心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

半健康という幸せ

2015-06-29 08:42:06 | 日記

先々週から体調不良でだるい。

疲労とストレスが原因だと思う。

まず、頭痛と胃痛から始まり、次第に風邪で熱があるようなだるさが加わってきた。

頭痛と胃痛は先週の土曜日で一応収まったが、まだだるさが残っている。

このような状態は一年ぶりである。

そう、去年の6月下旬(23日頃からだったと思う)もこのような不調に悩まされたのだ。

去年の方がより風邪っぽかった。

もちろん寝込むほどではないが、何もせずに休んでいたくなる。

病気未満の半健康の状態である。

このところ、精力的に活動してきたので、このように無為に時間を過ごすことがかえって懐かしく思う。

今から10年前、つまり2005年以前には年に数回こういうときがあった。

実際に風邪をひいて熱を出すこともあった。

しかし、ここ10年間は悪くても今のような体調不良程度である。

この半健康の状態が逆に鎮静的気分を引き起こし、癒し系となるのである。

普段は休みの日で晴れだとだいたいサイクリングに出かけ、遊びまくって、夕方帰ってきて、風呂に入って、豪快にビールである。

つまり、活動的すぎるくらい活動的である。

こうした活動的な日に、ふと「体調が悪くて自室や図書館で安静に過ごしていたとき」のことを想い出すことがある。

休日に活動的なのは、何かに急き立てられているような感覚がある。

活動的で健康感あふれるのも快いが、弱い体調不良で半健康の鎮静的気分もまた格別である。

妙な味わいがある、と言ってもよい。

こういうときはインターネットやDVDや読書で過ごす。

ネットの掲示板やブログで体調不良に関する記事を読むと、なぜか気が休まる。

こういうときがまた来てくれたのだ、と逆に嬉しくなる。

なお、このようにだるいからといって、むやみに昼寝したりすると夜に熟睡できなくなる。

眠くてもなるべく昼寝をしない方がよい。


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アジサイの季節

2015-06-15 00:01:13 | 日記

今は梅雨の時期。

紫陽花(アジサイ)の季節真っ盛りである。

梅雨と言えば紫陽花なのである。

この花、曇りや雨の日に映えるが、実はもともと日光をさんさんと浴びつつ咲くものらしい。

しかし、梅雨空の癒し系の花であることは、日本人なら誰もが認めるであろう。

昨日と一昨日はともに典型的な曇りの梅雨空であった。

そこで、すかさず気に入った紫陽花をスマホのカメラで写してみた。

まず、東京都北区十条の街路に咲いていた紫の紫陽花。

この色は厳密には藤紫と言える。

次に、埼玉県上尾市の円山公園で写したもの。

この水色の紫陽花は、おそらく最も人気があるだろう。

涼しげに冴えた色は非常に風情がある。

次も円山公園で写したもの。

群生している。

私は、紫陽花の花の色としては、水色→藤紫→紺の順で好きである、

その他、紫、ピンク、白、あるいは白に近い水色などがあるが、これらはまあまあという感じ。

多くの人が水色を筆頭とする青系の紫陽花を好むようである。

おまけとして、オレンジ色の百合の花の写真を載せておく。

曇り空にこの鮮やかな色が映えている。

 

今年の5月は暑かったが、梅雨に入った今月は曇りの日が多く、気温も低めである。

これは鎮静的気分を引き起こす。

その中で紫陽花の青系の色が映えるのである。


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心の哲学の11冊

2015-06-09 17:30:24 | 哲学

英米の心の哲学で最も重要だと思われる11の文献を挙げます。

(1) G・ライル『心の概念』→現代の心の哲学の礎を築いた先駆的作品。デカルト的心観が「機械の中の幽霊」であることを暴露した衝撃の書。ちなみにライルは言語分析的哲学を基点とする心の哲学者であるが、もともとアリストテレス学者であった点が重要である。彼の心の哲学は心を身体の形相とみなしたアリストテレスの『心について』(de anima)を基点としているのである。

(2) W・ジェームズ『純粋経験の哲学』→ライルより先輩のアメリカ一の哲学者だが、ジェームズが提唱した「純粋経験」の概念は心の哲学にとって極めて重要である。ちなみに、西田幾多郎の純粋経験の概念はジェームズのそれと大分違っているので注意すること。西田は主観的観念論、ジェームズは自然的実在論なのだから。

(3) W・ジェームズ『心理学』→ジェームズはハーバード大医学部卒の生理学者であった。その知見を心理学に生かした最初の人物である。『心理学』は意識を中心とした心の機能を脳の神経活動との相関から説明しようとした意欲作であった。しかし、同時に自由意志の問題への配慮から意識の形而上学の必要性を説いている。岩波文庫に訳されている『心理学』は要約版であり、原著のThe Principles of Psychologyは大著なので邦訳がない。ジェームズの心脳相関理論を詳しく知りたい人は、Principlesを読まれたい。なお、ジェームズのこの書は心の哲学の先鋭態たる認知神経哲学の基盤となったものであ。つまり、心の哲学をして認知科学と神経科学、要するに脳科学と対話せしめる基盤となったのである。

(4) H・パットナム『心・身体・世界』→自然的実在論の観点から、また言語分析の手法を駆使して、心と身体と世界が一体となった心観を説いた重要な文献。パットナムが提唱した「桶の中の脳」という思考実験は、身体と環境から切り離された脳が心を生み出す基盤たりえりないことを暗示するものである。つまり、唯脳論、心脳同一説、意識の中枢状態説などの還元主義的思想すべてを論破するものであった。

(5) D・デネット『解明される意識』→デネットはライルの弟子であり、論理的行動主義から機能主義的意識哲学へと発展した経歴をもつ。『解明される意識』は、機能主義に基づきつつもヘテロ現象学という特殊な方法によって、一人称の主観的意識経験の自己欺瞞を暴いた辛辣な書物である。デネットの観点に従うとヒューマノイド(ヒト型ロボット)は心と自我をもつことが可能である。なぜなら、彼によると、意識は脳の並列分散型情報処理の自己組織化活動から創発する非実体的なものであり、自我は物語的重力の中心なのである。つまり、心は脳というハードウェアの上を走るソフトウェアにすぎないのである。

(6) J・サール『心の再発見』→邦訳は『ディスカバー・マインド』となっているが、原題はThe Rediscovery of the Mindである。サールは唯物論と二元論が共に忘却ないし隠蔽してしまった生物学的心の概念を再発見しようとする。そしてその手法は自然主義的である。サールは意識が脳から因果的に産出される生物学的機能であることを認め、それを否定する思想を却下するが、同時に意識の現象的質を消去しようとする還元主義も否定する。意識の一人称的現象性は客観的に観察される脳の生理過程に還元できない存在論的意味(つまり実在性)をもっており、それを消去することなく脳との創発関係を探ることが真の心脳問題の解決になる、と彼は主張する。それが自然だというわけである。

(7) C・マッギン『意識の神秘は解明できるか』→マッギンはネーゲルと共に心の哲学におけるミステリアニズム陣営を代表する人物。ミステリアニズムは神秘主義ではなく不可知説を意味する。マッギンは脳科学の進歩と意識が脳から生まれることを認めつつも、意識と脳の因果的創発関係は人間の知力によっては永遠に説明できない謎だと主張する。ここが、旧来の精神主義的な唯物論批判と違うところである。心の哲学の基本は旧来の精神主義や二元論をさけつつ、かつ神秘主義に陥ることなく、意識と脳の相関を解明することにある。その際、マッギンの思想は監視役として役立つのである。

(8) パトリシア・チャーチランド『神経哲学』→パトリシアは神経生物学の客員教授を兼任する哲学教授であり、心の哲学における還元主義の代表選手である。その思想は過激であり、フォークサイコロジー(民間的心観)を完全に否定して、心的現象をすべて脳内の神経的情報処理の過程に還元しようとする。このような思想は反感を買いやすいが、これを直視することなしには哲学の進歩はないのである。なおパトリシアは女性であり、次にあげるポールの妻である。

(9) ポール・チャーチランド『認知哲学』→原題はThe Engine of Reason,the Seat of Soul:A Philosophical Journey into the Brainである。ポールも妻と同様に還元主義の手法をとるが、妻ほど神経生物学に偏らず、人工ニューラルネットワークによる人間的心のシュミレーションに依拠する計算論的認知哲学を提唱する点に特徴がある。また、脳神経回路におけるベクトルコード化的情報処理に着目している点が脳科学者から高く評価されている。原著は図や写真が多く、楽しんで読める。また精神医学の話もあり、全体的に面白い。

(10) D・チャルマーズ『意識する心』→チャルマーズは心脳問題の舞台に意識のハード・プロブレム(困難で厄介な問題)を登場させた張本人。彼は生物学的な脳還元主義を断固として拒否する。それでいながら機能主義の方法を評価し、強い人工知能(strong AI)の可能性を認める。ハード・プロブレムとは、一人称の主観的意識の現象的質感が物理主義的に説明できないことを主張するものなのに、こうした観点をとる彼の真意は? それは「情報の二重側面理論」という存在論的立場を明確にするためである。彼の哲学は心という狭い枠を超えて万物の根源という存在論ないし宇宙論の基幹に迫ろうとする。意識のハード・プロブレムはそれ至るための伏線だったのである。心も物質もすべて情報からできている、ということを彼は言いたかったのである。

(11) A・クラーク『現れる存在』→原題はBeing There : Putting Brain,Body,and World Together Againである。これは言うまでもなくハイデガーのDaseinを意味する。クラークは英米の認知哲学の第一人者だが、ハイデガーとメルロ=ポンティという大陸の哲学者の影響を受けている点に特徴がある。また、創発概念を重視し、環境へと延び広がった心という観点をとるところが優れている。もともとハイデガーのDaseinはアリストテレスのプシュケーの翻案であり、この点でライルとハイデガーとクラークは結びつくのである。なお、チャルマーズはクラークと協同で「拡張された心」の概念を哲学界に拡張しようとしている。

 最初10冊挙げる予定だったが、11冊になった。

 なお、私の著書『意識の神経哲学』と『心の哲学への誘い』を参照されたい。

 


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