今回は第1章の第3節「存在への問い」について説明する。
今期は一回の講義で扱う範囲が非常に短いこともあるので、全体としての回数が増える。
週4回ぐらいになることもあるだろう。
ちなみに、前回の講義の後に付加した記事「福岡大学ワンダーフォーゲル部」の動画は観たかな。
前回の講義と関係するので、よく観ておいてほしい。
さて、今回の「存在への問い」についてだが、最低二回は読んでほしい。
その際、「存在」という概念のもつ「場」という性格と、関係的性質にまず注意し、それからテキストで述べられている「物在」と「事在」の区別を理解してほしい。
さらに、「事在」が「システム在」と言い換えられていることに着目してほしい。
そして、このことが存在と情報の関係へと連なる重要な存在理解であることを学んでほしい。
我々は普通、何かが存在するというと、「物在」を連想する。
例えば、この部屋の中に机があり、その上に花瓶がある、というような「ある」の理解である。
これは特定の直接知覚される空間の中にはっきりと指さし確認ができる個物が「在る」ということであり、最も素朴な存在理解である。
前回出てきた「存在するとは知覚されてあることだ」という理解もこれにあたる。
しかし、「存在」とはそんなに単純なものではない。
「存在」の深い本当の意味は、上記の「物在」の知覚と理解を可能にする、存在現出のための先行的「場」を意味するのである。
これがまた「情報場」という現象と結託して、我々に個物や諸事態の現出とその知覚とその存在意味の把握を可能にする先行的枠組みを形成するのである。
以上の説明では抽象的過ぎて分からない、という人は、この節に出てくる「ケンブリッジ大学」と「東京都」のシステム的存在性格についての説明をよく読んでほしい。
我々は普段、何気なく「東洋大学」とか「東京都」という言葉を使って、その内実と存在について分かったつもりになっているが、実はその事在的ないしシステム在的存在性格については何もわかっていない。
薄々気づいてはいるが、それを明確に説明することはできない。
ケンブリッジ大学にしても東洋大学にしても、机の上の花瓶のようにその存在を明確に指し示すことはできない。
一見できそうでできそうだが、できない。
東洋大学はいくつかのキャンバスに分かれており、その距離はかなりある。
白山キャンバスの建物を指さして、これが東洋大学だ、と言っても完全な定義にはならない。
そもそも君たち一人ひとりが「東洋大学」の一部なので、学生・職員・教員のすべてが「東洋大学という存在」に含まれ、さらに卒業生や歴史も含まれるのだ。
東京都もテキストに書いてある通り、神奈川都民・埼玉都民・千葉都民をも含む一大都市システムとなっており、その存在性格は流動的で拡散的である。
東京都庁や東京駅や銀座や新宿といった都の象徴、あるいは都心の高層ビル街の鳥瞰写真を示しても、決して東京都の「存在」を示し理解したことにはならない。
東京とは物質的構造を基盤とした社会的構造体であり、その存在は時空的システム性を帯び、首都圏という一大都市システムを形成しているのである。
ちなみに、コロナ禍の昨今、都心を脱出して郊外や地方にオフィスや住居を移転する人が増加している。
私などは2004年に既に東京23区の危険性を察知して、25年間住んだ東京都を捨てて、さいたま市に移住したが。
これも私の深い情報と存在の理解に基づく行動である。
さいたま市に住んでいてもいつでも都心に片道30分前後と300~700円あれば出れるしね。
そうだよにゃー