少し前にスマホで撮った写真です。
まず、寺院の満開の桜の写真二枚。
次に市ヶ谷の防衛省の電波塔。
かつて登校拒否と呼ばれ現在不登校と呼ばれる生徒がいる。
小学校から高校までのどこかで学校に行くのが嫌になり、そのまま休学になったり退学したりするのである。
理由は「学校になじめないから」「友達がいないから」「集団行動が苦手だから」「とにかく嫌だから」・・・等々である。
実は私も高校のときこれにはまって、ついに一度中退している(サイドバーの「このブログの主」を参照)。
私の時代はそれほど多くなかったが、今では10倍ぐらいになっている。
少なくても5倍にはなっているだろう。
もっと古い時代から学校嫌いの人はいたし、その中には後に天才とか偉人として歴史に名を遺した人もいる。
というか、不登校の中には特異な才能をもつ人がけっこう、いや、かなり多い。
エジソンがその代表であるが、その他学校嫌い、集団行動嫌い、孤独好きの天才は非常に多い。
そうした人たちは、社交下手、コミュ障なので、才能があっても出世できないまま埋もれてしまいがちである。
それではもったいないので、なんとか彼らの才能を生かそうという動きが出てきた。
東大の先端科学技術研究センターと日本財団が協力して、不登校の天才を発掘し活かそうというのだ。
次の記事を参照されたい。
http://www.asahi.com/articles/ASG4B3VHLG4BUZVL004.html
とにかく、日本人は和をもって尊しとし孤独を毛嫌いする、歪んだ精神主義に汚染されている。
精神分析学者・土居健男が主張した「甘えの構造」に浸されて、個人主義と孤独な天才の価値が分からないのである。
教育は集団行動と協調性の大切さ、明るさと積極性ばかり推奨し、不登校児に見られる孤独志向を極端に嫌う。
企業や大学などどこの組織でもこの傾向は基本的に変わらない。
それが日本社会の甘えの構造なのである。
天才は全世界的にこうした傾向になじまない。
特に孤独志向の天才はそうである。
そうした不登校の天才の発掘・援助を本気で始めようとしている東大の先端科学技術研究センターにエールを送りたい。
そして、この姿勢が全国の中学・高校に受け入れられることを期待したい。
ちなみに、大学にもね。
今日は快晴の一日であった。
そこで新しいデジカメで風景を撮ることにした。
桜が散って、代わりに八重桜が咲き、新緑の季節となった。
ハナミズキも満開である。
青空と新緑のコントラストが眩しい。
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9月下旬に出版された『存在と時空』の目次です。
序
第Ⅰ部 存在論
第1章 存在の意味を問うことの意味
はじめに
1. 意味の発生源と存在概念
2. 失われた自己の起源への問いと存在概念
3. 存在の意味を問うことの意味
第2章 存在概念の練り直しと新たな存在論の方法の提唱
はじめに
1. 存在概念の非自明性
2. 言葉による制約を超えるということ
3. 新たな存在論の方法
第3章 存在論と他の分野の関係
はじめに
1. 存在論と時空論
2. 存在論と生命論
3. 存在論と心身問題
4. 存在論と意識哲学
第4章 存在の場所的性格と自己組織性
はじめに
1. 存在と場
2. 生命の自己組織性と存在の概念
3. 存在の場所的性格と自己組織性
第Ⅱ部 時間と空間
第5章 自己存在の時間的ならびに空間的意味
はじめに
1. 時間と時間性
2. 自己存在の時間性
3. 空間と空間性
4. 自己存在の空間性
5. 時間・空間・自己
第6章 生命の時間と存在の時間
はじめに
1. 生命の時間
2. 存在と生成の関係から生命の時間を理解する
3. 存在の時間
4. 生命の時間と存在の時間
第7章 身体の空間性と環境世界
はじめに
1. 一般的な身体概念と生きられる身体の関係
2. 生命と環境世界
3. 生きられる身体の空間性
4. 身体の空間性と環境世界
第8章 意識と存在の関係を時空論から考える
はじめに
1. 内的世界と外的世界
2. 意識と存在
3. 生の円環と時間の矢
4. 意識・存在・時空
第Ⅲ部 存在と時空
第9章 失われた時を求める心と存在の意味への問い
はじめに
1. 一般的な意味での「失われた時を求める心」
2. 後悔の念と過去への関心(還帰)
3. 未来からの逆ベクトル
4. 過去と未来は実在するのか
5. 意識・記憶・存在
6. 失われた時を求める意識と存在の意味への問い、あるいは根源的自然への還帰
第10章 存在と空間
はじめに
1. パスカルの衝撃
2. 存在と空間
3. 存在の意味と空間の質
第11章 時間と永遠
はじめに
1. 時間と永遠の関係についてのプラトンの発言をめぐって
2. 次にハイデガーの発言をめぐって
3. 時間と空間の統合的次元において永遠を理解するということ
4. 時間の矢と生命の大河
5. 新奇への創造的前進と永遠
終章 見出された存在の意味と時空
はじめに
1. 改めて人生論と存在論の関係について考える
2. 改めて失われた時を求める心について考える
3. 存在の意味と「創発」
4. 創発する存在のクオリアの自然学
5. 見出された存在の意味と時空
あとがき
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今、私は覚醒しており、意識をもっている。
もっと厳密に言うと、私自身を意識している。
意識には記憶の機能と予期ないし想像の機能が付帯しいる。
今自己を意識している私は「昨日の私」の記憶を保持し、「明日の私」の在り様を想像することができる。
「昨日の私」と「今の私」と「明日の私」は同一である。
これを通時的自己同一性という。
しかし、時間と存在の関係を熟考してみると、過去と未来は現在ほど「実在性」をもっていないことが分かる。
また、過去と未来では、実在性という性格において前者が勝ることが分かる。
そこで、実在性においては現在>過去>>未来ということになる。
ただし、現在の「意識」においては過去と未来という要因は極めて重要であり、それらに関して実在性が希薄だということにはあまり意味がない。
むしろ、過去と未来という契機があるからこそ、意識が時間的性格を帯び、プロセス的な構造を形成でき、その内容を豊かにできるのである。
「存在」というものを「現在目の前にある物体的存在者」という狭い意味に受け取り、それを「実在性」の指標とするなら、過去と未来の実在性は希薄だということになる。
それに対して、存在と生成を統一的に捉え、実在性というものをプロセス的存在論の観点から捉えるなら、過去も未来も現在と同様の実在性をもつものと理解されるはずだ。
これは「存在と生命」という問題系に直結する事柄である。
さらに、それは「意識と生命」の関係を示唆するものである。
今の私が「昨日の私」のことを想い出し、それを反省する意識の作用は、「明日の私」の在り様への関心から切り離せない。
ところが、物体的に孤立としたものを直接観察することをもって存在を理解しようとする立場からは、過去と現在と未来は切り離されてしまい、「現在」にのみ実在性が認められるのである。
自己も意識も生命もこうした物体的存在観ないし粒子的対象理解から捉えることができない、存在=生成のプロセス的現実性をもっている。
それゆえ「昨日の私」も「明日の私」もその現実性という点においては「現在の私」にいささかの引けも取らない同等性をもっている。
ここで、「実在性」を「現実性」と置き換えだが、両語の根本的意味は変わらない。
しかし、「実在性」と言う言葉は存在論的観念性を帯び、現実から遊離しやすいので、誤謬推理に誘導しやすいという難点をもっている。
それはまさしくホワイトヘッドが言う「具体者置き換えの誤謬」を引き起こし、「存在」からプロセス的生命性を奪取して、空虚な抽象的存在観念に誤導するのである。
また、こうした問題を考える際には時間と空間の不可分性ないし融合性を顧慮しなければならない。
時間を空間から切り離して考えるから、直線的に今点の数珠つなぎの時間系列ばかり連想して、「今はもうない過去」と「まだない未来」から「実在性」を剥奪してしまうのである。
その都度の「今」は、つねに直前の近接過去と直後の近接未来との生成的統合態においてあり、単独で存在するわけではない。
また、それにはつねに空間的広がりが付帯している。
「昨日の私」と「明日の私」についても、その存在論的身分を考える際には、ぜひこうしたことを顧慮しなければならないのである。
日本人の多くは学歴、というか出身大学を気にする傾向にある。
出身大学が難関の名門校という評価があれば、自慢できるから、そうなるのであろう。
実際に高度の学識と教養と技能・技術を身に着けたかどうかではなく、とにかく出身大学のネームバリューが欲しいのだ。
これは親の七光りを利用する二世議員や二世社長や二世芸能人にもみられる姿勢・価値観である。
それに対して、本当の実力、中身、真の才能に価値を置く人は、そんな空しいネームバリューや七光りなど求めない。
特に天才と言われる人はそうである。
天才に大学の七光りなど必要ないのだ。
ちなみに天才は高偏差値の難関大にも中堅大学にも底辺大学にもいる。
とにかく、本物の追求者、求道者、見かけよりも中身を重視する人、そして天才には大学の七光りなど必要ないのだ。