精神医学者・笠原嘉が書いた『精神病』(岩波新書)は名著である。
1998年に初版が出て以来増刷を重ねているが、内容的に少しも古くなく、その的を射た叙述と読みやすさは秀逸である。
精神病の中でもその代表格たる精神分裂病(2002年に統合失調症と改名された)をもっぱら論じているが、その分かりやすい説明はまさに初心者向きである。
しかも、ある程度知識のある人や専門家にも読み応えのあるものとなっている。
テキストにも使用しやすいであろう。
とにかく入門書として最適である。
笠原嘉氏は京都大医学部卒の精神医学者で、長く名古屋大医学部精神科教授を務めていた。
彼は木村敏、中井久夫とともに京大精神医学の人間学派三羽ガラスであるが、木村敏的な哲学的・思弁的偏りがなく、中井と同様に穏当な臨床医という性格を有している。
学問的にも堅実である。
笠原精神医学は、精神病における脳病理と精神病理を臨床的二元論の観点から統合的に理解しようとする点に特徴がある。
ただし、この二元論は精神と物質を別次元に置く形而上学的二元論ではなく、患者への対処という治療的配慮から生まれたものである。
それゆえ、薬物療法と精神療法の使い分けと両者のシステム的統合を顧慮したものとして、現場志向の医者にもなじみやすいものとなっている。
そうした彼の姿勢は『精神病』にも見事に表れている。
この本は10章構成となっているが、第1章ではある分裂病の大学生の症例の話から切り出し、最終章を患者の家人へのアドバイスで締めくくっている。
第2章と第3章と第4章は分裂病の特徴と発病と経過を扱っており、その叙述は平易かつ明晰、説明は分かりやすく的確でかつ深い。
ここら辺をしっかり押さえておかないと、精神病に対する偏見はなくならず、正確な知識が得られず、患者への接し方を誤る元となるので、笠原の功績は大きいと言える。
第5章は「今日の治療」つまり1998年頃の治療を論じているが、驚くべきことに少しも古くなく、今日なお極めて有効である。
治療薬の変化を顧慮すれば、そのまま現在の治療に生かせる内容となっている。
笠原は常に医師と患者の対人関係・信頼関係を重視し、そこから寛解と社会復帰の糸口を見出そうとしてきたのである。
しかも、それが薬物療法と二人三脚的にマッチングしている。
第6章では社会復帰について具体的に論じている。
笠原は社会性というものを非常に重視し、精神病を「社会脳」の障害とみるが、この姿勢は現京大精神科教授の村井俊哉に引き継がれている。
社会復帰に関しては福祉制度も顧慮して具体的に説明している。
第7章では分裂病と犯罪の関係について啓蒙的に説明している。
とにかく一般人には精神病=犯罪者のイメージが刷り込まれており、これを突き崩さないかぎり、患者の社会復帰は阻まれ続け、治療は滞るのである。
ここでの説明も分かりやすく的確である。
第8章になって初めて分裂病の原因を論じているが、これを後にもってきたのは慧眼だと思う。
多くの精神病に関する入門書が原因論を最初にもってきているが、実はこれが難しさのイメージを増幅し、誤解の元となるからである。
笠原は、定番の遺伝と環境、脳病理、心理面の研究(精神病理)を論じた後、「社会性」の重要性を指摘し、脳の社会野、社会脳の研究の必要性を説いている。
第9章は「分裂病からの贈り物」となっているが、ここには患者と家族の悲観を打ち破る愛情あふれる臨床医の視点があますところなく表れている。
とにかく分かりやすくおすすめである。
少しも古くない。
*なお、現在この病気は「統合失調症」と呼ばれ、「分裂病」は用いられなくなっているが、原著にしたがってそのまま用いた。
そもそも笠原的愛情があれば「精神分裂病」でも何の偏見ももたれないんだけどね。