心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

芥川龍之介の精神病理

2018-04-30 18:41:26 | 作家・文学

芥川龍之介の晩年は苦悶に満ちているが、意識の哲学にとっては非常に興味深い。

神経衰弱によって彼の意識がどのような変遷をたどり、最後に自殺に至ったかを分析すると、精神病理の奥底に人間の本質を理解する鍵が隠されていることが分かる。

周知のように芥川の実母は統合失調症(旧名 精神分裂病 さらに古くは 早発性痴呆)の患者であり、夭折した。

芥川自身は母親からの狂気の遺伝を恐れ、精神病発病を常に危惧していた。

精神病理学における病跡学の観点から多くの見解が提出されているが、芥川を統合失調症であったとみなすものとそれを否定するものに意見が分かれている。

芥川の晩年の作品には自己の病的体験が数多く描かれており、その中には統合失調症の幻覚・妄想状態を思わせるものもある。

「歯車」における半透明の歯車の幻視はその代表である。

また自己の分身を見る体験も述べられている。

しかし、精神医学の診断学を参照しつつ緻密に分析すると、彼の病態、というより「病的経験」は典型的な統合失調症とは違うことが分かる。

統合失調症の中核症状は論理的思考が破綻する「連合弛緩」であり、ほぼ論理的思考が不可能となり、文章が乱れ、会話は支離滅裂となる。

また、それに伴い感情が鈍磨し、周囲に対して無関心となり、不潔になる。

とりわけ未治療の場合、末期的症状として終日黙して座り、ぶつぶつと独り言を言い、ときおり独り笑いしたりして、いわゆる廃人の様態を示す。

芥川には上のような症状はほとんど、というか全くなかった。

また、統合失調症に特有の幻覚は、ほとんどが「幻聴」であり、芥川が体験したと言い張る幻視は稀である。

芥川にも幻聴らしきものはあったが、空耳程度のものであり、統合失調症に特有のすさまじく、執拗な批判性幻聴や対話性幻聴はなかった。

また、精神運動性興奮からの錯乱や暴力は全く見られない。

以上の点を顧慮すると、芥川の晩年は文字通り「神経衰弱」であって、内因性精神病ないし脳の機能障害としての統合失調症ではないと判定される。

「神経衰弱」というのは古い表現だが、現代風に言えば、「うつ」と「神経症」のミキシングであり、これが心身症的に先鋭化し、特に不眠症がひどいものとして定着し、ついには彼を自殺に追い詰めたものと考えられる。

また、彼が述べた幻視の体験は、多量の睡眠薬の服用がもたらした副作用によるものとみなせる。

しかし、彼にはたしかに母から受け継いだ「統合失調症の素質」があった。

それが神経衰弱の症状を「自己の自己性の危機」という様態へと先鋭化したとみなすことができるのである。

いずれにしても、彼の晩年の告白調の短編は、精神病理学的に極めて興味深く、このような体験を断末魔の様態で、文学の鬼の魂をもって描き切った彼の姿勢はまさに純文学の鏡と言うべき、あっぱれなものであった。

私が好きな彼の言葉に次のようなものがある。

「毎年一、二月になれば、胃を損じ、腸を害し、さらに神経性狭心症に罹り、鬱々として日を暮すこと多し、今年もまたその例に洩れず。ぼんやり置き炬燵に当たりおれば、気違いになる前の心もちはかかるものかとさえ思うことあり」(「病中雑記」から)。← 本当の精神病患者は自分を気違いとは認めない。そういう自覚=病識はないのである。

実は大学院の修士課程の頃、飲み友達にこの断片が好きだと言ったら、「そんなの読んでるとほんとにおかしくなるぞ」と言われたことがある。

そのころは「気違い」と平気で書けたが、今はパソコンでこのように変換できず、みんな「基地外」と書いている。

差別用語と認定されたのである。

それと直接関係ないが、実は芥川も太宰も医学と生理学と脳病理学に疎かったので精神病に偏見をもっていた。

そんな彼らの言葉をうのみにせずに、精神医学の診断学を学び、冷静に評定することが肝要であると思われる。


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渋い色のスズキRE-5

2018-04-28 09:03:18 | バイク ・ 自動車

前に紹介したロータリーエンジンのバイク・スズキRE-5の渋いカラーのもの。

これは初期型とは少し細部が違っている。たとえば、メーターが普通のものになっている。

とにかく、こういう渋い色のものは味があり、独特の「美」を有している。

この種の美は、落ち着きと典雅さと格調の高さと気品によって特徴づけられる。


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埼玉県伊奈町のバラ祭り

2018-04-16 00:16:47 | 日記

埼玉県北足立郡伊奈町には県内最大のバラ園があります。

今月の10日からバラ祭りが開催されていましたが、今日観に行き、写真を撮ってきました。

このバラ園は伊奈町の町制施行記念公園にあります。

アクセスは、JR大宮駅から埼玉新都市交通(ニューシャトル)で羽貫駅か内宿駅まで行き(所要時間25分ぐらい)、そこから徒歩10分くらいです。

それでは芸術的なバラ群を観てみましょう。

これまで観たバラ園では最大で、各バラの花が見事で芸術的でした。

配置も抜群で芸術的でした。

自然と人工の絶妙な融合性を感じました。

最後に語りかけてくるような白ピンクのバラの花一輪。

ほんと、素晴らしいですね!!

まだ、間に合います(25日まで祭り継続です)。

ぜひ、観に行ってください。

今回が無理な人は来年にでも。

 

*これは実は2014年5月22日に書いた記事なのだが、失われた時を求めて、再upした。

 


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2010年 大宮公園とその周辺の桜

2018-04-10 07:59:24 | 美学

桜の季節になりました。

こういうセリフを言うのは毎年3月の末から4月の第1週です。

しかし今年は3月に入って記録的に温かい日が続いているので、もうすぐ満開です。

私は前にさいま市大宮区の大宮公園の近くに住んでいました。

大宮公園は第1から第3公園まであり、また周辺にもいくつか公園があり、そこに咲く桜は総数2500本以上になります。

今年の桜の写真はもちろんまだです。

そこで2010年4月7日に撮った桜の写真のうちのいくつかを載せることにします。

こういう見事な桜が連なります。

これは第2公園の貯水池の土手の桜ですが、円形の貯水池公園を囲むようにして咲く光景は最高です。

中には釣堀もあり、シートを敷いて宴会もできます。

貯水池の向こうにはさいたま新都心の高層ビルが見えます。

これは大宮公園の北に位置する土呂の公園の桜と菜の花畑と風車です。

ここも見所です。

旧大宮市、現さいたま市北区本郷町の住宅地に咲く桜です(年季が入ってます)。

この辺の住宅地にはこうした見事な桜の木が点在しています。

これはメインの第1公園の桜です。

第1公園の桜は植樹から100年近く経っているので、身の丈が高く、このように天を覆うように咲きます。

ここだけで1200本の桜があり、毎年ピンクの天井となります。

再び早朝の第2公園の貯水池周縁の桜です。

桜の時期の朝の散歩は最高です。

大宮公園は、それ以外にも梅、紫陽花、紅葉と四季折々の花に恵まれており、我が国有数の都市隣接公園となっています。

最寄駅は東武野田線の大宮公園駅ですが、駐車場も完備しています。

またJR大宮駅から氷川参道、氷川神社を経て公園に行くのもいいです。

とにかく一度来てみてください。

なお、以上の写真はすべて私がデジカメで撮影したものです。

今年の桜の画像は10日~14日後にup します。

 

 


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死に至る病としての絶望

2018-04-08 22:42:09 | 意識・心理学

キルケゴールの『死に至る病』は絶望を主題としている。

『純と愛』の世捨人さんは絶望から回復したが、それはドラマというフィクションだからであり、現実はそんなに甘くない。

絶望は多くの場合、死に至る。

つまり、自殺である。

自殺から人間を救うのは、信仰、精神医学、哲学、隣人愛などである。

いのちの電話もばかにできない。

人間はなぜ絶望するのだろうか。

それは彼が自己というものをもっており、それに囚われるからである。

自己というより我(が)といったほうがよい。

キルケゴールは、「絶望してなお自分自身であろうとする態度」を絶望の最悪の形態、つまり「救いようのない絶望」であると規定した。

自己を超越者としての神の前で透明にして、すべてを神に委ねよ、というわけである。

しかし、多くの人は神など信じれないであろう。

では、どうすればいいのか。

ただ無為にやりすごすのである。

何も考えず、嵐が過ぎ去るのを待つのである。

君自身にではなく自然に還るのである

自然はすべてを受容する包容力をもってあなたを救うであろう。

我々は自然によって生かされて生きているのだから・・・・


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意識と色彩

2018-04-08 16:34:52 | 意識・心理学

色彩は心の哲学において最重要の分析対象となっている。

なぜなら色彩は「意識に現れる感覚の質」としてのクオリアの代表的現象であり、感覚の生命的現象性を意識哲学の次元で考察するための格好の題材だからである。

もともと心は色で満ちている。明るい心。暗い心。晴れやかな心。曇った心。グレーな気分。ブルーな気分。バラ色の人生・・・・・等々。

我々が環境世界に目を向けるとき、網膜に真っ先に飛び込んでくる感覚情報は「色」である。

色は光の屈折が生み出すものであり、結局は「光」である。

そして光は生命と物質の根源として、世界の中で生きる我々の意識に存在の意味を照らし出す源泉である。

その光が対象に当たり、跳ね返って我々の網膜に到達するとき、諸々の「色」に変身する。

しかし、その色の「クオリア」を感得するのは、網膜だけではなく、視神経から後頭葉の視覚皮質に至る視覚的情報処理過程、ならびに脳内の諸神経モジュールからのフィードバックである。

こうして単なる色(電磁波としての光の波長)は「色のクオリア」として意識に現れるのである。

その際、気分、体調、記憶、価値観、嗜好などの個人的な心的特性が連合的に色彩クオリアの感得に降りかかってくる。

そこから明るい気分、暗い意識、前向きな姿勢、後悔の念、開放的な気分、鬱屈した感情などの諸々の意識特性が顕在化してくる。

結局、色彩は意識と生命をつなぐ蝶番なのである。


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『心・生命・自然』

2018-04-02 09:03:30 | 自著紹介

2009年の10月に『心・生命・自然 - 哲学的人間学の刷新』(萌書房、2300円)という本を出版した。
この本はいわゆる啓蒙書の部類に入る。
しかし、本の趣旨と私の問題意識はこれまでの著書から継承された一貫性をもっている。
ただし大学の一般教養の授業で使うことを念頭に書いたので、読みやすい。
人間の本質への問いや生命論は教養の「哲学」の定番である。
また、この本には文学の話題も入っている。
小説なら高校生でも読んでいるし、とっつきやすい。
太宰、有島、芥川、志賀、梶井などを取り上げた。
偽善について考察しているのは珍しい。

目次は次の通り。

第Ⅰ部 心・生命・自然
 第1章 人間の本質への問い
 第2章 心の本質について
 第3章 心身関係論
 第4章 生命論の諸問題
 第5章 人生(人間的生)の意味
 第6章 自然と人間
第Ⅱ部 文学と哲学における人間理解
 第7章 文学的人間観
 第8章 偽善の研究
 第9章 哲学的人間学の方法

これで、四六版、201ページである。
第8章「偽善の研究」は西田幾多郎の『善の研究』をもじったものである。
有島の財産放棄とそれを「よいお道楽」とからかった近松秋好を対比し、近松の偽善性を暴いた。
これは第7章で太宰と志賀を対決させ、志賀の偽善性と俗物性を暴いたことの続きである。
「偽善の研究」は数年後に一冊の本にまとめて出版しようと思っている。
その際には、これらの作家について再考し、西田の立場を批判し、カントの根源悪と根本悪を顧慮し、さらには生物学的観点や心理学的観点や精神分析的観点も取り入れて、大々的に論じようと思っている。
なお、本書は、去年の10月に出した『創発する意識の自然学』のためのホップ・ステップ・ジャンプの最後の跳躍に位置している。

また本書は代々木ゼミナールの2010年夏の東大・京大トップレベル模擬試験と2012年夏の早大プレの国語の問題に出典引用された。
どちらも最も重要な、核となる問題の位置を占めている。
そもそも大学入試における現代文は隠れた鬼門である。
また、現代文はあらゆる学習、研究の基礎となるものであり、文理共通の基礎教養にあたる。



アマゾンのリンク。
http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E3%83%BB%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%83%BB%E8%87%AA%E7%84%B6%E2%80%95%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%88%B7%E6%96%B0-%E6%B2%B3%E6%9D%91-%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/4860650514


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