心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

カワサキ マッハⅢ

2013-11-28 22:36:24 | バイク ・ 自動車

川崎重工業(株)は1969年にホンダCB750に対抗して、ハイスピードの大型バイクを発表した。

それがカワサキ マッハⅢの愛称で親しまれ、熱狂的なファンを多数得た500SS・H1である。

このバイクは2スト3気筒500ccで最高出力60hp/7500rpmをたたき出し、最高速度は200kmに達した。

特に加速がものすごく、その荒々しさから「キチガイマッハ」とも呼ばれた。

いまでもマニアの間では大人気で、状態のよい40年物の中古車は150~200万円する。

この人気を引き出したのは、その韋駄天ぶりとともに独特のスタイルである。

まず、初期型H1の画像を見てみよう。

初期型はまだドラムブレーキでリアカウルがない。

しかし、その後次のような洗練されたスタイルに変身した。

これが500SSという称号の最終モデルで、その後KH500と改称される。

ちなみに、このバイクはアラン・ドロン主演の映画『ル・ジタン』にも登場した。

それは真ん中の緑・青のカラーリングのモデルであり、アラン・ドロン自身が運転したが、500ccのものか750ccのものか分からない。

実は、500SS(マッハⅢ)=H1には後発の兄貴分750SS(マッハⅣ)=H2があったのだ。

これが前にも紹介した750SSだが、当時世界最速であった。

500SSと区別する指標は、エンジンの大きさとマフラーの跳ね上がり方である(もちろんサイドカバーの500と750という印字も)。

マニアには一目瞭然だけど。

 ちなみに、いまだにこのマッハシリーズ(250cc,350cc,400cc,500cc,750cc)がスタイル的に世界一かっこいいバイクだ、というファンが多数いる。


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ヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』を読み始めた

2013-11-28 14:43:05 | 日記

ドイツの医学者で内科と心身医学を専攻するビクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』(木村敏・濱中淑彦訳、みすず書房)を十数年ぶりに読み始めた。

これは、来年の2月に書き始める新著『存在と時空』の原稿のための最後の参考文献として読むのである。

もう一冊ミードの『現在の哲学・過去の本性』も読み、原稿執筆中も他の本を読むので、これで参考文献の渉猟は終わりではない。

しかし、私はこれまで書いてきた本の執筆の前には必ずスプリングボードとなるような一冊の参考文献があった。

それが今回は『ゲシュタルトクライス』なのである。

「知覚と運動の人間学」という副題が付されたこの本は、生命的な時間と空間の概念に関する鋭い考察が含まれている。

 

  「生命あるものを研究するには、生命と関わり合わねばならない」。

  「生命それ自身は決して死なない。死ぬのはただ、個々の生き物だけである。個体の死は、生命を区分し、更新する。

    死ぬということは転化を可能にするという意味をもっている」。

 

ヴァイツゼッカーは『ゲシュタルトクライス』のはしがきにおいてこのように述べている。

この主張は私の生命観と一致する。

てゆうか、私が彼の思想の影響を受けただけなのだが。

とにかく、今回新たに書こうとしている『存在と時空』にヴァイツゼッカーの生命円環論的時空論をどのように取り入れ、それを存在論に応用するかが問題である。

これには存在論と心身問題、存在論と生命論それぞれの関係が関与してくる。

その際、生命主体と環境の円環関係(つまり、ゲシュタルトクライス)における時間と空間の役割をよく理解する必要がある。

そのことを銘記して最後の読解に勤しむつもりである。

だが、自分の創作意欲がむくむくと湧いてきたら、さっさとこの本を放り出して、原稿執筆に取りかかるであろう。

これは西田幾多郎に見られた傾向らしいが、数年前から私にも現れている。

なお、最近また『存在と時間』の新訳が出た。

高田珠樹氏のものである。

数か月前に岩波文庫の新訳が出たばかりなのに、またか・・・と思ってしまう。

こうした主体性のない日本の哲学界に喝を入れるためにも、私は自分の体系的哲学書にして独自の理論体系である『存在と時空』という本を書こうと思うのである。


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藤圭子

2013-11-25 23:52:07 | 美人

藤圭子は1951年7月岩手県に生まれ、北海道旭川市で育った美貌の演歌歌手。

今年の8月22日に新宿区の自宅マンションのベランダから飛び降り自殺。

これは、かつてのファンに大変な衝撃を与えた。

音楽家の宇多田ヒカルの母親としても有名であった。

その大変な美貌は翳りを帯び、何か浮世離れしていた。

歴代の日本の美人の中でも、その哀しみを帯びた美貌は一際異彩を放っていた。

なんだかすごいね。

昔はコケシみたいに感じてあまり好みの美貌ではなかったが、こうして画像を並べてみるとかなり高レベルの美人であることが分かる。

この「美」は幸福と不幸の対立を超えて永遠である、と言いたくなるね。

謹んでご冥福を祈ります。

 

 


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マンハッタン川口

2013-11-23 15:23:16 | 社会・政治

埼玉県の川口市は荒川を挟んで東京都北区と隣接している大都会です。

かつては鋳物工場の街として有名でしたが、工場が次々と壊され、その跡地に超高層マンションが林立しました。

その圧巻の市街地の航空写真です。

JR京浜東北線の赤羽駅を出て荒川の鉄橋を渡ると川口駅に着きます。

そして、駅を降りて周りを見渡すと、ご覧のようなマンハッタンです。

上の画像からも分かるように、川の向こう側に東京スカイツリー、池袋、新宿が遠望されます。

昭和30年代に吉永小百合が主演した映画『キューポラのある街』から川口のイメージを想像していた人は、この変わり様に唖然とするでしょう。

とにかく、この川口の例もまた、「ださいたま」と揶揄される埼玉の意外な都会性を示しています。

一度来てみてください。

東京側から遠望した次の写真も参考になります。

川口の超高層マンション街を中心として、右にさいたま新都心・大宮、左に武蔵浦和の超高層ビル群が写っています。

この景観が埼玉の都会性を最もよく示しています。

 


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埼玉は意外と都会

2013-11-22 19:03:21 | 社会・政治

とかく「ださいたま」と揶揄される埼玉県ですが、実は都会です。

次の画像は東京都練馬区からさいたま市のさいたま新都心~大宮を撮ったものです。

これを見た名古屋の人が一瞬びびったそうです。

福岡(博多)の人もびびるかな。

これ以後、さいたま市、特に大宮と新都心を中心に埼玉県の意外な都会性と魅力を紹介して行こうと思います。


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サンデルは拝金主義者か

2013-11-21 08:25:49 | 哲学

今日、本屋で次のような書籍を見つけた。

今、世界で最も注目されているハーバード大学の哲学科教授マイケル・サンデルをからかった本のようです。

サンデルは日本でも大人気で各地で何度も講演してます。

私も少し興味をもっていますが、基本的にたいしたことない奴だと見下してます。

まぁ、ミーハーが好む哲学屋さんって感じかな。

サンデルが主張する「正義」って、だいたいがアメリカ的な拝金主義に毒された紛い物にしか思えないっすね。

ハーバード大学哲学科の偉大な先輩教授のジェームズとホワイトヘッドに比べると、その低級さが際立ちまする。

アメリカの哲学はやはり心の哲学、科学哲学がいいね。

デネットとかサールね。

かつてのプラグマティズムの方が正義を表立てずに論じる社会性をもっていたように思います。

デューイとかミードね。


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自宅から見える紅葉

2013-11-20 09:05:17 | 日記

自宅マンションの窓から10mぐらい離れたところに見事な紅葉が見えます。

道を挟んですぐ向こう側です。

このような紅葉を見ながら生活できるのは幸せです。

その気持ちは次の猫の画像の表情に例えられるようなものです。


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過去と未来は存在するのか

2013-11-19 15:16:18 | 哲学

我々は常に現在に生きています。

あるいは、確実に存在すると言えるのは現在です。

それでは過去と未来はどうでしょう。

過ぎ去ってもはやない過去はもう存在しません。

しかし、その過去もかつては現在だったとするなら、その時は存在していたのでしょう。

また、未だ現在になっていない未来は存在しません。

まだ存在していないのです。

確実に存在するであろうとも言えません。

しかし、かつての現在にとって未来であった「時点」は、そのずっと後の現在にとっては過去であり、それが「現在」になった時点では存在してたのでしょう。

こうしてみると、いつを確固とした「現在」とみるかによって、過去と未来の存在は決まるのであり、一概に「過去と未来はそもそも存在しない」とは言えないことが分かります。

自覚的意識の明証性を一切の存在理解の基点に据える観点からすると、「確固とした自覚的意識」の目に映るもののみが「存在する」ということになり、

それ以前の過去とそれ以後の未来については確実に存在すると言うことは許されません。

フッサールは概ねこのような観点を取っていたと思われます。

そして、この観点は周知のようにアウグスティヌスの時間理解に依拠しています。

意識内在主義的観点から「存在」を理解しようとすると、このような意識的現在主義に陥ってしまうのです。

それに対して、存在と生成を対立させずに融合的に捉える立場からすると、過程(process)がそのまま実在(reality)となり、

過去と現在と未来は一つの「生成」の中での統合的「存在」として理解されます。

この観点をとったのはホワイトヘッドです。

アウグスティヌスやフッサールは「意識の現在」を過度に重視し、過去を「過去についての現在的意識」、未来を「未来についての現在的意識」として理解しました。

これでは、確実に存在するのは「自覚的意識の現在」のみであり、過去と未来は実在しないことになってしまいます。

しかし、こうした見方は現実に背きます。

現実的感覚として、過去も未来も存在ないし実在します。

なぜでしょうか。

それは、我々が生活経験ないし人生行路の中で何度も「現実になった未来」「かつて確実に現在として存在しその後過去となった事柄」を繰り返し繰り返し体験しているからです。

過去、現在、未来。

これらは具体的存在物ではなく、経験や意識や思考を整理するための道具としての「構成概念」なのです。

構成概念を具体的存在物と同等の存在レベルに置いて理解しようとするから、「過去と未来は存在するのだろうか」とか「過去と未来は実在しない」という、

おかしな見解に至るのです。

簡単に言うと、過去の事実は現在の事柄に影響を及ぼし続けるという意味で存在し、その影響は未来にまで及んでいます。

それは、あなたが今の時点で、5年前から10年前のことを想い出してみれば分かることです。

過去と現在と未来は、時間の大きな流れの中で、繰り返し繰り返し相互に入れ替わり、

一つのプロセスを形成し、そのプロセス自体が巨大な生ける「実在(reality)」となっているのです。

ハイデガーの『存在と時間』とホワイトヘッドの『過程と実在』は時代的にも至近距離で生まれた双子の兄弟です。

 


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それでは時計で示される時間はどうなのか

2013-11-19 10:28:06 | 哲学

前の記事への追加です。

「時間は実在するのか」という問いに対する一つの答えとして「時計で示される均一的時間基準があるから、それは実在する」というものがある。

たしかに、時計で示される時刻と時間は、個人の主観的時間感覚に依存しない客観的公共性をもっている。

家庭で使われる時計から、セシウム原子時計やストロンチウム光格子時計に至るまで、時計は時間を規則正しく均一に刻んでいる。

しかし、それはやはりそれだけのものにすぎない。

「存在と生成」という根本的観点から、過去・現在・未来というものの存在論的性格を考えなければ、時間の実在性を論じることができないのである。

ベルグソンとハイデガーはこのことを徹底的に主張したし、アインシュタインの相対性理論も絶対的現在と時間計測の均一性を否定している。

時計で示される時刻と時間はしょせん時間という根源的現象の表層の一部にすぎないのである。


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「時間は実在するか」という問いについて

2013-11-19 09:22:36 | 哲学

古くからある哲学の問題として「時間は実在するか」というものがある。

時間が現実に存在する、つまり実在するというのは、日常的感覚からすると確かなように思われる。

しかし、それは時間の流れや質に「現実感がある」という意味であって、厳密に存在論的ないし物理学的に実在性を考えて出した見解ではない。

何かが「現実的である」ということと、それが「実在性をもつ」ということは違うのである。

もちろん重なる部分もあるが、根本的には同一視できない。

主観的体験は、現実性はもっているが、客観的実在性をもつわけではないのである。

で、問題である。

時間は古くから主観的現象であり、自然界の物理的現象のもつ客観的性質ではない、と言われてきた。

この見解はエレアのゼノンの思想に萌芽がみられ、その後アリストテレスによって定式化された。

アリストテレスは、時間を「以前と以後という観点から計測された物体の運動の数的性格」と定義した。

その際、計測ないし観測する心(主観)なしには時間は存在しないであろう、と付け加えた。

ここに意識主観と物体の運動の間の「関係性」としての「時間」の本質が示唆されている。

つまり、「意識主観の計測行為と流れの感覚」が時間という現象の主観的現実性の基盤なのであり、「物体の運動のもつ数学的性質」が時間の客観的実在性の基盤なのである。

この主観的現実性と客観的実在性の結合の結果、時間の現実性が生まれる、と言える。

しかし、現実の世界は単純に主観と客観、心と物というふうに二極化することはできない。

こういう考え方は古くからあったが、20世紀に哲学と科学の双方から明確に主張されるようになった。

つまり、自己と世界、精神と自然、意識と物質はどれも融合的関係にある一体二重性を本質とすることが理解されたのである。

そこで、デカルトの二元論とニュートンの絶対時間の概念の双方が否定され、時間は物理的宇宙の自己組織化する生命性の観点から捉えられるようになる。

人間の意識のもつ時間性も、この宇宙全体ないし大自然のもつ生命性の分有体として理解される。

そして、この観点からすると、「時間は人間の意識が生み出した主観的現象であり、それは本来時間という性質をもたない物理的世界に対置される」という見方は否定されることになる。

つまり、「時間は客観的実在性をもつ物理的現象ではない」という見解が否定されるのである。

しかし、それはニュートンの絶対時間への逆戻りを意味しない。

機械的自然観を超えた有機的自然観に基づいた「時間の矢」の概念から、「時間の実在性」を新たに捉えなおすことを意味するのである。

「時間の矢」は古くからある「時間の流れ」という観念とは違う。

それは、熱力学の第二法則、つまりエントロピーの自然的増大に逆らう、物理的世界の生命的本質から理解されるべき「時間の根本的存在性格」なのである。

エントロピーとは無秩序さの度合いのことであり、これに「自己組織化」という現象が対置されることは周知のことであろう。

世界の自己組織化は人間各自の意識にも反映する創発的現象である。

そして、「創発」とは「新奇への創造的前進」を意味する。

古くからの「時間は実在するか」という問いは、今や物理的自然と宇宙全体がもつ自己組織性ないし創発という性質を顧慮して立て直されている最中なのである。


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秋の風景

2013-11-17 17:08:10 | 日記

今日、さいたま市北区から上尾市にかけて撮った写真です。

秋深まる中、紅葉が盛りに近づいています。


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後藤久美子vs.滝川クリステル

2013-11-10 21:19:40 | 美人

共に資生堂のモデルをしている美人、後藤久美子と滝川クリステルを対比してみました。

まず、後藤の資生堂のポスター。

これ、化粧品売り場でよく見かけますね。

少し造られたイメージがある写真です。

次に「おもてなし」でまた一躍人気者になった滝川クリステル。

たしかに後藤も綺麗ですが、やはり滝クリの端正な美貌には適いませんね。

後藤のこの写真の美貌って、昔のジュディー・オングを想わせて、なんか東洋的神秘さがありますが、

フランス的美貌に和の風味が加わって柔和な彫の深さがある滝クリの美貌の前には引き下がらざるを得ない、という感じですね。

やはり東洋(日本)の美人と西洋系の美人では「目の美しさ」に差があるように思います。

山本富士子も松坂慶子もこれほど綺麗じゃなかったですね。

ってゆうか、私の知人が「人類史上最高の美人は故ダイアナ妃と滝川クリステルだ」と言ってました。

まぁ、20世紀以降でですがね。

 


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ヤマハTX500 再び

2013-11-10 09:18:06 | バイク ・ 自動車

前に紹介したヤマハTX500を再び取り上げます。

1972年に登場した、この4サイクルDOHC8バルブ2気筒のシンブルなバイクは今見ても新鮮である。

てゆうか、今のバイクにはない「飾り気のない典雅さ、格調の高さ」があるのだ。

その画像をまた見てみよう。

見ていて、落ち着くねー。

このバイクを見ていると、余計な飾りは「美」を低級化するということが分かるね。

これが本来のバイクらしさ、ということやね。

これにこだわりたいし、それが私の美学なのである。


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フェラーリ・ディーノ 再び

2013-11-08 21:33:34 | バイク ・ 自動車

前に紹介したイタリアのスーパー・スポーツカーのフェラーリ・ディーノ(1968-1974)を再び取り上げます。

なぜ取り上げるかというと、そのボディーが世界一美しいと思うからです。

他にも美しいスポーツカーは沢山ありますが、私はディーノにこだわります。

こだわったものは何度も取り上げるのが、このブログのしきたりであり、私の美学なのです。

やはり、この派手すぎない格調の高さがいいですね。

まるで時間が止まったような永遠の美を感じます。

 

 


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猫に育てられた犬@あまちゃん

2013-11-07 20:51:10 | テレビドラマ

連続テレビ小説「あまちゃん」の一挿話として鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が主演した映画『猫に育てられた犬』があります。

すんごく面白そうだけど、詳しい内容の紹介はたしかなかったなー。

このドラマでは猫が時折話題なってたよね。

猫に育てられた犬というのは実際にありそうだけど、すぐに子犬の方が猫よりも大きくなっちゃうんだよね。

この映画の場合も、犬が小型犬じゃないので、いずれ・・・・。

 


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