ネットエースに二回目のレポートの課題を出しておきました。
前のブログで予告した通り、三つの選択肢のうちから一つの課題を選んでオンライン入力する、というものです。
ちなみに、新著『心の臨床哲学の可能性』はAmazonの電子書籍(Kindle)なので、それを購読(300円か0円)できる人のみ選択してください。
わかったにゃ。今回は僕も書くにゃ。
ネットエースに二回目のレポートの課題を出しておきました。
前のブログで予告した通り、三つの選択肢のうちから一つの課題を選んでオンライン入力する、というものです。
ちなみに、新著『心の臨床哲学の可能性』はAmazonの電子書籍(Kindle)なので、それを購読(300円か0円)できる人のみ選択してください。
わかったにゃ。今回は僕も書くにゃ。
1945年、東京は米軍B29による集中爆撃を受け、壊滅的被害を受けた。
東京は前年から計6回の爆撃を受けていたが、1945年3月10日ついに大爆撃を受けることになる。
それは、10万人以上を無差別に殺戮するものであり(重傷者を含む罹災者は100万人)、コロナによるオンライン授業を嘆く現代の大学生には全く想像できない絶大な惨劇であった。
これに比べたら、あんたらは極めて恵まれているよ。
このように焼けただれた死体がごろごろ転がっていたのだ。
オンライン授業と自粛生活と孤独を嘆いて、贅沢を言って、恥ずかしくないのか!!
今回は第1節「社会内存在としての人間の意識」について説明する。
春学期からつい最近まで君たちは嫌というほど「人間は世界内存在であり、意識の本質にそれが反映する」という主張を聞いてきたと思う。
そして、ここではそれを言い換えて「人間は社会内存在であり、個人の意識に社会の情報構造が反映する」と主張しているのだ。
我々は自然の中で生まれ自然の中で死ぬとともに、社会の中で生まれ社会の中で死ぬ。
我々の心と意識と自我は社会的人間関係から創発する生命的機能であり、基本的に生物の群生における行動様式から進化的に派生してきたものである。
群れを成し、徒党を組み、連帯感をもちつつ、我々は相互に情報交換をし、各自の社会的自我と社会的意識を熟成させていく。
情報交換とはコミュニケーションであり、言語を中心とするが、身体的運動や行動や意志的行為もそれに加わる。
言語とはもともと身振りから生まれたものであり、身体性から切り離せないのである。
コロナ禍の現在、我々は他人との交友を制限され、巣ごもりを要求されている。
これはオタクにとっては快適だが、リア充にとっては地獄となる。
オタクとリア充ではその心性に天地の差があるが、両者とも社会内存在であることに変わりはない。
ただ、孤独に耐える力に差があるだけなのである。
我々は社会内存在であるがゆえに孤独でありうるのだ。
それに対して、パソコンやイスやビルは社会の中にありつつも、生物的生命と意識をもたないがゆえに孤独ではありえない。
リア充は孤独を蛇蝎のように忌み嫌う。
独りでいることが怖いのだ。
「コンパや合宿や飲み会がないと鬱になるのが怖いから」とリア充はのたまう。
リア充とは、リアルが充実してることの略らしいが、いったいどういうリアルが充実していたのだろうか。
対人交流的快楽主義という現実生活の行動性が充実していただけの阿保なのである。
コロナ禍の現在において各人の社会的自己意識は著しく変容している。
特に対人交流が著しく制限され、オンライン授業に終始し、家で孤独に浸されている大学生の意識は変容している。
リア充志向の学生は特に悲惨であり、孤独の空虚感に耐えられず、自殺すら考える。
意識とはもともと他人との共存を円滑化するために生まれた社会的生命機能であり、各人の社会関与性と密接に関係している。
それゆえ、他人との交流を全く欠いたまま育つと、言語と人間的自我と意識を獲得できないで終わる。
そのような例は極めてまれだが、テキストに挙げられているようにわずかながら存在する。
有名なアヴェロンの野生児の例である。
数多い類似の例の中で最も信頼度の高い例であり、教育学科などでは必ず学ぶ。
我々は今、コロナ禍に居る。
そして第三波が襲ってきた。
今後冬に向けて恐ろしい事態が起こるかもしれない。
大学生の中にはオンライン授業と学内立ち入り禁止を嘆く者が多いが、ここはどうか我慢してほしい。
君たちに自由にふるまわせたら、クラスターが大量に発生し、アメリカ並みの感染者数に近づくのである。
大学生は飲酒と夜間行動が許された成人であるが、会社員などの社会人に比べて、明日の朝の出勤への制約がなく、やりたい放題になる。
年齢だけ大人で中身は子供なのである。
真に成熟した社会人の自我と意識をまだ所有していない。
おそらく来年度いっぱいオンライン授業であろう。
これは非常事態なのである。
君たちはこの前の3.11ぐらいしか惨事や非常事態を知らない。
しかし、第二次世界大戦中やその前のスペイン風邪流行時はこんなものではなかったのである。
特に第二次世界大戦中は、大学生も徴兵され、特攻隊や前線に否応なしに駆り出され、数万人の若い命が失われた。
東京は焼け野原となり、授業どころか家までなくなり、餓死や焼死や病死が大多発した。
それに比べればまだましである。
大学生活が暗いからなどと嘆くのは甘い!!
我慢するのだ!!
そして、こうしたことを顧慮して、社会内存在としての人間の意識について深く考え、合コンや飲み会などに憧れていた自分の矮小さを思い知り、哲学に目覚めるのである。
私は高校を中退し、通信制高校に編入してから大学に入るまでの約三年間、人とほんどん交流しない引きこもり生活に終始した。
その間に400冊ぐらいの本を読んで、哲学を志した。
今後、日本の感染状況は悪化し、大学はもちろん社会生活も数年間厳しいものとなるであろう。
その事をよくわきまえて、楽天観や軽薄なリア充志向を捨てなければならない。
そして、哲学に目覚めるのである。
そして、情報の存在論的本質、形相的情報の概念に興味をもつのである。
この節は、それを「社会と意識」ないし「集合的心性と個人の意識」という思考案件に収斂させて論じているのだ。
納得だにゃ。
今日からテキストの第5章「社会の情報システムと個人の意識」に入る。
この章は五つの節から成るが、それぞれの節がけっこう長いので、細切れの講義になる。
つまり、毎回一節ずつ説明する、ということである。
しかし、週三回の講義なるので、序(はじめに)を入れて、二週間以内には終わるであろう。
この章は「意識と社会」という比較的分かりやすい問題を扱っているので、講義も分かりやすものとなるであろう。
ちなみに、いつものように講義はテキストの内容をそのまま要約したものではなく、言い換えを多用したものとなる。
今日は序(はじめに)だけを扱う。
序の冒頭に「情報の洪水の中で自分を見失わないようにしなければならない」という現代の標語が提示されている。
この標語は、パソコンとインターネットが普及し始めた1990年代末あたりから、やかましく言われてきたが、実は昭和の後期から叫ばれていたものである。
現代が高度情報化社会であることは夙に指摘され、情報通信と情報処理の技術的質とグローバル化は進化して止むことがない。
我々はその恩恵にあずかって日々の生活の利便性を満喫しているわけだが、負の、陰の側面もあることもたしかである。
SNSによる他人に対する誹謗中傷とその被害者の自殺の報道は多い。
匿名によるストレス解消のようなSNSへの書き込みは、無責任で卑怯なものであり、人間の屑の言動である。
大学における授業評価にもそういうものがあり、匿名で罵詈雑言を尽くす学生は死刑に値すると思う。
今はそれへの警察によるがさ入れはないが、そのうち始まるであろう!!
授業のやり方に文句を言ってくる学生のほとんどは不真面目で勉強嫌いで努力嫌いの人間である。
真面目で学力がある学生はまず文句を言ってこない。
今日の大学は金もうけのために大学生の学力のない学生も学歴を餌に簡単に入学させる。
こうして軽薄で卑怯な書き込みは、情報伝達の速度と量の無際限化の負の遺産である。
要するに情報の量と処理速度とグローバル化は格段に進歩したのだが、それが情報の意味と質の感得能力の低下を招いているのである。
例えば「経済」「政治」「精神病」「哲学」「意識」といった言葉の真の意味を理解するためには、まず専門の事典を読み、いくつかの入門書を読むのが昭和時代の定石であった。
それが今ではネットで検索して終わりとなる。
ウィキペディアで済ませるのはまだよい方で、検索で上位に来るからといって、素人の面白半分の記事から知識を得ようとする者も多い。
検索で上位に来るから、それが信頼できる情報を含んだ記事だとは言えないのである。
しかし、便利さにかまけて、本を読まずにネットで検索して済ます、あるいは分かったつもりになっている人間が今日多い。
しかし、こうした傾向は何も最近始まったものではない。
古い時代から連綿と続いてきたことなのである。
その代表が風聞、風評、井戸端会議、知人との会話、低俗な週刊誌や新聞のテレビ番組の報道である。
この原型がITの急速な進化に即して加速化しているのである。
我々の自己意識は身体性を伴っており、これによって社会的ならびに自然的世界にどっしりと根を下ろしている。
人間同士の生身の生きた会話にもこの社会的身体性が関与している。
それはコミュニケーションによって伝達、交換される情報に「意味」を与え、その質を高め、深化されるものである。
そこには「下手なことを言ったら相手に殴られる」という命がけの身体的会話意識が控えている。
相手が力任せに殴ってくるものならまずしも、ボクシングテクニックや空手技能を駆使して殴ってこられたら、ほぼ即死である。
彼らは「力を抜いて相手に効かせなきゃダメ」ということを心底体得しているので、冷徹な殺人マシーンとなるのである。
だたし、そういうことを実際やると破門永久追放になるので、格闘家は素人の喧嘩自慢を相手にするときは本気を出さない。
あるいは手加減し、戦意喪失に追い込む戦略に出る。
我々の社会的自己意識は内面性の檻に閉じ込められたものではなく、身体性を伴った公共的社会性をもっている。
それゆえ、「社会の情報システムと自己意識」という問題を考える際には、個人の自己意識をその主観的内面性に定位して捉える姿勢を破棄し、身体性と生命性を社会性に
収斂させる形で把握することを基礎に置かなければならないことになる。
我々は木村花さんの自殺を真摯に受け止め、いかなるときにも匿名だからといって無責任なストレス解消的誹謗中傷の書き込みをしてはならない。
今のところ、まだ刑法的処置は軽いが、そのうち重いものになっていくであろう。
だいたい、SNSで誹謗中傷の書き込みをする人間は、何のとりえもない馬鹿、名もない虫が多いので、ネットの世界で匿名で虚勢をはり、自己主張するのである。
そういう人間は、公共の場に連れ出して、本人を衆人に曝し、格闘家に本気で殴る蹴る、関節技、投げ技、締め技を食らわせるようにしてほしい。
それこそが身体性を伴った人間の命がけの会話であり、情報の持つ真の社会的意味と公共的質を体得することにつながるからである。
きびしいけど正論だと思うにゃ
哲学B1の中間試験は予定通り実施されました。
まだ期限後の提出が25日まで認められていますが。
さて、来年の1月に期末試験が実施されますが、その前に二回目のレポートがあります。
それは次の三つの選択肢から一つを選んで提出するというものです。
(1) 一回目のレポートと同じような、テキストの一つか二つの章を要約して感想を書く。
(2) 私の新しい著書(Amazon Kindleの電子書籍である)を読んで、興味をもった部分の要約と感想を書く。
(3) 英語が得意、ないし英語力を伸ばしたい人は、このオンライン授業やテキストやブログの内容や最近の社会情勢などについて自由英作文を書く。
このうち(1)が最もオーソドックスなものですが、定番なので第一選択肢として推奨されます。
(2)は私の新著『心の臨床哲学の可能性』(Amazon Kindle版)で、来年度の秋学期にテキストとして使う予定のものです。本来の価格は900円ですが、まだ100%の完成版ではないので、500円にしています(レポート提出期間は一時的に300円まで下げることもできます)。また、Amazon・Kindle読み放題に登録している人は0円で読めます。実は、この電子書籍は一応どのような端末でも読めるはずなのですが、果たして授業で自由に使えるか、まだ不安なのです。そこで、モニターをしてくれる学生を募集したいわけです。内容は医学的ないし文学的で分かりやすい章もかなりあります。有志を募りたいと思います。
(3) 今日の日本の大学生にとって英語力は極めて重要です。もちろん英語力がすべてではありませんが、この機会に哲学的英語力をぜひ伸ばしてください。自由に英語の作文をしてください。
詳しいことは後でまた告知します。
提出時期は12月10日~1月10日ぐらいを想定しています。
(2) と(3)が面白そうだにゃ
今日は「4 情報の実在性と世界の秩序」について説明する。
なお、第5節の説明は省略するので、各自で読んでおくこと。
今回で第4章の講義は終わりで、来週から第5章に入る。
土曜日は中間試験であることを忘れずに。
これまで何度も触れてきたが、情報の「客観的実在性」と「自然的実在性」は違う。
普通、「実在性」というと観察主観や知覚主観から独立の「客観的実在性」として理解されている。
つまり、意識的主観(心)による観察や知覚なしにもそれ自体で存在する物の性質を指す。
しかし、この節で言われる「情報の<実在性>」はこの意味での「客観的実在性」のことではない。
それは主観と客観の区別ないし分離を超えた「自然的実在性」を意味するのである。
ただし、それは主観の存在に依存する観念的実在性ではなく、主観と客観の対話を包摂する先行的場、先行的枠組みを示唆する「実在性」なのである。
実在性は英語でrealityだが、これは「現実性」も意味する。
「自然的実在性」はこの「現実性」という言葉から理解しようとすると、分かりやすくなる。
これまで何度も情報が送信者と受信者の間でのメッセージのやり取りという意味を超えた「情報場」的性格をもつをことを指摘してきたが、これは「世界の情報構造」とも
言い換えられた。
そして、この節では「世界の秩序」ということに焦点が当てられている。
人間の心は精緻な秩序をもっており、繊細な情感と高度の知能によって形成される神聖さをもっている。
そこで、おいおい世界の秩序も人間的主観性によって構成されて理解されるものと思ってしまう。
しかし、それは事の一面しか突いていない。
精緻な秩序は、物理的自然界に先行的に備わっていたものであり、それが世界の情報構造というものを形成しているのである。
それを人間の脳と意識がカテゴリーを使って把握し、秩序と美を感得するのである。
物理的世界の秩序は数学的物理学によって把握される数理的構造を自然獲得的にもっている。
これは能産的自然の自己組織性の産物であり、擬人化されたデザイナーないし創造主、つまり神の御業などではない。
自然が自己計算しつつ存在と秩序を自己産出するスーパー・コンピュータなのである。
自然を東洋哲学では「じねん」と読む。
これは古代ギリシアの自然哲学におけるピュシスと似た概念であり、東西に共通する有機的自然観を表している。
物理的世界の秩序(情報構造)は社会的世界にも反映するが、その際、人と人との間でのコミュニケーションが重要な役割を果たす。
ここで、情報の慣用的意味が再び登場する。
つまり、社会的情報環境での諸々の情報伝達・交換という慣用的意味である。
我々は、ついついこの慣用的意味ばかりに目が行きやすいが、その奥には上に述べた「メッセージの送信者と受信者の情報空間を統べ、包摂する先行的情報場」ないし
「世界の情報構造」が控えていることを忘れてはならない。
僕の意識はこの先行的枠組みの中にあるんだにゃ。
哲学B1 中間試験は、予定通り21日(土曜日)に決行します。
答案提出時間は7:00~23:55で、各自で60~90分の間に答案を仕上げて、オンライン入力してください。
Toyo-Net Aceの哲学B1のレポート欄への入力となります。
なお、期限後の提出も認め、その期限は25日の23:55です。
期限後の提出の際には理由を書いてください。
減点される場合がほとんどですが。
試験までにテキストとこのブログの文章講義を読み返しておいたほうがいいよ。
そうするにゃ
今回は「3 物質と情報」について説明する。
この節は物質と情報の関係を現代物理学における情報への着目に言及しつつ論じている。
その際、デモクリトスの原子論的唯物論の観点が批判され、アリストテレスの形相-質料論が称揚されている。
また、主観-客観対置図式が批判され、世界内存在の概念が称揚されている。
この節の理論の理解の鍵はここにある。
我々は普通、情報は主観的で心的なもの、物質は客観的で非精神的なものと勝手に対置して自己満足しているが、それは軽薄な思考姿勢でしかない。
情報は主観と客観、精神と物質、観念的で抽象的なものと物体的で具体的なものを媒介する中性的存在なのである。
このことについては、これまで何度も触れてきたが、ここに至って、現代物理学の観点を加味して、集約的に論じているのである。
この節を理解する鍵は、これまでの論述を思い返しつつ、この節を繰り返し読むことにある。
その際、物理学者フォン=バイア―の二つの引用文に着目することが要求される。
そうだ、そうだ、にゃ
今回は第3節「唯物論を打破するような物質概念」について説明する。
この節は、これまで何度か触れてきた「物質の謎めいた本性」について詳しく説明している。
我々は普通、物質というと質量をもった物体からそれを最小単位にまで砕いた原子のようなものの集合体を漠然と想定し、自己満足している。
これは素朴唯物論の物質概念であり、深く存在論的に捉えられた物質概念ではない。
この節は、この軽薄な思考態度を打破して、物質のもつ自己組織性、つまり物質の形相を理解せしめることを目的としている。
これを機会に「物質」という慣用語の深い意味を理解してほしい。
我々は普通、精神とか心を神秘的なものと考え、物質についてはそう考えない。
しかし、実相は逆であり、心は各人が普段経験している意識や感情の内容であり、少しも謎めいていない。
それが謎めき始めるのは、物質との関係を問われたときである。
なぜ、物質との関係を問われると、心ないし精神は謎めき始めるのか。
それは物質が神秘的存在だからである。
このような発想の逆転をしないと、本書における情報の形而上学は理解できない。
とにかく、この節を各自で熟読してほしい。
わずか2ページ半のものだし。
謎めいているにゃ
今回から第4章「意識・情報・物質」に入る。
まず最初に慣例通り序と第1節について説明しよう。
言うまでもなく序では本章の主題と趣旨と目的と構成が触れられている。
私の本や論文は非常に論理的で、順を追って議論が展開するので、まず序をよく読むことが肝要だ。
本来「序」とはそういうものななのだ。
あっ、「序」とは実際には「はじめに」のことね。
それでは各自で「はじめに」を熟読し、それをノートにまとめてみましょう。
これをやらないと力がつかない。
とにかく、分からなくても、まとめてみて、その論述構成と話しの内容を把握するのである。
あっ、忙しい人もいるね。
そういう人のために私の方から要点を示しておこう。
この章のタイトルは「意識・情報・物質」となっている通り、この三者の関係が論じられる。
そこで、序ではそれは何のために論じられ、どういう仕方で、順序で、論が構成されるのか、が説明されている。
このことを念頭に置いて「まえがき」を注意深く読まなければならない。
ちなみに、この章は第2章「心身問題と情報理論」を継承するものであり、基底的情報の持つ意味を人間の心身関係から物理的ないし自然的世界全体に敷衍して論じている。
つまり、人間における遺伝子(生命的情報素子)による心と身体ないし意識と物質的身体の統合を超えて、自然的世界ないし宇宙全体における「情報と物理系」の関係を論じようとしているのである。
まず、人間の身体は基底的情報素子としての遺伝子によって形成された「秩序をもった生ける物質系」であって、「単なる物質」ではない。
よく、「人間はしょせん物質にすぎない」という人がいるが、それは馬鹿の発言だと心得ること。
人間の身体は意識によって行動を制御されつつ、環境世界に行為的ないしコミュニケーション的に関与する社会的有機体である。
なお、意識には潜在意識ないし前意識としての無意識も含まれるが、これは意識と生理的次元の連続性を示している。
ここに「形相的情報」による人間の身体と意識ないし物質と精神の統合が現われてくる。
このことをよく理解することが肝要だ。
次に物理学における「情報」という概念へのスポット照射が取り上げられている。
我々は普通、情報を心的な抽象概念として捉え、それが物理的世界の構成要素だとは思わない。
しかし、パソコンのハードの仕組みや論理演算の仕組みに着目すれば、「そうでもない」という理解が萌すと思う。
物理学の歴史を紐解くと、自然的世界を構成する基本要素は物質→エネルギー→場というふうに深まって行った。
さらに前世紀になると情報がこれに加わり、物理的世界の三大基本要素は物質とエネルギーと情報だということになった。
これはまだ十分行き渡った理論ないし思想ではないが、最先端の考え方とみなされている。
この場合、たとえば「電流や光や電波っていったい何なの。それは質量をもった物質なの」と自問してみればよい。
答えに詰まるのは文系の君だけではない。
理系で哲学的議論に疎い人も悶絶するのだ。
こうしたことについては後で詳しく説明するので、まだ待ってね。
あっ、それと時間とか空間って物理的なものだけど、質量をもった物体ないし物質じゃないよね。
こんなこと考えたことある?
ちなみに、時間と空間は人間の意識と物理的世界の両者に張り渡された融合的ないし媒介的契機だしね。
次に第1節「情報の二重側面理論」について。
この節はチャルマーズという哲学者が提唱した「情報の二重側面理論」の重要性について説明している。
チャルマーズは認知科学も専攻する心の哲学の代表選手だが、もともと数学を専攻する理系の人だった。
ちなみに、欧米では日本ほど文系と理系の間に裂け目がない。区別が弱い。
さてチャルマーズは、世界ないし宇宙の根本的構成要素は基底的情報であり、これが心と物、精神と物質の区別以前の真実在であり、この基底的情報から
精神と物質の区別が派生してくるのだ、と主張する。
これは存在論的にはラッセルの中性的一元論を継承するものだが、直接影響を受けたのは物理学者ウィーラーの情報物理理論である。
ウィーラーはIt from bitないしIt from Qubitというテーゼを掲げ、物理的世界の究極的構成要素を「量子情報」であると考えた。
この思想は今世紀から来世紀に向ってさらに進歩し、洗練されて行くであろう。
チャルマーズはこの思想にインスパイアされて情報の二重側面理論を立ち上げたのである。
それは物心未分の原初的ないし基底的情報が自らのうちから外面的相としての物理的現象を、内面的相として意識の現象的性質(主観的特質)を生み出す、という理論である。
私はこの思想に強くインスパイア(触発、影響)された。
しかし、私の見るところ、チャルマーズの理論には生命と社会という現象への配慮がない。
またプラトンのイデアやアリストテレスの形相への配慮がない。
そこで、それらを取り入れて新たな情報理論を形成したのである。
それについては後の章でスリリングな展開をしていくので、ここではこれで終わる。
深く考えさせられるにゃ。
今回は「5 意味・形相・情報」と「6 情報と生命」について説明する。
今回で第3章の説明は終わりとなる。
2009年にこの本を初めて講義のテキストとして使ったとき、学生がレポートで次のようなことを書いていた。
「主題に興味があったので熟読してみたが、極めて複雑な文章で難しいことが書いてあって、少し辟易した。でも、p.78にミツバチの8の字型ダンスの描画が挿入されており、
急に親しみやすいものに感じた。そこで、その周辺の文章を中心として、この章、さらにはこの本全体の理解の手がかりを得ようと思った」。
たしかにP.78の描画は魅力的で心惹かれる。
私はこの描画を載せたいがためにこの本を書いたとすら言えるのである。
ミツバチくん、そしてこの描画の作者、ありがとう。
自然界には、何気ないが驚くべき現象がある。
それもいわゆる超常現象ではなくて、純粋な自然的現象である。
その代表が雪の結晶の整合的形態であり、ミツバチの巣の整合的構造・形態である。
君たちは、これをどのように受け取っていたであろうか。
誰も「情報」と結び付けて理解しようとした人はいないはずだ。
あるいは、この現象が情報と意味と構造ないし形相の三位一体性を示唆するものだなどいう着想は浮かばなかったはずだ。
雪の結晶もミツバチの巣も設計者が数理的形態形成能力を使って作ったものではない。
それは自然と出来上がったものなのである。
特に雪の結晶はそうである。
それに対して、ミツバチの巣は数学的ないし幾何学的能力、つまり数理的能力なしに構造構築を行ってできたものである。
それにはミツバチの特殊な身体的能力が関与している。
それについては本文で詳しく説明しいるので、ここでは省く。
とにかくミツバチは「意味」を尻振りダンスによって仲間に伝え、協働してあの整合的な三次元的巣を構築しているのである。
それには重力を感知する鋭利な能力と触覚の機能も加担している。
とにかくミツバチは人間と違って空を自由に飛べる。
これが大きい。
建築家も建築作業員もこれにはかなわない。
我々はミツバチの巣と雪の結晶がもつ整合的形態から、自然の自己組織性を看取すべきであり、さらにはそこから情報と意味と形相の三位一体性を理解すべきなのである。
この場合、形相は構造と形態というものに深く関わってくる。
雪の結晶とミツバチの巣は、これを理解するのに大変役立つ、分かりやすい例である。
これが分からない者は終わりである。
次に第6節について。
この節は第4章の総括であり、集約的見解を述べたものである。
そこであえて説明を加える必要はなく、各人がよく読めば分かるものである。
たった2ページのものだし。
ただし、「とにかく言葉に囚われてはならない」という文章には着目してほしい。
ここに着目して、良質のレポートを書いていた学生がいた。
この「言葉に囚われてはならない」というのは、この本の内容を正確に理解するための鍵となる指標である。
君たちはとにかく「情報」という日本語の慣用的意味に囚われており、自然現象ないし生命的現象ないし物理的現象ないし社会的現象そのもののもつ形相ないし構造ないしシステム
からinformation(形相的情報)としての「情報」を読み取る姿勢を身に着けていない。
そこで、この本、特にこの章を熟読して、その姿勢を身に着けてほしいのである。
p.78の挿画には癒されてほしい。
その通りだと思うにゃ。僕の体のハート型の模様にもそれは現れているにゃ。
今回は第3章の「3 生命の意味」と「4 生命と心」を合わせて説明する。
我々は生命の意味を問う。
生命の意味には生物全般の生命の意味が含まれるが、多くの人は自分を中心とした人間の生命の意味をまず問う。
人間の生命の意味とは、また人生の意味でもある。
これだとかなり分かりやすいであろう。
人生の意味は死生観と結び付き、誰もが興味をもつものだからである。
ところで人生の意味への問いには「人間各自の意識」または「心」というものが深く関わってくる。
「自分は何のために生きているのだろうか」とか「人間は何のために生きているのだろうか」とかいう問いかけは、死生観に連なる「生命の意識」から発してくる。
また「意味」というものは「心」と深く関係している。
それゆえ、「生命の意味」という問題と「生命と心」という問題は密接に関係してくるのである。
このことを顧慮して第3節と第4節を読んでほしい。
しかし、ナイーヴな人生論的関心ないし意識をもって読み始めると、即座に挫折する。
そこで展開されているのは、高度な哲学的議論だからである。
このことは何度も繰り返し強調してきたが、ナイーヴな(学問的に洗練されない感情的な)関心からこの本で展開される存在論的情報理論を理解することはできないのである。
二つの節を読解する鍵は、物心二元論の超克と「形相-質料」図式の理解にある。
意味をもっぱら精神的領域に移して捉えようとする態度は、世界の情報構造と意味の質料因(物質的ないし物理的ないし生理学的基盤)から目をそらし、精神主義的態度で
生命の意味を理解する姿勢に誤導する。
この弊害を第3節では説明しているし、それは第4節における生命と心の関係の説明に連なっていく。
意識中心主義の心観は身体と自然から心を切り離したがるが、生命的自然主義の心観は心を身体から環境まで延び広がったものと理解する。
前者が情報を意識的コミュニケーションに即して捉え主観化するのに対して、後者はそれを物質の構造や世界の構成や自然の秩序と密着させて考え、客観性から
無理に切り離すことがない(テキストp.76-77)。
意識的コミュニケーションから情報が発生してくるというのは事実であり、重要な事柄だが、それだけではinformationの真の意味には到達できない。
脳の脳との社会的相互作用という生理的情報処理の複雑なシステムが基盤となって、人間の言語的コミュニケーションにおける「意味」の相互理解が可能となるのである。
しかも、informationの質料因は脳の機構を超えて環境世界の物理的情報構造にまで及んでいる。
このことをぜひ理解しなければならない。
にゃーん
今回は「2 生命システムの自己組織性」について説明する。
この節は生命のシステム的性質について説明している。
生命はDNAという物質的情報素子から成る生物体の存在特性だが、その質料因ばかり探究していても生命の本質は理解できない。
前回は生命という存在特性は生物にも非生物にも認められるものであることを告知したが、ここではそのために「システム」という機能的存在特性を目的因と形相因に
絡めて理解する必要性を説いている。
我々人間は心と身体の融合から成る社会的生命体であり、他者とコミュニケーション、つまり情報交換しつつ、生活をしている。
つまり、我々は生命を維持するために生体内の生理的システムの整合性ととともに、他者との社会的共存ならびに自然環境への適応を必要とするのだ。
ここに生命のシステム的本性が現れてくる。
この世のあらゆる存在物はすべて一つずつの個体的システムとみなせるが、それはそれ独特の構成と構造と機能を有しているがゆえであり、それがどういう素材ないし物質
から出来ているかだけでは説明できない。
生物にしろ非生物にしろ物体性をもった物質ならその質料因ないし物質組成を指摘できるが、東京都とか自民党とか株式会社とか特殊法人と福祉団体となると、それができない。
しかし、これらの組織体はまさにシステム的存在であり、誰もその存在を疑わない。
ただ抽象的で質料因を指摘できないだけである。
そして、これらの組織体の構成には構成員ないし構成要素の間での情報交換がそのシステム形成に重要な役割を果たす、ということを理解することが肝要となる。
これらの組織体は生物と同様の自己組織性、つまり中央司令塔なしの独自の秩序形成能力をもつ。
もちろん、中央司令塔による秩序形成もあるが、それから離れた自動的な秩序形成が起こるのである。
これは自己意識をもった人間においても同様であり、我々は自分の意志で生活や行動や思考をコントロールするととに、生理的システムによって自動的に身体内のシステムの秩序と
活動を維持されている。
それゆえ、我々は半ば自由意志をもった精神的存在であり、半ば自動的機械だということになる。
我々の生命の本質はこの両義性から成り立っているのだ。
それゆえ、テキストでは安易に人工生命を批判することの軽薄さが指摘されている。
生命の尊厳は、我々の生命の自己組織性が能産的自然の自己組織性という生命の大本によって可能となっている、ということに基づいて理解されるべきものなのである。
なお、毎回の説明はテキストの文脈をそのまま追ったものではなく、言い換えから成り立っていることに留意してほしい。
つまり、この文章講義を参考にして、各自で当該の節を熟読することが要求されるのである。
痛い言葉だにゃ