前の記事でも書いたが、「勉強ができる」ことと「独創性がある」ということは比例しない。
単なる受験秀才は、頭の回転が速く記憶力が優れていて、試験勉強に労苦をいとわないだけである。
彼らは立ち止まって「なぜ」と問うことがないので、学問や創作や実務においては独創性を発揮することができない。
しかし地頭のよさは独創性の発揮にも必要である。
もし、勉強ができること、つまり偏差値が高いことが、そのまま独創性をもつ頭のよさに直結するなら、東大>京大>早慶>東北大、名古屋大>神戸大という順位で独創的天才が生まれることになるであろう。
しかし、実際にはそうならない。
芥川賞の受賞者は、早稲田>東大>慶應>>>>その他 (これは実数)その他だし、ノーベル賞は京大>>>東大(これは実質的数)である。
司法試験合格者でも早稲田>東大>慶應、中央大>京大>一橋だし。
去年、ノーベル生理学賞を取った山中・京大教授は神戸大医学部出身であり、前に物理学賞を取った益川・京大教授は名古屋大理学部出身であり、田中耕一さんは東北大工学部出身である。
ちなみに田中さんは自然科学系の受賞者でただ一人大学院を出ていない。
このように地頭がある程度良くて、「なぜ」という問いを好み、探究心にあふれる人が独創的研究者になるのであって、単に受験ロボット的な秀才はだめなのである。
西洋の天才の歴史を顧みてもそのような人はすごく多い。
エジソン、アインシュタイン、ウィトゲンシュタイン、ムンク、ゴッホ・・・・と数知れない。
ちなみにムンクやゴッホは画家なのでまた別口だが。
あと、頭がよくて努力家で創造性の素質があっても、イエスマンや御用学者は独創的研究成果や創作とは無縁となる。
とにかく、伝統と権威と因習と世間体に囚われずに、実質的価値を追い求める、探究心の塊の者だけが独創的天才になりうるのである。
問題は「いい頭」をどの方向に使うかである。
ただ高い点数を取って大学に合格したり資格試験に通ったりすることしか眼中にない人は、学問や芸術において独創性を発揮できない。
超高偏差値の大学に合格しても、試験と単位認定が受験よりもはるかに楽な大学というものに入ったとたん、勉強しなくなる人は多い。
与えられた試験はできるが、自ら問題を探し出し、探究心旺盛に真理を追究することができないのである。
ある程度受験勉強を手抜きした方が、大学に入ってから伸びるであろう。
要は、普段から「なぜ」と問う癖をつけ、物事の本質や原因やしくみに興味をもちつつ、多くの本を読むことである。
なお、ここで私はあることを思い出した。
それはオウム真理教の高偏差値の理系秀才の暴挙に対して、国際政治学者で政治家の升添要一氏が言っていたことである。
「彼らは浪人でもして小説でも読んでいた方がよかった。そうすれば、こんな短絡的行動には出なかったであろう」と升添氏は言っていた。
「なぜ」を忘れた丸暗記的猛勉強は、短絡的答えを希求する姿勢を植え付け、複雑系としての世界の本質から目をそらさせるのである。
言うまでもなく、オウム真理教の幹部の連中の行動と思想(実質は単なる幼稚な思い込み)は独創性とは無縁のものである。