心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

「お互いに分かり合えないこと」の相互了解、相互承認

2013-05-30 12:08:07 | 哲学

孔子に「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」という格言がある。

普通、相互了解とか相互承認というと「お互いに分かり合うこと」を意味するが、それは表層的意味である。

無理に思想統一を図ったり、規則を強制したり、他人を支配したりするのは小人の共同体の中でよく起こることである。

つまり、「小人は同じて和せず」なのである。

それに対して、他人の人格と主体性を尊重するオタクの共同体ではそのようなことは起こらない。

つまり、「君子は和して同ぜず」なのである。

ここであえて、一般に蔑まれているオタクに君子の地位を与えた。

これは一種のイロニーであるが、事実でもある。

オタクは決して他人を支配しようとしたり、他人の自由を束縛しようとしたりしない。

また、他人をいじめることもない。

まさに君子、聖人ではないか。

オタクは他人の「自分を大切にする姿勢」を尊重し、それを保護しようとするのである。

それに対して、孤独を罪悪視し、オタクを嫌い、共同生活や集団行動を偏愛するリア充系はみな偽善者である。

太宰治に「アレデモヒトノコイキテイル」と言われるレベルである。

キルケゴールに主体性と主我性の区別があるが、私は「主我性」であってもいいと思っている。

あるキルケゴール研究者は、あるオタクを毛嫌いして、「君のは主体性ではなくて主我性だな」と言っていたが、その教授は孤独を罪悪視し、精神病者に対して侮蔑的なことを言っていた。

それに対して、私は他人の主我性を尊重することを道徳の基本とみなしている。

つまり、「お互いに分かり合えないこと」の相互理解、相互承認を重視してるのである。


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「俺の心がお前に分かるわけがない」と言うやつはガキ

2013-05-30 11:21:26 | 哲学

我々は皆他人に明かさない内面的意識を有している。

この私秘的内面界はその人にのみアクセス権が認められた神秘の世界である。

ただし一見そのように思われるに過ぎない。

他人に明かさない私固有の意識の「内容」とはいかなるものであろうか。

「俺ブサイクだからイケメンのあいつが憎いよ。殺してやりたいよ」とかいうものだろ。

このなの言葉にして明かせないよな。

その他、あの時あの場所での私の視点から見たあの鮮烈な光景の印象、第一志望の大学に落ちた時のあの気持ち、万引きが成功したときのあのうしろめたさを秘めたあの快感・・・等々。

どれも、それを体験した本人しか分からないような心的内容だが、こうして言葉で言い表しているように、公共性にすぐに置き換えられる。

こうした特異な経験の意識内容は、たしかにその経験の当事者にのみアクセス権が認められた心的内容であるが、「アクセス権」をはぎ取ってしまえば、誰でも分かる体験内容と記憶内容と心的イメージである。

では、こうした個人の「アクセス権」があり、個人のプライバシーが守られる仕組みになっているのはなぜであろうか。

それは、何でも本音で言い合ったり、秘密を全部暴露したり、言いたいことを何でも言っていると、争い事が絶えなくなり、相互の理解が破たんし、社会における共同生活の秩序が維持できなくなるからである。

つまり、一見神秘的に思える私秘的内面性は、実は社会的起源をもち、他人との共同生活を円滑にするためにするための「道具」だったのである。

だから「俺の心がお前に分かるわけがない」と言うやつはガキなのである。

真に社会的に成長して大人になったら、そういう駄々っ子の論理は行使しない。

痛くても苦しくても、心配かけないようにと気丈にふるまうのが大人であり、他人に分かってもらえなくても他人に尽くそうとするのが成人(聖人)なのである。

そういう意味では中島義道と永井均はガキだな。

中島がヘーゲルを嫌い、永井がロックとヒュームを嫌っているのはこの傾向の表れだな。


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ルック・チオンピの『外なる世界-内なる世界』を読み始めた

2013-05-30 09:14:38 | 日記

かねてから読もうと思いつつも10年が経過したLuc Ciompi の Aussenwelt-Innenwelt : Die Entstehung von Zeit,Raum und psychischen Strukturen (V&R 1988)

を読み始めた。

チオンピはスイスの精神医学者だが、この本では時間と空間を物理と心理の両面から広範に考察している。

まず物理学における時間と空間の問題が論じられている。

その際、特にアインシュタインの相対性理論における時-空の概念が重視されている。

そして、それが次の考察、つまり「心的構造の発生における時間と空間の役割の吟味」につながる。

そして、最後に物理的なものと心理的なものとの対応と相即が論じられる。

日本においても湯川秀樹が「内なる世界と外なる世界」「精神と物質」というテーマで哲学的考察を企てているが、チオンピは精神医学者の立場で論じているので面白い。

チオンピは統合失調症の病理の理解においても現存在学派の「世界内存在」の概念を重視して、単純な脳内と脳外の二分法を批判していた。

問題は自己の内面と外的環境世界の相互反転的対応関係なのである。

相互浸透的と言ってもよい。

これに時間と空間、あるいは両者の結合態としての時-空がどうかかわるのかが問題である。

チオンピのこの本はそれに答えるための最重要な手がかりを与えてくれるでろあろう。

私は、それを次著『存在と時空』のために使うつもりである。

とにかく、心身問題と時空論と存在論と生命論の接点が問題なのである。

そして、方法論はシステム論と創発主義ということになる。

その意味でも精神医学におけるシステム論の権威チオンピの考察はとても参考になるはずなのだ。

 


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松坂慶子と橋本愛

2013-05-30 08:35:06 | 美人

前に日本の芸能界が本物の美人よりもいわゆるかわいい子を優遇するようになったことを指摘した。

そこで若手のアイドルやタレントの中には本物の美人系が極めて少なくなってしまった。

しかし、久々に本格派美人の路線を歩みそうな逸材が現れた。

それが、今「あまちゃん」に出演中の橋本愛である。

橋本を見ていると、かつての本格派美人の代名詞・松坂慶子の若いころを思い出す。

松坂慶子は1952年生まれ、橋本愛は1996年生まれである。

これが松坂慶子で26歳のとき。

次が橋本愛で、今17歳。

美人は単なるかわいい子やきれいな子と違って、高身長を求められる。

松坂は162cm、橋本は165cmである。

橋本がこれから女優としてどのように成長・進化していくかが楽しみである。

それによって日本の芸能界が、かつてのように、あるいは現在の韓国のように本物の美人を大切にする風潮が生まれることになるからである。

能年玲奈のような子はどこにでもいるが、橋本のような美貌は1000~3000人に1人レベルなのである。

原節子、山本富士子、吉永小百合、松坂慶子、(藤あや子)となると3000~10000人に1人レベルである。

しかし、彼女らも最初は1000人に1人レベルだったのだ(ミス日本から出発した山本だけは別だけど)。

映画界やテレビ界が育てたからさらにレベルが上がって神格化されたのである。

少し冷たくて性格が悪いぐらいの美人でないと世俗を超えた美の域には達しない。

スキャンダルやセクシーネタも芸の肥やしになるぐらいでないと、橋本は松坂になれない。

松坂は19歳のとき『夜の診察室』というセクシー映画の主役やってるからね。

急遽の代役だったけど。


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コンコルドに似た怪獣 ラドン

2013-05-23 20:04:07 | 美学

東宝の特撮映画の全盛期にゴジラやモスラとともに活躍した空飛ぶ怪獣ラドンはコンコルドに似ている。

身長50m、翼長120m、体重15000トンでマッハ1.5~3で飛行する巨大怪鳥である。

たしかにコンコルドに似ているが、こちらのほうが誕生が早い。

コンコルドが登場したとき、多くの日本人が「ラドンに似ている」と言ったものである。


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超音速旅客機の美学 コンコルド

2013-05-23 18:37:05 | 美学

かつて世界中の人を魅了した美しい大型旅客機があった。

イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機コンコルドである。

コンコルドは1969年に初飛行し2003年に全機が退役した。

次にupする画像からも一目瞭然なように、その機体例えがたく美しい。

あえて例えれば鉄製のメカニカルな怪鳥である。

高度60000フィートをマッハ2で飛行する大型旅客機はある意味で美人薄命であった。

怪鳥のような騒音と燃費の悪さや墜落事故によって、多くの人に惜しまれながら早々と退役したのである。

しかし、その造形美と飛行美は不滅であった。

まさに空飛ぶ機械性怪鳥である。


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カラスの雛

2013-05-23 17:05:50 | 日記

今はカラスの繫殖の時期である。

巣を作って雛を育てているカラスは気が立っており、攻撃的である。

通りすがりの人を威嚇することがある。

しかしカラスの雛はかわいい。

巣から転げ落ちて、人に拾われて飼われると、すごくなつく。

そして九官鳥のように言葉を覚えたりする。

カラスには言葉の意味は分からないが、意味(言葉)を超えた「生命」を人と共有しているのである。

 


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ベランダから消えたサンダル

2013-05-23 10:13:28 | 日記

マンション(タイプのアパート)のベランダに置いといたサンダルが突然消えた。

これまで一度も体験したことがなかったことなので大変驚いた。

そういえば、二、三日前にものすごい強風が吹いてたな、だからかな、と思った。

そこでベランダから下の駐車場を見渡してもどこにもない。

・・・・・・・

そうだ、カラスが咥えていったんだ、といったん思った。

でも、そんなことあるのか。

ハンガーの軽いのならもっていくだろうけど、サンダル一対は無理だろう。

と考えているうちに、ひらめいた。

隣のベランダとの間に柵があり、その下に5cmほどの隙間がある。

強風でここから出て行ったんだ!!

と思って、柵から顔をのり出して隣のベランダをのぞいたら、俺のサンダルが転がってた。

さっそく隣室のインターホンを押したが、住人は出てこない。

次の日も次の日も数日後も何回も押してもいつも出てこないし、インターホンの電源が切れていることすらある。

死んでるのか????

エイブルに電話しようかな、と思っていた。

そしたら、突然隣の住人がインターホンに映っていた。

出ていくと、サンダルをもって返しに来てくれたのだ。

事情を聴くと、夜勤の仕事をしていて昼間は寝ているのだそうだ

以上、何とも不思議な出来事でした。

短編小説の題材にはなるかな。


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存在論と生命論

2013-05-22 11:14:26 | 哲学

存在論は哲学の究極にして最高の課題である。

およそ「存在する」とはどういう意味なのかを、あらゆる存在者の領域を踏査しつつ、問うのが普遍的存在論というものなのである。

その体系的な基礎づけを行ったのは古代ギリシャの哲学者アリストテレスである。

彼は「存在する」という動詞は多様に使われ、存在者の性質によってその意味が異なる、とまず考えた。

次に、それではそれらの多様な意味を統一する最高の原理は何か、と問い詰め、「存在を存在足らしめる最高の原理」に到達しようとした。

その際、この世の中のあらゆる事物は形相と質料の合成からなる、という思想が加味された。

そして、質料を含まない純粋の形相としての「神」があらゆる存在の根源である、という思想に到達した。

ちなみに、アリストテレスの言う「神」は信仰の対象としてのそれではなく、自然界の第一原理としてのそれであり、全く自然主義的な概念であった。

ある人は、それを「神」と呼ばなかった方がよかった、と言った。

まさしくその通り。

それはさておいて、アリストテレスは生物学の創始者でもあった。

ハイデガーは、アリストテレスの生物学は「生命の学」という性格をもっている、と指摘したが、この発言を顧慮すると、存在論と生命論の接点が見えてくる。

アリストテレスは『心について』という著作において、「あるということ」は「生きているということ」に等しい、と述べている。

我々自身や身の回りの生物の在り方を吟味とてみると、「存在すること」は「生きていること」ないし「生きていくこと」に等しいことが分かる。

「存在する」ということは単に事物が「空間内の位置を占めつつ目の前にある」ということには尽きない。

それは、変化し運動し成長しそのうち死滅する動的な事柄ないしプロセスを意味する。

これは生命ないし「生きていくこと」とあまりに類似している。

存在と生命、あることと生きていることは、また「自己組織性」という性格を共有している。

存在も生命も自己組織化するシステムとして同類の自然現象なのである。

ところで、古来「存在」は「生成」との関係において考察、理解されてきた。

存在と生成を対比させて考えるパルメニデスやプラトンに対して、両者を統合して捉えたのがアリストテレスでありライプニッツでありヘーゲルでありホワイトヘッドだったのである。

存在論と生命論を統合しようとするなら、存在と生成を統合的に理解した哲学者の思想を参考にすべきである。

特にアリストテレスとホワイトヘッドは参考になる。

存在論と生命論は自然有機体論の生成即存在、過程即実在の存在観から統合的に理解され、システム論的に統合されるべきものなのである。

ここでシステム論ということが出てきたが、これもきわめて重要である。

「混沌からの秩序の発生」や「秩序の自己組織化」や「存在即生成」を説くシステム論的自然哲学は、存在論と生命論の統合のための最良の手引きである。

また、「創発」の概念も非常に重要である。

存在が静的なものではなく動的な生命的自己組織性をもつ生成現象であるとするなら、それは「新奇への創造的前進」を意味する「創発」と密接に関係している。

これはホワイトヘッドの有機体の哲学において体系的に論じられている。

我々は、自然の大生命の躍動的前進に根差した生命論的存在論を構築しなければならないのである。

ちなみに、これに時空概念がどうかかわってくるかが私の懸案である。

そして、数年後に完成予定の『存在と時空』は、以上に述べたことを顧慮して書かれる。


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ジェリーとニブルス

2013-05-22 10:04:50 | テレビドラマ

昨日紹介したジェリーのいとこニブルスを再び取り上げます。

ジェリーは茶色のネズミだが、ニブルスはねずみ色(灰色)の子ネズミです。

まだおむつをしているので人間で言えば一歳ぐらいでしょう。

それに対してジェリーは人間で言えば十五歳ぐらいの想定でしょうか。

二匹が並ぶとそれがよく分かります。

ジェリーは2頭身、ニブルスは1.5頭身ですね。

ニブルスが出てくる回は大変楽しいですね。


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ベッカムと強迫性障害

2013-05-21 19:16:30 | イケメン

先週引退を表明したプロサッカー選手デビッド・ベッカムは2006年に自分が強迫性障害であることを告白している。

強迫性障害とは、かつて強迫神経症と呼ばれていたもので、強迫観念に囚われて意識と行動が著しく制約される精神障害である。

精神障害と言っても、神経症圏の軽症のものなので、本人が告白しないと周りは分からないことが多い。

長嶋一茂もうつを伴う強迫性障害であることを告白しているが、芸能人やタレント他有名人にこれに罹っている人はけっこう多い。

それではベッカムは具体的にどういう症状に悩まされているのだろうか。

 

まず、ベッカム選手の証言。

 「冷蔵庫にペプシコーラの缶を入れるとき、一つ多すぎるとしたら、 その缶を戸棚にしまわないと気がすまないんだ」。

 「ホテルについても、部屋においてあるリーフレットや雑誌を 全部引き出しの中にしまわないとリラックスできないんだ」。

 「すべてがパーフェクトじゃないと、ダメなんだ」。

次に奥さんのヴィクトリアの証言。

 「飲み物用の冷蔵庫の中身は完璧に左右対称に物が並んでいて、 もし何かが3つあれば、夫はそのうちの一つを冷蔵庫から出してしまうのよ」。

 「偶数でないと嫌なの」。

 

これはまだ軽い方である。

ひどくなると不潔恐怖の強迫観念から何時間も手を洗い続けたりする。

そうなると薬物療法や認知行動療法では無理で、脳の手術が必要になるのだ。

この病気をなめてはならない。

精神力で治るようなものではないのだ。

このように一見健康そのもので明るいイケメンの彼にもそういう裏の側面があっのだ。

 


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チャーチランド夫妻と精神医学

2013-05-21 11:08:14 | 哲学

アメリカの心の哲学の重鎮で、脳科学派左翼の代表たるチャーチランド夫妻は生物学的精神医学を大変好んでいる。

チャーチランド夫妻とは、夫のポール・チャーチランドと妻のパトリシア・チャーチランドであり、どちらも心の哲学を専攻するカルフォリニア大学サイディエゴ校の教授である。

心の哲学と言ってもこの夫妻の場合、認知神経哲学と言った方がよいほど脳科学に傾倒している。

夫のポールはより認知科学的脳科学に傾倒しており、妻のパトリシアは神経科学的脳科学に凝っている。

ポールの主著『認知哲学 脳科学から心の哲学へ』(信原他訳、産業図書)の第七章「障害をもった脳 認知機能障害と精神病」では生物学的精神医学への関心が余すところなく表れている。

なお、この本を私は何度も読み、たいへん楽しませてもらった。

議論が明快で、図や写真も多く、とても読みやすく、内容も刺激的である。

いわゆる唯物論的思想の本であるが、けっして浅いものではなく、鋭い考察に満ちている。

自我や意識を物質過程に還元できない神秘的なものと思っている人は、ぜひ一読されたい。

謎が全部払拭されるわけではないが、頭ごなしに「自我をもった意識」を脳神経系過程とは独立の超越論的実体として理解することの浅はかさを知るであろう。

特に脳の神経のベクトルコード化的情報処理の説明は興味深い。

ちなみに、妻のパトリシアはプロの神経生物学者でもあり、精神医学の領域ではアルツハイマー病の研究を手掛けている。

主著は翻訳のない"Neurophilosophy :Toward a Unified Sience of the Mind/Brain"(The MIT Press)と『ブレインワイズ 脳に映る哲学』(村松太郎訳、創造出版)である。

この二冊もおもろいよ。


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イライラを抑えるのには読書が有効

2013-05-21 10:44:08 | 意識・心理学

我々は日々苛立ち、イライラ、むかつき、などの負の感情に悩まされている。

それは人によって大小はあるが、普遍的な感情であることには変わりない。

イライラからついキレて暴言を吐いたり、ひどい場合には暴力をふるったりする。

また、イライラをため込んで、うつになったり、アルコールやたばこの量がつい増えてしまう。

いったい、このイライラをどう処理したらよいのだろうか。

心理学的実験・統計によると、イライラは我慢してため込むよりはある程度、怒りとして発散した方がよいらしいが、キレるほどになると、次のイライラを誘発するはめになる。

これはアルコールやたばこに頼っても同様である。

一時的に発散できたと満足できるが、次のイライラに対する耐性が実は弱くなるのである。

そこで、イライラは雪だるま式に大きくなり、キレる頻度やアルコール・たばこの量は増える一方となる。

それでは、どういう方策が望ましいであろうか。

まず、有効なものとして散歩、気の合う人との談話、かわいい動物との触れ合い、サイクリング、旅行、グルメなどが挙げられる。

そして、意外に最も効果があるものとして「読書」が挙げられた。

本を読むとイライラが治まり、気分が安らぐのであり、その効果は前に挙げたものすべてを上回っている。

なお、パソコンとの対話、つまりインターネットは読書よりはるかに効果が低い。

刺激的なものや現在起こっていることが目に入ってくるので、イライラ軽減にはならないのである。

もちろん、本好きな人でないと読書の効果は薄いかもしれない。

というより、キレやすい人って本読まない粗野な人が多いんだよね。

もちろん全部じゃないけど。

あと、難しい本や課題だからいやいや読んでいる本はイライラのもとなのは言うまでもないよね。


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アラン・ドロンの魅力

2013-05-17 09:48:46 | イケメン

前に紹介したアラン・ドロンを再び取り上げます。

彼はフランス生まれの男優で20世紀最高のイケメンと全世界で認められています。

フランスには美男美女が多いが、その中でも傑出していたのです。

彼はハンサム、美男子、イケメンを語るとき必ず参照されるべき偉大なサンプルなのです。

では、そのイケメンぶりを見てみましょう。

まず、一番若いころの写真。

なんというか、雰囲気もいいですね。

ナチュラルにイケメンですね。

次にネクタイ、スーツ姿の画像。

なんか典雅ですね。

「顔がよすぎる」とまで言われたイケメンは彼だけです。

こういう帽子を被るとまた別の魅力が出ますね。

最後にワイルドな彼の画像。

「ル・ジタン」というアクション映画の一場面です。

髭も似合うし、ピストルも似合いますね。

結局、現在まで彼を上回るイケメン、ハンサムは出てません。

彼以前を探してもいないかも。

とすると、アラン・ドロンって人類最高のイケメンなのか ?

答えは風の中・・・・・・


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森田健作と小川ひろみ

2013-05-17 02:33:34 | テレビドラマ

1971年の青春ドラマ『おれは男だ』で共演した森田健作と小川ひろみのツーショット。

小川ひろみは森田健作の剣道のライバルという設定。

また、早瀬久美と森田を奪い合うが・・・敗れるという設定。

早瀬さんはまだ女優してるが、小川さんは早々と引退した。

しかし、当時は小川さんが演じた女剣士・丹下竜子の方が人気があった。

つまり、早瀬さんも美人だが、小川さんの方がもっと綺麗で可愛い、と言われていたんだ。


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