心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

「勉強ができて頭がいい」と「独創的で頭がいい」の違い

2020-12-31 07:16:48 | 受験・学歴

前の記事でも書いたが、「勉強ができる」ことと「独創性がある」ということは比例しない。

単なる受験秀才は、頭の回転が速く記憶力が優れていて、試験勉強に労苦をいとわないだけである。

彼らは立ち止まって「なぜ」と問うことがないので、学問や創作や実務においては独創性を発揮することができない。

しかし地頭のよさは独創性の発揮にも必要である。

もし、勉強ができること、つまり偏差値が高いことが、そのまま独創性をもつ頭のよさに直結するなら、東大>京大>早慶>東北大、名古屋大>神戸大という順位で独創的天才が生まれることになるであろう。

しかし、実際にはそうならない。

芥川賞の受賞者は、早稲田>東大>慶應>>>>その他 (これは実数)その他だし、ノーベル賞は京大>>>東大(これは実質的数)である。

司法試験合格者でも早稲田>東大>慶應、中央大>京大>一橋だし。

去年、ノーベル生理学賞を取った山中・京大教授は神戸大医学部出身であり、前に物理学賞を取った益川・京大教授は名古屋大理学部出身であり、田中耕一さんは東北大工学部出身である。

ちなみに田中さんは自然科学系の受賞者でただ一人大学院を出ていない。

このように地頭がある程度良くて、「なぜ」という問いを好み、探究心にあふれる人が独創的研究者になるのであって、単に受験ロボット的な秀才はだめなのである。

西洋の天才の歴史を顧みてもそのような人はすごく多い。

エジソン、アインシュタイン、ウィトゲンシュタイン、ムンク、ゴッホ・・・・と数知れない。

ちなみにムンクやゴッホは画家なのでまた別口だが。

あと、頭がよくて努力家で創造性の素質があっても、イエスマンや御用学者は独創的研究成果や創作とは無縁となる。

とにかく、伝統と権威と因習と世間体に囚われずに、実質的価値を追い求める、探究心の塊の者だけが独創的天才になりうるのである。

問題は「いい頭」をどの方向に使うかである。

ただ高い点数を取って大学に合格したり資格試験に通ったりすることしか眼中にない人は、学問や芸術において独創性を発揮できない。

超高偏差値の大学に合格しても、試験と単位認定が受験よりもはるかに楽な大学というものに入ったとたん、勉強しなくなる人は多い。

与えられた試験はできるが、自ら問題を探し出し、探究心旺盛に真理を追究することができないのである。

ある程度受験勉強を手抜きした方が、大学に入ってから伸びるであろう。

要は、普段から「なぜ」と問う癖をつけ、物事の本質や原因やしくみに興味をもちつつ、多くの本を読むことである。

なお、ここで私はあることを思い出した。

それはオウム真理教の高偏差値の理系秀才の暴挙に対して、国際政治学者で政治家の升添要一氏が言っていたことである。

「彼らは浪人でもして小説でも読んでいた方がよかった。そうすれば、こんな短絡的行動には出なかったであろう」と升添氏は言っていた。

「なぜ」を忘れた丸暗記的猛勉強は、短絡的答えを希求する姿勢を植え付け、複雑系としての世界の本質から目をそらさせるのである。

 言うまでもなく、オウム真理教の幹部の連中の行動と思想(実質は単なる幼稚な思い込み)は独創性とは無縁のものである。


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「勉強ができる」・「頭がいい」・「仕事ができる」・「独創性がある」の違い

2020-12-31 07:16:23 | 受験・学歴

普通、「頭がいい」ということは「勉強ができる」と同じことのように思われている。

そして、勉強ができるということは偏差値が高く、一流大学の入試を突破した人だと思われている。

開成高校や灘高校から東大や国立医学部に入った人がその典型である。

しかし、ここですでに誤解と齟齬が生じている。

「勉強ができる」ということはそのまま「頭がいい」ということにはならない。

一般に言われる「勉強ができる」ということは、試験で高得点をとり、国語・社会・数学・理科・英語の全科目まんべんなくできる人のことである。

もちろん、文系の秀才と理系の秀才に分かれるが、全科目の平均点はどちらも高い。

しかし、「試験」はしょせん「試験」にすぎない。

いくら難問でも「答え」というものが用意されているのである。

それゆえ「勉強ができる」ということは、敷かれたレールとしての「問題と解答」を知能と努力によって要領よく突っ走る能力である、と言える。

しかし、現実の世界における諸問題は、入試や模擬試験や定期試験のように「答えが用意された」ものではない。

人間関係、恋愛、接客、生活、仕事、営業・・・・

どれも答えのない問題の集積である。

さらに、勉強ではなく「学問」となると、これもまた答えが用意されていない知恵の輪である。

芸術や文学も同様である。

勉強ができるだけでは、いい小説や絵画は創作できない。

もちろん、勉強ができることがこうしたことに貢献することはある。

しかし正比例関係は成り立たない。

むしろ試験的・丸暗記的勉強をさぼってでも読書や趣味に没頭した者が文学や芸術、そして科学において独創的成果を遺すのは歴史的事実である。

とにかく、「勉強ができること」イコール「頭がいいこと」ではない。

これは大学を卒業して企業に就職すると顕わになる。

実業界における仕事は、人間関係の中で営まれるものであり、コミュニケーション能力や社交術や機転の利いた行動能力が要求される。

「仕事ができる」ということは、ただ「勉強ができる」だけではだめで、行動的思考能力と人間関係のスキルを必要とする「生活行動的頭のよさ」なのである。

ただし、企業で生き出世するためには必ずしも独創性は要求されない。

むしろ組織に順応する協調性の方が求められる。

それに対して、芸術や文学や科学・学問における独創性は、孤独に耐えつつ我が道を行ける人が実現できるものである。

もちろん地頭のよさは必要だが、それは試験的・丸暗記的勉強能力とは別次元のものである。

高難度の試験に受かって一流大学に入学しても、大学で待ち受けている「学問」は丸暗記ではけっして理解できない。

また、企業や官庁や工場に就職しても「問題と答えが一直線に結びついた」勉強ではらちが明かないことだらけである。

試験的勉強は基本中の基本にすぎず、スポーツで言えば技を習得するための準備体操、基礎的体力づくりにあたる。

このことをわきまえて、本当の勉強は大学に入学したり企業に就職してから、主体性をもって始めるべきものであることを認識してほしい。

大事なのは入試に通ることではなくて、社会や自然の事象に真っ向から立ち向かい、自ら問題を探し出し、文献を渉猟し、先生や仲間と議論しつつ、思索を深め、知識をふやすことなのである。

だいたい、難しい入試を通って大学に入るとその単位認定のルーズさと講義の退屈さに呆れ、遊びに奔る人は多い。

私などは講義をさぼって哲学の勉強にいそしんだけど。

 


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哲学B1 文章講義(第33回目)

2020-12-30 08:15:37 | 哲学

今回から第7章「創発の存在論」に入る。

 

この章は「創発」という現象を存在論的に緻密に論じており、一見情報の哲学から分離しているよう感じるかもしれないが、それは軽薄な感想である。

よく読めば、なぜここで創発の概念を詳しく考察しているのかが分かるはずだ。

 

創発の概念については春から何回も、いや何十回も説明してきたが、ここにきて決定的な説明となる。

かなり長い章なので、各節ごとに解説していく。

その際も、単なる要約的説明ではなく、言い換えを多用した応用的説明となる。

試験の際に、このブログでの説明を丸写しするのをさけるためである。

試験対策にはあくまでテキスト自体を熟読しておくことが要求される。

 

本章は次のような構成となっている。

 

 はじめに

 1 身近に起こる創発現象

 2 部分と全体、あるいは要素とシステム

 3 水とH₂O、あるいは心と脳

 4 還元と創発

 5 創発特性のトップダウン的働きとその実在性

 6 創発現象が形相因や目的因に対してもつ意味

 7 存在と生成、あるいは生命と進化

 8 創発の存在論

 

以上のように八つの節から構成され、本書の中では最もボリュームのある章となっている。

私の創発の概念への思い入れがいかに強いかを物語っている。

 

ちなみに、本章の第1節が東京都立日比谷高校の国語の入試問題に出典引用され、その内容の理解を深い次元で試されているのには驚いた。

まぁ、そこを読めば、なぜ使われたのか分かると思うが。

 

今日はとりあえず序(はじめに)について説明する。

 

序では、創発(emergence)概念の基本的枠組みが説明されている。

創発概念は最初、進化生物学で使われ、その後哲学に導入され、さらにその後諸学問に導入された。

現在では、ニューサイエンスのスター的概念となっている。

物理系の科学でも重宝されているとこに注意されたい。

 

このように諸科学で使用される学術的概念であるが、実は日常的現象にも観察できることを言い現わしている。

序ではまずそのことに触れている。

実は君たちは日常、頻繁に創発的現象を体験しているのだ。

1+1=2とは限らない、という言葉を聞いたことはないだろうか。

また「事実は小説よりも奇なり」という言葉を聞いたことはないだろうか。

それと、現在の日本をはじめとした世界の状況だが、一年前の年末に誰がこのような事態になると予想していただろうか。

あるいは、なぜ各選手のスピードが強豪国より劣る日本が4×100mリレーでメダルを取るのか。

 

こうした日常的出来事のうちに実は創発の現象は現れている。

 

創発の基本的意味は、

1.   新たに起こる突発現象は先行与件から線形的因果関係を駆使しても絶対予想できない。

2.   全体のシステム特性は要素の線形的加算から導き出せない。要するに全体は要素の総和を超えている。

 

創発の概念は一見ミステリアスな超常現象に言及しているように思われる。

しかし、それは軽薄な見方にすぎない。

創発の概念は現実のど真ん中、現実の隠れた核心、現実の深い次元の現実中の現実に食い込む、自然主義的な概念なのである。

 

しかし、なぜそれが神秘的でいかがわしいものに思えるのか、が序で説明されている。

それは物象化的倒錯であり、具体性者置き換えの誤謬である。

心身二元論ないし物心二元論がそれら誤解の根底にある。

モノ的存在理解もそうだ。

コト的存在理解がない。

 

よくある超常現象への関心と創発の哲学と科学は全く違う。

このことを銘記して、次の節以下の次回からの説明をよく読んでほしい。

その前に、あるいはそれと並行して、各自でテキストをよく読んでほしい。

 

                  そうしてほしいにゃ

               壁紙から突然現れる子猫=猫の創発


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哲学B1 文章講義(第32回目)

2020-12-27 08:58:42 | 哲学

今日は「4 自然の秩序と時空」について話す。

 

第6章は「自然の秩序」を主題として展開した。

そして、最終節においてそれは「時空」と関係づけられて終結する。

自然の秩序が時間と空間によって根本的に形成されていることは、少し考えれば誰でも分かることである。

しかし、その関係の内実と詳細を知っている人は稀である。

 

自然というものは我々を取り巻く、いわゆる自然環境としての「自然」と我々各自の身体内の生命活動=生理活動としての「内的自然」の両方から成っいる。

本節を理解するための鍵は、この外的自然と内的自然の間に浸透性があり、自然の秩序は人間的生命活動と環境世界の自然現象の双方に張り渡された

統一性をもっている、ということである。

このことに、自然の秩序と時空の関係を加味して思索を深める必要がある。

 

我々が経験する時間と空間は生きられる身体と意識によって感得される心的で生命的な質をもっている。

二元論的考え方では、こうした心的ないし経験的時空は、物理的時空から切り離されて理解されるが、自然的実在論によると両者は統合される。

我々の意識や感情や思考や記憶や認知活動のもつ整合性と秩序は、人間特有の精神的現象と思われがちだが、その生まれ故郷はやはり自然である。

人間によって分析・理解される以前に自然には数理的で幾何学的な秩序が備わっていたのである。

人間の数理的で幾何学的で自然科学的な思考が自然にその秩序を投げかけて、自然の秩序を把握したのではなくて、自然に本来備わっていた秩序が人間の脳の

自然研究能力を育み、発動させたのである。

しかし、自然の荒々しい元の秩序と人間の認知能力の繊細な突如の間には創発関係があり、後者は前者に完全に還元できない。

自然という親から生まれた人間の思考力は、人間同士の会話や議論や共同研究によって、親よりも複雑で繊細な秩序を実現するのである。

 

しかし、この創発結果ばかりに着目すると、自然と精神を分離する二元論的思考に陥ってしまい、「自然にもともと備わっている秩序」というものに対して盲目的となってしまう。

自然の秩序が物心二元論の彼方にあることを理解するためには、人間中心主義の主観的秩序理解を捨てなければならない。

これはこの章の最初の方から強調されていたことであり、最終節ではそれが時空と関係づけられて論じられているのである。

 

                  にゃ、にゃ、にゃ

 

 


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哲学B1 文章講義(第31回目)

2020-12-24 08:39:15 | 哲学

テキストにチャルマーズの情報の二重側面理論(double aspect theory of information)というものが出てきたが、それを表す図を次に掲載する。

参考にせよ。

 

基底的情報、つまり形而上学的に理解された情報、宇宙の根本存在原理としての情報は、物理的性質と(意識の)現象的性質の両方の相をとるのだ。

physical property は原子の模型を、phenomenal propertyは「赤の赤らしさ」つまり「赤という感覚の現象的質に関する意識的主観性」を表している。

 

                  参考になるにゃ


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これから書きたい本

2020-12-23 23:23:02 | 備忘録

忘れないように書いておこう。

『意識と時空』という本を書きたい。

内容的には意識・生命・時空あるいは意識・存在・時空だが、タイトルは簡素な方がよいので、「意識と時空」とする。

2016年に『存在と時空』という本を出したが、これはまた趣向が違う。

かなり書きやすいテーマだし、これまでの思索と研究と執筆の蓄積があるので、簡単に出来上がりそうだ。

付録としてまた実験小説を載せ、「意識と時空」という問題を短編小説で表現したい。

 

次に『偽善の研究』。

これは西田幾多郎の『善の研究』を揶揄った内容のものであるが、それだけではなく、真面目に「偽善」の本性を暴きたい。

心理学、倫理学、哲学、文学、精神医学、精神分析、私の体験、生物学、脳科学などあらゆる知見を総動員して、偽善の本質を論じたい。

しかし、実際には知見を網羅したものではなく、それらの知見を咀嚼した上で、凝縮されたエッセンスを表現したい。

太宰や有島や漱石なんかは非常に参考になる。

この本にも末尾に実験小説が付く。

もちろん、偽善をテーマとした短編小説である。

それによって偽善の本質を暗示するのである。

哲学的部分は論述であり、文学的部分は暗示・象徴・表現である。

 

        楽しみにしてるにゃ


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哲学B1 文章講義(第30回目)

2020-12-19 08:37:39 | 哲学

今日は「3   自然内属性を感じるとき」について講義する。

 

我々は時折、自分が自然の一部であることをしんみりと感じる。

あるいは、もっと高揚して自然と完全に一体であると感じることもある。

感動である。

これは我々の意識が自然内属性を身体的に、あるいは生命的に感知したことを示唆する。

 

しかし、この節で論じられていることは、単なる情感的体験の文学的叙述にすぎるものではなく、深く哲学的なものである。

深淵な存在論的思考である。

 

読者は、まず、なぜ私がこのようなことをここで論じるのか、について考えなければならない。

本章の構成、前後の文脈、前章までの論述の内容などを参照して、それを把握するのである。

これが読解というものである。

しかし、それは文学作品を鑑賞するのとは違う。

学問的論述ないし科学的叙述ないし哲学的議論を客観的に理解する、ということで、理科や数学の理解と親近的となる。

ただし、理解の道具はあくまで「言葉」なので、現代文の解釈のように思えるが、内実は哲学的理科である。

これが分からないと、そもそも大学で学ぶ「哲学」の意味が分からない。

 

この節の理解の鍵は、物質的身体とその生理的機能が高度の秩序を有しており、それは心の産物ではない、ということである。

それらは能産的自然の自己組織性の産物なのである。

心だけが秩序を産出できるという考え方は既に何度も批判した。

物言わない自然自体が精神の原基を有しており、その自動計算能力によって秩序を数理的に産出する驚異の能力を持っているのである。

計算する時空、自己をプログラムする宇宙という概念が最先端の宇宙物理学から提唱されている。

しかし、この思想の原型は既に古代ギリシアのプラトンとアリストテレスの思想に現れていた。

それが高度に洗練され、実証されようとしているのである。

 

我々が自然内属的存在であると正確に理解するためには、以上のことを基礎に置く必要がある。

そのことを本節は述べているのである。

 

しんみりと、そう感じるにゃ

 

 


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哲学B1 文章講義(第29回目)

2020-12-17 09:14:43 | 哲学

今日は「2  神の創造から自然の自己組織性へ」について講義する。

 

キリスト教を中心とした諸宗教において、この世界ないし宇宙は神が創造したものである、とみなされている。

もちろん、その証拠はない。

証拠はないが、なぜか確からしい。

経典にそう書いてあるから、聖書にそう書いてあるから、初期の伝道師ないし宣教師ないしキリストの弟子たちがそう言っていたから、そうであるらしい。

まぁ、ずいぶんいい加減で、あきれてしまうが、彼らには何の躊躇いもないし、うしろめたさもない。

 

ちなみに、哲学や思想でも神が世界を創造した、という教説がある。

代表的なのはプラトンの『ティマイオス』であるが、これはキリスト教発生より数百年も早く生まれた思想であり、後にキリスト教が創造説を理論化、教義化する際に借用された。

アリストテレスの『形而上学』にも自然の存在の第一原因としての神が登場する。

それは一切の質料をもたない純粋形相であり、自らは動くことなく自然界の第一運動を引き起こす「不動の動者」と規定されている。

これを中世の哲学者兼神学者のトマス・アクィナスが旧約聖書の出エジプト記3.14に記されている「我は在りて在る者である」という神の御言葉に結び付けて、

神の存在をactus purus essendi(存在の純粋顕勢態)と規定した。

 

ずいぶん勝手な解釈であり、強引な借用である。

「我は在りて在る者」なんて「俺は男の中の男だ」ぐらいの意味だろ。

 

それはともかく、神という概念は古来、世界の創造主として使われてきた。

その際、この自然界が人間をはじめとしたいかなる生物が創ったように思えない秩序をもっている、ということが引き合いに出される。

人間のような高度の知能と科学技術をもったものしか造れないものが、手つかずの自然にもともと備わっている。

これは超自然的デザイナーの御業としか思えない、というわけである。

 

猫や熊からみれば、特にそう思えないんじゃない。

人間様から見ればそう思えるだけでしょ。

 

だーから、人間目線から初めて自然が荘厳で精妙な秩序をもっいるように見えるんだよ。

特に、人間の身体と精神はそう思えるじゃん。

だーから、その観点、つーまり、人間目線、人間的価値観、人間的パースペクティヴ、人間的主観性からすると、人間の似像としての神が超越的デザイナーのようにおもえるんじゃよ。

 

要するに、自然の秩序は神の創造行為、超自然的デザイン能力という考え方は、人間の精神性を神という偶像に投影して、でっちあげた虚構の思想なのである。

自己撞着であり、嘘つきは泥棒の始まりである。

 

近代の啓蒙思想と哲学の批判能力の強化、ならびに自然科学における創発概念、自己組織性概念、システム論的思考などの進歩によって、自然の秩序は自然自体の構成能力に帰されることとなった。

宗教家の夢は破られた。

というよりは妄想が治療されたのである。

 

前回述べた「なぜ」の問いは、こうして神の創造行為という妄想から解き放たれ、能産的自然の自己組織性の観点へと舵を切り直したのである。

 

しかし、注意しなければならないことがある。

それは、あいかわらず二元論に執着し、機械論的自然観を信奉する輩が多い、ということである。

それによると、自然の秩序は人間的主観の価値観によって感得されるものであり、自然はやはり物理的機械ないし死せる物質の集合であり、自然の自己組織性などという概念はいらない、

ということになる。

あー、にゃるほど。

中学や高校の理科では自然の自己組織性とか創発という概念は出てこないからね。

ある人が言ったが、中学や高校で習う理科は19世紀までの自然科学だ!!

 

 

知の無自覚はphilosophyの敵である。

ところで、君たちは3月まで精神病というものをどう理解していた?

 

          僕の自然性は「見えない精神」にゃんだよ。

 


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哲学B1 文章講義(第28回目)

2020-12-15 08:59:56 | 哲学

今回は「1  なぜ(why?)という問いからの逃避」について講義する。

 

我々はよく「なぜ・・・・なの?」という問いを発する。

これは簡単に言えば、よくわからない原因についての問いである。

原因が分かりにくい理由としては、その人の知識が足りないこと、問題が難解なこと、問いかけが抽象的で問い-答えという図式に当てはめにくいこと、などがある。

 

「なぜあなたはナイキのスニーカーよりもニューバランスのスニーカーが好きなのですか」という問いにはすぐ答えられる。

実は比較にならないほど後者の品質が高い。

これを身体で知ってる人は即答する。後者は人間工学に基づいて靴職人が手作業で造る逸品である。ラルフ・ローレン、スティーブ・ジョブズ、クリントン元大統領、

オバマ元大統領などが愛用していた。高価にもかかわらず買う。スニーカーに5万円や7万円をかけるのである。もちろんアジア製の廉価版もある。しかし、

UASやEngland製のものは品質が格段に高く高価となる。

 

ニューバラスの中でも人気の高い996を例にUSA製とアジア製の画像を比較してみよう。

 

上がUSA製のM996で28000円ぐらい。

下がアジア製のCM996で12000円ぐらい。

素人には違いが分かりにくいが、識者には一目瞭然の外観のちがいがある。

ちなみに、私は両方履いたことがあるが、履きこごちが格段にちがう。

前者を100点とすると、後者は65点以下となる。

よく見ると、前者が高みがあり、後者が低いのが分かる。

前者は職人による手作りで素材、ソールの機能が格段に高い。

後者は機械製で安普請である。

 

「なぜあなたは東京よりも京都が好きなのですか」という問いも同様である。

それに対して、「なぜ(何のために)あなたは生きているのですか」という問いには答えにくい。

もっと究極的な問い「なぜ存在するものは存在して、無ではないのか」というものには思考の手がかりすら得られない人が多い。

 

「なぜこの宇宙が誕生し、私は何のために生きているのか」という問いに対する安直な回答としては、「神の御業とそれへの恩赦」というものがある。

これは十分考えて得られた答えではなく、そう答えると途中の説明が省略でき、本人も安心しやすいからである。

詐欺集団の代表たるキリスト教では、死の恐怖に付け込んで、この説が布教される。

 

こうした安直な神、紙詐欺は、実は「なぜ」の問いからの逃避にすぎない。

第1節の内容を要約的に言い換えると以上のようなものになる。

 

それでは「なぜ」の問いから逃避しないで、それを直視する思考姿勢とは、どのようなものなのか。

それは、精神と物質の二元分割と機械論的自然観を脱した有機体的自然観に基づいて、アリストテレスの目的因と形相因を洗練された形で継承することである。

そして、能産的自然の自己組織性を精確に把握することである。

これは自然的世界全体とともに「私」の存在意味にも適用される。

なぜ私は生きていくのか、という問いにも適用される。

とにかく、ニューバランスのスニーカーを履いて、全身状態と脳の状態を安定させて、この問題を考えてみよう。

ニューバランスのスニーカーを1999年から愛用している私(現在10足所有している)は、22年間で二度しか風邪を引いてない。

全く病気がない。

思考が清明で新しい均衡(バランス感覚)に満ちている!!

 

もう一度、made in USAのM996

 

         僕もNBを履きたいけど、僕用のものがないんだにゃ。

 

 

 


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哲学B1 文章講義(第27回目)

2020-12-12 09:30:25 | 哲学

今日から第6章「自然の秩序」に入る。

 

情報概念を扱っている本なのに、なんで「自然の秩序」なの、と思う人もいると思うが、この本における情報概念が、形相と秩序と自己組織性に関わることは、

これまで繰り返し説明してきた。

このことを顧慮して、本章を熟読してほしい。

 

本章の構成は以下の通りである。

 

はじめに

1  なぜ(why?)の問いからの逃避

2  神の創造から自然の自己組織性へ

3  自然内属性を感じるとき

4  自然の秩序と時空

 

まず各自で一通り読んでみること。

これなしには始まらない。

 

しかし、私の説明なしにも分かりにくい。

ただし、分かりにくいからと言って、逃げてはならない。

 

とりあえず序(はじめに)から説明していこう。

 

序では、なぜ自然の秩序に着目しなければならないのか、が説明されている。

そして、その際、「秩序」というものをもっぱら人間の知能が生み出したものとみなす考え方が批判されている。

秩序はもともと自然界に備わったものであり、その自然の産物たる我々の脳がそれを解釈し、自由に使いこなすようになるのである。

ここに自然の先行的秩序と人間の知能の秩序形成能力の間に循環性が成り立つことになる。

ところが、近代以降の物心二元論と機械論的自然観は、人間の知能による秩序形成能力に偏向するようになり、自然から秩序を剥奪してしまった。

近代科学と工業技術がこれによって飛躍的に進歩したように見えるのは外見的なものであり、やはりその根底には自然自体に備わる秩序の自己形成機能、

つまり自己組織性が控えていたのである。

これが19世紀から20世紀にかけて自覚されるようになり、今世紀のニューサイエンスにおいてますます推進されている観点である。

 

その基礎がプラトンの宇宙論とアリストテレスの目的論的自然観にあることを序では触れている。

そして、それを物理学出身の哲学者ホワイトヘッドと20世紀最高の物理学者ハイゼンベルクが称揚していることにも言及している。

欧米では日本と違って、哲学と科学、哲学と物理学の両方を習得する学者がかなり多い。

軽薄な日本人、西洋文明の猿真似人種の邦人は、哲学を文学や宗教や人生論に引き付けて理解しやすく、自然哲学という、自然科学と連結する哲学の本来の在り方に目を開けない。

全く愚かである。

 

以上のことを銘記して第6章に挑んでほしい。

そして、秩序と情報の関係に目を開いてほしい。

両者の関係の理解は難度が高いが、これが分かり始め、完全に理解する程度に応じて、哲学的知能、あるいは学問的知能の偏差値は、

 

地方Fラン大学

底辺大学 

私文中堅大学

理系底辺

私立難関

上位国立

地方旧帝下位、諸々の医学部

早慶上位、地帝中上位、東工、一橋

東大、京大

東大理3、京大医、阪大医、慶應医

東大と京大の科学哲学専攻あるいは教養学部、総合人間学部の理系

 

というふうに高まっていく(医学部は偏差値は高いが、IQ自体はそれほど高くない)。

 

                       面白い観方だにゃ

 

 


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第2回目のレポートの(2)を選択した人に

2020-12-10 00:09:55 | 日記

二回目のレポート課題のうちで(2)、つまり私の新著『心の臨床哲学の可能性』の部分的要約と感想、ないしモニターという選択肢を採った学生に告ぐ。

要約と感想も大事だが、電子書籍なので、まず、どういう端末で読んだか、を書く。

例えば、パソコン、タブレット、スマホ、キンドルなど。

そして、文字化けがあったり、アラビア数字(1  2   3   4・・・・)が縦書きなのに横のままになっていないか、を知らせてほしい。

私が確認したところ、OSがアンドロイドのスマホではアラビア数字が縦にならなければならないところが横になっていた。

また、目次から読みたいところにリンクで飛んでいけるが、論理目次という機能をまだ付加していない。

これは全ページの文面の左上ないし左側に出る目次であり、そこから自由に読みたいところに行き来できる。

この論理目次は今後付加するつもりだが、レポート作成期間中にやると、一時的に電子書籍が読めなくなる。

そこで、今は最初の目次からのリンクで我慢してもらう。

その他、内容よりも、文面や文字の変になっているところに注意して、それを報告してほしい。

また、ページの半分が空白になっていたり、余計な余白がないか、などを知らせてほしい。

これらはすべて、どの端末でそうなのかを書いてほしい。

 

もちろん、興味をもった部分の要約と感想は重視します。

また、モニター的レポートだけでも、注意深く全体を見渡してくれたものには高得点をあげます。

また、複数の端末(PC、タブレット、スマホ、キンドル・・・)で確認してレポートしてくれたものも高く評価します。

また、他の選択肢(1)(3)を採った学生も、それらを半分にして、半分を以上のような内容の(2)にしてもよい。

この講義はもともと情報概念を論じているので、ITリレラシーを高めるためにも、ぜひモニターして、インターネットと電子書籍の仕組みを学んでほしい。

 

      協力してほしいにゃ

 

 

 


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哲学B1 文章講義(第26回目)

2020-12-09 20:04:04 | 哲学

今回は「社会の情報システムと個人の意識」について講義する。

 

この節が第5章の総括なのは言うまでもない。

非常に短い節なので、内容をもう一度繰り返して、かみ砕くように要約する必要はないであろう。

それよりも、言葉と表現と構成を変えて、「社会の情報システムと個人の意識」という問題の核心に触れたほうが有益であろう。

 

我々は社会の中で生まれ、社会の中で死ぬ。

その成長の途上で「私は私であり、他の誰でもない」というセルフ・アイデンティティーの意識が生まれる。

いわゆる自我の目覚めである。

これは思春期後期に起こることが多く、人によって自覚度の違いはあるが、ほとんどの人が経験するものである。

中学二年から高校二年の間にそれは起こりやすい。

 

私の場合、この自我の目覚めが強烈すぎて、これまでの自分を否定したくなり、ついに高校を中退するはめになった。

本当の自分はこんなものではない、自分本来の勉強がしたい、という欲求にかられ、高校の詰め込み教育に反発し、秀才だった自分を否定したくなったのだ。

他方、同級生はのほほんとしたもので、平凡な高校生活を送り、大学へ行ったり、就職したりした。

私一人が取り残されたような気がしたが、それなら世界でオンリーワンの自分になってやろうと思い小説や詩や思想書を乱読し始めた。

それまで理系だった自分にとって人文系、芸術系の世界は新鮮だった。

 

もちろん、一見のほほんとしているように見えた同級生たちも多かれ少なかれ自我の目覚めは経験していたであろう。

とにかく、私にしても他の人にしても自我の目覚めは社会の中で生起する生命的出来事なのである。

生命的出来事とは人生行路上の転機とも言い換えることができる。

また、「社会の中で」ということは「社会の情報システムの中で」ということであり、色々と飛び交う情報の回路網の中で我々は自分の自我を育み、

自己の在り方を反省し、自分探しに没頭し、色々と悩む。

偉人たち、天才たちは、大いに悩んで大きくなった。

それに対して凡人たちは少し悩んで小市民として成人した。

 

今日の高度情報化社会の中で、我々は情報の洪水に曝され、それに飲み込まれようとしている。

情報の流通と拡散があまりに容易になったので、量ばかり肥大した情報の海の中で、真に質の高い情報を見分ける力が著しく落ちている。

その落ちた情報意識を携えて、我々の自我は貧しいものになり始めている。

 

自分が真に価値ありと信じるものでも、それが周囲の大多数の人から軽蔑されるものだと、ついそれを捨てて、みんなに迎合してしまう。

哲学の世界でもそうだった。

私は自分が信じた哲学の真の道を歩もうとしたが、それは多くの保守的な学者たちから嫌厭され、いじめられはしなかったものの、無視された。

本当は彼らは知っていたのだ。

私の方が本道を歩んでいたことを。

 

私は自分が信じた道をこれまで歩んできた。

そして、それはやはり正解だった。

私の方が正しかったのだ。

地位や富は失ったが、真に価値のある人生行路を歩み、真に価値のある哲学を構築することができた。

これからまだまだたくさん本を書く。

 

栄冠は我にあり!!

私は日本の哲学界、大学の甘えの構造に勝ったのだ。

わたしこそ、太宰や三島と同様に何百年、何千年も人類の文化史に残る著書を後世に遺すことに成功したのだ。

これも私が社会の情報システムの中で、真に質の高い情報を見極め、自己疎外に陥ることなく、真の自己実現に成功したからなのだ。

それは厳しく茨に満ちた道であった。

The long and winding road (注)であった。

しかし、私はそれを歩みぬいたのだ。

 

                   おつかれさまでした  にゃ

 

(注)The Long and Winding Road  by  the Beatles

The Beatles The Long And Winding Road Music Video - Bing video


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哲学B1 文章講義(第25回目)

2020-12-08 07:29:18 | 哲学

今日は「4 文化的遺伝子ミームをめぐって」について講義する。

 

この節は「文化的遺伝子ミーム」というものについて論じている。

この聞きなれない言葉は、リチャード・ドーキンスという著名な進化生物学者が提唱したものである。

ドーキンスは世界的ベストセラー『利己的遺伝子』という本によって一躍有名なった時代の寵児だが、生物学的遺伝子DNAないしゲノムに対して

文化的遺伝子ミームという概念を提唱してまた一旗揚げた。

我々の肉体の形態と物質的組成、ならびに生理的機能、あるいは性格や知能や行動パターンは、両親の遺伝子に書き込まれた生命情報の融合から成るが、我々の意識や

行動パターンや価値観や学力はそれだけでは説明できない。

一時は、こうした心的機能すらも生物学的遺伝子DNAによって説明可能だという遺伝子還元主義が横行したが、世界トップクラスの生物学者・遺伝学者のドーキンスは、

人間のもつ心理・社会的側面はそれに尽きないことを知っていた。

そこで、生物学的遺伝子に対して文化的遺伝子ミームという概念を提唱したのである。

 

進化生物学と遺伝学の黎明期に「獲得形質の遺伝」という概念を提唱する学者がいた。

また、それに賛同する思想家もいた。

それは、どういうものかとうと、我々が後天的に獲得した学力、運動能力(スポーツ能力)、価値観、経営能力、社交性、性格、感情の傾向など心理・社会的性質は、

先天的な生物学的遺伝子によってすべて決定されるものではなく、後天的な努力や経歴によって獲得されることはよく知られている。

しかし、親が獲得したそうした後天的能力は、子に直接遺伝するものではないこともまたよく知られている。

しかし、獲得形質の遺伝の主張者たちは、そうした後天的に獲得した形質もまた両親から子や孫に遺伝すると主張したのである。

これは全面的に間違いとは言えないが、95%近く間違っている。

 

こうした後天的な獲得形質は、生物学的遺伝子DNAないその総体としてのゲノムではなく、文化的遺伝子ミームによって伝承されるのである。

DNAは全身の細胞の核内にあるが、ミームは脳の内の神経回路網の中にあり、それが社会の情報構造と相互作用して、獲得形質を発現せしめるのである。

例えば、貧しい田舎の農家に生まれた神童が、めちゃくちゃ努力して東大理科二類に現役合格して、その後世界的生物学者になった、としよう。

その能力と実績は言うまでもなく、その人の子供に直接遺伝しない。

つまり、DNAを介して遺伝しない。

代々、東京の名門校を卒業した家系なら、開成→東大というふうに、一見獲得形質が遺伝しているように見えるが、実はそうではない。

それは家庭の経済力、教育環境、価値観が大きく関与していたのである。

それに対して、田舎の孤高の天才、突発的な神童は、その人個人の天性の知能と類まれなる努力姿勢によって快挙を成し遂げたのである。

親の獲得形質の遺伝のおかげではない。

 

最近の傾向として親が東大や京大卒の官僚、政治家、学者だとしても、子供は慶應幼稚舎(慶應小学校)に入学させる傾向が強い。

そこから受験勉強なしでエスレーター式に慶應大学まで進学し、政治家や大企業幹部となるのである。

世襲、二世議員、二世芸能人というのは日本よくみられる傾向である。

 

      そうだよにゃ

 

ミームという言葉はギリシア語のミメイン(模倣)を語源とする。

我々は、社会内存在として両親・姉妹・学友をはじめとした他者の行動を模倣して、諸々の行動・学習パターンを獲得する。

その中枢は社会内存在として脳なのであり、DNAではない。

 

なんでもDNAないし分子生物学で説明して悦に入っている馬鹿が多いが、それは軽薄な姿勢でしかない。

脳で心をすべて説明できると盲信する人もまた馬鹿である。

それについては春学期から最近まで詳しく説明してきたので繰り返さない。

 

ところで、DNAもミームも「情報」が基幹となってできていることに注意しなければならない。

情報は文理双方に張り巡らされた存在原理、認識原理なのである。

ミームの概念を理解するときも、このことを顧慮してほしい。

 

                  そうするにゃ


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哲学B1 文章講義(第24回目)

2020-12-05 09:30:06 | 哲学

今日は「3  意識・行動・情報」について講義する。

 

この節の表題は分かりやすいであろう。

我々各人は意識を働かせて行動し、それには情報が関与する。

つまり、情報の受け取りや発出が関与する。

この節は、この分かりやすいことを存在論的情報概念を説明するための道具として使っているので、よく読んで、本書全体の理解に役立てること。

 

最初の方で芥川龍之介の精神病理について触れられているが、人間の意識や心理や精神病理に人間の脳における情報処理が深くかかることを認知してほしい。

脳内の情報処理がうまくいかないと、不要なストレスファイルが溜まり、システムの全体的状態が不安定となり、最悪の場合、破たんする。

芥川の場合、それは不眠の要素の強い神経衰弱となり、激しい煩悶の末、自殺してしまった。

コロナ禍の現在、鬱と不安と孤独に悩まされる人は多く、「いのちの電話」が泣き止むことはない。

特に北海道においてこの傾向が顕著である。

ここにも、社会内存在としての人間における意識と行動と情報の三者関係が表れている。

 

次に重要なのは、社会心理学者兼哲学者のミードからの引用文(p.126)である。

この引用文は複雑な構造の文章であり、少し分かりにくいかもしれないが、私による引用文直後の解説を参考にしつつ、何度も読み返すと分かるようになる。

 

普通「意味」というものは主観的観念や価値観を表すものと理解されているが、実は身体性が関与する客観的社会的現象であり、行動の相互作用から発生するものである。

人間の言語はもともと発声器官や鳴き声からではなく、身振りから発生したものであり、世界の情報構造を身振りによって形相分与しようとしたコミュニケーション手段である。

それゆえ、手話の方が音声言語よりも言語の本質を表しているのである。

 

我々は、情報構造によって成り立つ社会の中で、意識を働かせつつ行動し、情報の相互交換をする。

これによって意識も行動も情報も進化し、複雑化していくのである。

 

「この社会は生きている」という表現は単なる比喩ではなく、このような現象が生起する場だから、そう言われるのである。

つまり、社会は「情報による自己組織化の促進」を人間の意識と行動の統合性において生み出す、非生物的生命体なのである。

これを簡略化すると「有機体」ということになる。

 

                      にゃるほど


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哲学B1 文章講義(第23回目)

2020-12-01 20:19:33 | 哲学

今日は「2  情報構造としての社会」について説明する。

 

この節の主張の核心は「社会が情報構造をもつ」ないし「社会は情報構造そのものである」ということである。

これを理解することを目指して、さぁ、本文を読もう。

わずか4ページぐらいなので、繰り返し読もう。

 

まず最初に「社会」というものの存在論的地位が論じられている。

こういう問題設定は珍しいが、私の講義付き合ってきた君たちなら、その趣旨は分かるであろう。

「社会」は「経済」や「政治」や「学問」などと同様に抽象概念の一種である。

ただし、精神や魂や神や天国のようないかがわしさや超自然的性質はない。

ただ抽象的なだけである。

しかし、抽象概念の中では最も具体性がある部類である。

 

理解の鍵は「社会」が「情報」という概念と切っても切り離せないということ、そして、それが主観的かつ客観的な存在論的性格を有するということである。

社会とはもともと複数の人間が形成するコミュニケーション空間、つまり情報交換の場なのだが、これに「情報構造」という概念が密接に関わってくる。

 

社会は自己組織化する情報システムであり、それには社会を構成する人間たちと彼らの情報交換とその基礎にある「情報構造」が深く関与する。

社会の情報構造は要するに社会の構成員間のコミュニケーションと情報交換のインフラなのである。

それゆえ、それは自然界にもともと備わっていた物理的情報構造を基礎にもっている。

電線や電波塔や電気の供与やインターネット・ネットワークのシステムのことを考えると、それが見えてくる。

 

諸々の社会制度もこの情報構造をインフラとして作成・形成・定着化する。

政治も経済も行政も治安も教育制度も交通規則もみなそうである。

これらの基礎には「社会的情報構造」があるのだ。

そして、繰り返すが、社会は自己組織化する情報システムである。

 

次にこの節における重要な事柄は、精神分析学者・土井健郎が主張した日本社会における「甘えの構造」である。

この言葉を最初に聞くと、まず「甘ったれたニート」のことを思い浮かべるであろう。

しかし、土井の言う「甘え」はそれとはまったく違う。

それは「自己主張のない滅私奉公的他者依存」ないし「個我の確立から逃避した集団的派閥形成」を意味するのだ。

 

日本人は協調性を美点とするが、それは裏を返せば、しっかりとした個我の確立からの逃避ということになる。

日本人は個人主義が嫌いで、集団主義と滅私奉公を高く評価する。

それはファーストネームが氏名ではなく苗字であることにも表れている。

それに対して、個人主義の傾向が強く、個人の個性を重んじる欧米ではファーストネームは苗字ではなく氏名となる。

日本では「家」が主で「本人」が従だが、欧米では逆なのである。

 

これを敷衍して考えると、日本人は「その人がどういう人か」と言うことよりも「その人がどこに属しているのか」ということによって本人を評価しやすい、という傾向が見えてくる。

代表的なのは本人の出身大学をまず聞き、その人本人の中身や実力や経歴は二の次になりやすい、ということである。

テキストでは東大法出身vs専修大法出身が例として挙げられているが、現在の北海道大学知事と首相の苦学した上での法政大学二部法学部卒業の経歴を見れば、分かりやすいであろう。

問題は本人がいかに努力し天性の才能をもっいたかなのであり、出身大学ですべてを判断するのはあまりに軽薄すぎる。

 

もっとわかりやすい例は平成の天皇陛下の心臓手術の例である。

慣例に従って、東大病院で陛下は手術を受けたが、執刀したのは東大の心臓外科の教授ではなく、順天堂大の心臓外科の教授だった。

天野篤というその心臓外科医は国内トップ、いや世界トップクラスの心臓外科医なのだが、出身は日大医学部であった。

しかも彼は三浪してようやく日大医学部に受かったのである。

 

これには世間の多くの人が驚いた。

特に偏差値盲信主義者は驚いた。

しかし、医療界に詳しい人にとって、これは当たり前のことなのである。

 

医学と医療の世界において医者の実力が出身大学の偏差値に比例しないことは常識である。

特に外科医においてそれは顕著である。

東大医学部の学生が遊んでいる最中に底辺私立・国立医学部の真の医学的志が高い学生が猛勉強して追い抜くのである。

 

日大医学部は実は隠れた名門であり、特に外科医の梁山泊である。

多くのすぐれた外科医を輩出してきた。

天野篤医師はその最も目立つ例だが、実は日大板橋病院の消化器外科の高山忠利医師も肝臓外科医として世界一の評価をうけており、見逃せない。

 

高山忠利教授は、日大二高から推薦で日大医学部に入り、六年間主席の成績で六年間学費免除の特待生として勉強に励んだ。

卒後、国立がんセンターに入り、肝臓外科医として頭角を現し始めた頃、東大医学部の肝臓移植外科に引き抜かれ、すぐにそこの助教授となった。

そのまま東大医学部の教授にもなれたが、ここで甘えの構造に妨害され、母校の日大医学部の教授になった。

東大出身教授陣、つまり東大閥の反感を買ったのである。

 

高山忠利医師は、それまで絶対不可能だと言われていた肝臓部位の手術を世界で初めて成功させ、世界の外科医学界から絶賛された。

その数千例の手術の見事さと540篇の英語論文と130冊の著書(多くは共著)によって日本を代表する臨床医学者・肝臓外科医と認められている。

日大医学部に医学英語の授業を根付かせたのも彼である。

 

天野もすごいが高山もすごいのだ。

 

                僕もすごいと思うにゃ。

 

 


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