心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学B1 文章講義(第4回目)

2020-09-29 08:50:17 | 哲学

今回は第1章の第3節「存在への問い」について説明する。

今期は一回の講義で扱う範囲が非常に短いこともあるので、全体としての回数が増える。

週4回ぐらいになることもあるだろう。

ちなみに、前回の講義の後に付加した記事「福岡大学ワンダーフォーゲル部」の動画は観たかな。

前回の講義と関係するので、よく観ておいてほしい。

 

さて、今回の「存在への問い」についてだが、最低二回は読んでほしい。

その際、「存在」という概念のもつ「場」という性格と、関係的性質にまず注意し、それからテキストで述べられている「物在」と「事在」の区別を理解してほしい。

さらに、「事在」が「システム在」と言い換えられていることに着目してほしい。

そして、このことが存在と情報の関係へと連なる重要な存在理解であることを学んでほしい。

 

我々は普通、何かが存在するというと、「物在」を連想する。

例えば、この部屋の中に机があり、その上に花瓶がある、というような「ある」の理解である。

これは特定の直接知覚される空間の中にはっきりと指さし確認ができる個物が「在る」ということであり、最も素朴な存在理解である。

前回出てきた「存在するとは知覚されてあることだ」という理解もこれにあたる。

しかし、「存在」とはそんなに単純なものではない。

「存在」の深い本当の意味は、上記の「物在」の知覚と理解を可能にする、存在現出のための先行的「場」を意味するのである。

これがまた「情報場」という現象と結託して、我々に個物や諸事態の現出とその知覚とその存在意味の把握を可能にする先行的枠組みを形成するのである。

 

以上の説明では抽象的過ぎて分からない、という人は、この節に出てくる「ケンブリッジ大学」と「東京都」のシステム的存在性格についての説明をよく読んでほしい。

我々は普段、何気なく「東洋大学」とか「東京都」という言葉を使って、その内実と存在について分かったつもりになっているが、実はその事在的ないしシステム在的存在性格については何もわかっていない。

薄々気づいてはいるが、それを明確に説明することはできない。

 

ケンブリッジ大学にしても東洋大学にしても、机の上の花瓶のようにその存在を明確に指し示すことはできない。

一見できそうでできそうだが、できない。

東洋大学はいくつかのキャンバスに分かれており、その距離はかなりある。

白山キャンバスの建物を指さして、これが東洋大学だ、と言っても完全な定義にはならない。

そもそも君たち一人ひとりが「東洋大学」の一部なので、学生・職員・教員のすべてが「東洋大学という存在」に含まれ、さらに卒業生や歴史も含まれるのだ。

東京都もテキストに書いてある通り、神奈川都民・埼玉都民・千葉都民をも含む一大都市システムとなっており、その存在性格は流動的で拡散的である。

東京都庁や東京駅や銀座や新宿といった都の象徴、あるいは都心の高層ビル街の鳥瞰写真を示しても、決して東京都の「存在」を示し理解したことにはならない。

東京とは物質的構造を基盤とした社会的構造体であり、その存在は時空的システム性を帯び、首都圏という一大都市システムを形成しているのである。

 

ちなみに、コロナ禍の昨今、都心を脱出して郊外や地方にオフィスや住居を移転する人が増加している。

私などは2004年に既に東京23区の危険性を察知して、25年間住んだ東京都を捨てて、さいたま市に移住したが。

これも私の深い情報と存在の理解に基づく行動である。

さいたま市に住んでいてもいつでも都心に片道30分前後と300~700円あれば出れるしね。

 

                そうだよにゃー


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哲学B1 文章講義(第3回目)

2020-09-26 06:21:12 | 哲学

テキストの第1章は「情報の本質への問いと存在論」というタイトルとなっている。

この章を理解することはテキスト全体の理解の重要な基礎となるので、しっかりとその内容を把握してほしい。

 

第1章の構成は次のようになっている。

 はじめに

 1 素朴な情報概念を乗り越えること

 2 情報の本質へと迫る道

 3 存在への問い

 4 存在の意味への関心

 5 情報と存在

 

このように第1章では「情報」と「存在」ないし情報概念と存在論の関係が論じられている。

しかし、初心者は早くもここで躓く。

情報と存在の関係など考えたこともないからである。

情報と知識の関係なら考えたことがあるだろう。

しかし、情報と存在の関係には思いも及ばなかったはずである。

 

情報の存在論的意味を考えるということは、素朴な情報概念を乗り越えるためになされるべき、最初の関門なのである。

情報、というよりinformationは、「場」としての存在と深く関係し、我々の存在と世界の存在の根拠の一部となり、同時に我々の知識や認識の基礎となるのである。

それゆえ、情報は存在とともに「場」という性格を帯びている。

このことは本章でまず宣言され、本テキストの至る所で視点を変えつつ、多角的に論じられる。

それゆえ、まず本章の「はじめに」から1と2までをよく読み、できる限り理解することが求められる。

今週はそれに集中してほしい。

 

「はじめに」は以上に述べたことと重なる内容となっているが、自己の内面と外面、あるいは主観と客観の二元対置を乗り越えつつ、情報と存在の関係を問わねばならない、と宣言されている。

この主観-客観対置図式の乗り越え、というのは非常に重要で、本書の趣旨を理解するための鍵となる事柄なので、銘記しておいてほしい。

とはいっても、すぐにその意味を理解できるものでもないので、とりあえず頭に叩き込んでおいてほしいのである。

 

次に「1 素朴な情報概念を乗り越えること」では、「誰もいない山奥の森で木が倒れるとき音はするであろうか」という存在論的問いにひっかけて、通俗的情報概念を乗り越える姿勢が示されている。

多くの人は「音がするはずはない」と主張するであろう。

しかし、これが躓きの元なのである。

そういうときに「音がするはずはない」と考える人は、「存在するとは知覚されてあることだ」という浅い存在理解に毒されている。

この存在理解は一見正しいように思われるが、よく考えると間違っていることが分かる。

たとえば、外出中には家はないのだろうか。

外出中、我々は直接自宅を知覚していない。

というか、できない。

しかし、我々は自分の家の存在を確信して行動している。

テキストでは行動して「しまっている」ということが強調されている。

これが味噌である。

つまり、理解の鍵である。

 

このことは情報の物理的実在性ないし自然的実在性ということと深く関係するので、注意が必要である。

 

「2 情報の本質へと迫る道」では、人間の意識的知覚作用に先立つ情報の自然的実在性の説明を経て、情報の「場」的性質を理解することの重要性が説かれている。

形相的情報という意味でのinformationには秩序形成、形相付与、自己組織性という働きがあり、これは我々人間が意識によって一般的意味での情報を知覚する以前の「情報場」を形成しているのである。

そして、このことを理解することが、情報の本質、つまり形相的情報としてのinformationの内実に迫ることを可能にするのである。

ちなみに、「場」は単なる空虚な空間ではなく、関係の網の目を含み、エネルギーの時空間的布置による独特の秩序を内含している。

この「場」のなかで、諸々の存在が生まれ、情報の伝達がなされるのである。

このことはまた後で別の視点から何度も説明される。

 

以上、少し難しく感じるかもしれないが、とりあえず大まかな論述の流れは把握しておいてほしい。

次回は第3節以下について説明します。

 

                 にゃるほど


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哲学B1 文章講義(第2回目)

2020-09-22 09:08:01 | 哲学

今日はテキストの序の内容とそれに関連する話をする。

 

テキスト『情報の形而上学』は副題が「新たな存在の階層の発見」となっている。

序では、この本の主題と趣旨を簡潔に述べている。

要するに、この本は、なぜ「情報」という現象を哲学的に深く論じようとするのか、そしてその際どのような方法を用いるのか、について説明しているわけである。

その際、後で何度も強調されるが、日本語の「情報」を英語のinformationに置き換えて、あるいはそれに遡って理解することが肝要だと述べられている。

 

英語のinformationはラテン語のinformareに由来し、後者は「形相付与」ということを意味する。

「形相付与」とは、物事に形態と秩序と整合的システムを付与する存在論的働きであり、古代ギリシアの哲学者アリストテレスのエイドス(形相)概念に淵源する。

我々は情報の本質を理解する際に、知識やメッセージという心的ないし主観的意味ばかりに着目しないで、この秩序形成の原理という面に注意しなければならない。

そうでないと軽薄な情報概念理解に終わってしまう。

 

序の書き出しでは、現代が高度情報化社会であることに触れつつも、そこにおいて情報の真の本質が見失われがち、だと指摘されている。

そして、少し先では、上に述べたこととの関連で、現代の分子生物学におけるDNAという情報物質に着目するよう促している。

これは情報が単なる心的現象ではなく、物理的現象であり、物質の組成や形態形成の原理となるものだ、ということである。

これをまず理解してほしい。

 

しかし、情報にはやはり知識やメッセージという常識的意味も属していることを無視はしていない。

情報は心的側面と物理的側面の一体二重性から成り立っているのである。

それゆえ、我々はアリストテレスのエイドスだけではなく、プラトンのイデアの概念の重視しなければならない、と説かれている。

また、このことは心身二元論の克服と重なり、現代の心の哲学ないし心脳問題の雄・チャルマーズの「情報の二重側面理論」への着目が促されている。

また、それに関連して「経験」という現象の重要性について触れられている。

情報の存在論的本質を知るためには、主観と客観の分離以前の純粋経験に遡る必要があり、この純粋経験は心的でも物的でもない中性的存在なのである。

これは少し難しい概念だが、本文で改めて詳しく論じられ、そのときよく分かるようになるであろう。

 

序ではまた雪の結晶とかベローソフ・ジャボチンスキー反応のような化学反応における整合的秩序の時空間的構造形成について触れられている。

こうした具体例は理解の端緒として役立つので、ぜひ記憶にとどめておいてほしい。

 

情報の深い理解はまた「自然」の本質についての理解にも役立つ。

自然の秩序については、本文で改めて深く論じられるが、自然を雑多な物質の複合体としか理解しない姿勢は、情報の形而上学においては排除されるのである。

 

とにかく、自分の頭の中にある、常識的情報概念を打ち破って、「形相的情報」というinformationの本来の意味に目覚めてほしい。

ちなみに、形而上学(metaphysics)とは超感覚的世界についての憶測ではなく、諸科学の成果を集約した上での世界と物質と精神と生命、つまり全存在の原理の探究である。

 

以上のことを踏まえて、序を最低二回は読んでほしい。

次回は第1章について説明し、二回に渡ります。

 

わくわくするにゃ


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哲学B1 文章講義(第1回目)

2020-09-19 06:43:04 | 哲学

春学期に哲学A1を受講した学生も今回初参加の学生も、これから一月末までこの哲学B1の文章講義を思う存分楽しんでほしい。

不幸にも新型コロナのせいで秋学期もオンライン授業になってしまったが、一般教養で200~350人も受講する授業は仕方がない。

アメリカの大学で対面講義を全面再開したら一気に1000人の感染者を出してしまった。

日本ではそれほど出ないであろうが、クラスター発生は避けられない。

特に東洋大学のようなマンモス大学はその危険が高い。

だから、オンライン授業で我慢してほしい。

 

春学期と同様に秋学期もこのブログを使って文章講義を毎週配信していく。

配信の頻度は週1~4回で、平均すると二回である。

土曜日には必ず配信するが、その他の曜日にも一、二回配信する。

その都度読んでもよいし、土曜の夜に一括して読んでもよい。

またブログなのでいつでも読み返せる。

 

前期にはテキストの内容の解説が不足していたので、後期では内容に深入りし、より詳しく説明しようと思っている。

そこで、毎回の文章量ないしページ数も増えると思う。

そして、それに対応した課題を出そうと思っている。

 

春学期はレポート二回と中間試験と期末試験、計四回の課題だったが、秋学期もこれと同じとなる。

テキストはシラバスに載っている通り『情報の形而上学』である。

春学期のテキストが入門書であったのに対して、秋学期の本は専門書に近い啓蒙書である。

タイトル通り、情報の本質を論じた本だが、普通の意味での「情報」とは違う。

これは講義が進んでいくうち、または自分でテキストを読んでいるうちに、自然と分かっていく。

既に前期のテキストの「情報」についての章でその概略は示している。

今回は、それを多角的に深く論じるのである。

 

この本が出たのは2009年だが、その年の授業でテキストとして使ったとき、二人の学生が自主的にレポートを提出してきた。

どちらも優れた内容で字数が非常に多かった。

本当によく理解しており、驚いた。

また、翌年の春、この本の一部が東京都立日比谷高校の国語の試験に出典引用され、問題として使われてた。

要するに、中学三年生でも、大学の新入生でも理解できる内容だということである。

一見、難しそうだが、「情報」という身近な現象を存在論的に深く論じている。

抽象的なようでいて具体的である。

それは読んでもらえれば分かる。

 

しかし、やはり私による解説は必要である。

それをこの文章講義で毎回やるのである。

テキストの概要は直前の記事に書いてある。

前にこのテキストでやった対面式の講義では全体の70%~80%しか扱えなかったが、オンラインでは春学期同様全部消化できる。

ただし、春学期の文章講義では内容の説明が足りなかったようなので、秋学期にはより詳しく説明していこうと思う。

 

実際の内容には次回の文章講義から入り込んでいく。

また、課題の提出様式は前期とだいたい同じであり、レポート二回と中間・期末試験の計四回である。

提出期限の設定もだいたい同じである。

 

そこで、第一回目のレポートとして序と第1章の要約と感想をまず課したいと思う。

それはネットエースに掲示されるので、各自閲覧してほしい。

 

とにかく、今回のテキストは「情報」という身近な現象の哲学的意味ないし存在論的根源を論じており、少し難しそうに思える。

テキストでは何度も英語のinformationに遡って理解しようとしないと、理解の端緒が得られないと力説されている。

前期のテキストの「情報の存在論的意味」の章を読み返しておいた方がよい。

難しいものに挑戦しないと、頭がよくならない。

むずしいと言っても、前出の学生のように講義していない箇所まで自主的にまとめてレポートを提出した者もいる。

なんか、私立文系には珍しい理科が得意そうな学生であった。

論述も非常に正確・緻密で最高点を付けた。

要するに、誰でも理解できるはずなのだ。

 

具体的話を期待する学生はテキストの78ページの図をまず見てほしい。

また、毎回の猫の画像に癒されてほしい。

それでは、実際の内容には次回から入っていきます。

 

また頑張るにゃ

 


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よく売れてる『情報の形而上学』

2020-09-13 17:57:29 | 自著紹介

2009年の4月に『情報の形而上学 - 新たな存在の階層の発見』(萌書房、2700円)という本を出版した。
形相的情報の存在論的意味を問うた本である。
近年の情報学とは一線を画しているが、共通点もある。
とにかく、情報論と存在論の接点を問い求めたのである。
アリストテレスのエイドスの概念を現代に生かそうとする試みでもある。
また、万物の根源を問い求めた古代ギリシャの自然哲学の現代版でもある。
物と心はどちらも情報から成り立っている、ということを言いたかったのである。
心身二元論の完全な克服である。

目次は次の通り。

第1章 情報の本質への問いと存在論
第2章 心身問題と情報理論
第3章 情報と生命
第4章 意識・情報・物質
第5章 社会の情報システムと個人の意識
第6章 自然の秩序
第7章 創発の存在論
第8章 情報の形而上学

これでA5版、231ページである。
普通の情報理論を求めると、読むのに挫折するのでそのつもりで。
創発概念と形相的情報の関係が深く考察されている。

この本は都立日比谷高校の2010年度の入試の国語の問題に出典引用された。



アマゾンのリンク。
http://www.amazon.co.jp/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E2%80%95%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E9%9A%8E%E5%B1%A4%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B-%E6%B2%B3%E6%9D%91-%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/4860650468/ref=sr_1_6?s=books&ie=UTF8&qid=1347363356&sr=1-6


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「叫び」から「フィヨルドに昇る太陽」へ  ムンクにおける自然との和解

2020-09-12 02:10:49 | 哲学

北欧ノルウェーの天才画家エドヴァルド・ムンクは精神を病んでいた。

おそらく幻聴があったものと思われ、それは彼の代名詞ともなっている「叫び」に表れている。

「叫び」は1893年、ムンクが30歳のときに製作され、世界美術史に不滅の金字塔を打ち立てた名作である。

この絵に描かれた場所はフィヨルドのほとりの道であり、ムンクはこのとき「自然を貫く叫び」を聴いたのである。

雲が血のように赤く、畝っているのは、喀血を象徴しているらしい。

ムンクがいかなる精神病に罹っていたかは詳細な記録がないが、幻聴があるとするなら統合失調症が疑われる。

いずれにせよ、ムンクは自己の存在を根底から揺るがすような、強烈な不安を感じたのであり、それは幻聴を伴っていたのである。

そして、この「存在の不安に共鳴する幻聴」に対して耳をふさぐ幽霊のような自画像を、阿鼻叫喚を象徴する血の色を背景にして描いたのである。

ここでは自然と自己は対立している。

自己に救いはなく、自然は脅威の相を呈して威嚇してくるかのようだ。

ムンクはそれをありのままに描いたのだ。

それは心象の風景であった。

しかし、ムンクは16年後の1914年に長年の苦悩から解放され、自然との和解・合一に至る。

それを彼は太陽の光が少ない地域である北欧の生命の源としての太陽の光のみを強調した巨大な壁画として描き出した。

それは「フィヨルドに昇る太陽」としてオスロ大学に寄贈され、現在に至るまで大講堂に装飾されている。

二つの色合いが違う画像でそれを観てみよう。

まさに生命の源たる太陽の光の拡散である。

この光をムンクは自己の苦悩の消滅と自然との和解・合一として描いたのである。

この強烈な光は、一切の対立と否定を止揚し、すべてを肯定する、自然の大生命の弁証法的力を象徴しているのだ!!

私は「君自身にではなく自然に還れ」という思想を創案したとき、ムンクから大きな示唆を受けた。

人生に不安や苦悩は尽きず、人はつい心が折れて、絶望し、悲観し、厭世的になる。

そして自然は敵となる。

これは自己の主観的内面性に囚われ、悪循環にはまったことを意味する。

しかし、我々が自己の内面を脱して、自然へと脱自するなら、不安と苦悩は外界へと放散され、自然の大生命へと吸収されるのである。

これは至福以外のなにものでもない。

それは普通対立するものと考えられている幸福と不幸の彼岸にある自然との合一という至福である。

暗闇と極寒の象徴たるフィヨルドを突き破って上る太陽の強烈な光は、それを象徴しているのである。

 


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やはり星一徹の教育方針は間違っていた

2020-09-01 21:50:07 | 巨人の星

最近、高校の体育科や柔道の強化合宿における体罰ないし暴力が問題となっている。

これらは体罰というより暴力だという意見が大勢である。

また、体罰自体が何の効果もないということが実証されている。

体罰や暴力は上の者が下の者に、支配者が奴隷に、先輩が後輩に、指導者や先生が選手や生徒に、それぞれ有無を言わせずふるうものである。

そこには「鍛える」「根性を叩きなおす」「飴と鞭」といったきれいごとの域を超えた、単なる「ストレス発散」「権力行使」「いじめ」という陰湿さが控えている。

戦中から戦後の高度成長期にかけてスパルタ教育というものがもてはやされた。

その象徴的存在と言えるのが、漫画『巨人の星』に登場する星一徹である。

一徹は名門巨人軍の名三塁手であったが、戦争で肩を壊し、それを補うために魔送球というものを編み出した。

しかし、それを川上哲治から邪道だと非難され、巨人を去り、野球人生を終える。

その後は周知のように飲んだくれの荒れ放題である。

しかし一念発起して、息子の飛雄馬を野球選手として鍛え、巨人の星に育て上げようとする。

これは「自らの夢を息子に託すことだ」と言えば美談で済むが、実際は自分の欲望を息子に押し付けていることに他ならず、偽善である。

息子の自由意志と人格と主体性を無視している。

了解を得ないで強制している。

また周知のように殴る蹴るは日常茶飯事であった。

そして、大リーグボール養成ギブスなるものを強制的に装着させ、飛雄馬を苦しめる。

これ、バネの伸び縮みが筋肉の動きに合わなくて、無効果だと思われるが・・・・

いんちきだ!!

まあ、それはいいとして、とにかく一時もてはやされた一徹のスパルタ教育は単なる自己満足、家庭内奴隷制度、エゴイズム、偽善にすぎなかったのである。

それが今度の体罰・暴力問題でますます明らかとなった、と言えよう。

私は『巨人の星』をリアルタイムで見た世代であるが、そのときは小学生から中学生にかけてであった。

しかし、高校生になって自我の目覚めを経験し、自己や世界や人間存在について深く考えるようになったとき、星一徹の偽善が見えてきた。

私が高校を2年で中退したことは前に書いたが、そのとき何度も説得にやってきた担任の教師と、『巨人の星』のことで議論した。

担任の楠明雄(慶應文卒)は、星一徹の教育方針を肯定し、星親子が二人で頑張って夢を実現したことを評価した。

それに対して、私は、高校の規則やスパルタ教育を批判しつつ、星一徹が飛雄馬を破滅に追いやったことを批判した。

おい楠、お前は間違っていたぞ!!

それと、大学時代、星一徹の教育方針を高く評価していた奴ら、お前たちも間違っていたぞ。

悔い改めろよ!!

コメント (1)
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旧日本軍 幻の超大型爆撃機 富嶽

2020-09-01 08:48:19 | 社会・政治

第二次世界大戦中、日本軍が陸海軍共同で計画した超大型爆撃機があった。

それは「富嶽」と呼ばれ、あのB-29をはるかに上回る巨大な戦略爆撃機であった。

それによって日本軍はアメリカ本土の爆撃を狙っていたが、結局は計画倒れに終わった。

1943年から制作のための工場の建設を開始したが、翌年、資材・経費・技術力の壁に突き当たり、あえなく頓挫した。

しかし、完成は十分可能であったと思われ、もしそれが実現したら、戦局は変わっていたであろう。

何と、ドイツと共同で富嶽によるアメリカ本土への原爆投下の計画さえあったのである。

 

富嶽の全長は45m(B-29の1.5倍)、全幅は65m(同1.5倍)、爆弾搭載量20トン(同2.2倍)、航続距離は19400km(同3倍)、最大速度は780km/hであった。

その雄姿を見てみよう。

まずプラモデルの絵柄から。

次にプラモデルの完成体。

左右に三機ずつ、計六機のダブルプロペラエンジンを搭載している。

次に掲載するB-29の姿と比べると、その巨大さと迫力が分かると思う。

まるで大人と子供、大型車と軽自動車ぐらいの格差がある。

旧日本軍おそるべしですね。

最期に檜山良昭『大逆転! 幻の超重爆撃機「富嶽」』から貴重な画像を載せます。

 


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