心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

ヤマハはこういうバイクを構想していた。

2022-04-28 22:24:39 | バイク ・ 自動車

ヤマハは1974年頃、次のようなバイクを造る計画があったらしい。

ホンダGL1000に似た水平対向四気筒水冷だ。

排気量はエンブレムから750ccと分かる。


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落雷の自然美

2022-04-12 22:29:07 | 美学

落雷は実際間近で体験するとものすごく怖いが、写真で見るとこの上なく美しい。

それは自然放電が夜空に描いた蛍光線、光線画である。

4種類の落雷の画像を見てみよう。

うつくしい・・・・・

自然の電気というものはなんと芸術的であろうか。

美は自然の至る所にあるが、落雷の美というものは比較的気づかれにくいものである。


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ジェット戦闘機の機能美

2022-04-12 10:33:29 | 美学

ジェット戦闘機は美しい。

その美は「流線型の飛行体の機能美」ということに尽きる。

「工場萌え」という写真集があるように、機能の集積体としての工場に美を見出す人が増えている。

機能美は形相(eidos)の現れなのであり、美と機能的整合性の融合性を示唆している。

また、ジェット戦闘機の機能美は飛行中にさらに光り輝く。

それを3つの戦闘機のそれぞれの飛行アングルで見てみよう。

機体の色もそれぞれ別のものを選んだ。

いやー、ジェット戦闘機って本当にいいですねー。

これほどシャープな機能美は他に類を見ないものです。

まるで機械が生きているようですね。


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東京六大学の由来

2022-04-10 21:47:24 | 受験・学歴

東京六大学と言えば、老若男女のほとんどが知っている我国の有名大学のグループである。

その内訳は、東大、早稲田、慶応、立教、明治、法政である。

これらはすべて在京の総合大学であるが、よく優秀な名門大学のグループと誤解されている。

それでも完全に間違いとは言えないが、実質は違う。

単に首都圏の大学野球リーグの一グループを指しているだけなのである。

そもそも東大と明治、立教、法政を同列の名門大学という人はいない。

早慶ならまだしも、その他の三大学は、はっきり言って東大目線で言ったらFラン(俗な意味で)である。

ちなみに、勉強が一番できる東大が六大学リーグ戦で毎回のごとく最下位なのは有名だ。

そもそも東大が、その他の五大学と一緒になって野球をやっていることに違和感がある。

東大は完全に場違い、仲間外れである。

それではなぜ、東大が六大学リーグに居座っているのだろうか。

その理由をうまく説明しているものが、ヤフー知恵袋にあったので紹介しよう。

 

「早慶戦」を起源とする東京六大学野球は、東大が加盟するまで早慶明法立の5校のリーグ戦が行われていました。
大正末期に明治の近所にある中央大学に声をかけたが、中央は白門と称し法律では有名な大学だったので、「野球などにうつつを抜かす時間はない」と言う理由で断った為、小石川区(現文京区)にある東洋大学に声をかけたのである。東洋大学の前身は東洋哲学館と称していたほどで有名な大学であった。当時世間は『中央の白門』と『東洋の哲門』と言うほど有名だったらしい。中央大学と同じ理由か定かではないが、東洋も断った。
それらの理由から、本郷区(現文京区)にある東京帝国大学(現東京大学)に声をかけたら帝大は快諾した。これにより早稲田・慶応義塾・明治・法政・立教そして東大の六校がそろうことになったのである。まもなくこの六校は名称を『東京六大学野球定期戦』となり、春・秋にリーグ戦形式の試合を行なうことになって現在に至る。
(追記)
現在の野球部に繋がる学生組織が成立する以前、東京五大学野球連盟(現東京六大学野球連盟)から東京帝国大学等とともに新規加盟を打診された経緯を持つが、当時東京帝国大学との民法典論争の中にあり、これを理由に辞退したと云う説もある。何れにせよ加盟は打診されていた。

 

これを読むと、中央と東洋はうまい話を逃したことになる。

今からでも野球の強い東洋を東大の代わりに六大学リーグ戦に入れたらどうだろうか。

六大学リーグ戦が盛り上がることは間違いなかろう。

 


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自分が興味のあることを徹底的に勉強することは「努力」とは言わない

2022-04-05 02:34:35 | 日記

よく、勉強家のことを努力型と言う人がいるが、間違いである。

天才を努力に対置し、勉強や訓練なしに先天的能力で成果を出す人と考える人が多いが、これも間違である。

努力とは、本来自分がやりたくないことを我慢して、粘り強くやることを意味する。

才能がない分野や興味がない分野でも、親や先生や上司や教授に忖度して、頑張ることを努力という。

それに対して、権威や慣習や出世や世間体を無視して、先生や教授に反抗して、自分が信じ、関心が強いことをとことん問い詰め、探究の虫になることを努力とは言わない。

それは、パチンコや釣りやギャンブルや恋愛や写真やその他の趣味に寝食を忘れてのめり込むことが「努力」と言われないのと同じである。

努力↔天才という図式は事の一面、しかもほんの小さな一面しか見ていない、軽薄な観点を示している。

しかし、天才に天性の勘が働くことはたしかである。

その勘に駆動され、オタクとなって、教授や上司の指示・命令、世間や学界の慣習を無視して、我が道をひた走るのが天才である。

だから、天才はそれぼと大学の名前にこだわらない。

受験勉強は努力以外の何物でもないからである。

たとえ、それに俗な意味での天才性を発揮しても。

 

後になって天才と言われる人は・・・・・

という言い回しはこうした事情と関係している。

灘や開成には天才はいない。

ちなみに、スポーツや芸能関係でよく「天才」と呼ばれる人がいるが、これはすべて比喩的意味であり、本来の天才は、学問、科学、文学、芸術に限られる。


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