盤なので、しっかり把握しておくこと。

 

単なる落ち込みとしての「うつ」と精神疾患としての「鬱病」ないし「鬱状態」の違いは何か、というと、それは身体症状の合併の有無だと言える。

精神疾患としての鬱病には自律神経失調を中心とした様々な身体症状が付帯する。

不眠、倦怠感、便秘、性欲減退、食欲の著しい減退などがその代表である。

その他、原因不明のしつこい眩暈、原因不明の慢性疼痛、視力減退、記憶力低下などがある。

 

鬱病を素人でも、あるいは自力で治せる「単なる落ち込み、心の不調、精神的苦悩」と考えてはならない。

それを示最も極端な例は、鬱病、うつかと思ったら実は脳腫瘍、脳梗塞だったというものである。

素人が脳腫瘍や脳梗塞を治療できますか。

これぐらいの重みを顧慮して鬱病を理解してほしい。

 

とはいえ、鬱病には他の身体科と違う特殊な心理学的配慮が必要となる。

そこで、医学用の病理心理医学たる精神病理学を習得した精神科医のお出ましとなるのである。

臨床心理士のサポートも極めて重要である。

心理面では精神科医よりも心理士の方が強いし。

 

なお、ここでも芥川龍之介が引き合いに出されているが、重要なので注意すること。

 

次に第1節について。

 

ここでは「がん」と「鬱」のどちらがつらいかについて説明している。

結論を言うと、鬱ないし鬱病の方である。

これは意外と思うかもしれないが、両方を体験した患者の多くが証言している事実なのである。

 

「先生ね、抗がん剤の副作用は一週間で終わるけど、鬱病の苦しみはずっと治らない気がするんですよ」。

 

この患者の切実な訴えに傾聴しなければならない。

絶望は死に至る病である、と言われる。

がんもそうである。

鬱病もそうである。

そして、最も死に隣接しているのが鬱病なのである。

今日、がんは治るようになった。

しかし、神田沙也加は・・・・・・・

 

あの例をよく考え、喪に服してほしい。

 

 

       僕は神田沙也加のファンだったにゃ。悲しいにゃ。

 

              僕も喪に服すにゃ。


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哲学B1 文章講義(第26回目)

2022-01-07 07:33:36 | 哲学

今日は「4  崩壊する自我の自然」について話す。

 

自殺の「自」は自然の「自」である。

自殺とは自然へと還る一つの方策なのである。

だから、闇雲にそれを否定してはならない。

快楽主義者のリア充は自殺を蛇蝎のように忌み嫌うが、それは彼らの浅い心と薄っぺらな人格の表れである。

 

滅びの美学を理解できる人は心が深い。

ダンディズムとは過去の栄光を一身に背負いつつ、身をもち崩し、破滅していくことである。

それは最高の美学であり、根源的自然への還帰、魂の故郷への還帰なのである。

 

我々は哲学を通して幸福と不幸の通俗的対置を乗り越え、知的ダンディズムを身につけなければならない。

悲劇のヒーロー、ヒロインになることを目指すのである。

そうした意識が陰りのある美貌となって表れ、脱我(ecstasy)の雰囲気を醸し出すのである。

 

自殺する者は勇気あるものである。

小心者の私にはけっしてできない英雄的行為である。

しかし、真の天才中の天才は、意外と小心者で、地味で、自殺なんかしないけどね。

大器晩成型だから。

 

 

             僕も大器晩成型の天才だにゃ

                  

                  僕は凡猫だにゃ。


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哲学B1 文章講義(第25回目)

2022-01-06 07:25:08 | 哲学

今日は「3 自殺の臨床哲学の可能性」について話す。

 

君たちは自殺したくなったら誰に相談するであろうか。

あるいは、人が自殺したくなったら、どこに相談に行くと思うか。

 

第一選択肢は精神科のはずだが、精神科は思いの外信頼されておらず、親、友人、先生、民間の心理カウンセラーのような人、宗教関係などを頼りとするようだ。

大学にも学生相談室や保健室があるから、とりあえずそこに行く者もいるであろう。

 

なぜ、精神科に直行しないのか。

それは日本人の意識に深く刷り込まれた心身二元論、つまり精神と物質の二元分割によってである。

医学はあくまで物質科学として病気を治すものであって、精神という聖域に関わることは許されない、というわけである。

かなり軽薄な信念だが、本人は確信しており、揺るがない。

精神科は脳の機能障害に定位して、諸々の精神の不調、精神疾患を治療するものなのだが、誰もこのことを知らない。

精神科では薬物療法が中心となっていることは知っているが、それを「薬漬け」とか「麻薬で誤魔化すようなもの」と受け取り、精神という聖域を守ろうとする。

そういう思い込みに囚われた者が、実際に統合失調症になったらどうなるか、という例をテキストで取り上げて説明している。

 

他方、軽薄な唯物論によって「脳を薬によってチューニングして、楽チンして精神の不調を治そう」と主張する馬鹿者もいる。

かつてベストセラーになった『完全自殺マニュアル』の作者である。

この作者は、その後覚醒剤不法所持によって逮捕され、その後どこに行ったか分からなくなった。

 

心の臨床哲学は、こうした二つの両極端な立場、軽薄な精神主義と薄っぺらな唯物論の中道を行く観点から、自殺の意味を捉え、それに対処しようとする。

それは簡単なようでいて、意外と難しい。

その意味を深く考えてほしい。

 

なお、自殺は安楽死の問題にも関わる。

多くの人は闇雲に自殺を否定し、それを蛇蝎のごとく忌み嫌う。

しかし、私は自殺を必ずしも否定しない。

特に、前にあげた四人の作家のような例はむしろ賞賛に値する、と思う。

 

人類は人口爆発の状態にある。

このままでは地球の自然環境を破壊し続け、多くの生物を巻き添えにして、地球自体を物理的破滅に追い込むであろう。

単に人類が滅亡するだけではなくて、地球自体を破壊してしまうのである。

しかし、もし地球が自己組織化する有機体として、自動的に自己を存続できるように舵を切るなら、ある手段をもって人類の数を間引こうとするであろう。

能産的自然の自己組織性とは、そういうものなのである。

そして、新型コロナのパンデミックはその一環だとも言えるのである。

 

我々は人間を神の子、神聖な精神的生物として特別視する観点を捨てて、自然に対して少しは謙虚になるべきなのである。

そのためには、宗教というものをこの世から抹殺する必要がある。

それと、悪徳政治である。

科学に関しては、科学哲学による厳しい監視が必要となる。

 

ちなみに、この講義は来年は一応対面授業になる予定だが、多分オンラインに切り替わると思う。

我慢して、多量の本を読んでほしい。

 

 

                                  僕は毎日大量の本を読んでるにゃ。

   

         僕は陰から君たちを監視してるにゃ。


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哲学B1 文章講義(第24回目)

2021-12-18 06:46:37 | 哲学

今日は「2 自我崩壊とは何か」について話す。

 

我々は激しい動揺や不安や緊張を抱えたとき、自分が自分でないような感覚に襲われる。

自分が誰だか分からなくなり、ワー、と叫びたくなる、あのパニック的錯乱意識である。

自我崩壊とはおよそこのような現象と思ってもらってよい。

しかし、このような動揺、錯乱、パニックは一時的なものであり、興奮が収まれば消えてしまう。

繰り返す人もいるが、その都度一過性のことが多い。

しかし、これが慢性化し、習慣化すると、自殺に至る。

あるいは、精神病院に救急搬送されるような興奮・錯乱状態になる。

こうなると、精神疾患の範疇となる。

 

前回挙げた笹井芳樹の場合は微妙で、精神疾患とは言えないが、精神的動揺の持続による自我崩壊とみなすことはできる。

まぁ、普通に鬱状態の悪化である。

何度も取り上げる芥川龍之介の場合は「神経衰弱」という精神疾患であり、それもかなり悪性のものであった。

特に不眠がひどく、暗い意識、嫌な記憶、将来への強い不安、発狂への恐怖、身体の不調への懸念といった悪玉の意識ファイルを熟睡によってデフラグできない状態が何年も続いた。

これでは、自殺が唯一の救いとなってしまう。

芥川の例は「自我崩壊」の鮮烈さを強烈に示している。

 

この節の中に「自我なんか、心なんかなければ、悩むこともないし、自我崩壊して自殺することもないであろうに」という言葉がある。

ここに精神というものの意外な悪玉性が隠れている。

精神と自然。

最終的に重要なのは自然の方である。

だから、私は繰り返し「君自身にではなく、自然に還れ」と主張するのである。

 

この節の最期の文章は極めて重要なので、引用しておこう。

 

「自殺を悪とみなし、自殺者が死後地獄に落ちるという宗教の主張を私はけっして認めないし、許さない。自殺は病気や災害による死と同様に自然的災害なのであり、

道徳的に非難される筋合いのものではない。むしろ、精神医学的に対処されるべき疾患の一種とみなすのが本筋なのである」。

 

精神の本質を理解するために重要なのは、宗教ではなくて、精神医学、心理学、脳科学、そして哲学である。

 

そして、「君自身にではなく、自然に還れ」という私の主張を理解するために役立つのは、ムンクの芸術、特に『叫び』から『フィヨルドに昇る太陽』への昇華である。

次の記事を参照。

「叫び」から「フィヨルドに昇る太陽」へ  ムンクにおける自然との和解 - 心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学 (goo.ne.jp)

 

芥川の例はよく考えて、参照する必要がある。

 

       僕もムンクの絵が好きだにゃ。

 

       よく眠ることが悩みを解決するんだにゃ。


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哲学B1 文章講義(第23回目)

2021-12-14 09:39:11 | 哲学

今日から第8章「自殺の臨床哲学 ― 崩壊する自我の自然」に入る。

 

この章は自殺と自我崩壊の関係を論じている。

構成は次の通りである。

 

はじめに

1 自我崩壊とは何か

2 自我崩壊と自然

3 自殺の臨床哲学の可能性

4 崩壊する自我の自然

 

整然とした論理的な構成である。

それゆえ、順を追って熟読すると誰でも理解できる。

ただし、先入見があると、分からないものとなる。

 

自殺と精神病は昔から偏見にまといつかれており、誤解が蔓延してきた。

そこで、自分の中にある先入見をすべて捨てて、白紙の心でこの章を読まなければならない。

 

今日は「はじめに」と第1節について話す。

 

序では自殺が不思議な現象であることを告知している。

そして、それが心身両面に渡る現象であることを強調している。

自殺は一般に病気とはみなされない。

単に精神の弱さや暗さと結びつけられて、非行や犯罪のイメージで理解されている。

精神疾患についても同様で、がんや心臓病や伝染病のように明確な物質的原因がある身体の病気とはみなされない傾向が強い。

あるいは、端的に「病気」ないし「疾患」とはみなされずに、精神の弱さ、人格の歪み、家に何かあった、悪魔憑き・・・・などと憶測される。

「精神異常」という言葉はあるが「身体異常」という言葉はない。

 

こうした軽薄な信念はすべて心身二元論に由来する。

人は身体に起こった病気ならどうしようもないが、精神は自分の自由になると思っている。

それゆえ、精神病は精神鍛錬によって治るものであり、医学的治療の対象などではないと憶測してしまう。

これは極端に見方だが、これよりも程度の低い偏見はほとんどの人の意識に行き渡っている。

要するに、精神病は甘えであり、教育や精神鍛錬によって治すべきものと考えてしまうのである。

 

脳梅毒って知ってるか。

梅毒スピロヘータが脳に侵入して、脳神経細胞を破壊することによって精神崩壊を起こす病であり、百年前には精神病院の入院患者の多くを占めていた。

この病因、つまり精神崩壊、進行麻痺の物質的原因は野口英世によって証明されていたが、それ以前には何と、この病気が心理的原因で起こるものと確信されていたのである。

この例は、精神病の精神主義的理解ないし心身二元論的把握の間違いを示すものとしてよく引き合いに出される。

我々は精神異常という現象に直面すると、まずはそれが心理的原因、精神的原因によって起こるものと考えてしまうのである。

 

ただし、脳梅毒による進行麻痺を含む精神疾患はすべて脳の病変によって説明できるものではない。

それには、やはり精神的ストレス、生活行動習慣の歪み、心理社会的原因が関与しているのである。

そこで、我々は精神疾患の種類によって心と脳ないし身体、精神と物質の間のバランスのとれた理解を確保する必要がある。

 

問題は「自殺」をどう捉えるかである。

自殺は精神疾患の中では鬱病との関連が着目されやすく、我々はそれを安易に鬱病ないし鬱状態と直結させてしまう。

しかし、自殺は基本的には精神的苦悩によるものであり、精神的苦悩は精神疾患でもそうでない場合にも起こるのだ。

ここら辺の区別は微妙だが、よく考える必要がある。

 

テキストでは2014年に自殺した再生医学の世界的権威・笹井芳樹の例が取り上げられている。

笹井はたしかに精神科に通院し、抗うつ薬と抗不安薬を服用していたが、自殺と精神的不調の原因は、精神疾患そのものではなく、例の精神的ストレスである。

ここら辺をバランスの取れた見方で理解することが肝要である。

 

とにかく、この章では自殺と自我の関係を自然主義的に捉え、崩壊する自我の自然を論じている。

自殺は人間の本質、心の本質、生命の本質を理解するうえで非常に重要な現象であり、単なる暗いイメージに流されてはならない。

前章で取り上げた四人の作家もそうであるし、笹井もそうであるが、自殺した者の中には傑出した人物がけっこういる。

純粋だからこそ、俗物に成り下がらないで、勇敢に自殺するのである。

 

よく、自殺は敗北であり、卑怯な行為だと言われる。

それはお前が俗物で、俗世の欲望と薄っぺらい幸福観に浸されているからだろう。

自殺したら負けだよ、とよく言われるが、単に自分が豚のように俗世の欲望に浸っていたいだけじゃないか。

 

だが、だが、である。

やはり自殺は防がなければならない。

そして、かつてベストセラーとなった『完全自殺マニュアル』のような軽薄な思想を徹底的に叩き壊さなければならない。

この著者は「僕は自殺を哲学的に捉えたくないんです。それを唯物論的に捉えたいんです」と主張していた。

軽薄で中身がない。

 

自殺は心の臨床哲学の観点から自然主義的に捉えられるべき生命的現象である。

心と物質の両側面から理解されるべき人間的ないし生物的行為なのである。

 

 

        僕も猫としてそう思うにゃ。

 

   僕もしみじみと人生の悲哀を感じるときがあるにゃ。猫として人生だにゃ。


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哲学B1 文章講義(第22回目)

2021-12-11 00:00:25 | 哲学

今日は三島由紀夫について話す。

もうテキストは各自読んでいると思うし、これから読むと思うので、少し敷衍した話をする。

 

この節のタイトルは「狂人の星・三島由紀夫」となっている。

このタイトルは昭和の大人気アニメ『巨人の星』をもじったものである。

このアニメは元巨人軍の選手で野球に挫折した父・星一徹が、息子の飛雄馬(humanの音写である)を一流の野球選手へと鍛え上げ、自分が成し遂げれなかった

巨人軍の星の座を飛雄馬に託した物語である。

次の画像は一徹が飛雄馬に向って「お前は一際でっかく輝く巨人の星となれ」と夜空の星を指さしつつ檄を飛ばしているところである。

 

 

私はこれをもじって三島由紀夫を日本文学界において一際でっかく輝く「狂人の星」と呼んだのである。

また、世界上の狂気の天才の中でも一際でっかく輝く狂人の星とみなされる。

三島由紀夫ほど「天才」、それも「狂気の天才」の本質を体現した人はいない。

彼は極めて知能が高く、才能にあふれ、努力家でもあったが、何よりもその常軌を逸した行動と生きざまは、天才とマニアの深い関係を世界で一番象徴している。

彼ほど「天才と狂人は紙一重」という格言がふさわしい人は歴史上いない。

 

晩年の軍服姿やボディービルのイメージから誤解している人が多いようだが、三島は典型的な秀才であり、高知能と天賦の芸術的才能をもち合わせていた。

三島は学習院の高等科を首席で卒業すると、東大法学部に入学した。

文学部ではなく法学部を選んだのは、父親の影響で官僚になろうとしたからである。

それよりも、彼は数学や論理的思考にも秀で、後の作品にも法科的論理性が表れている。

また、もし理系に進んだとしても優れた業績を遺したであろうほど、頭がよかった。

理数科目が苦手な文学部出身の作家とは一線を画している。

そんな三島が日本で一番尊敬していたのは、東大医学部卒の最高軍医・森鴎外であった。

三島は鴎外の話をするとき、手を合わせて拝むようにしたという。

 

ところで、三島の作家活動は十代前半から始まっており、法学部在学中や、卒後大蔵省(現・財務省)に勤めていたときは、夜執筆活動をしていたのだ。

 

 

(大蔵省から帰宅中の三島)

 

その後、作家活動に専念するために大蔵省を辞職した。

そして、多数の名作を書き上げた。

その中で一際光り輝くのは『金閣寺』と『豊饒の海』である。

『金閣寺』はノーベル賞の候補に挙がった時、最も注目された代表作であり、『豊饒の海』は四部からなる大作であり遺稿となったものである。

三島の代わりにノーベル文学賞を受賞した川端康成は、『豊饒の海』の第一部「春の雪」を読んだとき「これは『源氏物語』以来の日本文学の最高傑作だ」と絶賛した。

また、「本当にノーベル賞にふさわしいのは、先に候補に挙がっていた三島君だ」と言っていた。

 

(川端と対談する三島。二人は一応師弟関係にあるが、実は三島は川端から何も学んでいない。

すべて独創である。天才は先生を必要としないのである。)

 

また、三島の作品は多数が数十か国語に翻訳され、全世界にファンをもっていた。

そして、文学的、芸術的に非常に高い評価を受けていた。

日本に帰化するほど日本好きだったアメリカ人の日本文学者ドナルド・キーンは三島と親友関係にあったが、彼が三島文学を世界中に広めた功績は大きい。

 

(キーンと対談する三島)

 

私も川端やキーン、その他大勢の人のように三島は日本最高の作家、純文学者だと思う。

ちなみに、かれは余技で大衆小説やエッセイも書いている。

 

ところで、誤解が多いが、三島はそのマッチョな外観とは違い、繊細な精神のもち主であった。

そして、その作品は、暗く、変態的なものが多く、オタク的である。

しかし、華麗な文体と緻密な構成は天下一品であり、それは代表作『金閣寺』に端的に表れている。

 

しかし、やはり彼が身体鍛錬に凝っていたことはたしかであり、「肉体こそ不滅だ。精神は死ぬ」と主張していた。

彼は剣道五段の腕前であった。

 

 

ところで、三島はなぜ「魂ではなくて肉体こそ不死」だと主張したのだろうか。

それには彼が偏愛していた谷崎潤一郎の『金色の死』の影響がある。

この作品の主人公・岡村君は三島本人そっくりな変わり者の天才であり、奇妙な芸術観を唱え、肉体こそ芸術そのものだと主張し、箱根の奥にパラダイスを造り、

夜通しの大宴会を催した。

その際、岡村は鍛え上げられた筋骨隆々の肉体に全身金粉を塗りたくって一晩中踊り狂い、最後は皮膚窒息で死んだのだ。

まさに金色(こんじき)の死である。

 

誤解の多い、三島の市谷駐屯地のにおける自決の裏には、実はこの「金色の死」の思想があるのだ。

それよりも、彼は生物学的、精神医学的にみると、常に自死を狙っており、死に必然的に向かっていたのだ。

死によって自己の芸術が完成すると思っていたのだ。

まさに狂気の天才の典型、天才中の天才、マニアの顕現である。

 

(この姿を政治的な観点から見るのは阿保である。これは歌舞伎の一種である。)

 

 

なぜ、三島は「霊魂ではなくて肉体こそ不滅だ」と主張したのか。

それは彼の厭世観、自殺願望の表れである。

精神に対する肉体の重視の背後には「確実に死ぬことができるのは肉体だ」という真理が控えている。

彼は夭折の美学を信条としていたが、これは凡人にはとうてい理解できない心理であろう。

確実に死に、無になるためには、それを可能とする肉体の方を重視する必要があるのだ。

これを批判する凡人は野暮でしかない。

言うまでもなく、三島文学は人類の文化とともに永遠に生きるであろう。

そして、それを可能ならしめたのは、彼の夭折の美学なのである。

 

ちなみに、私は三島を超える自信はある。

 

 


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哲学B1 文章講義(第21回目)

2021-12-06 09:54:00 | 哲学

今日は「3 HUMAN LOST的狂人・太宰治」について話す。

 

太宰治の代表作は『人間失格』である。

この作品は太宰の代名詞となっているぐらい有名な作品であり、とてつもなく売れたロングベストセラーである。

今後も売れ続けるであろう。

人類が滅亡するまで。

 

そして、興味深いことがある。

最近私が考えているのは、太宰のこの作品を人類滅亡と結びつけて再評価できないか、ということである。

 

『人間失格』は好き嫌いが激しく分かれる作品である。

それはその人の感情、人生観、幸福観、価値観、人間観に由来する評価意識であり、多分に情感に左右されている。

私は哲学的にこの作品を評価し、それを楽天的ヒューマニズムに対する警告と受け取り、さらには人類滅亡に結びつけて再評価したい。

 

キリスト教の原罪説や東洋の性悪説やその他諸々の人間中心主義の楽天的価値観を批判する思想がある。

また、人間の尊厳を過度に持ち上げる考え方に対する警鐘も近年、再び主張され始めた。

そして、ここにきて新型コロナ感染症の世界的大流行による人類の危機である。

この状況に自然災害と地球環境の劣化が加わり、人類滅亡の可能性が取りざたされ始めた。

それに対抗する哲学、科学はトランスパーソナル・エコロジーである。

意訳すると脱人間中心主義的生態学、ないし脱利己主義的環境保護思想である。

これに太宰の思想を結び付けてみるのである。

その際、『人間失格』が一番重要なのは言うまでもない。

この作品をただ感情的に読んではならない。

哲学的に冷静に生態学的に読まなければならないのだ。

 

その前に、太宰と精神病と人間失格思想の関係について理解しなければならない。

 

太宰に精神疾患ないし精神障害の傾向があったことはよく知られている。

繰り返す自殺未遂、薬物中毒による脳病院への強制入院、奇行、その他事欠かない。

太宰は腹膜炎の際に使った鎮痛剤の中毒となり、精神に異常をきたし、精神科武蔵野病院に強制的に入院させられた。

このときの悲惨な気分を描いた作品が『HUMAN LOST』である。

日記調のこの作品はそれほど完成度の高くない乱雑なものであり、その後一つの小説へと純化されることになる。

その小説が『人間失格』なのである。

 

精神病は古くから特別の病気として人々から忌み嫌われ、軽蔑と偏見の対象となってきた。

簡単に言うと、精神病者は人間以下、人間失格だというわけである。

私は大学院生の合宿とき、先輩の非常勤講師が教授に対して「先生、精神病者を人間として扱っていいんですか」と訊いているのを間近で耳にした。

そう言われたのは私自身である。

私は昔から奇行が多く、多くの人から精神病を疑われてきた。

それはド素人の偏見、誤解、無知の表出にすぎないのだが、とにかくそう言われていた。

 

ちなみに、この先輩は、アル中であり、その後、暴漢に刺されて、身体障害になり、四〇歳のとき大学を辞めて田舎に帰った。

また、この教授は、その合宿の一年半後に肺がんで死んだ。

どちらも不摂生の典型であり、また精神病に対して古い偏見と幼稚な見解をもっていた。

死んだり、半身不随になったりしたのは自業自得、要するに罰があたったのである。

 

これは一つの例にすぎないが、自称・人間合格者の人間失格者に対する蔑視、非人道的扱いを端的に示している。

精神病者は古くから、「人間の尊厳」の名のもとに蔑視、非難、迫害されてきたのである。

この傾向は大分弱くなったが、今もなお残っている。

太宰の『人間失格』という作品は、この人間合格者の偽善に向けられている。

そして、この偽善が極まると、最終的には人類滅亡に至る、というのが私の考えである。

 

人間失格者の方が人間合格者より偉く、神に近い、という思想を私は他の作品でも論じている。

短編小説集の至る所に出てくる。

それも感情的な発言ではなく、科学的で哲学的な深い思想である。

ぜひ、読んでほしい。

そして、君たちの意識の中に絶対ある「人間合格者意識からする人間失格者、太宰治に対する軽蔑感」が阿呆の感情であることをトランスパーソナル・エコロジー

の観点から深く自覚してほしい。

 

なお、『人間失格』の中に面白い表現がある。

それは、主人公が女と心中して、女だけ死に、自殺幇助罪で警察署に出向いたとき、若い署長から開口一番言われたことである。

 

「おお、これはいい男だ。これはお前が悪いんじゃない。お前をこんないい男に生んだお前の母親が悪いんだ」。

 

太宰はイケメンで有名である。

それでファンになる人は昔から多いし、今でも後を絶たない。

その太宰の美男ぶりを三つのカメラアングル、風情から味わってみよう。

 

放蕩的な太宰(このイメージに流されないこと)

珍しく学術的な太宰(旧制新潟高校での講演会の後で記念撮影)

そして、最も有名な画像、これは人間じゃない、神だ。

 

 


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