心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

現代の貧困(続)

2014-01-30 10:34:59 | 社会・政治

前の記事に付け加える。

有島武郎は裕福な家庭に生まれ育ったが、生涯にわたって貧しい人たちに同情し、実際に彼らに財産を無償で譲渡した。

しかし、その立派な態度は多くの「心ない人たち」からパッシッグを受け、嫌われた。

今の学生にどう思うかと聞いても、ほとんどが高く評価しない。

本音では嫌いであろう。

「偽善者だ」という意見が多い。

これは大正時代と変わらない。

この人たちは「偽善者」の意味が分かっているでのあろうか。

まぁ、貧乏人も金持ちも財産放棄するやつなどは嫌いなのだ。

社会全体、生態系全体の中で自らの経済生活をどうとらえ、どう生きていくかに関するビジョンがないのだ。

だから、自分だけが金持ちになればいいし、いつか逆転してやる、という意識しかない。

とにかく、有島武郎ルネッサンスを起こして、今の学生を再教育し、生涯教育において経営者を叩きなおさなければならない。

私が学生のころに無心で勉強したのは、金持ちになるためではなく、真理を探究するためであった。

そして、高校生のころから有島やその他の深い文学思想に親しみ、人間を懐疑し偽善に目を光らせてきた。

まぁ、ちゃらんぽらんなところもあったし、自己中なところもあったが、ある友人が言った言葉が忘れられない。

「君は絶対人をいじめるような奴じゃないよ」というのがそれである。

これは有島や太宰にも当てはまる。

それとウィトゲンシュタインが貧しい人に全財産を譲渡し、自らは貧乏人になったことを高く評価したら、その人も同感して、「なかなかできないことだよね」と言っていた。

それに対して、スプーン曲げなどの超常現象に関心が深かった友人はシラケていたが。


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現代の貧困

2014-01-30 09:54:45 | 社会・政治

一昨日、夜の七時半からNHKで現代の貧困を報道していた。

特に若い女子における貧困を紹介しいた。

貧困とは手取りの年収が約120万円以下を言うらしく、実に現代の若い女子の三分の一がこれに当たるらしい。

この年収は私が大学生(学部生)のとき、親の仕送りだけでアルバイトをせずに勉強に明け暮れていたときと変わらない。

少し多いくらいである。

だから大体どういうことか想像はつく。

しかし、私は東京の風呂なしアパートで家賃1.5万円のところに住んでいたので、それほど苦痛は感じなかった。

ところが、現代の貧困若者は家賃4~6万円のところに住んでいる人がほとんどである。

これでは食費と光熱費と通信費と交通費を引いたらゼロか赤字であろう。

東京23区では風呂有の賃貸物件は最低で4万し、まともなのは6万円以上だから、こうなるのだ。

古くからある風呂なし物件は減ってしまったし、そこに入るのはさすがに抵抗があるだろう。

だったら、川を超えて埼玉や千葉に行けばよいのだ。

荒川や中川を超えただけで家賃は2万円も安くなる。

それでいて、駅前は繁栄し、都心へのアクセスは23区の辺鄙なところよりもよい。

川口、戸田、松戸などは都心まで20分であり、大宮、川越、所沢、柏、千葉で30-45分である。

ここらへんに転居すると3万円代から風呂有物件があり、何よりも広い物件が東京に比べると安い。

たとえば東京で40㎡クラスの2DKが家賃10万円だとすると、埼玉や千葉では5~7万円なのである。

約半額である。

15~22㎡のワンルームや1kではそれほど格差はないがやはり安い。

引っ越しを勧める。

まぁ、それはいいとして、女子をはじめとした若者がこうした貧困状態だと、少子化がますます進み、ジャパンシンドロームは激化するはめになる。

なぜ貧困が進むかというと、雇用が悪化しているからである。

それと賃金が安い。

かつて時給1000円で残業しまくって稼げた1990年代に比べると、同種の仕事で時給800円程度で残業できないどころか、出勤日まで減らされている。

それゆえ、アルバイトでも月25~30万円稼げた90年代に比べて、数年前から月収10~15万円がやっとなのである。

先の番組で紹介されていた母子家庭の母親(25歳)は二人の子供を育てているが、月収が10万で自治体から給付される子供手当が4万で計14万円にすぎない。

この母親は「私が倒れたら子供が餓死するであろう」とインタビューに答えていたが、これを個人の貧困の問題とだけ捉えてよいであろうか。

現代の若者の三分の一に及ぶ貧困は、そのうち日本を滅ぼすであろう。

一部の富裕層を生かすために貧乏人を造りだすという社会経済の仕組みは古くから知られている。

その傾向が激化してきたのである。

しかし富裕層、勝ち組は、それに見向きもしない。

格差を是正しないと、そのうち経済が破綻し、国が亡び、全員が貧困化することに気付かないのである。

社会意識が低く、道徳心が希薄なのである。

このことと昨日の同時間の特集「グローバル企業の悪徳」が結びつく。

劣悪な労働環境の下で労働者を奴隷扱いする大企業は、そこの商品を買わないという反対運動のせいで倒産の危機にさらされる。

つまり、労働者を軽視してあくどく儲けようとすると、一時は繁栄しても結局は滅びてしまうのである。

国を支え、経済を支え、生活を可能にしているのは多くの低所得者の労働である。

これを「負け組の言い訳」などと言うやつは、小学校低学年生なみの道徳意識しかない。

いや経済や社会の仕組みが分かっていないのである。

有島武郎を少しは見習いたまえ。

とにかく、件の悪徳大企業のようにケツに火がついてしまう前に、雇用環境を改善するしかないのだ。


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意識の何が特別か

2014-01-30 09:07:36 | 意識・心理学

物理的世界の中で意識という現象をどう捉えるか。

あるいは、その中で意識の存在はどう位置づけられるのか。

という問いを突き付けられると、多くの人は困惑する。

意識がどのように経験され、どのような内容をもっているか、ということに関しては誰もが即座に答えられるが、物質との関係を問われると困惑してしまうのである。

物質と意識、精神と物質、心と脳。

これらの関係を説明することは簡単ではない。

精神的系列と物質的系列、心的文脈と物的文脈、心理的説明原理と物理的説明原理。

これらの間には巨大な説明的ギャップがある。

これに着目して提出されたのがチャルマーズの「意識のハード・プロブレム」である。

この問いを提出するにあたって、チャルマーズは意識の主観的な現象的特質がいかに物理主義的説明と相いれないかを強調した。

その際、意識と経験の関係に着目し、意識の現象的性質をその経験的性質と等置した。

チャルマーズはオーストラリア出身の哲学者だが、イギリスの大学を出て最初アメリカで活躍した。

それゆえ、彼の哲学は基本的に英米の哲学の伝統に根ざしている。

それゆえ「経験」の概念を重視するが、その姿勢はイギリス古典経験論やプラグマティズムや分析哲学という英語圏の哲学における「経験」の概念把握と少し乖離している。

彼の立場はむしろフッサールを中心とした現象学と類似している。

彼が意識の謎ないし神秘を強調するその姿勢は、直接にはトマス・ネーゲルからの影響が強い。

そして、ネーゲルが強調したのは「意識の主観的特質」であり、それが客観主義的ないし法則定立的な物理主義的把握法によっては決して捉えられない、ということであった。

これは要するに心と物、主観と客観の二元対立を意識の問題に適用したものであり、デカルト哲学の伝統に根ざしている。

しかし、英米哲学における伝統的な「経験」の概念は、けっして主観的なものに限られない。

それはむしろ心理学や生理学や物理学と連続性をもつ準客観的なものであった。

この伝統を最も実り豊かに定式化したのはジェームズとホワイトヘッドである。

この二人はけっして二元論を認めないし同時に還元主義(唯物論)も否定する。

彼らに従えば、経験は物理的なものであり、意識に先立っており、世界と連続している。

それゆえ主観性の檻、内面性の監獄に幽閉されたものではなく、世界に対して開かれている。

我々はこの二人に倣って意識の本質を理解しなければならない。

意識が特別な現象に思われる原因は、それが非物質的で私秘的な主観現象だからではなく、世界が活きた有機体であり、その生命特質を個体が分有しているからなのである。


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『存在と時空』の原稿を書き始めた

2014-01-26 23:40:55 | 日記

前から2月に入ったら書き始めようと誓っていた『存在と時空』の原稿を、前倒しして今日から書き始めた。

といっても、今日書いたのは目次だけだか。

執筆時間わずか15分(笑)。

私はいつも新著の原稿を書き始めるときには、まず目次を書く。

「目次ができたら、もう論文は完成したようなもんじゃないか」と大学院生のときに友人と話したものだった。

私は特に目次ができると、すらすら書ける方で、今後に期待が持てる。

しかし、今日書いた原稿を数日寝かして、次の執筆日にまた見直してみようと思っている。

で、結局本文を書き始めるのは10日後くらいになるんじゃないかな。

一応、一年半かけて原稿を完成させようと思っている。

もしかしたらそれ以上かかるかもしれない。

『存在と時空』はもちろんハイデガーの『存在と時間』の向こうを張った私自身の体系的哲学書、特に存在論のそれである。

そこで、どうしても肩に力が入って、いいものないし歴史に残る名著にしようと意気込んでしまう。

少し肩の力を抜かないとならんな。

前に知り合いの精神科医と話したときの「楽しんで書いてますから」という気もちで臨むのがいいんだな。

やっぱり。

ちなみに、ハイデガーには影響を受けてはいるが、論述には彼の思想は直接参照しない。

そもそも『存在と時間』というタイトルに魅かれているだけなのだ。

それはプルーストの『失われた時を求めて』というタイトルにだけ魅かれるのと同じである。

人にもよるが、『存在と時間』というタイトルは素人にも大変魅力的らしい。

しかし、実際にハイデガーの『存在と時間』を読むと、難しいことばかり書いてあって、期待外れとなり、放り出してしまう。

人(哲学の素人)が「存在と時間」というタイトルないし問題に期待することって何なんだろうか。

それが気になってしょうがない。

それを常に念頭に置いて原稿を書き進めることが、結局は成功に導くような気がしないでもない。


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比較的暖かい一月下旬

2014-01-26 07:54:12 | 日記

今年は秋に出された長期予報では例年よりも寒いとされていたが、先月からの流れを振り返ると暖冬気味である。

特に、今月の下旬は一月としては暖かい。

毎年、一月下旬というと寒い。

とにかく寒かったという記憶しかない。

なんといっても大寒から始まるのだから。

ところが、今年は大寒の日から10℃以上の日が多く、比較的暖かい。

これは2007年の暖冬以来のことである。

その前では2002年の暖冬が想い出される。

ここ数年は夏がくそ暑く冬が寒かった。

久しぶりの暖冬傾向である。

去年に比べると11月下旬から12月も暖かかったから期待していたが、十分それにこたえてくれている。


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意識と存在

2014-01-16 09:10:14 | 哲学

意識と存在はどのような関係にあるだろうか。

意識は古くから哲学と心理学の研究対象であり、最近では脳科学も積極的に関与してきている。

それに対して「存在」は哲学の独占的テーマであり、他の学問は手を付けたがらない。

しかし、「私はなぜ存在するのだろうか」とか「世界はなぜあるのか」とか「存在の意味って何だろうか」という問いは万人のものである。

それは、少年期から思春期・青年期に移るときの自我の目覚めと関連するし、文学や宗教の関心事でもある。

また、自然科学者が実証的研究を終えて世界全体に関心をもったとき頭をもたげてくる問いでもある。

「存在」を直接問題にすると、あまりに抽象的で難解なので、敷居を下げて「生きていることの意味」ないし「人生の意味」へと問題を変換すると、とたんに分かりやすくなる。

実はここが味噌なのである。

そもそも我々が存在に関心をもつのは、「自分の生きている状態」に関する「意識」を通してである。

ドイツ語で意識のことをBewusstseinと言うが、これを直訳すると「自覚態存在」となる。

「何かがそもそも存在する」ということに関する驚愕の念は、意識をもった生命体から発せられるものである。

それは「外界の存在への関心」であると同時に「自己の存在への関心」であり、双方は相互に反転する一体二重性の関係にある。

しかし、存在への問いは、フッサールの現象学におけるような「意識へと向けられた存在への問い」に尽きるものではない。

それは最終的には即自的存在としての「存在そのもの」への問いでなければならない。

古代ギリシャにおいてプラトンとアリストテレスが立てた存在への問いは、意識的主観性を超越した客観的な存在の原理への問いだったのである。

しかし、意識と存在の連関はやはり興味深く、意味が深い。

その連関を新たに考え直さなければならないのだが、そのためにはデカルトやカントやフッサールは参考にはならない。

反面教師にはなるであろう。

真の教師は、ホワイトヘッドやデューイやハイデガーである。

これらの哲学者は意識の主観性よりも経験の自然性を重視し、それと存在の関係を考えた。

また、これらの哲学者は明確に述べていないが、経験は生命と密接に関係し、意識を超えて無意識的生命、無意識的存在に直結している。

とはいえ、経験が意識と切っても切り離せない関係にあることもまた事実である。

ここでご褒美がある。

経験と生命と存在の関係を考察することが、結局は意識と存在の関係を解明することにつながる、というのがそれである。

このことをわきまえて意識と存在の関係を探究し始めることが、最良の成果に導くであろう。


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大宮の空撮画像

2014-01-13 10:36:58 | 社会・政治

大宮の都会性が一目でわかる空撮画像を掲載します。

これは2年前にできたグランドミッドタワーズ大宮のHPに載っている画像です。

西口方面がソニックシティで尻切れトンボになっていますが、一応大宮駅周辺の規模が分かるでしょう。

3年後には高島屋とロフトの後ろ辺りに100m級のビルが出来上がります。

その他、高層、超高層のビルが次々と建てられるでしょう。

しかし、何と言っても大宮の魅力は上の画像の緑の部分です。

つまり、氷川参道と氷川神社です。

氷川参道は、さいたま新都心駅東口徒歩5分の地点から始まり、氷川神社本殿まで2km市街地を貫いています。

これが他の都市に類を見ない大宮の魅力なのです。

さらに、この画像の右側、氷川神社の東側には広大な大宮公園があります。

これ以上の都市装飾物が他にあるでしょうか。

旧大宮市、現さいたま市の失策は、氷川神社と大宮公園という素晴らしい緑の資産を県下一の商都、交通の要衝である大宮の街のために活かせなかったということです。

まぁ、これから本格的に始まる東口の大再開発に期待するしかないですね。

単に駅周辺を洗練されたビル街にするだけではなく、東側の緑の大資産、歴史の遺産とどうコラボするかが要点なのは言うまでもないですが。


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埼玉の都会 大宮 (続)

2014-01-12 19:18:15 | 社会・政治

大宮はもともと駅東口周辺が中心の都市であり、繁華街とオフィス・金融機関はこちらに集中していた。

このビル街がそれを象徴しているが、老朽化は否めない。

それに対して、1988年に新幹線が開通すると同時に駅西口が大開発され、埼玉一の都会に大変身した。

東口の高島屋に比べて、西口のそごうは大きくて比較的新しくて客も多い。

別館はビックカメラになっている。

また、マルイ、アルシェなどのファッションビルもある。

そして、ソニックシティなどの超高層ビルも数本ある。

しかし、街に厚みがなく、すぐにビル街が途切れてしまう。

つまりハリボテ的である。

今後さらに発展する予定で、将来的には隣の新都心との間に超高層ビルが林立し、合せてマンハッタンを形成すると思う。

次の写真は大宮そごうの屋上から新都心方面を撮ったものである。

一連の写真は今日私が撮ったものである。

午後に撮ったので逆光で西口の迫力を十分伝えれなかったが惜しい。

立川は駅北口方面にビル街集中しているので、一見大宮より立派に見える。

それに対して大宮は東口・西口両方が栄えている、つまり分散しているので、その大きさが理解しにくい。

また、西口の厚みのなさと東口の老朽化によって現状ではまだ迫力が足りない。

今後、東口にも超高層ビルが林立し、2km離れた新都心とも連続するので、そのときこそ「政令指定都市」の威厳を示せるであろう。

 

晴れた日の午前の写真をまた後でupします。

 

 


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埼玉の都会 大宮

2014-01-12 17:57:21 | 社会・政治

「ださいたま」と揶揄される埼玉にも都会がある。

それは、政令指定都市さいたま市の大宮である。

大宮は東京都心から30kmほど北に位置する交通の要衝であり、千葉や川崎と並ぶ東京郊外の都会である。

しかし、現状ではそれらに少し劣っている。

そこで、前に記事に書いたようにワンランク下の立川、柏などと比較されるのである。

しかし、大宮の駅と駅ビルとエキナカは日本トップクラスである。

何といっても大宮駅は一日の乗降客数が65万人にも及ぶ日本有数のターミナルなのである。

その駅なかを見てみよう。

エキュート大宮というエキナカSCを横目に通る通路の写真。

「綺麗ー」の一言に尽きるね。

次に駅構内の中央通路。

改装工事中で狭くなってるが、この通行客量は「すごい」の一言。

まさに、大宮駅とその周辺は人、人、人。

次に、再開発が間近の駅東口に出てみよう。

一応、この東口が表玄関なのだが、昭和の雰囲気のままであり、古さは否めない。

これが数年後には大改装される予定だが。

しかし、この黄桜のネオン塔はなくならないでほしい。

ただし、このネオン塔が乗っかっているビルは解体候補ナンバーワンのおんぼろビル(旧第一デパート)なので、消滅必至であろう。

記念碑として新築のビルにこの黄桜の塔を残してほしいものだ。

 

少し長くなったので、続きは続きは次の記事に書きます。

 


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寒暖差による鼻水

2014-01-12 17:18:02 | 日記

以前から鼻水に悩まされていた。

花粉症とかそういうのではなく寒暖差によるアレルギー反応である。

普通、アレルギー性鼻炎というと、花粉やハウスダスト(塵、ダニ、猫の毛など)によるもののことを指すが、寒暖差に鼻腔内の粘膜が反応した炎症のことも含まれる。

私のものはまさにそれ、寒暖差アレルギー性の鼻炎である。

症状は鼻水であり、鼻づまりはない。

既に20年前から鼻水が多くて、少し気にしていたが、今年の冬になって気にするどころではなく、滝のように流れるようになってきた。

前から鼻炎の薬を時々飲んでいたが、薬は嫌いだし、飲んだときしか効かないので、別の方策を考えた。

そこで思いついたのがマスクをすることである。

実は私は日常マスクをしたことが生まれてからほとんどない。

風邪をひいたときでさえ、抵抗感がありしなかった。

そして、つい去年の11月まで街でマスクをしている人を奇異の目で見ていた。

しかし12月から私が毎日マスクをするようになった。

前に何かの際にマスクをしていたとき、慢性の鼻水が数時間出なかったことを思い出して、ためしにしてみたのである。

そしたら、効果覿面、マスクをしている間は、あれほど流れ続けていた鼻水、かんでもかんでも止まらなかった鼻水がぴたりと止まったのである。

実はネットで「アレルギー性鼻炎」で検索して、自分のものが「寒暖差アレルギー性の鼻炎」による鼻水である、と確信していたのである。

それが証明されたのである。

マスクは保温効果があり、寒暖差を抑えるのである。

もともと症状は冬場や麺類などの熱いものを食べたときに起っていた。

また、起き掛けやホコリの多いところでも起こっていた。

とすれば、寒暖差だけではないことになる。

とにかく、鼻腔内の粘膜が炎症を引き起こしやすくなっているのである。

そのことを銘記して、今後マスクの使用を効果的に継続し、鼻のかみすぎを止めようと思う。

実は鼻のかみすぎは鼻水の出すぎを解消しない。

かみすぎて乾燥した鼻腔内の粘膜が、乾燥を補うために鼻水を過剰に分泌してしまうからである。

鼻水は必要悪なのであり、そのことに気付かないと事態は改善しない。

また、鼻水の正体が涙であることも知っておいた方がよい。


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東京郊外の都会 立川 (続々)

2014-01-07 08:45:36 | 社会・政治

まず、立川駅の中央通路。

立川駅の内部にはエキュートがある。

その規模は大宮よりも大きいが、隣の国立市民の意見では大宮の方が洗練されており、立川のは「すべっている」らしい。

次に駅の南口。

こっちもペデストリアンデッキがあり、整備されている。

わけのわからないアレアレアというビルがある。

モノレールの立川南駅がある。

駅南口は北口に比べるとずっと規模が小さく、雑居ビルの巣窟となっている。

しかし、駅直結のファッションビル。グランデュオがある。

ここ最初は「そごう」になる予定だったとか。

とにかく、立川はハコが充実している。

その代り路面店が極端に少なく、一部には「面白みがない街」という意見もある。

それは特に吉祥寺に比べて言われることである。

また、町田に比べても「ちょっとね」という感じなのである。

なんか、人工的で無機的街のイメージなんやろね。

再開発前は、小汚い猥雑な基地の街だったんだけどね。

まぁ、いまでは駅周辺に散在するハコでイメージ刷新したけど。

立川駅周辺のハコとしては、伊勢丹、高島屋、ルミネ、グランデュオ、ビックカメラ、フロム中武、アレアレア、その他数店ある。

これを渡り歩くのが、立川好きの行動パターンである。

路面店、アーケード街が充実し、ハコもかなりある吉祥寺、町田も楽しいが、立川のハコ渡り歩きもまた格別かも。

ちなみに、立川駅周辺の年間小売販売額は2000億弱で、千葉、大宮、川崎に匹敵し、町田と吉祥寺と同程度。

駅前の商業地の地価も相当なものである。

よく比較されるのが、埼玉一の繁華街・大宮である。

それに関して、ある国立(くにたち)市民が鋭い意見をヤフーの知恵袋に書いていた。

立川と大宮を比べると、立川の方がパッと見は立派に見えるが、内実は大宮の勝ち、というのがその骨子である。

立川は駅周辺にハコを集積し、それによって大規模に思えるのである。

それに対して大宮は隣の新都心をはじめ、周辺に分散しているので、「僅差で立川より貧弱に見える」というのである。

しかし、大宮周辺は立川にはない超高層ビルがさらに増え、また新都心と連携して商業もますます上昇の気運である。

東京郊外の都会としては、大宮は千葉や川崎の地位にあるが、現状では後者に劣っている。

そこで、立川と比較されるのである。

大宮の紹介と立川との比較は後でやります。

とりあえず、国立市民による大宮vs.立川の裁定を参考にしてください。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422407129

 

なお、一連の記事に掲載された写真は、私が12月30日に現地に赴いて直接撮影したものである。

 

 

 


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東京郊外の都会 立川 (続)

2014-01-07 08:32:18 | 社会・政治

立川高島屋もその外観から分かるように近年新築されたものである。

ただし、この店舗売り上げが不振で、撤退のうわさがある。

なんとユニクロがワンフロアを占めているのだ。

大塚家具もある。

その高島屋前から東側を見ると。

なんか、長崎、宇都宮、水戸、岐阜レベルって感じやね。

高島屋の向いが伊勢丹の裏側である。

博多のビル群を想わせるね。

それもそのはず、立川は博多(福岡)と同じように空港があるために長い間超高層ビルを造ることができなかったのだ。

しかしモノレールはある。

次に再び駅前に戻る。

ちなみに、さっきのも今度のも駅北口な。

駅ビルはルミネとなっている。

このルミネは大宮のように洗練されてないが、使い勝手はよい。

またまた長くなったので、続きは次の記事に書きます。

 

 


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東京郊外の都会 立川

2014-01-07 07:56:11 | 社会・政治

東京の繁華街の大きいところというと、新宿、銀座、池袋、渋谷、日本橋、上野などがすぐに挙げられる。

これは23区内のものである。

しかし、東京には23区以外にも多摩地区がある。

そして、そこにも大きな繁華街が四つある。

吉祥寺と町田と立川と八王子である。

このうち吉祥寺が最も有名で人気があるが、15年ほど前から再開発で急成長した立川は驚異的である。

人口わずか17万人の中心駅なのに、その駅周辺は地方の大都市並み、あるいは政令市並みなのである。

立川駅は中央線の重要な駅の一つであるが、さらに青梅線と南武線が交わる。

また、多摩都市モノレールもある。

そして、中央線で新宿まで30-40分かかるという郊外度も加わって、地元や沿線周辺から多くの来客を得て、商業が反映したのである。

この辺住民は、埼玉や千葉や神奈川と違って、わざわざ23区の繁華街に出かけずに、地元の大きな繁華街で買い物を済ませる傾向がある。

それゆえ、次に見るような立川の繁栄をもたらしたのである。

まず、駅前通り。

次に駅北口の真ん前にある伊勢丹。

この未来的外観から分かるように、近年新築されたものである。

次に、駅前通りの商業ビル群。

右側に見えるビックカメラは前の伊勢丹のビルを再利用したものである。

この店舗は6階まであり、かなり規模が大きい。

次に、その先に行こう。

この街並み、ビル群は、地方の中核都市に匹敵する。

次に、この地点から振り返って駅側を見てみよう。

また、西側を見ると。

そして、少し先に行くと、オフィス街・立川ファーレがある。

こういう街並みは、川崎、千葉、大宮に匹敵する。

少し規模が小さいが、小奇麗にまとまっている点が特徴である。

次の景観も迫力がある。

高島屋が見えてきた。

ただし、長くなったので続きは次の記事にします。

 

 

 

 


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