心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学B1 文章講義(第24回目)

2021-12-18 06:46:37 | 哲学

今日は「2 自我崩壊とは何か」について話す。

 

我々は激しい動揺や不安や緊張を抱えたとき、自分が自分でないような感覚に襲われる。

自分が誰だか分からなくなり、ワー、と叫びたくなる、あのパニック的錯乱意識である。

自我崩壊とはおよそこのような現象と思ってもらってよい。

しかし、このような動揺、錯乱、パニックは一時的なものであり、興奮が収まれば消えてしまう。

繰り返す人もいるが、その都度一過性のことが多い。

しかし、これが慢性化し、習慣化すると、自殺に至る。

あるいは、精神病院に救急搬送されるような興奮・錯乱状態になる。

こうなると、精神疾患の範疇となる。

 

前回挙げた笹井芳樹の場合は微妙で、精神疾患とは言えないが、精神的動揺の持続による自我崩壊とみなすことはできる。

まぁ、普通に鬱状態の悪化である。

何度も取り上げる芥川龍之介の場合は「神経衰弱」という精神疾患であり、それもかなり悪性のものであった。

特に不眠がひどく、暗い意識、嫌な記憶、将来への強い不安、発狂への恐怖、身体の不調への懸念といった悪玉の意識ファイルを熟睡によってデフラグできない状態が何年も続いた。

これでは、自殺が唯一の救いとなってしまう。

芥川の例は「自我崩壊」の鮮烈さを強烈に示している。

 

この節の中に「自我なんか、心なんかなければ、悩むこともないし、自我崩壊して自殺することもないであろうに」という言葉がある。

ここに精神というものの意外な悪玉性が隠れている。

精神と自然。

最終的に重要なのは自然の方である。

だから、私は繰り返し「君自身にではなく、自然に還れ」と主張するのである。

 

この節の最期の文章は極めて重要なので、引用しておこう。

 

「自殺を悪とみなし、自殺者が死後地獄に落ちるという宗教の主張を私はけっして認めないし、許さない。自殺は病気や災害による死と同様に自然的災害なのであり、

道徳的に非難される筋合いのものではない。むしろ、精神医学的に対処されるべき疾患の一種とみなすのが本筋なのである」。

 

精神の本質を理解するために重要なのは、宗教ではなくて、精神医学、心理学、脳科学、そして哲学である。

 

そして、「君自身にではなく、自然に還れ」という私の主張を理解するために役立つのは、ムンクの芸術、特に『叫び』から『フィヨルドに昇る太陽』への昇華である。

次の記事を参照。

「叫び」から「フィヨルドに昇る太陽」へ  ムンクにおける自然との和解 - 心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学 (goo.ne.jp)

 

芥川の例はよく考えて、参照する必要がある。

 

       僕もムンクの絵が好きだにゃ。

 

       よく眠ることが悩みを解決するんだにゃ。


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哲学B1 文章講義(第23回目)

2021-12-14 09:39:11 | 哲学

今日から第8章「自殺の臨床哲学 ― 崩壊する自我の自然」に入る。

 

この章は自殺と自我崩壊の関係を論じている。

構成は次の通りである。

 

はじめに

1 自我崩壊とは何か

2 自我崩壊と自然

3 自殺の臨床哲学の可能性

4 崩壊する自我の自然

 

整然とした論理的な構成である。

それゆえ、順を追って熟読すると誰でも理解できる。

ただし、先入見があると、分からないものとなる。

 

自殺と精神病は昔から偏見にまといつかれており、誤解が蔓延してきた。

そこで、自分の中にある先入見をすべて捨てて、白紙の心でこの章を読まなければならない。

 

今日は「はじめに」と第1節について話す。

 

序では自殺が不思議な現象であることを告知している。

そして、それが心身両面に渡る現象であることを強調している。

自殺は一般に病気とはみなされない。

単に精神の弱さや暗さと結びつけられて、非行や犯罪のイメージで理解されている。

精神疾患についても同様で、がんや心臓病や伝染病のように明確な物質的原因がある身体の病気とはみなされない傾向が強い。

あるいは、端的に「病気」ないし「疾患」とはみなされずに、精神の弱さ、人格の歪み、家に何かあった、悪魔憑き・・・・などと憶測される。

「精神異常」という言葉はあるが「身体異常」という言葉はない。

 

こうした軽薄な信念はすべて心身二元論に由来する。

人は身体に起こった病気ならどうしようもないが、精神は自分の自由になると思っている。

それゆえ、精神病は精神鍛錬によって治るものであり、医学的治療の対象などではないと憶測してしまう。

これは極端に見方だが、これよりも程度の低い偏見はほとんどの人の意識に行き渡っている。

要するに、精神病は甘えであり、教育や精神鍛錬によって治すべきものと考えてしまうのである。

 

脳梅毒って知ってるか。

梅毒スピロヘータが脳に侵入して、脳神経細胞を破壊することによって精神崩壊を起こす病であり、百年前には精神病院の入院患者の多くを占めていた。

この病因、つまり精神崩壊、進行麻痺の物質的原因は野口英世によって証明されていたが、それ以前には何と、この病気が心理的原因で起こるものと確信されていたのである。

この例は、精神病の精神主義的理解ないし心身二元論的把握の間違いを示すものとしてよく引き合いに出される。

我々は精神異常という現象に直面すると、まずはそれが心理的原因、精神的原因によって起こるものと考えてしまうのである。

 

ただし、脳梅毒による進行麻痺を含む精神疾患はすべて脳の病変によって説明できるものではない。

それには、やはり精神的ストレス、生活行動習慣の歪み、心理社会的原因が関与しているのである。

そこで、我々は精神疾患の種類によって心と脳ないし身体、精神と物質の間のバランスのとれた理解を確保する必要がある。

 

問題は「自殺」をどう捉えるかである。

自殺は精神疾患の中では鬱病との関連が着目されやすく、我々はそれを安易に鬱病ないし鬱状態と直結させてしまう。

しかし、自殺は基本的には精神的苦悩によるものであり、精神的苦悩は精神疾患でもそうでない場合にも起こるのだ。

ここら辺の区別は微妙だが、よく考える必要がある。

 

テキストでは2014年に自殺した再生医学の世界的権威・笹井芳樹の例が取り上げられている。

笹井はたしかに精神科に通院し、抗うつ薬と抗不安薬を服用していたが、自殺と精神的不調の原因は、精神疾患そのものではなく、例の精神的ストレスである。

ここら辺をバランスの取れた見方で理解することが肝要である。

 

とにかく、この章では自殺と自我の関係を自然主義的に捉え、崩壊する自我の自然を論じている。

自殺は人間の本質、心の本質、生命の本質を理解するうえで非常に重要な現象であり、単なる暗いイメージに流されてはならない。

前章で取り上げた四人の作家もそうであるし、笹井もそうであるが、自殺した者の中には傑出した人物がけっこういる。

純粋だからこそ、俗物に成り下がらないで、勇敢に自殺するのである。

 

よく、自殺は敗北であり、卑怯な行為だと言われる。

それはお前が俗物で、俗世の欲望と薄っぺらい幸福観に浸されているからだろう。

自殺したら負けだよ、とよく言われるが、単に自分が豚のように俗世の欲望に浸っていたいだけじゃないか。

 

だが、だが、である。

やはり自殺は防がなければならない。

そして、かつてベストセラーとなった『完全自殺マニュアル』のような軽薄な思想を徹底的に叩き壊さなければならない。

この著者は「僕は自殺を哲学的に捉えたくないんです。それを唯物論的に捉えたいんです」と主張していた。

軽薄で中身がない。

 

自殺は心の臨床哲学の観点から自然主義的に捉えられるべき生命的現象である。

心と物質の両側面から理解されるべき人間的ないし生物的行為なのである。

 

 

        僕も猫としてそう思うにゃ。

 

   僕もしみじみと人生の悲哀を感じるときがあるにゃ。猫として人生だにゃ。


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3回目のレポート

2021-12-12 08:42:01 | 日記

3回目のレポートの課題を提出します。

前述の通り、今回のレポートは必修ではなく、選択です。

書きたい人だけ書いてオンライン入力してください。

理由は前に書いてある通りです。

 

内容は、私の新著『哲学的短編小説集』(下)を読み、その中から二つ以上の作品の内容を要約して感想を書く、というものです。

字数は2000~5000字程度。それ以上も大歓迎です。

三つ以上の作品を読んで書いても、もちろんOK。

提出期限は12月20~1月8日です。

 

               頑張って書くにゃ。

 

            短編小説集、面白そうだにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第22回目)

2021-12-11 00:00:25 | 哲学

今日は三島由紀夫について話す。

もうテキストは各自読んでいると思うし、これから読むと思うので、少し敷衍した話をする。

 

この節のタイトルは「狂人の星・三島由紀夫」となっている。

このタイトルは昭和の大人気アニメ『巨人の星』をもじったものである。

このアニメは元巨人軍の選手で野球に挫折した父・星一徹が、息子の飛雄馬(humanの音写である)を一流の野球選手へと鍛え上げ、自分が成し遂げれなかった

巨人軍の星の座を飛雄馬に託した物語である。

次の画像は一徹が飛雄馬に向って「お前は一際でっかく輝く巨人の星となれ」と夜空の星を指さしつつ檄を飛ばしているところである。

 

 

私はこれをもじって三島由紀夫を日本文学界において一際でっかく輝く「狂人の星」と呼んだのである。

また、世界上の狂気の天才の中でも一際でっかく輝く狂人の星とみなされる。

三島由紀夫ほど「天才」、それも「狂気の天才」の本質を体現した人はいない。

彼は極めて知能が高く、才能にあふれ、努力家でもあったが、何よりもその常軌を逸した行動と生きざまは、天才とマニアの深い関係を世界で一番象徴している。

彼ほど「天才と狂人は紙一重」という格言がふさわしい人は歴史上いない。

 

晩年の軍服姿やボディービルのイメージから誤解している人が多いようだが、三島は典型的な秀才であり、高知能と天賦の芸術的才能をもち合わせていた。

三島は学習院の高等科を首席で卒業すると、東大法学部に入学した。

文学部ではなく法学部を選んだのは、父親の影響で官僚になろうとしたからである。

それよりも、彼は数学や論理的思考にも秀で、後の作品にも法科的論理性が表れている。

また、もし理系に進んだとしても優れた業績を遺したであろうほど、頭がよかった。

理数科目が苦手な文学部出身の作家とは一線を画している。

そんな三島が日本で一番尊敬していたのは、東大医学部卒の最高軍医・森鴎外であった。

三島は鴎外の話をするとき、手を合わせて拝むようにしたという。

 

ところで、三島の作家活動は十代前半から始まっており、法学部在学中や、卒後大蔵省(現・財務省)に勤めていたときは、夜執筆活動をしていたのだ。

 

 

(大蔵省から帰宅中の三島)

 

その後、作家活動に専念するために大蔵省を辞職した。

そして、多数の名作を書き上げた。

その中で一際光り輝くのは『金閣寺』と『豊饒の海』である。

『金閣寺』はノーベル賞の候補に挙がった時、最も注目された代表作であり、『豊饒の海』は四部からなる大作であり遺稿となったものである。

三島の代わりにノーベル文学賞を受賞した川端康成は、『豊饒の海』の第一部「春の雪」を読んだとき「これは『源氏物語』以来の日本文学の最高傑作だ」と絶賛した。

また、「本当にノーベル賞にふさわしいのは、先に候補に挙がっていた三島君だ」と言っていた。

 

(川端と対談する三島。二人は一応師弟関係にあるが、実は三島は川端から何も学んでいない。

すべて独創である。天才は先生を必要としないのである。)

 

また、三島の作品は多数が数十か国語に翻訳され、全世界にファンをもっていた。

そして、文学的、芸術的に非常に高い評価を受けていた。

日本に帰化するほど日本好きだったアメリカ人の日本文学者ドナルド・キーンは三島と親友関係にあったが、彼が三島文学を世界中に広めた功績は大きい。

 

(キーンと対談する三島)

 

私も川端やキーン、その他大勢の人のように三島は日本最高の作家、純文学者だと思う。

ちなみに、かれは余技で大衆小説やエッセイも書いている。

 

ところで、誤解が多いが、三島はそのマッチョな外観とは違い、繊細な精神のもち主であった。

そして、その作品は、暗く、変態的なものが多く、オタク的である。

しかし、華麗な文体と緻密な構成は天下一品であり、それは代表作『金閣寺』に端的に表れている。

 

しかし、やはり彼が身体鍛錬に凝っていたことはたしかであり、「肉体こそ不滅だ。精神は死ぬ」と主張していた。

彼は剣道五段の腕前であった。

 

 

ところで、三島はなぜ「魂ではなくて肉体こそ不死」だと主張したのだろうか。

それには彼が偏愛していた谷崎潤一郎の『金色の死』の影響がある。

この作品の主人公・岡村君は三島本人そっくりな変わり者の天才であり、奇妙な芸術観を唱え、肉体こそ芸術そのものだと主張し、箱根の奥にパラダイスを造り、

夜通しの大宴会を催した。

その際、岡村は鍛え上げられた筋骨隆々の肉体に全身金粉を塗りたくって一晩中踊り狂い、最後は皮膚窒息で死んだのだ。

まさに金色(こんじき)の死である。

 

誤解の多い、三島の市谷駐屯地のにおける自決の裏には、実はこの「金色の死」の思想があるのだ。

それよりも、彼は生物学的、精神医学的にみると、常に自死を狙っており、死に必然的に向かっていたのだ。

死によって自己の芸術が完成すると思っていたのだ。

まさに狂気の天才の典型、天才中の天才、マニアの顕現である。

 

(この姿を政治的な観点から見るのは阿保である。これは歌舞伎の一種である。)

 

 

なぜ、三島は「霊魂ではなくて肉体こそ不滅だ」と主張したのか。

それは彼の厭世観、自殺願望の表れである。

精神に対する肉体の重視の背後には「確実に死ぬことができるのは肉体だ」という真理が控えている。

彼は夭折の美学を信条としていたが、これは凡人にはとうてい理解できない心理であろう。

確実に死に、無になるためには、それを可能とする肉体の方を重視する必要があるのだ。

これを批判する凡人は野暮でしかない。

言うまでもなく、三島文学は人類の文化とともに永遠に生きるであろう。

そして、それを可能ならしめたのは、彼の夭折の美学なのである。

 

ちなみに、私は三島を超える自信はある。

 

 


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哲学B1 文章講義(第21回目)

2021-12-06 09:54:00 | 哲学

今日は「3 HUMAN LOST的狂人・太宰治」について話す。

 

太宰治の代表作は『人間失格』である。

この作品は太宰の代名詞となっているぐらい有名な作品であり、とてつもなく売れたロングベストセラーである。

今後も売れ続けるであろう。

人類が滅亡するまで。

 

そして、興味深いことがある。

最近私が考えているのは、太宰のこの作品を人類滅亡と結びつけて再評価できないか、ということである。

 

『人間失格』は好き嫌いが激しく分かれる作品である。

それはその人の感情、人生観、幸福観、価値観、人間観に由来する評価意識であり、多分に情感に左右されている。

私は哲学的にこの作品を評価し、それを楽天的ヒューマニズムに対する警告と受け取り、さらには人類滅亡に結びつけて再評価したい。

 

キリスト教の原罪説や東洋の性悪説やその他諸々の人間中心主義の楽天的価値観を批判する思想がある。

また、人間の尊厳を過度に持ち上げる考え方に対する警鐘も近年、再び主張され始めた。

そして、ここにきて新型コロナ感染症の世界的大流行による人類の危機である。

この状況に自然災害と地球環境の劣化が加わり、人類滅亡の可能性が取りざたされ始めた。

それに対抗する哲学、科学はトランスパーソナル・エコロジーである。

意訳すると脱人間中心主義的生態学、ないし脱利己主義的環境保護思想である。

これに太宰の思想を結び付けてみるのである。

その際、『人間失格』が一番重要なのは言うまでもない。

この作品をただ感情的に読んではならない。

哲学的に冷静に生態学的に読まなければならないのだ。

 

その前に、太宰と精神病と人間失格思想の関係について理解しなければならない。

 

太宰に精神疾患ないし精神障害の傾向があったことはよく知られている。

繰り返す自殺未遂、薬物中毒による脳病院への強制入院、奇行、その他事欠かない。

太宰は腹膜炎の際に使った鎮痛剤の中毒となり、精神に異常をきたし、精神科武蔵野病院に強制的に入院させられた。

このときの悲惨な気分を描いた作品が『HUMAN LOST』である。

日記調のこの作品はそれほど完成度の高くない乱雑なものであり、その後一つの小説へと純化されることになる。

その小説が『人間失格』なのである。

 

精神病は古くから特別の病気として人々から忌み嫌われ、軽蔑と偏見の対象となってきた。

簡単に言うと、精神病者は人間以下、人間失格だというわけである。

私は大学院生の合宿とき、先輩の非常勤講師が教授に対して「先生、精神病者を人間として扱っていいんですか」と訊いているのを間近で耳にした。

そう言われたのは私自身である。

私は昔から奇行が多く、多くの人から精神病を疑われてきた。

それはド素人の偏見、誤解、無知の表出にすぎないのだが、とにかくそう言われていた。

 

ちなみに、この先輩は、アル中であり、その後、暴漢に刺されて、身体障害になり、四〇歳のとき大学を辞めて田舎に帰った。

また、この教授は、その合宿の一年半後に肺がんで死んだ。

どちらも不摂生の典型であり、また精神病に対して古い偏見と幼稚な見解をもっていた。

死んだり、半身不随になったりしたのは自業自得、要するに罰があたったのである。

 

これは一つの例にすぎないが、自称・人間合格者の人間失格者に対する蔑視、非人道的扱いを端的に示している。

精神病者は古くから、「人間の尊厳」の名のもとに蔑視、非難、迫害されてきたのである。

この傾向は大分弱くなったが、今もなお残っている。

太宰の『人間失格』という作品は、この人間合格者の偽善に向けられている。

そして、この偽善が極まると、最終的には人類滅亡に至る、というのが私の考えである。

 

人間失格者の方が人間合格者より偉く、神に近い、という思想を私は他の作品でも論じている。

短編小説集の至る所に出てくる。

それも感情的な発言ではなく、科学的で哲学的な深い思想である。

ぜひ、読んでほしい。

そして、君たちの意識の中に絶対ある「人間合格者意識からする人間失格者、太宰治に対する軽蔑感」が阿呆の感情であることをトランスパーソナル・エコロジー

の観点から深く自覚してほしい。

 

なお、『人間失格』の中に面白い表現がある。

それは、主人公が女と心中して、女だけ死に、自殺幇助罪で警察署に出向いたとき、若い署長から開口一番言われたことである。

 

「おお、これはいい男だ。これはお前が悪いんじゃない。お前をこんないい男に生んだお前の母親が悪いんだ」。

 

太宰はイケメンで有名である。

それでファンになる人は昔から多いし、今でも後を絶たない。

その太宰の美男ぶりを三つのカメラアングル、風情から味わってみよう。

 

放蕩的な太宰(このイメージに流されないこと)

珍しく学術的な太宰(旧制新潟高校での講演会の後で記念撮影)

そして、最も有名な画像、これは人間じゃない、神だ。

 

 


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哲学B1 文章講義(第20回目)

2021-12-02 09:16:22 | 哲学

今日は「2 神経質の極致の狂人・芥川龍之介」について話す。

 

芥川龍之介の名前は「芥川賞」に象徴されるように純文学の鏡であり、日本人で知らない者はいない。

また、非常に病的な人であり、若くして自殺したこともよく知られている。

 

芥川の作品はほぼすべて短編小説であり、短い作品の中に純文学の宇宙を凝縮させたものであった。

そして、彼の生涯もそうであった。

 

芥川龍之介は極めて神経質な人であった。

それゆえ、年中神経をすり減らし、神経衰弱に陥りやすかった。

そして、それが蓄積し、昂じ、ついには35歳で自殺するに至ったのである。

 

神経衰弱とは大正から昭和の初期に使われた言葉であり、現代語で表現すると鬱と神経症のミキシングということになる。

これは疾患と心理的不調ないし精神的苦悩の中間に位置するものであり、明確な精神疾患とは言えない。

芥川の晩年は「煩悶はなはだしい」とか「苦悩が極まって」とかいう類のものであって、よく言われる統合失調症(旧名 精神分裂病、さらに古くは早発性痴呆)の病態を表すものではない。

 

たしかに芥川の実母は統合失調症に罹患し、芥川は幼児の頃、母親から分断されて育ち、母子の愛情関係に恵まれなかった。

また、芥川は母親からの精神病の遺伝を恐れ、狂気の発症を常に危惧していた。

しかし、それは彼の思い過ごしであり、神経質の極致の心性から生じた心配過剰にすぎなかった。

むしろ、そういう神経過敏、心配性、神経質の極致こそが彼の精神病理そのものであり、それが不眠症を核とする神経衰弱を亢進させ、睡眠薬中毒を引き起こし、心身の不調を極めさせ、

彼を自殺に追い込んだのである。

 

後期の彼の作品の多くは、この苦悩、病的体験、恐怖、不安、心身の不調を告白したものばかりであり、それは自分を芸術の題材、あるいは犠牲にしてまで、文学作品として結晶化

しようとする意識を表している。

これこそ、芥川の文学を普遍化したものであり、まさに彼の狂気こそ文学の、芸術の、思想の原動力だったのである。

その根性は天晴なものであり、決して弱さからくるものではない。

 

芥川は病跡学の対象になることが最も多い人である。

彼ほど病跡学の対象としてふさわし人はいない。

ただし、彼を統合失調症とみなすのは軽薄である。

それについてはテキストで説明してある。

 

なお、芥川は「自殺を決意したら、自然が美しいものになった」と告白している。

けだし、意味深長で、味わい深い、趣のある言葉である。

 

芥川の生涯は不幸であったのか。

多くの人はそう思うであろう。

しかし、彼の作品は人類の文化が存続する限り、この世に遺り、世界中で読まれ、多くの作家志望の学生と日本文学専攻の学生、と一般の読者の心に響き続けるであろう。

これは幸福と不幸の対立の彼岸にある「自然の美しさ」にほかならない。

彼が健康であり、神経質の極致でなかったなら、彼の文学は二流以下のものに成り下がっていたであろう。

昨今の芥川賞受賞者のゴミ小説のような三流文学に成り下がったであろう。

 

健康さではなく、狂気、マニアこそ彼の文学を普遍的で純粋なものにしたのである。

 

         純文学の鬼・芥川龍之介


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