内向的な性格の人は、常に自分の意識内容に関心が向いている。
そこで、必然的に意識の観察眼が鋭くなる。
ジェームズなどはこの典型であった。
世の中には意識の問題にほとんど関心のない人もいる。
リア充などその典型である。
意識というものは、自己存在への関心から生じる、脳の自己モニタリング機能である。
感覚の志向性が外に向かないで、自己の内的システムの状態の監視に向かうのである。
そして、心が深くなる。
先週の金曜日から猛暑が続いているが、今日が暑さのピークだろうか。
私は埼玉県のさいたま市と熊谷市の中間(さいたま市寄り)の上尾市に住んでいるが、今日の予想最高気温は37℃ぐらいだろう。
こういう日はなるべく日に当たらないようにして、エアコンのある場所にいたほうがよい。
それにしても、こういう超猛暑日にも中学生や高校生はグランドで野球の練習してるね。
もつ生徒はもつだろうけど、熱中症で倒れる生徒も必ずいるから、時間短縮したほうがいいと思う。
いったい、この暑さはいつまで続くんだろうか。
明日は曇りのち雨、最高気温は33℃の予報だから、いくぶん和むね。
真夏の暑さも33℃ぐらいまでなら、我慢できるね。
そういう年も前はあったけど、最近は35℃越えの日が続くようになった。
夕立があればいいんだけど、ない日が続くことも多くなった。
明日は期待できるけど。
今日は朝から快晴で暑い。
まだ梅雨明け宣言はなされていないが、明けたような夏空である。
で、さっきネットしてたら、「任天堂の岩田聡社長が胆管腫瘍で死去」というニュースが出ていた。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6166916
これと関連記事を読むと、岩田氏は1959年生まれの55歳。
私より一つ下である。
42歳で経営企画室長から社長に抜擢されたのだから、早熟型の企業トップと言える。
普通、大企業において役員(取締役)になるのは早くて45歳、社長になるのが早くて55歳である。
60代になってようやく社長という人も多い。
そうした中で岩田氏の経歴は光るものがある。
しかし、55歳で癌で死去というのは早すぎる。
こういう人の一生は幸福だったと言えるのか、それとも不幸だったと言えるのだろうか。
去年自殺した理研の笹井芳樹氏も早熟型のエリートであるが、やはり52歳という早すぎる死であった。
彼は京大医学部現役合格→36歳で京大医学部教授→50歳で理研CDB副センター長である。
これは岩田氏よりもすごい。
そもそも36歳で大学教授、しかも天下の京大医学部なんて50年に1人である。
普通、国立大学の教授になるのは40代後半からが多く、かなりの数が50歳を超えてからなっている。
ちなみに、私立特に文系ではもう少し下になるが、大して変わらない。
それが36歳で教授なんて。
しかし、周知のように彼は52歳で不幸な結末を迎えた。
彼はノーベル賞の有力候補で、再生医学(の基礎研究)の第一人者であった。
笹井氏の生涯もまた幸福なのか不幸なのか分からない。
運命の女神は気まぐれなのだろうか。
私は神など認めないで自然の自己組織性を信奉しているので、それは自然の摂理だと思う。
しかし、運命の彩、その類まれなる偶然性には考えさせられる。
私自身は、56歳にしてまだ非常勤講師であり、経済的ならびに社会的地位的には恵まれていない。
だが、学者としての業績と能力は、自慢ではなく、専門分野の全国のほとんどの教授を超えている。
哲学者として著書9冊、来年1冊プラスして10冊は驚異的である。
また、健康にも比較的恵まれ、頭もますます冴え、研究と創作(執筆のこと)の勢力は衰えることを知らない。
ちなみに最近は研究よりも創作、つまり後世に残る独創的な哲学書の執筆に重きを置いている。
私もまた幸福と不幸の狭間にいる。
ちなみに、多くの人が抱く幸福感は、社交的なエリートでも不幸な独創的天才でもなく、穏当な中間層を目指すものであろう.
太く短く栄光と衰退を経験して50代で死ぬよりも、平凡な中間所得層として頗る健康に恵まれつつ大病もしないで85歳で死ぬことを望む人が多そうである。
ここで「頗る」健康に恵まれつつ、というのが味噌となる。
あまり健康すぎると、突っ走って、だいたい40代後半からガタが来て、50代で死ぬのである。
私がある人に一か月ほど一日三時間以下しか眠れなかったことがあった、と言った。
すると、その人は「人間って一日に二時間眠れば死なないんですよね」と話していた。
二時間熟睡して、その他の時間にうとうと居眠りしていれば、そうだろう。
芸能人とかで一日三時間睡眠という人は、だいたいそうである。
しかし、睡眠は時間だけではなく質も問われる。
浅い睡眠が延々と続くうつ病や不眠症の睡眠時間は実質ゼロとみなせるほどである。
過眠症とも言われるが、実はまともな睡眠時間はゼロなのである。
まさに「不」眠症である。
一日二時間睡眠vs.ゼロ睡眠である。
ところで、睡眠しないとなぜ死ぬのだろうか。
身体の生理機能が維持できなくなるからである。
精神的苦痛だけではないのである。
今週の月曜日に「半健康という幸せ」という記事を書いた。
そのときはまだ疲労感が強かった。
特に一週間前の土曜日は体調不良、痛みもあり、より強かった。
しかし一週間したら、さすがに大分改善した。
昨日の夜から今朝にかけて、久しぶりに熟睡できた。
約九時間半の睡眠である。
疲れすぎていると睡眠の質が落ちる。
寝つきが悪いタイプと中途覚醒してその後寝付けないタイプがある。
私の場合は後者である。
睡眠はパソコンのデフラグに似たもので、リフレッシュの原動力となる。
それは心身両面に及んでいる。
そもそも疲労自体が心身両面的性質をもっている。
芥川龍之介は「夢」という短編小説の冒頭で次のように書いている。
わたしはすっかり疲れていた。肩や頸の凝るのは勿論、不眠症もかなり甚だしかった。のみならず偶々眠ったと思うと、いろいろの夢を見勝ちだった。
いつか誰かは「色彩のある夢は不健康な証拠だ」と話していた。が、わたしの見る夢は画家という職業も手伝うのか、大抵色彩のないことはなかった。
我々は睡眠中ほとんどの場合、実は夢を見ている。
しかし、それを記憶している場合は少ない。
記憶に残る夢は印象が強いのである。
あるいは眠りが浅い。
夢は睡眠中に脳が情報の整理、つまりデフラグを行っている証拠である。
ちなみに、私の夢には全部色彩が付いている。
また、繰り返し同じ内容の夢を見ることがある。
若干バージョンを変えて、繰り返し現れるのである。
これも睡眠中の脳の情報処理(記憶ファイルの整理、処理、廃棄)の特徴を表している。