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心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

もう一つ、偽善者度診断テスト

2018-07-15 07:29:28 | 意識・心理学

もう一つ偽善者度を診断するテストがあります。

こっちのほうが緻密です。

やってみましょう。

http://www002.upp.so-net.ne.jp/hit/gizen.html


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あなたの偽善者度チェック

2018-07-15 07:29:04 | 意識・心理学

話題は変わって、偽善者度を測るテストです。

やってみてください。

http://goisu.net/cgi-bin/psychology/psychology.cgi?menu=c075


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死に至る病としての絶望

2018-04-08 22:42:09 | 意識・心理学

キルケゴールの『死に至る病』は絶望を主題としている。

『純と愛』の世捨人さんは絶望から回復したが、それはドラマというフィクションだからであり、現実はそんなに甘くない。

絶望は多くの場合、死に至る。

つまり、自殺である。

自殺から人間を救うのは、信仰、精神医学、哲学、隣人愛などである。

いのちの電話もばかにできない。

人間はなぜ絶望するのだろうか。

それは彼が自己というものをもっており、それに囚われるからである。

自己というより我(が)といったほうがよい。

キルケゴールは、「絶望してなお自分自身であろうとする態度」を絶望の最悪の形態、つまり「救いようのない絶望」であると規定した。

自己を超越者としての神の前で透明にして、すべてを神に委ねよ、というわけである。

しかし、多くの人は神など信じれないであろう。

では、どうすればいいのか。

ただ無為にやりすごすのである。

何も考えず、嵐が過ぎ去るのを待つのである。

君自身にではなく自然に還るのである

自然はすべてを受容する包容力をもってあなたを救うであろう。

我々は自然によって生かされて生きているのだから・・・・


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意識と色彩

2018-04-08 16:34:52 | 意識・心理学

色彩は心の哲学において最重要の分析対象となっている。

なぜなら色彩は「意識に現れる感覚の質」としてのクオリアの代表的現象であり、感覚の生命的現象性を意識哲学の次元で考察するための格好の題材だからである。

もともと心は色で満ちている。明るい心。暗い心。晴れやかな心。曇った心。グレーな気分。ブルーな気分。バラ色の人生・・・・・等々。

我々が環境世界に目を向けるとき、網膜に真っ先に飛び込んでくる感覚情報は「色」である。

色は光の屈折が生み出すものであり、結局は「光」である。

そして光は生命と物質の根源として、世界の中で生きる我々の意識に存在の意味を照らし出す源泉である。

その光が対象に当たり、跳ね返って我々の網膜に到達するとき、諸々の「色」に変身する。

しかし、その色の「クオリア」を感得するのは、網膜だけではなく、視神経から後頭葉の視覚皮質に至る視覚的情報処理過程、ならびに脳内の諸神経モジュールからのフィードバックである。

こうして単なる色(電磁波としての光の波長)は「色のクオリア」として意識に現れるのである。

その際、気分、体調、記憶、価値観、嗜好などの個人的な心的特性が連合的に色彩クオリアの感得に降りかかってくる。

そこから明るい気分、暗い意識、前向きな姿勢、後悔の念、開放的な気分、鬱屈した感情などの諸々の意識特性が顕在化してくる。

結局、色彩は意識と生命をつなぐ蝶番なのである。


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努力と天才という誤った二分法

2017-09-14 10:04:55 | 意識・心理学

一般に「天才」とは努力なしに優れた成績を出したりや創作を成し遂げたりする人のこと、ないしそうした才能だと思われている。

それゆえ「天才」は容易に「努力」に対置され、努力しても及ばない「天賦の才能」ないし「天性の素質」である、と決めつけられる。

つまり、「天才⇔努力」という対置図式が頭に刷り込まれ、両者は断絶したものと思い込まれるのである。

しかし、この対置図式は誤った二分法の典型である。

多くの天才は大変な努力家である。

「天才とは99%の汗と1%の才能だ」というのは天才発明家エジソンの有名な言葉であるが、これはほとんどの天才に当てはまる。

それではなぜ「天才は努力なしに偉業を成し遂げる人だ」と思い込まれるのだろうか。

それは、天才が一般に流通している「努力の形式」とは違った独特の努力を遂行しているからである。

「独特の」というのは、世間の常識、伝統と権威、因習といったものから外れていることを意味する。

また、多くの天才は、世間体や出世欲や「甘えの構造的な協調性」といったものに背を向け、自分が信じたものに求道者の様相で突き進む傾向が強い。

これは別にかっこつけているわけではなく、本能的にそうするのである。

その結果、出世が遅れるのはいい方で、夭折したり自殺したりして偉業を成し遂げる前に死に、それゆえ歴史に名を残さない者も多々いる。

邪道だとか正統派ではないとかまやかしだとか言われて、同時代人には認められず、死後になって初めて天才として崇められる例も非常に多い。

天才の独創性とは、社会に適応することを犠牲にしてでも実現される独創への意欲、あくなき探究心、純粋な求道者の心に由来するものなのである。

それゆえ、天才は努力しない才能などではなく、キチガイじみた努力であるといった方が適切である。

大学時代の同級生で筑波大付属高校出身の男が、高校生の時に先生が「天才は先生を必要としない」と言った、と話してくれた。

この言葉も「努力しないで得られる才能」という意味ではなく「伝統と権威に逆らい自分の信じた道を歩む」という意味のものである。

なお、天才学の見地からすると、厳密に「天才」と言えるのは学問、科学、芸術、文学の分野に限られ、政治や実業界やスポーツにおける天才というのは比喩にすぎない。

天才とは、人並みの幸福を捨ててでも本能的で純粋な探究心から前人未到の創造的、独創的成果を芸術、科学、文学の領域において絞り出す、キチガイじみた努力家のことを言うのである。

この「本能的」「純粋な」ということが常識的な努力の形式から外れているので、「天才⇔努力」という表面的な対置図式が信じ込まれるのである。

とはいえ、天才に「ひらめき」や「直観」ないし「直感」が働くこともたしかである。

しかし、それは天才以外の人にも天才には劣るが実はあるのである。

それを因習や常識に逆らってでも、あるいは社会への適応を犠牲にしてでも行使できるかどうかが天才と常識的秀才ないし凡人との違いなのである。


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意識を失ったままボクシングの試合を続けた?

2017-07-23 23:12:37 | 意識・心理学

数十年前、日本人のボクサーで世界チャンピオンにまでなった男が、試合中に相手のパンチで意識を失ったまま試合を最後まで続けた体験があることを告白している。

いったい意識を失ったままボクシングの試合など続行できるでろあろうか?

普通「意識を失う」ということは「失神」を意味する。

ボクシングの試合ではKOによる失神はよくある。

しかし、失神してはさすがに試合はできない。

そこで、かのボクサーが言う「意識を失った状態」というのは、「全意識の喪失」としての失神のことではないことが分かる。

彼が言う「意識を失った状態」とは「意識が再帰的現象性を失い、機械的に機能するだけになった」ということなのである。

機械的に機能するだけの意識は、行動の制御を自動的に行うことができるが、その記憶と自覚が失われるのである。

しかし、ボクシングの試合には注意と短期記憶に基づいた身体運動は必要である。

彼にはパンチを繰り出しフットワークを維持するための注意と短期記憶は残存してたのである。

ただし、その働きは現れては消える束の間のもので長期記憶には残らないのである。

それゆえ彼は試合後、自分が何をしていたのか覚えていなかったのである。

ちゃんと最終ラウンドまでファイトを続けたのに。

ちなみに、我々の日常生活もこうした無意識的行動によってかなりの部分が占められている。

これについてはデネットが『解明される意識』において詳しく分析している。


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意識と記憶

2017-03-02 21:11:39 | 意識・心理学

我々の意識は記憶と密接に関係している。

記憶には短期記憶と長期記憶があるが、どちらも意識の発生と形成に深く関与している。

基本的に注意と短期記憶がないと意識が形成されない。

これらがないと、我々の認知生活はゾンビ的なものとなり、知覚しているのは私だという自覚を欠いた自動機械のようなものになってしまう。

また、中、長期の記憶がないと自己同一性の意識が発生せず、人格の統合が実現しない。

このように、記憶という認知要素がないと意識が生まれない。

また逆に、こうして形成された意識が記憶の力を増強し、その内容を豊かなものにする。

それゆえ、意識と記憶の間にはフィードバック・フィードフォワードの関係が成り立っている。

ただし、記憶には無意識という心的要素も深く関与している。

これに関してはフロイトをはじめとする深層心理学の研究がすでに大量の見解を提出している。

意識は無意識という心の氷山のてっぺんの一部にすぎないので、自我の存在の意味をすべて解き明かしてくれる力はない。

また、意識は都合の悪い記憶は忘れようとするが、無意識はすべてを保持してしまうので、ここに齟齬が生まれる。

コンプレックスという現象がこのことに関係するのはよく知られている。

こうしたことを顧慮して、意識と記憶の関係を無意識的生命という基盤から捉えかえすことが肝要だと思われる。

 


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下衆の勘繰り

2016-12-03 11:50:29 | 意識・心理学

「下衆の勘繰り」という言葉の意味を知っているだろうか。

「心の卑しい者は下品な推測や邪推をする」という意味である。

たとえば、数学をよく勉強している者がいたとする。

下衆な輩は、彼は数学でいい点を取り、一流大学を目指しているから、そうするんだろう、と邪推する。

これは下衆な輩が、自分ならそうするから彼もそうするだろうと思ってしまうがゆえの邪推である。

実際には、数学を熱心に勉強している彼は、純粋の探究心からそうしているのであって、打算や野心などないのである。

下衆な輩には、純粋な少年の心がなくなっている。

つまり、すれっからしになっている。

これは偽善者にも当てはまる傾向である。

下衆な輩には求道者の心や純粋の探究心など別世界の理解できない事柄なのである。

 


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睡眠中の意識の主体

2016-12-03 10:49:47 | 意識・心理学

睡眠中、我々には意識はあると言えるだろうか。一つの指標は、夢を見ているかいないかである。

夢を見ていないときには意識は現象的様態を完全に消している。しかし、その間にも脳は生理的活動を続けている。

他方、夢を見ているときには、かなり変容したものではあるが意識は現象している。

問題はそのとき意識に「主体」はあるかどうかである。

日常覚醒して行動しているときには、明らかに意識には自覚的主体があり、それが意識的行動を制御している。

しかし、睡眠中夢を見ているときの意識には、覚醒時のような明確な「意識の主体」がない。

あたかも睡眠中の意識の主体は、夢の内容ないし映像ないし出来事を傍観しているかのような感じである。

これには実際の物理的な身体運動の欠如ということが関わっているように思われる。

「夢の中での重力」ということを探索しようとした脳科学者がいるそうだが、夢の中では「重力の感覚」や「運動の感覚」や痛みや快不快のクオリアはあっても、本当の重力はない。

夢の中で空を飛んだり、高いところから落ちるのはそのためである。

また夢の中では時間感覚が変容し、空間感覚も支離滅裂になる。整合的なときもあるが、突如変容するのである。

結局、意識が脳の神経活動(自律的計算)によって産出されるにしても、実際に物理的環境の中で身体運動をしているかどうかによって、その主体感覚は大きく異なってくるのである。


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自我の内面と外面

2015-12-01 22:33:14 | 意識・心理学

自我には内面と外面がある。

主観的相と客観的相と言ってもよい。

よく「自分の心は自分人にしか分からない」と言う人がいるが、それは必ずしも当たっていない。

そもそもこういうことを言う人は自己の主観的相に囚われて、自己中に陥っているのだ。

自我の本質は内省によっては十分に捉えられない。

他者からの指摘によって初めて分かることもあるのだ。

そもそも自我、「私」という観点は発達の過程で、他者との身体的、言語的相互作用から発生するもので、「他者との関係」から切っても切り離せない。

ところが、自我意識と内省能力が完成した思春期以降の意識の観点からすると、他者と一体であった子供のころの心が過度に主観化され、自我の主観的相のみが際立つはめになる。

しかし、自我は幼児期においても成人期においても常に外部の環境世界からの情報の流入によって賦活され、自我意識の内容にそれは反映する。

ところが、内省優位の主観的自我意識の観点に立つと、それが見えてこなくなるのである。

自我の自覚作用が最初にあるのではない。

その自覚が生じる以前に自己は世界の中に投げ出され、他者と事物と空間に浸され、それらに没頭していたのである。

すなわち、原初的自我は主観的ではなく、脱自的である。

また、内面的意識には常に社会的行動と生活的経験が先立つ。

すなわち、意識がその主観的相において現象的に際立つ前に、世界へと脱自した身体的で生命的な「経験」が機能していたのである。

このように、自我はもともと世界内存在であり、主観と客観が分離する以前の生命的経験である。

そして、ここに自我の内面と外面を包摂する「自我の自然」あるいは「意識の自然」というものがあるのだ。

 


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意識の観察者

2015-07-28 00:11:52 | 意識・心理学

内向的な性格の人は、常に自分の意識内容に関心が向いている。
そこで、必然的に意識の観察眼が鋭くなる。
ジェームズなどはこの典型であった。

世の中には意識の問題にほとんど関心のない人もいる。
リア充などその典型である。

意識というものは、自己存在への関心から生じる、脳の自己モニタリング機能である。
感覚の志向性が外に向かないで、自己の内的システムの状態の監視に向かうのである。
そして、心が深くなる。


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心因性朦朧状態における意識の機能

2014-06-22 17:09:57 | 意識・心理学

西丸四方は『精神医学入門』において次のような心因性朦朧状態の症例を挙げている。

 

「或る鉄道作業員は組合大会でつるしあげられた後失踪し、九日目に帰宅した。ただ汽車に乗っていなければならないという気もちしかなく、大阪、仙台、青森の駅を通ったことは思い出せた。無料パスの自分の名を見て、これは誰だろう、どうしてこんなもので汽車に乗れるのかといぶかったことも思い出せた。このパスでうまく旅行し、食事も摂ったらしてが、このことについては思い出せなかった」。

 

身体運動がスムーズになされているとき、意識は内面へと向かわず、周囲世界へと拡散される。

つまり、意識のもつ再帰的な働きが抑制され、身体運動を制御するための「覚(awareness)」として機能するのである。

これは、要するに意識が身体のとなり、環境の中で有機体が生命を維持するための道具となる、ということである。

そして、この傾向が極まると「覚」の機能すら消尽点へと向かい、朦朧状態となる。

鉄道員の症例では、意識混濁は目立たないが、意識が狭くなって少しのものだけしか意識されず、過去から現在までの自己の歴史の意識も絶たれ、以前の自分とは連絡のない別の人間になっている。

つまり、注意の機能が、生存を維持するために最低限にまで低下し、行為の主体が自分であるという再帰的意識がほとんどなくなる。

しかし、基本的な社会的行為とそれを可能ならしめる身体運動の空間性は維持される。

件の鉄道員の場合、普段やりなれて習慣として身に付いた「汽車に乗って駅をめぐる」という行為は、滞りなくなされている。

これは、無意識の習慣的身体性のなせる業である。

ただし、ここで「無意識の」というのは、全く意識に上ってこないとうことではなく、意識に上ってきていることが自覚されないということなのである

換言すれば、普段の我々の意識的行為は注意と短期記憶の数珠つなぎからなっているが、朦朧状態においては注意と連動した短期記憶が現れてはすぐに消え、結果として「短期記憶の速やかな記憶喪失の数珠つなぎ」となってしまうのである。

それゆえ、朦朧状態においても意識は失われているわけではなく、その再帰性と記憶への保存が損なわれている、とみなされるのである。

これは格闘技、特にボクシングの試合中に時折起こることである。

いわゆる「記憶が飛んだまま試合を続け、その経過を覚えていない」という、あの状態である。

以上に述べた「朦朧状態の意識」は決してレベルの低いものではなく、意識の根源的自然を示唆する貴重な現象である。

これを私は2007年の『自我と生命 - 創発する意識の自然学への道』の第11章で論じた。

なお、デネットの『解明される意識』(青土社)とメルロ=ポンティの『知覚の現象学』(みすず書房)も参照されたい。


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気分が沈んだら

2014-03-30 09:50:16 | 意識・心理学

昨日、風邪気味なのか頭痛がして、かなりだるかった。

少し早めに寝て、今朝起きたら、曇り・・・・・

かなり気分が落ち込んでいる自分が、今ここにいる。

なんだ、この気分は。

忌々しい。

ここの所こうなる日がなかったので、少し戸惑っている。

ちょっと前にネットで「気分が沈んだとき、どうするか」で検索したら、質問と答えのサイトでいっぱい例が出ていた。

気分が沈んだときには、無理に明るい方向にもっていこうとせずに、その気分に浸るのもいい。

そのとき同じような状態にあり悩んでいる人の話をネットとか本で読むと、なぜか気持ちが楽になる。

昨日の夜には頭痛の掲示板を読んで頭痛を紛らせることができたし。

しかし、気分の落ち込みにしても頭痛にしても私のは極めて軽い。

いつもそうだ。

でも気になる。

曇りの日の朝の気分の落ち込みも昼に出かけて1時間もすると消し飛んでしまう。

あれっ、もう気分が明るくなってきてる。

ブログを書いたらそうなるかな、と思ってたら、実際そうなってきた。

気分が落ち込んでいる人は参考にしてください。

とにかく、この猫のようにでんと構えていればよいのだ。


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意識の何が特別か

2014-01-30 09:07:36 | 意識・心理学

物理的世界の中で意識という現象をどう捉えるか。

あるいは、その中で意識の存在はどう位置づけられるのか。

という問いを突き付けられると、多くの人は困惑する。

意識がどのように経験され、どのような内容をもっているか、ということに関しては誰もが即座に答えられるが、物質との関係を問われると困惑してしまうのである。

物質と意識、精神と物質、心と脳。

これらの関係を説明することは簡単ではない。

精神的系列と物質的系列、心的文脈と物的文脈、心理的説明原理と物理的説明原理。

これらの間には巨大な説明的ギャップがある。

これに着目して提出されたのがチャルマーズの「意識のハード・プロブレム」である。

この問いを提出するにあたって、チャルマーズは意識の主観的な現象的特質がいかに物理主義的説明と相いれないかを強調した。

その際、意識と経験の関係に着目し、意識の現象的性質をその経験的性質と等置した。

チャルマーズはオーストラリア出身の哲学者だが、イギリスの大学を出て最初アメリカで活躍した。

それゆえ、彼の哲学は基本的に英米の哲学の伝統に根ざしている。

それゆえ「経験」の概念を重視するが、その姿勢はイギリス古典経験論やプラグマティズムや分析哲学という英語圏の哲学における「経験」の概念把握と少し乖離している。

彼の立場はむしろフッサールを中心とした現象学と類似している。

彼が意識の謎ないし神秘を強調するその姿勢は、直接にはトマス・ネーゲルからの影響が強い。

そして、ネーゲルが強調したのは「意識の主観的特質」であり、それが客観主義的ないし法則定立的な物理主義的把握法によっては決して捉えられない、ということであった。

これは要するに心と物、主観と客観の二元対立を意識の問題に適用したものであり、デカルト哲学の伝統に根ざしている。

しかし、英米哲学における伝統的な「経験」の概念は、けっして主観的なものに限られない。

それはむしろ心理学や生理学や物理学と連続性をもつ準客観的なものであった。

この伝統を最も実り豊かに定式化したのはジェームズとホワイトヘッドである。

この二人はけっして二元論を認めないし同時に還元主義(唯物論)も否定する。

彼らに従えば、経験は物理的なものであり、意識に先立っており、世界と連続している。

それゆえ主観性の檻、内面性の監獄に幽閉されたものではなく、世界に対して開かれている。

我々はこの二人に倣って意識の本質を理解しなければならない。

意識が特別な現象に思われる原因は、それが非物質的で私秘的な主観現象だからではなく、世界が活きた有機体であり、その生命特質を個体が分有しているからなのである。


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意識と無意識の戦い

2013-09-15 08:21:45 | 意識・心理学

人間の心は意識と無意識の両要素によって構成されている。

そして両者は常に拮抗し抗争している。

意識が前面に出ると無意識は背景に後退し、無意識が感情を支配すると意識が攪乱される。

意識と無意識の関係は心と身体、心理と生理の関係と相即している。

換言すれば裏表の関係にある。

つまり、意識と無意識はメビウスの帯のように表裏一体の関係にあるのだ。

我々の生活、さらには人生は意識と無意識が繰り返し闘争する心的行動世界である。

この闘争は身体の生理的過程にも反映し、健康状態に影響を及ぼす。

特に、意識と無意識のバランスが崩れた場合、心身の関係が揺らぎ、アンバランスとなって、体調が悪くなったり、病気になりやすくなる。

睡眠状態が心身の健康に強く関与することはよく知られているが、それはまた意識と無意識のバランスにも関与している。

睡眠はパソコンのデフラグと同様の作用をもち、不要な心的ファイル(記憶要素)を排除ないし整理し、覚醒時の意識生活を円滑ならしめるのである。


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