存在論は哲学の究極にして最高の課題である。
およそ「存在する」とはどういう意味なのかを、あらゆる存在者の領域を踏査しつつ、問うのが普遍的存在論というものなのである。
その体系的な基礎づけを行ったのは古代ギリシャの哲学者アリストテレスである。
彼は「存在する」という動詞は多様に使われ、存在者の性質によってその意味が異なる、とまず考えた。
次に、それではそれらの多様な意味を統一する最高の原理は何か、と問い詰め、「存在を存在足らしめる最高の原理」に到達しようとした。
その際、この世の中のあらゆる事物は形相と質料の合成からなる、という思想が加味された。
そして、質料を含まない純粋の形相としての「神」があらゆる存在の根源である、という思想に到達した。
ちなみに、アリストテレスの言う「神」は信仰の対象としてのそれではなく、自然界の第一原理としてのそれであり、全く自然主義的な概念であった。
ある人は、それを「神」と呼ばなかった方がよかった、と言った。
まさしくその通り。
それはさておいて、アリストテレスは生物学の創始者でもあった。
ハイデガーは、アリストテレスの生物学は「生命の学」という性格をもっている、と指摘したが、この発言を顧慮すると、存在論と生命論の接点が見えてくる。
アリストテレスは『心について』という著作において、「あるということ」は「生きているということ」に等しい、と述べている。
我々自身や身の回りの生物の在り方を吟味とてみると、「存在すること」は「生きていること」ないし「生きていくこと」に等しいことが分かる。
「存在する」ということは単に事物が「空間内の位置を占めつつ目の前にある」ということには尽きない。
それは、変化し運動し成長しそのうち死滅する動的な事柄ないしプロセスを意味する。
これは生命ないし「生きていくこと」とあまりに類似している。
存在と生命、あることと生きていることは、また「自己組織性」という性格を共有している。
存在も生命も自己組織化するシステムとして同類の自然現象なのである。
ところで、古来「存在」は「生成」との関係において考察、理解されてきた。
存在と生成を対比させて考えるパルメニデスやプラトンに対して、両者を統合して捉えたのがアリストテレスでありライプニッツでありヘーゲルでありホワイトヘッドだったのである。
存在論と生命論を統合しようとするなら、存在と生成を統合的に理解した哲学者の思想を参考にすべきである。
特にアリストテレスとホワイトヘッドは参考になる。
存在論と生命論は自然有機体論の生成即存在、過程即実在の存在観から統合的に理解され、システム論的に統合されるべきものなのである。
ここでシステム論ということが出てきたが、これもきわめて重要である。
「混沌からの秩序の発生」や「秩序の自己組織化」や「存在即生成」を説くシステム論的自然哲学は、存在論と生命論の統合のための最良の手引きである。
また、「創発」の概念も非常に重要である。
存在が静的なものではなく動的な生命的自己組織性をもつ生成現象であるとするなら、それは「新奇への創造的前進」を意味する「創発」と密接に関係している。
これはホワイトヘッドの有機体の哲学において体系的に論じられている。
我々は、自然の大生命の躍動的前進に根差した生命論的存在論を構築しなければならないのである。
ちなみに、これに時空概念がどうかかわってくるかが私の懸案である。
そして、数年後に完成予定の『存在と時空』は、以上に述べたことを顧慮して書かれる。