今CATVで『太陽にほえろ』のスコッチ刑事殉職編を放映している。
現実世界でも31歳で自殺した沖の画像をまた貼っときます。
三枚ともスコッチ刑事を演じたときのものです。
昭和の超イケメンとして永遠に日本芸能史に残るでしょう。
今CATVで『太陽にほえろ』のスコッチ刑事殉職編を放映している。
現実世界でも31歳で自殺した沖の画像をまた貼っときます。
三枚ともスコッチ刑事を演じたときのものです。
昭和の超イケメンとして永遠に日本芸能史に残るでしょう。
大学教授を小ばかにし、アカデミズムを嫌った太宰にしては珍しい写真を二枚紹介します。
まず一枚目は新潟高校(旧制)での講演の際の記念撮影の写真。
昭和15年(1940年)のものです。
次に同年に東京商大(一橋大)で行った講演の写真。
演題は「近代の病」となっており、黒板には「完全人」「無報酬」の文字が書かれています。
「無報酬」は最初「無償」と書いたものを直したものでしょう。
「近代の病」とはいかにも太宰らしい演題ですが、報酬を全く期待せずに善行に励む「完全人」を求めつつ、
世間の偽善の前で無力に崩れ去る様子は、「走れメロス」から「人間失格」への経路が示しています。
* 画像は『新潮日本文学アルバム 太宰治』(新潮社)から転載したものです。
『人間失格』のあとがきは「この手記を書き綴った狂人を、私は、直接には知らない」という文章で始まる。
そして「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・・・・神様みたいないい子でした。」という文章で終わっている。
『人間失格』は『HUMAN LOST』と密接に関係している。
太宰は鎮痛剤バビナール中毒で精神病院に入院させられた。
そこでの惨状を描いたのが日記形式の『HUMAN LOST』である。
これを読むと、太宰が精神病に偏見をもち、精神病院に入院したことを人間としての恥と思っていたことが分かる。
これは太宰の愚見であり、明らかな思想的な程度の低さを表している。
彼は文系の秀才であり、文学の天才ではあったが、科学音痴であったようだ。
精神病は科学的見地から理解されるべき身体と脳の病であって「人間としての恥」などではない。
この点で太宰は思い違いをしていた。
しかし、『人間失格』に見られる人間の偽善と俗物性への批判精神は優れており、その文学的象徴化の才能は天下一品である。
そして、実は精神医学は科学であると同時に「人間理解」という実存主義的側面も持っているのだ。
それは障碍者や社会的弱者への理解と愛情に裏打ちされたものであり、通俗的道徳や処世訓的倫理を超えている。
精神病者は「人間失格」の烙印を押されることが多い。
特に昔はひどかった。
精神病者への愛情と脳病理への科学的アプローチは臨床精神医学の両輪であり、決して切り離せないのである。
この点で、精神科医が太宰から学ぶものはおそろしく多い。
実際、太宰が好きで取り上げる精神科医は多い。
我々には人の不幸を喜ぶという普遍的心理傾向がある。
しかしそれには個人差があり、単なる妬み、羨望の段階から誹謗中傷、迫害といった嫌らしい段階にまで及ぶ。
人の成功や幸福を羨みつつも、現在の自分のささやかな幸福や楽しみで満足できる人は、他人の「不幸」をあからさまに「喜ぶ」ことはない。
せいぜい、「彼に比べたら自分はまだ幸せな方だ」と自分を慰める程度であろう。
それに対して、他人の不幸を積極的に喜ぶ人は、悪人というより偽善者の傾向が強い。
他人の不幸は、やはり積極的に喜ぶべきものではなくて、さりげなく「気の毒に思うべき」ものなのである。
この「さりげなく」という点が重要である。
というのも、押しつけがましい援助や慈善行為は偽善者の専売特許だからである。
私の大学時代の同級生で「人の不幸を喜ぶ」傾向が非常に強い奴がいた。
彼の性格は粘着気質で、些細なことを気にかけ、それをいつまでも根に持つ傾向がものすごく強かった。
彼は実家がキリスト教関係で自らも信者であり、唯物論を極端に嫌っていた。
つまり精神や心は物質とは別次元にある神聖なものと考えていたのである。
その彼が、嫉妬深く、他人の不幸を喜ぶという醜い心の権化だったのである。
どうやら、精神主義的心身二元論は醜い心の産物であるようだ。
天才と変人は紙一重というよりは一体です。
天才の中でも作家の中には特に変人・奇人が多いのは周知のことです。
次のまとめを参考にしてください。
http://matome.naver.jp/odai/2127105157538503901
優れた小説、独創的な作品を書くためには世間の常識に囚われていてはだめです。
自分の本能の赴くままに生き、才能をいかんなく発揮するのが天才というものなのです。
2002年のミルコ・クロコップvs.ヴァンダレイ・シウバの試合前のにらみ合いです。
ある人はこれをプロの殺し屋(ミルコ)と街の不良(シウバ)のにらみ合いと評しました。
もともとにらみはシウバのトレードマークだったのに、ここではミルコの冷徹な殺気に圧倒されてます。
http://www.youtube.com/watch?v=l_EexEAVAzo
シウバびびって目が泳いでます。
小谷野の『もてない男』と『美人好きは罪悪か?』を読んだが、笑えた。
小谷野は東大出身らしく頭がピーマンだなー。
ピーマンとは中身がなくてスカスカだという意味。
もてない男は美人なんか好きになるなよー。
今日デジカメで撮った植物と風景をupします。
この時期よく見かける鮮やかな黄色の花です。
黄色の美しさを余すところなく表しています。
次は藤です。
日が当たって輝く、綺麗な藤色ですね。
大宮競輪場と大宮第二公園を結ぶハナミズキ並木道です。
盛りが過ぎていますが、心和ませる道です。
ここら辺に住むのは、楽園の中に住むのと同じです。
次はまた黄色の花。
山吹の花です。
山吹色という独特の黄色です。
絵具にちゃんと山吹色ってありましたよね(他、群青色とかw)。
竜巻か原爆雲のような形ですね。
これは私の自宅の近所の盆栽園です。
モアイ像の群落みたいですね。
いやー、埼玉(大宮近辺)ってほんとに植物が豊富ですね。
大学に入ったら自主的に勉強する姿勢を身に着けなければならない。
講義に出て内容を理解し単位を取得するのは最低限の課題だが、それだけでは足りない。
自ら読みたい本を探し出し、多読・熟読するのである。
これがなければ大学に入った意味がない。
また、ある講義に出てみて、最初、難しそうだなーとか合わないなーと感じてもすぐに投げ出さないで、じっくり聴いてみることである。
とにかく自分の無知を自覚しなければならない。
「無知の自覚」つまり「知への愛」(philo-sophy)こそ学問への入り口なのである。
ちなみにphilosophyという英語は哲学って訳されてるけどね。
ところで、大学では一年で約12科目の授業を選択して受講するが、それ全部に力を入れる必要はない。
力を入れる科目と手を抜く科目を分けるのである。
大学の先生は高校の先生と違って、学生のそういう姿勢に対応してくれるので、手を抜ける講義の勉強の代わりに自主的勉強を行うのである。
力を入れる科目はとことんやるし、手を抜ける科目はほどほどにやるのである。
ただ講義には出席しろよ!!
自殺の原因に借金苦が占める割合は高い。
たしかに、多額の借金は人を追い詰め破局に至らせやすい、と容易に想像できるが、借金そのものが自殺にまで追い詰めるわけではなさそうだ。
というのも、借金苦で自殺した人の記事を読むと、100万円とか500万円という額の人が多く、もっと多額の借金を抱えていても平然としている人もいるからである。
1億や30億の負債を抱えているのに、平然と豪遊を繰り返している芸能人や元経営者はいっぱいいる。
なぜ、こういう差が出るのであろうか。
それは借金による自殺の原因が借金そのものではなくて「借金の心理的恐怖」だからである。
借金の額、あるいは返済の目途が問題なのではなくて、借金を抱えた当人のメンタルが問題だからである。
ヤフーの知恵袋などでよく借金苦による自殺をほのめかしているひとがいるが、たいてい100-300万という些細な額である。
しかしメンタルの弱い人にはそれが大変な重圧であり恐怖の的なのである。
自己破産という法的措置すら視野から外れて、ひたすら「死ぬしかない」という心境に落ち込むのである。
それに対して、図太い人は1億であろうと気にしない。
そして、いつしか立ち上がり、年商10億になっていたりする。
借金はまだ残っていてもである。
こういう人を見習えとは言わないが、とにかく心理的恐怖に圧倒されて、絶望するのは愚か者の選択であるとしか言いようがない。
まぁ、そういう人はもともと度胸があるから億単位の借金を作るような事業に手をだし、巻き返す自信があるからそうなんだろうけど。
それにしても心理的恐怖は人の判断力を大きく歪ませるよね。
2011年の東日本大震災の際の南三陸町の津波の映像です。
自然災害の脅威をけっして忘れないようにしたいものです。
また、この地の被災者の心情を慮りたいものです。
昨日から雨が降っており、この時期としては極めて気温が低い。
最高気温が11度って、2月下旬並みである。
ただし朝晩の気温は冬と違って高めである。
とかく雨の日は気分が沈みがちとなる。
これは万人に共通の普遍的意識である。
たまに変わった人がいて、雨の日の方が好きだよ、とか言う。
作家の有島武郎は雨の日が好きだった。
そして、季節では秋が好きだった。
彼は躁鬱病の傾向があり、繰り返す抑うつ期に悩まされていた。
しかし、こういう人は実は沈んだ気分の方が落ち着くのである。
だから雨の日や秋が好きだと言う。
私は、やはり晴れの日が好きで、季節では春が一番好きである。
先週の木曜日は晴天で最高気温は24度と初夏のような一日であった。
その日は自宅から12km離れた川越までサイクリングして、爽快であった。
その日は前の日の疲れが残っており、遠出はやめようかと朝思ったのだが、昼前に自転車で走りだすと一気に解放感が広がった。
雨の日は気分が狭窄して、少し気がめいるが、今日はむしろ楽しい。
晴れの日に活動した後にはこういう日もあった方がいいのだ。
ちなみに、雨の日がとくにありがたく思うのは、連日猛暑の夏のオアシス的な一日である。
人間の意識と心模様は天候と気圧から大きな影響を受ける。
しかし、その影響は受け取る側の体質や気質によって、あるいはその日のコンディションによって大きく変わってくるのである。
「存在」とは何であろうか。
「存在する」とは何であろうか。
「存在するということ」と「存在するもの」は違う。
我々が生きているとはどういうことであろうか。
人間の生命に意味はあるのだろうか。
私が生きているとはどういうことだろうか。
私の生命の意味はあるのだろうか。
「存在する」ということと「生きている」ということとは似ているか同じではなかろうか、という気がする。
存在と生成の関係は古くから問われてきた。
今存在していると思ったものも次の瞬間には消えていることがよくある。
しかし、その現れては消えるものの連続ないし数珠つなぎそのものは「生成的過程」として一定の時空において「存在」していたのだ。
生成する過程というものは、それ自体自己組織化する事象であり、広い意味で「生きている」といえる代物である。
そして、生成する過程には時間とともに空間という要素があり、時空的な「場所」ないし「場」という性格をもっている。
「存在するとは知覚されてあること」だとか「「存在するとは空間内の一定の場を占めることだ」という存在観があるが、それはもっとも粗雑なものと言わざるを得ない。
「存在」とは知覚の対象でも空間内の一点を占有する物でもなく、それらに先立つ「場」なのである。
つまり、知覚者と知覚対象が出会う包括的場、空間の占有以前の空間性を用意する先行的場なのである。
そして、その「場」は自己組織性をもっている。
つまり生きているのである。
こうした存在の場所的性格と自己組織性があるからこそ、我々は存在の意味や自己の生命の意味を問い、誤って知覚対象や空間内の一点の占有に心を奪われ、それを「存在」と誤認するのである。
ちなみに、仏教でいわれる「空」というものは、相対的な有と無の相克から生まれるもので、意味のない概念だと言える。
通俗的な存在観や物質観に囚われ、それを乗り越えるという全く意味のない努力から生まれた虚概念、それが「空」なのである。
真の存在は、有と無、色と空の対立以前にある、純粋情報(pure information)の自己組織化的な活動であり、それは時空的「場」という性格をもっているのである。
心の哲学(philosophy of mind)は現代英米において主流となっている哲学であるが、実は古代ギリシャから現在に至るまで西洋の哲学においてずっと受け継がれてきたものである。
この哲学の原型はプラトンの対話編『パイドーン』において語られるソクラテスの心身関係と自由意志に関する見解のうちにみられる。
ソクラテスは、善の理想を志向する人間の自由意志は、身体の生理的過程の因果的決定論を超越するもので、非物質的精神性という性格をもっているのだ、と主張した。
プラトンの対話篇に登場するソクラテスの思想はプラトンによって脚色された部分があるので、どこまでがソクラテス自身の生の主張だが分からないが、これに類したことをソクラテスが主張したことは間違いない。
とにかくソクラテスとプラトンは、唯物論を否定する精神主義者であり、身体の生理的過程と精神の自由意志を別の存在次元に置く二元論的思想をもっていたのである。
そして、この心身二元論的問題設定のうちに心身問題の発生根拠があったのである。
心の哲学は基本的に心身問題を論じるものであり、この点が心理学とは異なっている。
つまり、単に心の機能的性質を説明するのではなく、それが物質とは別次元のものであることを主張する超自然主義的傾向をもっているのである。
しかし、心の哲学には自然主義的で心理学や生理学と連携する傾向もある。
この自然主義的傾向の元祖がかのアリストテレスである。
彼の『心とは何か』(peri psyches,de anima)は、心の哲学と心理学の西洋で初めての体系的叙述であった。
これ以降、西洋の心の哲学は精神主義的二元論と自然主義的科学主義の二潮流に分かれることになる。
なお、アリストテレスは「心と身体が一つであるか二つであるかと問うてはならない」と主張し、心身問題の疑似問題性を逸早く見抜いていた。
彼によれば、心は実体ではなく、身体の生命的構成原理、つまりその形相であるとみなしていたのである。
それに対して、近代における心身問題の刷新者デカルトは、心を思惟を本性とする非物質的実体とみなし、身体から独立のものと考えた。
これはソクラテス=プラトンの精神主義の焼き直しである。
デカルト以降、心と身体、精神と物質の対立をどう考えるかが心の哲学の中心問題となり、様々な見解が出された。
イギリス経験論は基本的に自然主義的で、心理学と連携する傾向をもっていたが、ドイツとフランスの哲学は形而上学的性格が強く、精神主義的であった。
もちろん例外もあるが、基本的にこうした傾向に分裂していた。
この思想的対立は現代英米の心の哲学にも受け継がれ、心身問題に関する見解の相違を生み出している。
なお、現代の心の哲学における心身問題の取り扱いは、脳科学の進歩に合わせて、心脳問題中心となっている。
心の機能のうちでは特に「意識」に焦点が当てられ、それをめぐる心脳問題が展開されている。
意識と脳の関係をどう考えるかという点で心の哲学を四大陣営に分けると、還元主義、機能主義、現象論、ミステリアニズムとなる。
還元主義とは要するに唯物論であり、意識の働きと質をすべて脳の神経生理学的過程に還元しようとするものである。
機能主義とは、意識と脳の関係とコンピュータのソフトウェアとハードウェアの関係から理解しようとするものである。
現象論とは、意識の主観的特性をその現象性において捉え、脳への還元を否定し、それと性質的に区別されるべきものとみなす立場であが、旧来の精神主義や実体二元論とは違って、自然主義を放棄してはいない。
ミステリアニズムとは神秘主義ではなく不可知論を意味し、意識と脳の関係は否定するどころか積極的に肯定するが、その関係の仕方が人間の知性では絶対に解明できないとする立場である。つまり、ちょうどナマコに物理学が理解できないように、人間の脳は自らの意識と脳の関係を理解できない、と主張するのである。
これら四つの立場をすべて顧慮して、壮大な意識の哲学を構築しようとする者もいる。
私がまさにそれで、「創発する意識の自然学」という意識の根源学を提唱している。
私が影響を受けたのは、アリストテレス、ジェームズ、ホワイトヘッド、ミード、デューイ、チャルマーズ、サール、デネットなどである。
チャルマーズに関しては、彼の専売特許と言われる「意識のハード・プロブレム」よりは、精神と物質の共通の源泉を「情報」に求める「情報の二重側面理論」から強い影響を受けている。
この理論はラッセルの中性的一元論を焼き直したもので、ジェームズの純粋経験の概念と類似性をもっている。
また、デューイの『経験と自然』からも強い影響を受けた。
とにかく、意識の上位概念として「経験」を想定するとこが重要で、「意識が経験を構成するのではなく、経験が意識を可能ならしめる」ということを理解することが肝要である。
そして、ヘーゲルと類似の「意識の経験の学」を構築するのである。
意識はさしあたって、その感覚的直接性と現象性と機能性によって感じられるが、次第に「自己のもの」として自覚され、自己意識として感じられるようになる。
さらにそれが自己固有のものではなくて、君や彼や我々みんなに共通の普遍的意識、つまり理性として感じられるようになる。
これが意識の経験の学、つまり意識の感覚性から形相性へと高まる意識の自己組織化的生成の自己経験なのである。
なおヘーゲルの言う理性は、アリストテレスが言うヌースと同じで、世界精神、宇宙霊魂というものと関係してくる。
これを脱神話化して、現代の宇宙論や物理学や情報理論やシステム論と対話しつつ、万物の根源をinformation(理性=精神=形相=情報)と規定し、そこから意識の脳の関係を非二元論的に捉えることが、心の哲学の最先端の課題であると言える。
*参考文献
『心の哲学への誘い』 http://blog.goo.ne.jp/neuro-philosophy/e/868e4ccd2cb67b4ba991b744d50afa40
『意識の神経哲学』 http://blog.goo.ne.jp/neuro-philosophy/e/053a58373d37f506906740819eb75588
『創発する意識の自然学』 http://blog.goo.ne.jp/neuro-philosophy/e/8be31a386d016c69de23129a629f54e5