心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

存在するとは知覚されてあることではない。

2012-08-30 21:52:48 | 哲学

バークリーは「存在するとは知覚されてあることだ」と主張した。
これは主観性の形而上学の極北を示す思想である。
極めてケツの穴の小さい存在論である。

「存在」は知覚の対象ではない。
知覚の主体と知覚の対象を包摂する「場」をそれは意味するのだ。

知覚の対象としての存在は、本当は存在ではなくて存在者である。
存在は量子場と類似の性格をもつ自己組織体なのである。


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意識と経験

2012-08-30 21:33:14 | 哲学

ジェームズ、デューイ、ミード、ホワイトヘッドらに共通の思想として、意識が経験を可能なしめるのではなく、経験が意識の基礎をなしているのだ、というものがある。

意識は非物理的な精神現象として受け取られやすいが、経験は物理的事象と密着した行動的出来事として理解できる。
しかし、経験には内面化の動向も付随している。
意識は経験が内面化されたとき発生するのである。
そこで、あくまで経験のほうが意識よりも包括的な上位概念であり、意識に対して優位性をもっていると考えられる。

経験は身体の活動や環境世界の物的事象から切り離しえず、純粋な精神現象として理解することはできない。
経験は単細胞生物から高等霊長類にまで及ぶ全生物に帰属する生命特性ないし生活特性なのである。

ちなみに、経験を遂行しうるものとして「世界」というものを挙げる思想家が何人かいる。
世界が経験の主体である、とはいかなることなのであろうか。

私は前に『情報の形而上学』という著書で、「世界は自己組織化する情報システムであり、物質、生命、心、社会という存在の階層を生み出す原基である」という思想を述べた。
また、経験と情報の関係についても深く考察した。
世界は情報構造をもつ自己組織化システムであり、「生きている」のである。
これは自然有機体説と連携する思想である。

先験的主観性としての内面的意識の普遍的構造から出発しても、物心両義性をもつ「経験」の本性を捉えることはできない。
心的極と物的極を包摂した人間的「経験」と自己組織化する情報システムとしての「世界」の相即関係を基点としてこそ、意識の生命的本質が理解できるのである。


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意識と感覚

2012-08-30 09:04:01 | 意識・心理学

今日も暑い。
暑さの感覚は意識を変容させる。

もともと意識と感覚は密接に関係している。
生物進化における感覚の複雑化とその統合が意識を創発せしめたのである。

暑さの感覚は皮膚から受容される。
その後、末梢神経から中枢神経に伝達され、「暑さの意識」となる。
ここには身体性というものが関わっている。

「暑さの意識」は「暑さの身体感覚の意識」なのである。

感覚は同じものが繰り返されると、記憶に残り、また習慣的身体の機能に刻印され、知覚意識を形成する。
また、異なった感覚の複合や統合は、感覚要素とは別の意識要素を創発せしめる。

人間における自己意識や現象的意識という高度の意識の創発は、生物進化における感覚の複雑化に由来しているのである。


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自我による統一感を伴った心的活動

2012-08-29 15:58:41 | 意識・心理学

ヒュームは自我を知覚の束と定義した。
我々の経験の内容をつぶさに検索すると、見つかるのは個々の知覚内容だけで、それ以外にそれらを統合し統覚している単一の実体的自我は見いだせない。
脳の神経システムをつぶさに調べても結果は同じである。諸々の神経回路とそれらの連結が見いだされるだけで、それらを統制する中央制御室にあたるものは見つからない。

自我はもともと対象化できない先験的主観性から成り立っているので、経験的客観化、対象化の網にはかからないのだ、という考え方がある。
この考えの根本にあるのは、諸々の知覚内容を統覚し、心的活動を統制している「自我」=「私」の直覚である。
それは論証以前の率直な直観から発現してくる。

しかし、あなたは三歳以前や睡眠時、あるいは日常のあわただしい生活の中で、自分の存在など意識していなかったではないか。
立ち止まって考えたからこそ、統覚的自我の存在がクローズアップされただけではないか。

しかし、あなたは自己を意識していないとき、より厳密に言えば、再帰的な現象的意識による自覚作用に捕えられていないとき、生活的経験の下僕だったのである。
しかし、生活的経験は監視者なしにも自動的に職務を遂行できるのである。
それは生命が自己組織性によって形成されていることによる。

自我の統一感、支配感、存在感、自覚作用、統覚作用、これらすべての根底には生命の自己組織化活動が控えているのである。
精神分析学における自我と無意識の関係の考察は、この生命の本質への顧慮が足りなかったのである。


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自我と脳

2012-08-29 15:26:17 | 脳と心

自我と脳の関係は心脳問題の核心に当たる。
自分で自分の身体を動かし、自分だけの記憶をもち、黙して語らない内面的意識をもっている「私」、つまり「自我」は脳のどの部位に局在化されるのだろうか。
直前に言ったように、自我には身体運動を制御する自由意志、自己同一性に裏打ちされた記憶、他人がアクセスできない内面的意識というものが帰属する。
まだあるが、とりあえず身体運動の制御、自由意志、個人的記憶、内面的意識といった複数の要素から「自我」は成り立っている。

身体を欠いた自我はない。
自由意志の担い手ではない自我はない。
記憶との関係を離れた自我はない。
内面的意識を欠いた自我はない。

とりあえず、これが自我の特性である。
これは人間各自が生きていくための自己統制機能の核を意味する。

かつてヒュームは自我を知覚の束と定義し、単一の形而上学的実体としての自我の存在を否定した。
また、ジェームズは経験の主体を実体ととしての自我ではなく経験それ自身であるとした。

哲学以前の我々の日常的感覚では、「私」はたしかに存在し、意識の内奥から自己の身体運動と知覚作用と思考と意志を統制しているように思われる。
というか、文字通りそう「感じる」。
自我は生活の担い手、責任者、取締役として、要するに「生命の本質」の顕現である。

自我と脳の関係を考える場合、自我が複数の要素の集合体であり、単なる自覚作用に還元できないことを顧慮しなければならない。
「私はほかの誰でもないこの私なのだ」「我思う、ゆえに我あり」という自覚が自我の本質なのではない。
自我はもっと多元的なシステムなのである。

脳が並列分散型の情報処理を実行しながら、全体としてのシステムの統一を自己組織化的に達成していることは、よく知られている。
個々の認知モジュールとそれに対応する神経モジュールがシステム的に統合されつつ、最終的に自我による統一感を伴った心的活動を発現せしめるのである。

とすれば、脳神経システムの自己組織化的統合作用こそ、自我の統覚的意識の発現元だと言える。
しかも、脳は身体に有機統合され、環境と相互作用する生活的情報システムである。
また、自我は他者、環境と相互作用しつつ自らの活動範囲を周囲世界に投げ渡す、世界内存在ないし社会内生活体である。

自我と脳の関係をとらえる際には、「単一の実体」とそれに対応する「脳内の神経相関項」の関係に着目してはだめで、もっと多元的な対応関係の考察から始めるべきである。
その際、人間の心的システムの自己組織性(MS1)と脳内神経システムの自己組織性(BS2)の生命的統一性を有機体と環境の関係から捉えなければならない。

自我と脳の関係については、後で詳しく考察したい。


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新著の第二校

2012-08-29 09:47:08 | 日記
来月に出来上がる新著『創発する意識の自然学』の第二校が届いた。
再校が必要ないと言えるほど訂正が少なかったのだが、細かい訂正が数か所ある。
それにしても校正が超楽な今回の本であった。
10月の第一週に書店に並ぶのを期待していてください。

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放下大学院

2012-08-27 20:45:36 | 日記
法科大学院というものがある。
別称ロースクールという。
司法試験を目指すための予備校のようなものである。

禅語に「放下(ほうげ)」というものがある。
放下とは自己を捨てることである。
マイスター・エックハルトの言うGelassenheitは「罪深き我欲を捨てること」を意味する。
そこで、邦訳は「放下」となっている。

法科大学院というものがあるなら、放下大学院というものがあってもいいじゃないか。
大学院に入って自分を捨てる訓練をするのである。

自分で我欲を捨てる訓練をするのはよい。
しかし、他人に「自分を捨てよ」と言うやつは人間のクズである。

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私はなぜ私なのか

2012-08-27 20:38:23 | 意識・心理学

私はなぜ私なのだろうか。
なぜほかの誰がではなくて、この私なのだろうか。
「私であるとはどのようなことなのであろうか」。

このような問いに取りつかれたら、周りの人を見渡してみよう。
みんな、私と同じような、それぞれの「私」をもっているのである。
私は私一人ではない。
私は私独りではない。

私の謎は実は存在しない。

「私」とは脳の自己モニタリング機能として、他者と共同生活をするための「道具」なのである。
しかし、「私」の神秘主義者は、我が強いので、頑として譲らない。
「我が強い」人には真の自己が欠けている。
自然と直結した無意識的自己の機能が弱いのである。


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学歴と学識の違い

2012-08-26 10:56:18 | 受験・学歴

学歴とは出身大学の「名前」である。
大学時代にどれだけ勉強して、真の学識を身に着けたかが問題なのではなく、一流大学、有名大学のブランドを意味するだけなのである。
だから、死ぬほど受験勉強して、大学のブランドをゲットして、あとは遊んで卒業するのである。
そうしているうちに、無名大学の勉強家に追い抜かれてしまう。
しかし、学閥は無能者と怠け者を救済してくれる。
それにも限度はあるが、保身のためにはかなり役立つ。
そこで、下衆な輩は「学歴」確保のために、偏差値信仰のもと、一流大学を目指すのである。
その他のほとんどの国民も同様の価値観を持っている。
誰も「学歴」と「学識」ないし「真の実力」の区別を知らない。
「甘えの構造」にどっぷりと浸かった日本人の心性がよく表れている。


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天野篤教授

2012-08-26 10:24:49 | 医学・医者

先日、天皇陛下の心臓のバイパス手術を執刀した順天堂大学医学部心臓血管外科の天野篤教授は色々と考えさせる存在である。
既に多くの人が彼について語っているが、その中で注目すべきなのは東大医学部vs.私立医大という対置図式である。

天野教授は埼玉県立浦和高校から三浪で日大医学部に入った。
浦和高校は当時東大合格者60人ぐらいの公立名門校である。
東京都の日比谷高校、埼玉県の浦和高校と呼ばれた公立全盛期の卒業生である。
しかし、受験勉強ではさえなく、二浪目まではどこもだめ。
三浪目にようやく日大医学部にひっかかった。
日大医学部は日大では別格の存在である。
旧設の私立医学部で伝統も人脈もある。
外科系、小児科、肝臓病、脳神経外科救急には定評がある。
しかし、巷の素人さんの評判はよくない。

板橋区に住んでいたころ、日大病院の近くをサイクリングしていた時、主婦の会話を小耳にはさんだ。
「東大病院なら間違わないけど、日大病院だと間違いそうじゃない」
「でも日大病院のほうが患者の権利守りそうね」

これが内実を知らない平均的市民のイメージである。
「間違わない」って、入学試験の話してんじゃないぞ。

それが今回の天皇陛下の手術である。
東大病院の心臓外科の教授は、自分の腕に自信がなかったので、近くの順天堂大学のゴッドハンド天野教授にお頼みした。
実は東大病院とその関連には天野教授をしのぐ人が一人もいなかったのである。
国立、旧帝を見渡しても、誰も日大出身の天野さんにはかなわない。

ネットの掲示板では医学関係人が辛辣な意見を述べ合った。
東大医学部は国の税金を湯水のように使い、いざとなると私大出身の私大教授に泣きつくのか、という意見が多かった。

これで「東大病院なら間違わないけど、日大病院だと間違いそうじゃない」という素人の意見が、実情を知らない単なるイメージであることが明らかとなった。
実は東大理Ⅲには偏差値が高いという理由だけで受験・入学する者が多い。
医学部というものはそういう理由で入るところではない。
病気で苦しんでいる人を救おうという崇高な意志をもって入るところなのである。
天野さんは、父親が心臓病で死んだことが、医学部入学の動機だったのである。
そして、大学入学後、卒後、死ぬほど勉強して、手術の腕を寝ないで磨いた。
彼こそ医師の鏡である。

国民はそろそろ学歴や学閥ではなく、実力というものの重要さに気付くべきなんじゃないのか。


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ジェームズとホワイトヘッド

2012-08-24 21:04:26 | 哲学

アメリカ最大の哲学者ウィリアム・ジェームズは哲学科を出ていない。
彼はハーバート大学医学部出身である。
学位は医学博士。
哲学の教育は一度も受けておらず、独学である。
心理学もそうである。
それでアメリカ一の哲学者となった。

イギリス最大の哲学者はアルフレット・ノース・ホワイトヘッドである。
彼はロックとヒュームを抜いてイギリス最高の哲学者である。
彼もまた哲学科を出ていない。
彼はケンブリッジ大学理学部出身で、専攻は応用数学と理論物理学である。
ただし子供のころから人文的古典に親しみ、教養豊かであった。

英米最大の哲学者がどちらも哲学科を出ていないのは驚異的である。
二人は偉大な科学者にして哲学者であったのだ。
これは現代におけるアリストテレスの再来である。

もともと経験主義の哲学の元祖はアリストテレスであった。
しかしアリストテレスは万物の根源を問う形而上学の創始者でもあった。
経験論でありながらロマン主義の資質ももっていたのである。
ジェームズとホワイトヘッドも経験の宇宙を説く形而上学者であった。

医学と物理学と生物学を統合しつつ、帰納的形而上学を築き、万物の根源を問うことは哲学の究極である。
その際にも経験論的節度は守らなければならないのである。


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スプーン曲げと財産放棄

2012-08-23 21:50:27 | 哲学

学部生の頃、友人と「スプーン曲げと全財産放棄するのとではどっちが難しいか」という議論をしたことがある。
「スプーン曲げ」というのはかなり通俗的な例だし、「全財産放棄」にも神秘性は全くない。
そこで、一見この問いには深い意味がないように感じ、難しい問いかけには思えない人が多いであろう。
それでは「超越論的自我」や「現象的意識」や「唯一無比の」や「実存」といった哲学者お好みの概念が脳内の神経ファイルに過ぎない、という意見を参照したら、どうであろうか。
これらの概念を好むこと、ないしはそれらを非物質的で超自然的次元に引き込む姿勢は、何か超常現象やオカルトに興味をもつことと似ていないであろうか。
ためしに、これらの概念を好み、唯物論や自然主義を批判する人に、「貧しい人のために全財産を放棄した人、ないしその行為を尊敬しますか」と聞いてみるがよい。
鼻で笑って貶すか、都合悪そうに話をそらそうとするであろう。
ある学生が、「脳と精神の相関を研究する哲学というものは、愛がホルモンによって左右されるだとか、我々の人生が遺伝子によって決定されるだとか、いう唯物論になって、哲学ではなくなってしまうんじゃないですか」と問いかけてきた。
彼は、哲学に非唯物論的なものを期待していたのである。
また彼はウィトゲンシュタインに興味があったらしい。
その彼に私が「ウィトゲンシュタインが貧しい芸術家のために全財産を放棄した」ことを話したら、彼の反応は、「それは・・・・・」と戸惑いを示して、話を逸らしたのである。
実は、彼の第一志望校は東大の文Ⅰだったのである。
もちろん落ちたが、東京の小石川出身で家は裕福らしい。

スプーン曲げと全財産放棄では難しさの質が圧倒的に違うのである。
そして、スプーン曲げに興味をもつものは、ほぼ全員慈善行為や禁欲主義的理想主義や古典的博愛主義に興味をもたない。

そこで質問である。
スプーン曲げと全財産放棄とどっちが哲学的であろうか。

答えはノーマン・マルコムのウィトゲンシュタインの伝記に書いてある。


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死後の世界についてのカテゴリー・エラー

2012-08-23 21:24:53 | 哲学

カントの死後、我々は彼の偉大な哲学的業績の恩恵を受けている。
カントの死後の世界は、彼が「視霊者の夢」において批判した霊界ではなく、我々が生きるこの地球上の人間社会である。
その中で、『純粋理性批判』は読み継がれているのである。
カントはもはや存在しない。しかし、彼の偉業は人類の文化遺産として人間世界に生き残っている。
カントそのものが不滅の生命を保っているのではなくて、単に彼の思想が文化遺産として存続しているだけなのである。
しかし、古くからある人間の思考習慣は、彼の魂は彼の死後も我々の心に残り、生き続けている、と信じる。
これが転じて、彼の肉体は死んでも彼の魂は生き残る、という誤謬推理を引き起こすのである。
我々の脳内の一時ファイルにすぎない「彼の想い出」が、いつのまにか「不死の霊魂実体」に置き換わってしまうのである。
これこそ、死後の世界に関するカテゴリー・エラーに他ならない。
我々は、プラトンやデカルトやフィヒテやフッサールの死後、彼らが肉声で直接我々に語りかけてこない、という厳粛なる事実を直視しなければならない。
そもそも、ウィトゲンシュタインも言ったように、私の魂が肉体の死後永遠に生き続けたとして、それによって「生の謎」は何ら解決しない。
よく想定される死後の生も実は現在の生と何ら形式の違いはない。
相変わらず、物理的時間と空間の形式は同じなのである。
手が三本になるわけではないし、上下左右という形式や色彩が全くなくなるわけではない。
通俗的な死後の世界ないし霊界は幼稚な願望投影以外の何物でもない。
真の超越は、悪無限としての無終局的時間を超えた「現在の生の充実」として垂直の方向性をもっているのである。


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いのちのかなしみ

2012-08-22 21:38:51 | 書評

アマゾンのマーケットプレイスで注文していた、河原ノリエ『いのちのかなしみ-私のカラダの情報は誰のものか』春秋社が届いた。
新品同様の綺麗な本だった。
しかし、定価の半分である。
この本は装丁がよい。

少し読んでみたが、後で感想を述べよう。

生命論は私の哲学の重要な契機である。
また、臨床哲学というものを提唱しているので、その点でも河原さんの本には興味があった。

ただし私の臨床哲学は、かなり臨床医学や生物学や脳科学の知見を導入した、科学哲学的なものであって、鷲田清一や木村敏のやっていることとは一線を画す。
いずれにしても「いのち」の意味は深く考えなければならない。


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今日も暑い

2012-08-22 07:46:27 | 日記
今日も暑いな。
今年は9月も暑いらしいし。
しかし夏風邪が先週の土曜日に完治したので、気分はいい。

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