心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

橋下徹と桜井誠の喧嘩

2015-12-28 00:55:23 | 動画

橋下徹という人と桜井誠という人の喧嘩がようつべにupされていたので紹介します。

迫力あります。

面白いです。

怖いです。

で、笑えます。

https://www.youtube.com/watch?v=SiMCVCxiOiQ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おもしろい猫の絵

2015-12-12 10:58:58 | 日記

先週アマゾンで来年のカレンダーを買った。

一昨年から毎年買っている『ナーゴの猫たち』である。

これは写真ではなく絵による猫のカレンダーだが、とても質が高い。

写真よりもイラストの方が猫の動きや特徴をよく表せるのだ。

たとえば、次のようなもの。

「に゛ゃーあ に゛ゃーあ に゛ーゃーあ」という鳴き声の文字化がおもしろい。

「に」に濁点を打つなんて。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根源的時間は三つの時制を超越している

2015-12-09 09:33:46 | 哲学

時間の根源あるいは根源的時間は、過去・現在・未来という三つの時制を超えています。

それは絶対的現在でもなければ永遠の現在でもありません。

過去と現在と未来を包摂する一つのプロセスとして、空間とも融合性をもつ形で、一切の実在の根本を形成しているのです。

つまり、根源的時間は存在の原理、万物の根源なのであり、それは周知のように「時-空」として世界の基幹であります。

まさに道元が言うように、「有は時なり」なのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間と永遠

2015-12-09 09:32:04 | 哲学

ハイデガーは1924年の講演『時間』の冒頭で次のように述べている。

 

  「時間が、その意味を永遠において発見するならば、時間は永遠から規定されねばならず、しかしそのためには、

  ひとは - 永遠から時間へという - 筋道を自由にできたり、永遠を知っていたり、了解していたにちがいないのです」。

 

普通、「永遠」という概念は「終わりのない時間の持続」と理解されている。

これは「永遠」の最も通俗的な概念である。

「不老不死」とか「霊魂の不滅」とか「死後の世界」という観念は、すべてこの通俗的な永遠概念に由来する紛い物である。

真の永遠とは昔から時間そのものを超越する方向で理解されてきた。

つまり、前方に進む時間の無終局的持続という視点を廃棄して、現在という時の充実において、有限性の中に垂直方向の永遠性を見出そうとしてきたのである。

これによって瞬間が「美」となり、真の永遠性を獲得する。

これは無時間的永遠性と一応言えるが、時間にも通俗的概念と根源的概念があるとするなら、「根源的時間性」即「永遠」という理解において捉えた方が適切である。

この概念は生命の本質、ひいては存在の根源的意味に関わるものである。

生命の本質が「個でありながら個を脱しようとする衝動である」ということ、そしてそれが生命の大河に掉さすことなのは、

自著『自我と生命』『心・生命・自然』『創発する意識の自然学』などにおいてすでに詳しく論じた。

我々各自の人生は短く、一瞬のきらめきをもつだけだが、生命の大いなる連鎖の中で垂直方向の永遠性を獲得し、類まれなる「美」を発揮するときがあるのだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪大医vs.九大医

2015-12-05 15:31:45 | 医学・医者

詳しいことは後で書くが、とりあえず2chの当該のスレに次のような書き込みがあった。

13 :名無しさん@おだいじに:2013/12/09(月) 19:08:53.94 ID:???>>9
戦後途中までは阪大よりも上で医学部御三家だった
今でも阪大よりも輩出教授数は多い
影響力は広島県、山口県、愛媛県にまで及ぶ

どこが阪大よりも上だったかと言うと九大だ。

九大医はブラックな歴史でも有名だよ。

『海と毒薬』=アメリカ兵捕虜生体実験

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『消費税25%で世界一幸せな国デンマークの暮らし』という本を読んだ

2015-12-02 22:34:11 | 書評

日本の岩手県生まれで40年前にデンマークに移住したケンジ・ステファン・スズキの『消費税25%で世界一幸せな国デンマークの暮らし』(角川SSC新書)という本をアマゾンで買って読んだ。

面白かった。

来月から日本では消費税が5%から8%に上がるが、デンマークでは25%である。

デンマークをはじめとする北欧諸国が高税率によって福祉国家を運営していることは前から知っていたが、その詳細に関しては疎かった。

そこで、今回その詳細を知ろうと思って、スズキ氏の新書を買って読んだのである。

まず、医療費と学費がただだということに驚かされた。

また、大学入試がなくて誰でも入れるが卒業が厳しいということも興味深かった。

さらに、いつでも何歳でも別の大学に再入学ができるというのも驚きだった。

前にフィンランドでは日本のような偏差値による大学(学校)格差がなくて、高度の学力を実現させていることを知っていたが、このような制度が背景にあるのか、と納得させられた。

やり直しがきかない日本の大学世界、学歴世界、偏差値信仰とは偉い違いだ。

前の記事でも書いたが、日本における収入格差と貧困問題は深刻であり、生活保護制度の不備から餓死や自殺が相次いでいる。

アベノミクス、というより旧来の自民党のやり口は、大企業が儲けて、結果として経済が繁栄すれば万事よしなので、期待はできない。

民主党はへぼだったが、少なくとも自民党よりは北欧的福祉国家を目指していたと思う。

日本は将来、大震災、少子高齢化、原発事故の危険性など多くの問題を抱えているが、これを経済の表面的繁栄で解決することはできない。

自然との共存の哲学と福祉国家の理念がない限り、ジャパンシンドロームは治療できないであろう。

ちなみにスズキ氏が、デンマークの福祉国家の実現に、大学の政治学科における哲学・倫理学の必修制度が大きく寄与している、と述べていることは傾聴に値する。

日本の政治家に哲学などない。

そもそも日本の政治家や実業家は哲学を虚学として軽蔑し、守銭奴と化している。

なんでも経済と金で解決できると思っているのだ。

それに対して、高税率の北欧諸国は、高い消費税によって貨幣を道具化し、その偶像化を戒め、国民の総所得をむしろ引き上げているのである。

まぁ、簡単に言えば高税率制度によって貧困と格差を無くし豊かな生活を実現しているのである。

日本人はこうした福祉国家制度に賛否両論であろう。

好きなだけ金儲けして贅沢の限りを尽くしたい人には忌み嫌うべきものであろう。

しかし、節度を守れば福祉国家でも富豪にはなれるのだ。

というより、日本で問題なのは、貧乏人を造りだすことによって金持ちの生活を維持しようとする悪しき資本主義と自民党のやり方である。

これをすぐに直すことは不可能である。

しかし、少なくとも北欧の福祉制度を見習いつつ、漸進的に社会改革することはできるであろう。

そのためには個人の意識の変革も必要だが。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自我の内面と外面

2015-12-01 22:33:14 | 意識・心理学

自我には内面と外面がある。

主観的相と客観的相と言ってもよい。

よく「自分の心は自分人にしか分からない」と言う人がいるが、それは必ずしも当たっていない。

そもそもこういうことを言う人は自己の主観的相に囚われて、自己中に陥っているのだ。

自我の本質は内省によっては十分に捉えられない。

他者からの指摘によって初めて分かることもあるのだ。

そもそも自我、「私」という観点は発達の過程で、他者との身体的、言語的相互作用から発生するもので、「他者との関係」から切っても切り離せない。

ところが、自我意識と内省能力が完成した思春期以降の意識の観点からすると、他者と一体であった子供のころの心が過度に主観化され、自我の主観的相のみが際立つはめになる。

しかし、自我は幼児期においても成人期においても常に外部の環境世界からの情報の流入によって賦活され、自我意識の内容にそれは反映する。

ところが、内省優位の主観的自我意識の観点に立つと、それが見えてこなくなるのである。

自我の自覚作用が最初にあるのではない。

その自覚が生じる以前に自己は世界の中に投げ出され、他者と事物と空間に浸され、それらに没頭していたのである。

すなわち、原初的自我は主観的ではなく、脱自的である。

また、内面的意識には常に社会的行動と生活的経験が先立つ。

すなわち、意識がその主観的相において現象的に際立つ前に、世界へと脱自した身体的で生命的な「経験」が機能していたのである。

このように、自我はもともと世界内存在であり、主観と客観が分離する以前の生命的経験である。

そして、ここに自我の内面と外面を包摂する「自我の自然」あるいは「意識の自然」というものがあるのだ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする