有島は父から相続した広大な土地を北海道ニセコに所有していだが、これを小作人たちに無償で譲渡した。
しかし、生来の抑うつ気質からニヒリスティックになり、交際していた波多野秋子と軽井沢の別荘で心中してしまう。
波多野秋子は中央公論社の『婦人公論』の美人記者として名高く、多くの作家が心ときめかせたという。
たとえば、取材嫌いの永井荷風や芥川龍之介も秋子が来ると知ると、とたんにOKし、そわそわと待ちわびていたという。
しかし、秋子には「魔性の女」という側面があり、日ごろから「ああ、死にたい」と艶っぽく口走り、有島と船橋で一夜を共にしたとき「先生、死にましょう」と誘ったという。
それは心中の三か月前であった。
波多野秋子(1894-1923)の若い時と熟年(といっても20代後半)の写真
有島の農場解放と心中の経緯については、彼の道徳観と自然観とともに『心・生命・自然』の第7章と第8章で考察している
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