心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

過労自殺と企業の責任

2016-12-29 12:25:06 | 社会・政治

前にブラック企業について述べたが、最近「過労自殺」に関する本を読み漁っている。

岩波新書の川人博著『過労自殺』は最も入手しやすい良書である。

これは、これまで二、三回読んでいる。

今月の前半にも久しぶりに読み直した。

そして、アマゾンのマーケットプレイスで過労自殺に関する本を新たに二冊買った。

川人博『過労自殺と企業の責任』(旬報社)とストレス疾患労災研究会編『激増する過労自殺』(皓星社)である。

どちらも安く、かつ内容が充実していそうなので買った。

症例が豊富で大変参考になる。

色々な職種の様々な地位、年齢、性別の人の過労自殺に至る過程が紹介されている。

過労死というと底辺の中小企業、零細企業を連想する人も多いと思うが、実はエリート的階層にも及んでいる。

超一流大企業の社員、医者、公務員、教師、研究者などである。

去年の8月に自殺した理化学研究所CDB副所長の笹井芳樹さんも、うつによる過労自殺の一種と言える。

彼についてはこのブログで前にも取り上げた。

言うまでもなく、ブラックな企業や組織が従業員や構成員を過労自殺に追い込むのだが、自殺する本人には共通する性格特徴がある。

それは「うつ病親和性」という性格類型であり、責任感が強い、几帳面、まじめ、内向的、神経質、頼まれると断れない、などの特徴に集約される。

脳の内部のセロトニンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質の調整が、ストレスにさらされるといとも簡単に破たんする、という生理学的面も指摘できる。

「追い込まれたら逃げればいいじゃないか」「無断欠勤して遊べよ」と言いたくなるが、彼らは自分を追い込んでしまうのである。

もちろん悪いのは、自分を追い込んでしまう彼らではなく、彼らを追い込んでしまうブラックな組織とその幹部たちである。

それは振込詐欺において、だまされる人には全く非がなく、だます人が全面的に悪いのと同様である。

しかし、我々の中には人を犠牲にしてでも楽して金を得たいという影の欲望があり、それは容易には消えないのである。


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川越の地域招き猫

2016-12-19 22:17:34 | 日記

川越のクレアモールには巨大な招き猫が生息しています。

大きさは1mぐらいです。


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川越の街と猫

2016-12-14 20:14:30 | 日記

2008年の9月の始め頃、私は残暑厳しい川越を訪れた。

次の画像はそのときのもので、川越の街とそこに生息する猫が写っています。

まず小江戸の面目躍如の蔵の街から。

人力車が走ってます。

次は時の鐘。

江戸時代的な演劇場があり、入口に巨大な招き猫が居ます。

次に街の至る所に居る猫の一部。

街と一体となった飼い猫(地域猫)なのかと思ってしまう人懐っこさです。

また、古い商店の店先には看板猫が居ます。

ここら辺が川越クオリティーという感じです。

私は年に二、三回訪れます。

 

 


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「増悪」の読み方。

2016-12-11 09:48:51 | 日記

「増悪」という言葉がある。

これを正しく読める人は意外と少ない。

場合によっては10人に1人ぐらいしか正しく読めない。

ところで「憎悪」という言葉もある。

こちらはみんな正しく読める。

「ぞうお」である。

これを間違える人の方が少ない。てゆうか、ほとんどいない。

「増悪」と「憎悪」。

同じじゃないの。「ぞうお」でしょ?って言う人も多い。

違う!!

「増悪」は「ぞうあく」と読むんだ!!

私がこれを「ぞうあく」と読むと、ある人は笑って、それ「ぞうお」って読むんでしょ、と言った。

これこそ「無知の無知」「無知の無自覚」の典型、つまり哲学(philosophy : 知を愛し求めること)の正反対である。

「憎悪」は主観的感情を意味し、「増悪」は客観的状態を意味する。

代表的な用例は次のようなものである。

「私は彼に憎悪の念をもっている」。

「症状が増悪した」(しょうじょうがぞうあくした)。

このように「増悪」は医学、医療の現場でよく使われる。

しかし、研修医の中にはこれを「ぞうお」と読む者がおり、「Aさんの病状が急速に「ぞうお」しました。看護師は至急病室に来てください」と院内放送をして、恥をかくらしい。

 


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下衆の勘繰り

2016-12-03 11:50:29 | 意識・心理学

「下衆の勘繰り」という言葉の意味を知っているだろうか。

「心の卑しい者は下品な推測や邪推をする」という意味である。

たとえば、数学をよく勉強している者がいたとする。

下衆な輩は、彼は数学でいい点を取り、一流大学を目指しているから、そうするんだろう、と邪推する。

これは下衆な輩が、自分ならそうするから彼もそうするだろうと思ってしまうがゆえの邪推である。

実際には、数学を熱心に勉強している彼は、純粋の探究心からそうしているのであって、打算や野心などないのである。

下衆な輩には、純粋な少年の心がなくなっている。

つまり、すれっからしになっている。

これは偽善者にも当てはまる傾向である。

下衆な輩には求道者の心や純粋の探究心など別世界の理解できない事柄なのである。

 


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睡眠中の意識の主体

2016-12-03 10:49:47 | 意識・心理学

睡眠中、我々には意識はあると言えるだろうか。一つの指標は、夢を見ているかいないかである。

夢を見ていないときには意識は現象的様態を完全に消している。しかし、その間にも脳は生理的活動を続けている。

他方、夢を見ているときには、かなり変容したものではあるが意識は現象している。

問題はそのとき意識に「主体」はあるかどうかである。

日常覚醒して行動しているときには、明らかに意識には自覚的主体があり、それが意識的行動を制御している。

しかし、睡眠中夢を見ているときの意識には、覚醒時のような明確な「意識の主体」がない。

あたかも睡眠中の意識の主体は、夢の内容ないし映像ないし出来事を傍観しているかのような感じである。

これには実際の物理的な身体運動の欠如ということが関わっているように思われる。

「夢の中での重力」ということを探索しようとした脳科学者がいるそうだが、夢の中では「重力の感覚」や「運動の感覚」や痛みや快不快のクオリアはあっても、本当の重力はない。

夢の中で空を飛んだり、高いところから落ちるのはそのためである。

また夢の中では時間感覚が変容し、空間感覚も支離滅裂になる。整合的なときもあるが、突如変容するのである。

結局、意識が脳の神経活動(自律的計算)によって産出されるにしても、実際に物理的環境の中で身体運動をしているかどうかによって、その主体感覚は大きく異なってくるのである。


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