心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学と人生論

2013-03-31 14:07:48 | 哲学

哲学と人生論はたしかに関係している。

しかし専門の哲学者は人生論を軽視ないし軽蔑している。

これは西洋哲学において顕著な傾向である。

多くの初心者は哲学に人生論や世界観を求めて哲学の世界にやってくるが、期待を裏切られて立ち去っていく場合が多い。

哲学入門書の多くは、過去の哲学説の羅列であり、生きた哲学的問題からは程遠い。

哲学の初心者ないし素人が求めているのは、むしろ「生きた哲学の問題」つまり「人生いかに生きるべきか」という問題であろう。

それに対する補助として、過去の偉大な哲学者がその問題とどう取り組んだのかを知りたい、と思うのである。

しかし、西洋の哲学は理論的なものが中心で、その内実は存在論、認識論、時空論、心身問題などである。

それらは客観的論理と概念分析によって構築される理論体系なので、それについていけない者は離れていく。

仏教や東洋哲学では人生論も扱われるので、西洋が嫌ならそっちに目を向ければよい。

しかし、本当の哲学には西洋も東洋もない。

また、伝統や権威に従う必要もない。

大型書店や図書館の哲学書コーナーをよく見ると、生命論や生命倫理や死生観の本が置いてある。

これらは直接人生論を扱うものではないが、関連は深い。

むしろ、人生論は最初は面白いが意外に飽きやすいので、生命論や死生観や倫理学などに目を向けた方がよい。

そこには生命の本質、人間の本質、死の意味などに関する考察が、科学や宗教との対話においてなされている。

もともと人生論は哲学の問題ではなく「倫理学」に属すものなので、哲学に人生論を求めると失望しやすいのである。

そのことをわきまえて、生命倫理や死生学から始めて、その後哲学に向かった方がよい。

 


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就活自殺

2013-03-30 19:21:56 | 日記

今、NHKのニュースで就活自殺について報道していた。

私が大学を卒業したのは1984年で、そのころから僅かながら就活自殺というものはあった。

しかし、それは就活中の学生の5000人に1人で極めて少なかった。

多く見積もっても3000人に1人であろう。

それが今や10倍以上になっている。

1984年というのはバブル前期であり、大学生は就職天国で、高望みしなければほぼ全員就職できた。

複数の会社から内定をもらう人もざらで、まさに売り手市場であった。

私は最も就職の悪い文学部出身、しかも悪名高い哲学科卒である。

しかし、そのころは文学部出身でもどんどん就職できた。

哲学科の同窓生も教員や塾講師や公務員になった人はもちろん、哲学と何にも関係のない企業に多数就職した。

私は就職嫌いでかつ研究キチガイだったので、迷わず大学院に進んだが、就職しようと思えばいくらでもできた。

ところが、今や経済学部や経営学部や商学部や法学部という文系の実学系ですら、就職が難しくなってしまった。

医学部は別格、別次元としても、工学部、薬学部といった理系の実学系は今なお就職はよい。

しかし、理系でも理学部となると悲惨である。

教職を取っていないと路頭に迷うのである。

また、今大学院博士課程卒の無職者が多数出ている。

東大や京大の理学部博士課程卒ですら何もないのである。

最悪は数学や天文学専攻らしい。

生物学系も悲惨らしい。

居直っているなら哲学専攻の方がましかもしれない。

どうしようもくなったら、プライドを捨てて、発想を転換させて、なんでも食えることをやるのである。

就活で何十社も受けてすべて断られると、「自分はだめだ」→「死のう」と一直線になる人がいるが、そんなにあわてることはない。

哲学専攻の乞食学者を見習った方がよい。

代表はパースやウィトゲンシュタインである。

エリック・フォッファーという、沖仲士などの肉体労働をしながら、読書と思索を繰り返し、ついには大学の政治学教授になった人もいる。

てゆうか、今旧帝大や早慶の博士課程卒で日雇いや派遣やってる人いっぱいいるよ。

「博士はなぜコンビニ店員になったのか」というのはよく話題になることだよ。

とにかく、自分を追い詰めないで、アルバイトでもしながら、プロブロガーでも目指したら。

そのアルバイト先から正社員への昇格があるかもしれないし、アルバイト先を変えているうちに何か別の道が開けてくるかもしれないしね。

 


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小谷野敦『美人好きは罪悪か?』を買う。

2013-03-29 22:11:17 | 日記

小谷野敦の『美人好きは罪悪か?』(ちくま新書)を買った。

アマゾンのマーケットプレイスで95円+送料250円なり。

まだよく読んでいないが、「原節子が美人には見えない」と「五木寛之はハンサムだ」には共感する。

読んだらレビューします。


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咲きかけの枝垂桜

2013-03-29 19:46:19 | 日記

坂口さんに咲きかけの枝垂桜の写真を捧げ、弔いとします。

枝垂桜は数が少なく、ソメイヨシノのように人目に付かないが、その美しさは格別である。

その美しさは満開のとき最高潮に達するが、咲きかけの蕾を含んだものはまた別の美しさをもっている。

人生も美もはかないように思われるが、瞬間の美は永遠なのである。


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坂口良子さん急死

2013-03-29 19:17:07 | 日記

女優の坂口良子さん(57歳)が27日死去していたことがわかった。

去年から体調を崩し、最近は点滴を打つ毎日だったらしい。

坂口さんは「かわいい系」の美人だった。

だけど、「かわいい」と「美人」の天秤では「美人」の方に傾いていた。

でも、40歳以降しわが多くなり老けて見えるようになった。

それは50歳以降さらに進行した。

これと死去はたしかに関係しているであろう。

老化が死を早めたように思われる。

坂口さんのブログを閲覧して、合掌してください。

http://ameblo.jp/sakaguchi-ryoko/


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「抗生物質の効き目が顕著でなさすぎる」って日本語、変じゃない?

2013-03-27 15:54:33 | テレビドラマ

1966年の映画『白い巨塔』(田宮二郎主演)の一場面で「変な日本語」としてずっと記憶に残っているものがある。

それは裁判の証人として法廷に立った浪速大学医学部第一外科講師の金井が、戝前の誤診によって死亡した佐々木庸平の術後肺炎に対する処置についての尋問で、「抗生物質の効き目が顕著でなさすぎると思った」と証言したことである。

「顕著でなさすぎる」っていったいどういうことよ(実は「少し顕著でなさすぎる」なのだが、簡略化しておく)?

こんな日本語の使い方あるのか?

そもそも昭和の古い時代の映画のDVDを観ると、変な言葉づかいや言い回しがよく出てくる。

差別用語とは別に変な日本語なのである。

「顕著でなさすぎる」って・・・・

未だにイメージできない。

「あまり効き目がないように感じた」という意味だろうか。

だったら、そう言えよ、金井!!

実は佐々木庸平は単なる術後肺炎ではなくて、噴門ガンの肺への転移巣が手術後急速に悪化したためにガン性肋膜炎を引き起こしたのであった。

それゆえ術後肺炎に対して処置する抗生物質では効果がないのである。

そこで、もし単なる術後肺炎なら抗生物質の効き目は顕著であるはずなのである。

しかし、この場合「効き目が顕著だ」と言うだろうか。

「よく効いた」が穏当であろう。

それゆえ、術後肺炎にしては抗生物質が「あまり効かないように感じた」と言うのが日本語として正しいのである。

「顕著でなさすぎる」はやっぱり変だ。

でも、この不自然な表現はいつまでも私の脳裏を離れない。

まぁ、「顕著ではないように感じた」ならまだ許せるが、それだと面白くない。

結局、戝前と大学医学部の隠蔽工作のゆえに証言の言葉遣いが不自然になるんだろうけど。

金井講師は実は戝前派ではなくて中立で若干東教授寄りなんだが・・・・

 


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笠原嘉『精神病』について

2013-03-27 09:35:29 | 書評

精神医学者・笠原嘉が書いた『精神病』(岩波新書)は名著である。

1998年に初版が出て以来増刷を重ねているが、内容的に少しも古くなく、その的を射た叙述と読みやすさは秀逸である。

精神病の中でもその代表格たる精神分裂病(2002年に統合失調症と改名された)をもっぱら論じているが、その分かりやすい説明はまさに初心者向きである。

しかも、ある程度知識のある人や専門家にも読み応えのあるものとなっている。

テキストにも使用しやすいであろう。

とにかく入門書として最適である。

笠原嘉氏は京都大医学部卒の精神医学者で、長く名古屋大医学部精神科教授を務めていた。

彼は木村敏、中井久夫とともに京大精神医学の人間学派三羽ガラスであるが、木村敏的な哲学的・思弁的偏りがなく、中井と同様に穏当な臨床医という性格を有している。

学問的にも堅実である。

笠原精神医学は、精神病における脳病理と精神病理を臨床的二元論の観点から統合的に理解しようとする点に特徴がある。

ただし、この二元論は精神と物質を別次元に置く形而上学的二元論ではなく、患者への対処という治療的配慮から生まれたものである。

それゆえ、薬物療法と精神療法の使い分けと両者のシステム的統合を顧慮したものとして、現場志向の医者にもなじみやすいものとなっている。

そうした彼の姿勢は『精神病』にも見事に表れている。

この本は10章構成となっているが、第1章ではある分裂病の大学生の症例の話から切り出し、最終章を患者の家人へのアドバイスで締めくくっている。

第2章と第3章と第4章は分裂病の特徴と発病と経過を扱っており、その叙述は平易かつ明晰、説明は分かりやすく的確でかつ深い。

ここら辺をしっかり押さえておかないと、精神病に対する偏見はなくならず、正確な知識が得られず、患者への接し方を誤る元となるので、笠原の功績は大きいと言える。

第5章は「今日の治療」つまり1998年頃の治療を論じているが、驚くべきことに少しも古くなく、今日なお極めて有効である。

治療薬の変化を顧慮すれば、そのまま現在の治療に生かせる内容となっている。

笠原は常に医師と患者の対人関係・信頼関係を重視し、そこから寛解と社会復帰の糸口を見出そうとしてきたのである。

しかも、それが薬物療法と二人三脚的にマッチングしている。

第6章では社会復帰について具体的に論じている。

笠原は社会性というものを非常に重視し、精神病を「社会脳」の障害とみるが、この姿勢は現京大精神科教授の村井俊哉に引き継がれている。

社会復帰に関しては福祉制度も顧慮して具体的に説明している。

第7章では分裂病と犯罪の関係について啓蒙的に説明している。

とにかく一般人には精神病=犯罪者のイメージが刷り込まれており、これを突き崩さないかぎり、患者の社会復帰は阻まれ続け、治療は滞るのである。

ここでの説明も分かりやすく的確である。

第8章になって初めて分裂病の原因を論じているが、これを後にもってきたのは慧眼だと思う。

多くの精神病に関する入門書が原因論を最初にもってきているが、実はこれが難しさのイメージを増幅し、誤解の元となるからである。

笠原は、定番の遺伝と環境、脳病理、心理面の研究(精神病理)を論じた後、「社会性」の重要性を指摘し、脳の社会野、社会脳の研究の必要性を説いている。

第9章は「分裂病からの贈り物」となっているが、ここには患者と家族の悲観を打ち破る愛情あふれる臨床医の視点があますところなく表れている。

 

とにかく分かりやすくおすすめである。

少しも古くない。

 

*なお、現在この病気は「統合失調症」と呼ばれ、「分裂病」は用いられなくなっているが、原著にしたがってそのまま用いた。

そもそも笠原的愛情があれば「精神分裂病」でも何の偏見ももたれないんだけどね。

 


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今日の大宮公園の桜

2013-03-26 16:12:14 | 日記

今日、大宮公園に行ってきたが、日曜日から気温が低い状態が続いていたので、まだ8分咲きである。

気温が低い日が続くと開花した状態が長くなる。

日曜日までは間違いなく楽しめるであろう。

まだ咲き乱れてはいない。

第二公園もまだ満開ではない。


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東京郊外の穴場的居住地

2013-03-26 08:38:48 | 社会・政治

東京圏は基本的に23区内が居住地として人気がある。

しかし家賃は高く、意外に日常生活は不便だったりする。

特に山の手線の内側の地区はスーパーが少なく、コンビニが主体となり、日常の買い物が不便となりがちである。

そこで郊外に目を向け、転居するのも幸運を招くことがある。

23区内に住んでいても、仕事が忙しくて新宿や渋谷や銀座といった東京ならではの繁華街に行けるのは月2、3回という人もいる。

それなら家賃が安く、自然と緑が豊富で、スーパーやホームセンターが多、く日常生活に便利な郊外に引っ越したほうがよい。

郊外に出ても都心には20-40分で着く。

また、東京都市圏は世界一の大規模都市圏であり、都心から30-40キロまで大きな街が点在している。

中にはかなり大きな繁華街やオフィス街を抱えた都会的街もある。

横浜は別格なので脇に置いとくとして、大宮、立川、柏、千葉市の駅周辺は大きな繁華街をもち大型店舗がひしめいている。

駅ビルも巨大でエキナカも充実している。

そして都心へのアクセスがいいので、通勤・通学にも便利である。

月に2、3回新宿や渋谷や浅草に遊びに行くなら、郊外に住んでも23区内と変わらない。

その土地に慣れてくると、わざわざ都心にまで行かなくてもその地で万事済むことが分かってくる。

そして、観光地へのアクセスもよくなる。

これは東京23区からさいたま市へと転居した私が実体験したことである。

おすすめは大宮である。

立川もいいが、立川断層帯が怖い。

柏もいいが、ホットスポットが怖い。

藤沢もいいが、津波の影響はあるだろう。

鎌倉はもろに津波に飲み込まれるだろう。

千葉市は東京湾北部地震が怖い。

大宮は都市計画に失敗して、今再開発中で汚い部分が残っているが、さいたま新都心のスーパーアリーナもすぐ近くで、巨大な公園と日本有数の神社と参道を抱え、おすすめである。

都心へのアクセスは最高で、湘南新宿ラインと東北縦貫鉄道で、大宮→池袋→新宿→渋谷→横浜、大宮→上野→東京→品川→川崎→横浜と一直線である。

大宮の氷川神社は2500年の歴史をもち、初詣客は205万人で全国8-10位である。

大宮駅周辺の画像↓

http://askayama.net/machicard/saitama/saitama/sai-sai-omiya.html


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賃貸の引っ越しは5~8月が狙い目

2013-03-26 08:15:11 | 日記

賃貸の引っ越しは3月がピークで家賃の相場も上がっている。

4月から少しずつ家賃や初期費用が安くなるが、本格的に下がるのは5月からで、この傾向は8月まで続く。

引っ越しのシーズン3月に売れ残ったアパートやマンションの部屋は、次の借り手が9月まで現れにくい。

空き部屋はそのまま家賃の減収になる。

そこで大家や不動産会社は、何とか空室を埋めようとして家賃を下げたり、礼金・敷金といった初期費用を間引いたりするのである。

フリーレントといって最初の一か月の家賃を無料にすることもある。

フリーレント二か月や三か月家賃半額という物件もある。

しかし4月はまだそれほど下がらず、特に中旬までは引っ越しはけっこう多い。

本格的にはっきり下がるのは5月に入ってからである。

ゴールデンウイーク頃までに決まらない物件は、その後も埋まらないケースが多いことを不動産屋は知っているので、ここが狙い目である。

どんどん積極的に賃下げ交渉しよう。

残った空き物件は決して質の悪いものではない。

なぜか売れ残った掘り出し物はたくさんある。

交渉できるのは家賃の値下げ、礼金ゼロにしてもらう、フリーレントを頼む、などである。

急がないなら6月、7月、8月まで待ってもよい。

さらに安くなり、交渉しやすくなる。

ねばり者勝ちなのである。

 


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アマゾンのマーケットプレイスについて

2013-03-25 19:21:57 | 日記

アマゾンのマーケットプレイスを使い始めて7年ぐらいになる。

最初は買うこと専門だったが、2009年の12月から本やDVDを売り始めた。

最初は「すぐに買い手はつくかなー」と疑いつつ始めたが、出品したものがどれも1-2週間で買い手がついて驚いた。

最初の大物は、このブログでも紹介した森田健作主演の『おれは男だ』のDVDボックス2セットである。

1年半前に2.5万円×2で買って、数十回観て、さすがに飽きて、マーケットプレイスに出品したのである。

相場を顧慮して「非常に良い」の状態で1.9万×2で出品したが、ボックス1の方が一週間後に売れ、別の人がボックス2をそれから二週間後に買ってくれた。

ほんとに驚いた!!

こんなに早く、こんなに高い値段で中古品を買ってくれるなんて。

その後、本を中心に250点ほどこれまで売ってきた。

早いものは出品後1時間で買い手がついた。

遅いものでは出品後2年でようやく買い手がついたものがある。

これまでの買い手の評価は100%非常に良いとなっている。

しかし、三度ほどクレームがついたことがある。

返金も三回した。

印象深かったのは、ラインマーカーが数か所引いてあるものを「非常に良い」と誤記して売った本を、何の文句も言わず買ってくれた札幌の人である。

その前にラインマーカーが10行入っていた本を「書き込みなど一切なし」と誤記して売った本にクレームをつけた女性がいたので、札幌の人のことは記憶に残っている。

しかも彼はフィードバックで5の評価をくれ、「とてもよい商品ありがとうございました」とコメントしてくれたのだ。

正に太っ腹!!

君は大物になるよ、と思わず叫びたくなった。

それに対して、ラインマーカーの入った本が届いた瞬間に激怒して、評価欄に1の評価をつけ、「詐欺だ!!アマゾンから出ていけ」とコメントした人もいた。

深夜帰宅してそれを見た私は、彼に返信して、返金するからすぐに評価を削除してくれ、と頼んだら、OKしてくれた。

返金を確認すると別人のように丁寧になったのを覚えている。

彼はいわゆるケツの穴の小さい人で小物にしかならないのだろうか、と思った。

その他いろいろな思い出がある。

古く、書き込み、線引き、ラインマーカー跡多数の絶版本が見事に1万円で売れたのはうれしかった、というより驚いた。

1万円で売れたのは他に数冊ある。

ブックオフで105円で買った本を400-2900円で、これまで5冊ほど売っている。

でも最近はブックオフも研究しているからなー。

面白いのは、アマゾンのマーケットプレイスで300円で買った本が半年後に相場が上がって3000円で売れたこと。

この相場の変動による儲けはけっこうある。

また、もともと本キチガイの私は毎月本をアマゾンで買っているが、「失敗した」と思った本はマーケットプレイスにすぐ出す。

そして、かなり早く売れる。

また、これそのうち相場上がるかもという1-300円の本はまめに買っている。

気に入ったらずっと所有しているし、相場が上がったら売るしで、楽しいことだらけである。


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埼玉県伊奈町無線山の桜の滝

2013-03-24 21:18:51 | 美学

埼玉県の伊奈町には珍しい桜の名所があります。

規模は大きくないが、20mに及ぶ桜が枝切りをしないままなので、滝のように桜が咲くのです。

それは二列の並木であり、東西に枝を地面まで伸ばしてます。

これが真ん中から観たものであるが、桜のトンネルとなっています。

東側に枝を伸ばし、地面に届きそうなのが分かります。

西側もこの通りで、地面すれすれまで伸びた桜の枝の近くで飲食しながら鑑賞できます。

滝のように降る満開の桜が顔に届いているのが分かると思います。

これは生きている間に一度観た方がいいでしょう。

現地へのアクセスと2013年無線山さくらまつり(26日から)の案内は↓

http://members2.jcom.home.ne.jp/inakanko/sakura.html

なお上の四枚の画像は私が2011年の4月にデジカメで撮ったものです。


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脳腫瘍と心

2013-03-24 14:10:43 | 医学・医者

NHKの朝ドラ『純と愛』のいとしが脳腫瘍の手術後に植物状態になっているが、これを観ていて私はかつて読みふけった、岩田隆信著『医者が末期がん患者になってわかったこと』(中経出版)を想いだした。

この著書はテレビドラマ化もされたが、私は観ていない。

それはともあれ、この本な内容は人間の生命と心について深く考えさせる名著である。

岩田隆信さんは、慶應医学部卒の脳神経外科医で、昭和大医学部の脳神経外科の助教授を務めていたが、49歳のとき脳腫瘍を発病した。

しかも、脳腫瘍の中で最も悪性度の高い神経膠芽腫(グリオブラストーマ)に罹ってしまったのだ。

当時、岩田さんは激務で、朝早く家を出て、深夜帰宅するのが常であった。

そうした中で、何らかの頭痛を感じていたのだが、激務によるストレスだろうと高をくくり、検査などは受けなかった。

「まさか脳神経外科医の俺が脳神経外科を受診することにはならないだろう」と思っていたのである。

しかし、実際に悪性度の高いグリオブラストーマを発病した。

発見された時はかなり進行していた。

彼は三度の手術の末、1998年12月に永眠した。

彼は、脳神経外科医が自ら脳腫瘍に罹かり闘病した過程を後世に遺そうと思い、妻の協力の下、闘病記を書いたのである。

それについての詳細は後で紹介することにして、ここでは彼の印象深い前書き的言葉に言及しておこう。

岩田さんは出張先の福島県白河市の病院で最初の激しい頭痛に襲われ、早退して新幹線で東京に戻ってきたが、その途中で自然との情感的触れ合いを体験した。

「そしてこの日、大宮を過ぎた辺りで左後方に雪化粧した富士山が見られたことが、唯一の救いだったような気がします」。

このように彼は感慨を述べている。

私は、この本を読んだときはまだ東京に住んでいたが、大宮に引っ越してきて、埼京線に乗るたびにこの言葉を思い出す。

冬から春にかけて新幹線と並行する高架の埼京線からは富士山がくっきりと雄大な姿を現すのである。


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植物に心はあるか (続)

2013-03-24 09:28:54 | 哲学

ところで私は『自我と生命』の中で、「植物に心はあるか」という問いを却下する人に、「では植物状態の患者に心はあると思いますか」という問いを投げかけるのは面白い、と書いた。

「植物の心」という概念を不合理なものとしてドヤ顔ではねつけた主観的心観の信奉者、あるいは主観教の信者たちが、この後の問いの答えに窮することは目に見えている。

事実、私が直接問いかけたすべての人は「はっ」として答えに窮した。

てゆうか、「あなたは何がいいたいのですか」という顔に変貌していた。

周知のように植物状態の患者には意識と自発呼吸と運動能力はなくなっている。

しかし、生命維持に必要な栄養摂取能力と排泄能力は保たれている。

アリストテレスの定義によればこの植物状態の患者にはpsycheはたしかにあるのだ。

まさに植物にpsycheがあるように。

植物状態の患者も植物もいわゆる「主観的心」はもっていないが、生命=心としてのpsycheは完全に保持しているのだ。

だったら、「植物状態の患者の心」とは言わず、端的に「植物状態の患者のpsyche」と言ったらいいじゃないか、と反発したくなるだろうが、逆にここが味噌なのである。

「心」は主観的意識経験から理解されるべき「私固有のもの」ではない。

自然の無意識的生命に直結した、もっと広いものなのである。

それゆえ、いかなる場合にも「心」は「私という核をもつ主観的意識経験」に限定されることはできず、植物にも認められなければならない。

アリストテレスは、psyche(あえて心と訳す)を植物、動物、人間の三階層すべてに帰属させた。

彼は心の性質として、栄養摂取能力、場所的に運動する能力、感覚能力、思考能力を挙げているが、植物にはこのうち栄養摂取能力しかない。

そして植物状態の患者もそうである。

多くの人はあまりに「心」を狭く受け取り、感覚能力と思考能力しか帰属させない。

「栄養摂取能力が心の性質だって?」という疑問をもつのが大方の趨勢であろう。

心と生命が何らかの形で結びついていることは前から感じているのだが、いざこういうことを言われると混乱し反感を吐露してしまうのである。

心はもっと深く、広いものであり、自然の生命性と直結し、最終的には万物の根源としての「情報(information」)」から発現してくるものなのである。

そして、こういう情報概念は、アリストテレスの形相(eidos)とチャルマーズが言う「物理と意識の共通の源泉としての形而上学的情報概念」と深く関係する。

それについては私の『情報の形而上学』を参照してください。


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植物に心はあるか

2013-03-24 08:35:26 | 哲学

新宿や渋谷の駅前で通行人に片っ端から「植物に心はあると思いますか」という質問をしたら、どういう答えが返ってくるだろうか。

多くの人は「あるわけがない」と答えるであろう。

少数の人は「それは「心」の定義次第だ」と言うであろう。

また、もっと少数の人は「あると思いますよ」と言うであろう。

私はかつて二、三の著書で「植物の心」について論じた。

そして、その著書を大学の講義のテキストにしていたので、講義中に「植物の心」について話した。

そしたら多くの学生が呆気にとられ、「それ分かんないよー」という顔をしていた。

ある学生は「それ一体何なんですか」と質問に来たし、ある学生は「ベジタリアンの心のことですね」と的外れな感想を述べに来た。

また、ある学生は「心」について一家言をもっており、「それ不合理ですね」と7月に言い、夏休み明けには「友人で京大で哲学を研究している人に聞いたら、「やはりないと思う」と言ってた」と納得がいかないような顔で反論してきた。← 権威に訴える誤謬で中身がない。

その学生は、社会学部の学生で哲学に詳しいわけではないが、「心」を主観-客観対置図式から理解しており、人間的な自我をもった主観的意識経験をそのまま「心」と理解していたのである。

だから、私の『自我と生命』の中に出てくる「私は自然を撮っているとき、いつも自分の心を撮っているのだ」というプロのカメラマンの主張を「単なるフィーリング、比喩」であると決めつけていた。

彼によると、心とは各人の「私」の主観であり、自然の諸事物、あるいは外界の対象はすべて客観として「心ではないもの」なのである。

これは見事な主観-客観対置図式に基づいた素朴な主観主義的心観である。

彼だけではない。

多くの人はこのように考えるのだ。

せいぜい情感的自然観から「植物の心」を感情移入的に理解する程度であろう。

問題はやはり「心」の定義にあるのだ。

「心」の独断的理解と主観主義的理解に誤解の源泉があるのだ。

実は「植物の心」ということを言ったのは、古代ギリシャの哲学者で生物学の創始者でもあるアリストテレスである。

彼は『心について』という著書の中でそれに言及している。

ギリシャ語の原題はperi psychesであり、古くは『霊魂論』とか『魂について』と訳されていた。

『心理学』と訳されたこともあった。

ギリシャ語のpsyche は、日本語の「心」とは完全にイコールにはならないし、英語のmindとも完全に一致しない。

宗教的、神話的意味合いの強い「霊魂」や「魂」の方がニュアンスが近そうに思えるが、むしろますますその原意から遠ざかっている。

ギリシャのpsycheは「自然の息吹」に根差した概念であり、「生命」と「心」の融合からなる概念なのである。

そこで、厳密に訳すと、「心=生命」としてルビにプシュケーをつける、というマニアックなものになる。

このことを最初に述べてから、アリストテレスが言う「植物の心」について説明すればいいと思うだろうが、それにはたいして効果はないのである。

むしろ、一般人の思い込み、「心」に関する独断的な主観主義的理解、無知の無自覚を痛切に自覚させるためには皮肉な、謎かけ的言い方が有効なのである。

長くなったので、続きは次の記事に書きます。


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