心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学B1 文章講義(第12回目)

2021-10-29 19:39:48 | 哲学

今回は第2節「余命を宣告された患者の意識について」について話す。

それにまつわる話をするといった方が適切であろう。

 

がんなどの重病に罹患すると余命を宣告されることが多い。

昭和の時代には基本的に患者にがんであるという告知がなされなかった。

医学に素人の患者に対してはもちろん、医者に対してさえ、明確に「がんである」という告知はなされなかった。

それは昭和の時代にはがんは死病の代表であり、がん罹患=死を意味したからである。

それゆえ、もし患者にがんを告知したら、患者は絶望して自殺するかもしれないと思われていた。

そうでないとしても、ひどく動揺・錯乱したり、自暴自棄になったりするんじゃないか、と懸念され、告知しなかったのである。

例えば、胃がんの患者に対しては「深い胃潰瘍だから、すぐに入院して手術しましょう」だとか、肝臓がんの患者に対しては「肝硬変が進行してます」だとか、

言って取り繕っていた。

 

これに関しては第6章の闘病記についての話が大変参考になる。

それを楽しみにしてほしい。

 

平成時代に入ってからは、がん医学ないしがん医療はかなり進歩し、がんは即死病ということはなくなった。

たしかに恐るべき病気であることはたしかだが、死病という印象は大分弱くなり、多くの症例で寛解に至るようになった。

そして、インフォームド・コンセント、患者の同意を得るための懇切丁寧な説明が発達したので、医師にとって患者へがん告知は義務化した。

告知し、患者の承認を得ないと、手術や抗がん剤治療や放射線治療ができなくなったのである。

 

このように1980年頃までは死と絶望のイメージに直結していたがん告知は、平成以降、比較的平然と受け入れられるようになった。

とはいえ、未だにがんが恐るべき病気であり、死と苦痛のイメージと深く結びついた暗い、暗い病気、あるいは最悪・最凶の人生の出来事であることに変わりはない。

 

この苦悩と苦痛に対して心の臨床哲学はどのように対処できるであろうか。

がんセンターや大学病院や大規模の総合病院には精神腫瘍科というものがある。

最初にこれができたのは、我国におけるがん医療の総本山たる国立がん研究センター中央病院である。

1992年のことであった。

その後、次々に精神腫瘍科ががん医療の拠点病院に設置されていった。

また、特色があるのは、順天堂大学医学部附属病院のある「がん哲学外来」である。

これはこの病院の病理学の教授が創設したものであり、がん患者の心のケアと人生相談を医学的知見を交えて展開している。

面白い。

 

心の臨床哲学と精神腫瘍科(精神科医によるがん患者の心のケア)とがん哲学外来は、ほぼ同じことを志向し、目的としている。

ただ、医学に通じた哲学者がやるのか、哲学的医者がやるのか、心理学的医者がやるのか、の違いがあるのみである。

いずれの場合にも精神の病理と身体の病理の双方に通じている必要があり、片手落ちは禁物である。

がん患者の身体病理と生理学を無視した純粋の精神的治療などありえないのである。

むしろ、身体のケアこそいかなる場合にも第一であろう。

しかし、そのとき患者の「生きられる身体」というものを忘れてはならない。

 

人の痛みが分かる医者、いや人間になりたいものである。

 

テキストでは精神神経免疫学について少し触れている。

「要は不摂生的楽天観を節制的明朗性に転換することであろう」という文に着目してほしい。

免疫力を高めるのはこれなのである。

心のケアと身体のケアは表裏一体である。

 

ところで、この節では触れていないが、患者の年齢によって余命の告知に対するショックの度合いは大分違ってくる。

いかなる年齢でも余命の告知に対するショックは大きいが、高齢者ならある程度は諦めがつくであろう。

しかし、50歳以下の人生まだまだこれからの人の絶望感は強いと思う。

特に、25歳以下、あるいは18歳以下の若者が受けた余命の告知は残酷すぎる。

 

学生諸君は高齢者を「死に向かう人」「死期が近い人」と思っているかもしれないが、実は彼らは「もう原理的に若死にできない幸福者」なのである。

つまり、人生の楽しみを長い間満喫してきた人たちなのである。

それに対して、若さを誇り、それを謳歌する人たちは、実は「若死にしてしまう確率」という爆弾を抱えているのである。

その代表例は前にも触れた水泳の池江選手である。

彼女は白血病を見事に克服したが、一つ間違えば二十歳になる前に死んでいたのである。

本人も死を覚悟していたと告白している。

それ以上に、抗がん剤治療その他の地獄の苦痛について語っている。

 

半分は運に助けられたのである。

もちろん、彼女の生命力と入院先の慶應義塾大学病院の医学力、医療技術の強力さもあったであろうが、半分は運である。

 

学生諸君に言っておく。

若さを謳歌するのもいいが、若死にすることができるという妙な特権、爆弾を抱えていることを忘れてはならない。

健康さの裏に死の不気味な影がいつもつきまとっているのである。

死神が若者の若死に、若者のがん罹患を陰から楽しみに見守っているのである。

 

前にも書いたが、私は若い頃、不健康的で自分が必ず若死にすると思っていた。

それゆえ、青春や若さを謳歌することなく、ひたすら哲学を勉強していた。

そうして、今62歳である。

健康極まる。

そして、私はもう原理的に若死にすることができなくなってしまった。

それに対して君たちは・・・・・・

 

脳天気な楽天観は禁物だよ。

 

           全く持って禁物だ、と僕も思うにゃ。

 

若さの裏側は若死にの可能性だにゃ。リア充的楽天観の裏側は余命の告知だにゃ。

 

次のアニメを読んでほしいにゃ。

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哲学B1 中間試験

2021-10-24 09:46:39 | 日記

哲学B1の中間試験は11月6日(土)に実施します。

試験範囲はテキストの序~第5章です。

前期と同じようにNet-ACEのレポート欄に問題が提出され、テキストを読みながら解答をオンライン入力します。

テキストが電子書籍なので、試験時間に余裕をもたせ、半ば提出期間が超短いレポートのようなものになります。

当日の朝から深夜まで入力できますが、だいたい3時間以内をめどに解答を入力し終えてください。

締め切り後も三日間ぐらい受け付けますが、遅延として減点されます。

 

         頑張って解答するにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第11回目)

2021-10-23 00:58:43 | 哲学

今回は第1節「死に対する意識の相違と人生観」

 

人はそれぞれ各自の人生観と死生観をもっている。

また、死の意識も各人各様である。

しかし、全く別ということはなく、同じような傾向がいつくかある、ということになる。

その中で有力な対立傾向が、楽天観と悲観主義の対立であり、陽気な健康賛美と厭世観の対立と言うこともできる。

 

テキストでも挙げられているように、古くから「死と太陽は直視できない」という格言があった。

楽天的で陽気な活発性を求める人たちは、スポーツマンを賛美し、病気や死を暗いものとして、視野から外し、考えないようにする。

そのために、自己に直面し、対話せざるをえなくなる孤独の場面を極端に嫌い、リア充的生活を求める。

それに対して、孤独好きの悲観的な厭世主義者は、自己と対面することに慣れているので、静かに一人の時間を満喫する。

また、後者は、節制的な場合が多く、低空飛行的な健康を保ち、比較的長寿の傾向がある。

前者は、健康の象徴のように思われているが、実は短命に終わることが多い。

 

スポーツマンは健康の象徴である。

しかし、スポーツは実は身体に悪いのである。

特にトップアスリートになるような身体鍛錬と過剰な運動は身体に悪い。

身体を鍛えることは実は身体に悪いのである。

特に不自然な身体鍛錬、つまり本来人間の生活に必要のない過剰な運動、トップアスリートを目指すような運動は身体に悪い。

それらによって生じた活性酸素が一種の体毒となって細胞と格内のDNAを傷つけ、臓器や血管を損傷したり、細胞のがん化を促すのである。

これはあまり知られていないことだが、知っている人は皆知っている。

しかし、若者目線の人にこれを理解しろ、受け入れろと言っても無理である。

たとえ、理論的に納得したとしても、リア充的生活への欲望は決して消せない。

ただし、その結果は40歳以降に表れることが多いので、40歳以下の現役のときのスポーツ選手の健康で頑健なイメージに押されて、結局は「そんなことないだろ。

健康なのはスポーツマンと陽気なリア充だよ」と自分に言い聞かせてしまうのである。

 

前回も言ったように「まじめな人は長生きする」。

これは実は、孤独好きの悲観主義者が意外にも長生きする、ということも意味している。

これを理解する鍵はテキストに書いてあるが、より分かりやすいのは小説として説明した私の作品である。

後のレポートの課題の一つ『哲学的短編小説集』(下)に「まじめな人は長生きする」という作品が入っている。

これは青森県立青森高校に入学した六人の男女の生活と性格と健康観を参照しつつ、三人の男と三人の女がどういう生涯を送り、何歳まで生きたかの物語である。

こっちのほうが分かりやすいし、面白いので、ぜひ後で読んでほしい。

なお、東洋大学の二部の教育学科に進学した女が一番短命だった、という設定になっているが、フィクションにおける偶然なので、気にしないこと。

別に何大学でもよかったことは読んでみれば分かる。

分かりやすくするために本校を入れただけである。

その他の五人が進学した大学と死んだ齢と生涯の比較も面白いですよ。

 

とにかく、死に対する意識は人生観と密接に関係し、各自の生活態度と生き方と選択に深く関係してくる。

しかし、表面上の健康さのイメージを盲信してしまうと、中年以降きびしい付けが回ってくるのである。

あるいは、中年になる前に死んでしまう。

 

二つの例を挙げておく。

1 急性発血病になり奇跡的に寛解した水泳の池江璃花子選手(19歳で罹患、現在21歳)。

2 新型コロナウイルスのワクチン接種の一週間後に心臓発作で死んだ中日の木下投手(28歳)。

その他では、力士の死亡年齢の低さに注目すること。

 

   僕の寿命は20歳から30歳に延びようとしているにゃ。

 

                 うれいしにゃ

 

 


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哲学B1 文章講義(第10回目)

2021-10-20 08:50:03 | 哲学

今日から第5章「死の意識と心の本質」に入る。

 

この章の構成は次の通りである。

 

はじめに

1 死に対する意識の相違と人生観

2 余命を宣告された患者の意識について

3 死の意識と心(いのち)の本質

 

短い章だが、万人が関心をもつことを主題としているし、読みやすいので、四回に分けて、じっくり解説する。

 

今日は「はじめに」についてだけ解説する。

というより、それにまつわることを話す。

 

序では私自身の人生観と死の意識と健康観と病歴について触れている。

私は若い頃、比較的虚弱で無理が利かなかった。

そして、厭世的で悲観的だったので、自分は多分若くして死ぬと思っていた。

三十代のどこかで死ぬだろうと、大学生のころ思っていた。

しかし、それは実は私の感受性の強さと思い込みの産物であり、実際にはたいした病気もすることなく、低空飛行的な健康は保っていたのである。

 

私は今、62歳になる。

若い頃、危惧した若死にや大病は起こることはなかった。

それどころか、これまでまともな病気をしたことがない。

風邪もほとんど引かない。

この30年間で38℃以上の熱が出たのは、わずか二、三回である。

それも二日ぐらいで治ってしまった。

2018年の2月に久しぶりに熱が出たときは、熱が出たときの対処法を忘れており、起きて外出したり、机に向って仕事をしていたりしたら、いつまでも怠くてたまらない。

そこで、あわてて昔のことを思い出し、次の日の朝まで、食事以外は寝て過ごしたら、治った。

 

私は自分が虚弱なように見えて、病気をせずに健康を保っていることの理由を暗に自覚、理解していた。

それは、子供の頃、家庭医学書に図を使って書いてあった、短命の傾向の人と長寿の傾向の人の対比である。

私は、その対比を長い間、懐疑を秘めながらも、ずっと記憶していた。

なぜ懐疑をもっていたかというと、その本では、体格がよくて肥満気味で活発で精力的に活動する人が短命の傾向にあり、青白い痩せ型の酒に弱く運動嫌いの非精力的な人が長寿の傾向にある、

と書いてあったからである。

体格、恰幅のいい人と虚弱そうな痩せ型の人の絵を対比しつつ。

 

しかし、齢を経るにしたがって、あの本の説が真実であり、真理を述べていることが、だんだんわかってきて、それは確信にまで至った。

それに追い打ちをかけ、決定打を下したのが岡田尊司という精神科医が書いた『真面目な人は長生きする』とその典拠となったH・S・フリードマンとL・R・マーティンの『長寿と性格』

を読んだことである。

それは四年前ぐらいのことであったが、長年推測していたことが、見事に科学的に説明してあった。

やはり、子供の頃見たあの絵による対比は正しかったんだ。

 

これは身の回りの人の例を見てもそのまま当てはまることだった。

健康の象徴のように思われているスポーツマンの寿命は、なんと一般人よりも六年も短かったのである。

これはスポーツマンのうちで一般人並みに八十代まで生きた人を省くと、恐ろしい事実が発覚する。

かなり多くのスポーツマンが40~60歳で死んでいるのである。

また、それ以下でも死んでいるのである。

これは統計学的事実である。

「平均化して六年短い」ということは、そういうことを表している。

 

長い間、会っていないと、旧知の人は激変している。

かつてひ弱だった人が、健康なままなのに対して、バイタリティーの塊のような頑健で精力的な人が著しく老け込んでいたり、弱っていたり、病院通いを繰り返すようになっていたのである。

とにかく、会ってみて、その逆転ぶりに驚く。

最悪の場合、かつての豪傑は死んでいた。

その率は三割以上である。

 

今回はテキストを超えて、色々と語るのでそのつもりで。

 

序にはまた近藤誠という医者のことが書いてある。

『患者よ、がんと闘うな』以来、時代の寵児となった反がん医療の旗手である元放射線科の医師である。

彼はこういう説を唱えて以来、勤務先の慶應大学病院を追い出されそうになったが、数年前に65歳まで講師で通して、定年退職した。

近藤医師の説は賛否両論であり、トンデモという見方が優勢であるが、実は裏がある。

たしかに病理学的にはトンデモだが、がん医療の利権、金儲け主義を批判するという点では当たっているのである。

 

がんを治療すると病院と医師は大変儲かる。

特にも手術と抗がん剤の使用は大変儲かる。

そこで、必要以上にそれをやる。

過剰診断と過剰医療である。

それを近藤は批判する。

それじゃ、近藤は金もうけができないじゃないか、と思われるが、それは違う。

近藤は医師としての収入の数倍から数十倍の金を著書の印税と講演料と現在のセカンドオピニオン外来で得ている。

特に印税は膨大で、年収は長い間一億円以上になっていると思われる。

だから、近藤はがんの過剰診断や過剰医療に手を出す必要がなく、それらを徹底的に批判するのである。

 

ある学会の際にがん医療側の医師たちが、近藤に対して「近藤さんは著書の印税で莫大な利益を得ているんだから、もういいでしょう。私たちをいじめないでくださいよ」と言っていたらしい。

 

しかし、それらを顧慮してもなお近藤医師が糾弾されるべきことを私は強調している。

それは、彼にやまいで苦しむ人の本当の心を知る感受性がないからである。

ここは重要なので記憶しておくこと。

特に後の方の章で、患者の苦しみと死の意識がまた話題となるので。

 

              記憶しておくにゃ。

 

 

               僕もそうするにゃ。

 

 

 

 


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哲学B1 文章講義(第9回目)

2021-10-16 01:04:49 | 哲学

今日は第4章「心の哲学と臨床哲学」について簡略に説明する。

この章については概略的説明で一回で終わりにする。

 

言うまでもなく、この章は心の哲学と臨床哲学の関係について述べている。

そこで、読者はこの関係の論じ方、論述の展開を捉え、要点を把握しなければならない。

 

肝心なのは、なぜ私が心の哲学と臨床哲学を結び付けようとするのか、というその意図を理解することである。

次に私が、これまで存続してきた心の哲学と臨床哲学をどのように改革し刷新しようとしているのか、その趣旨を正確に把握することである。

さらに、私がこの二つの哲学になぜ「人生論的渋みを加味」しようとするのか、ということ、その意向を捉える必要がある。

 

この章を読むと、私が科学的観点と実存哲学的観点の双方を重視していることが分かるはずである。

普通、対立するものとして理解されているこの二つのものをなぜ私は融合し、統合しようとするのか、その意図を理解しなければならない。

また、私は生理学的次元と人生論的次元の接点に目を開かせようとしている。

生理的次元と心理的次元の接点と言い換えてもよい。

なぜ、私はそういことをしようとするのか、その目的意識を性格に把握することが要求される。

 

がんを告知されて頭の中が真っ白になってしまった。

 

よく聞くこの言葉を中心にして、心の哲学と臨床哲学の関係を捉えようとしてもよい。

そうすれば、精神的次元と生理的物質性の次元が決して分離したものではなくて、闘病する本人の生命活動、いや生活において一体のものであることが着目され、

そこから章全体の理解の糸口が得られるかもしれない。

 

とにかく、すべての章を懇切丁寧に解説していても、自分で理解したり考えたりする力が身に着かない。

最小の概略的説明や理解のヒントの付与から自力で読解する姿勢も重要なのである。

 

なお、この章の内容も中間試験にはガッツリ出ます。

また、後の方の章の具体的事例によって、最初分からなかったこの章の意図と趣旨が分かるようになると思います。

 

しかし、今はとにかく自力で分かるまで熟読しようとする姿勢が要求されるのだ。

 

           僕は自力で理解しようとするにゃ。

               僕らもそうするにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第8回目)

2021-10-13 10:29:38 | 哲学

今日は第4節「病の自己言及的意識 ― 医者が患者になったとき」と第5節「人生観と健康哲学」について解説する。

 

まず第4節から。

 

この節で着目されているのは医者自身が患者になったときの意識の変容である。

昔ほどではないが医師は基本的に患者に対して高圧的であり、上から目線となりがちである。

この「上から目線」というのは君たちの中にも感じた人が多いと思う。

私が学生の頃はもっとひどかったが、今でも十分残存している。

 

患者が自分で調べたことや自説を述べると「鼻で笑う」医者が多い。

この「鼻で笑う」というのが、まさに「上から目線」を象徴している。

自分は高学歴のエリートであり、あなたたちの命を守ってあげることができる、そんな俺に素人の君たちが何を言うんだ、意見する資格なんかないよ、というわけである。

私も医学知識が未熟な頃は、こうした医師の態度に逆らえなかったが、長年哲学と医学を並行して勉強・研究してきた結果、だんだんと医者を議論で打ち負かすようになってきた。

医師や看護師いわく「河村さんは大学で何を教えてるんですか。えっ、哲学ですか。それにしてはやたらと医学、生理学、病理学に詳しいですね」。

 

まぁ、私のような例は少ないので、多くの患者が医師の言いなり、奴隷となりがちである。

そのように医師は偉そうな態度の意識高い系であるが、落とし穴がある。

それは医師自身が患者になったときである。

特に、がんなどの致命的な病に罹ったときである。

 

テキストには有名な医療ドラマ『白い巨塔』の例が出てくる。

これは、1978年以来、五回も再制作された傑作として知られる。

あらゆるテレビドラマの中での最高傑作に推されることが多い。

それは特に2003年の秋から翌年の春までフジテレビで放映された唐澤・江口バージョンである。

 

元々小説であったこのドラマのクライマックスは、主人公の天才外科医・財前五郎が、医事裁判で敗れ、自らが末期の肺がんで倒れ、無念のまま死んでいくシーンである。

それよりも、財前が卓越した世界的食道外科、がん治療の専門医としての自己の驕りに気づき、患者の生命を尊ぶ医道の本質に目覚めていく「意識の変容」が重要である。

これはまさしく医師が生命哲学に目覚めることに他ならない。

この節のタイトル「病の自己言及的意識」はその意識変容を指している。

 

人体の構造と生理と病理と病の本質をよく知っている自分が、手の施しようのない末期がんに侵されている。

これは、いったいどういうことなんだ。

自分も素人の患者と同じ死に怯える一つの小さな生命体にすぎない。

このことが分かったのである。

死に際して、それを知りえたのは、親友であり論敵であった哲学的内科医・里見脩二のおかげだと、遺書で財前は述べている。

 

私は1978年の田宮二郎バージョンを2002年にCSで全編観直し、学生に「傑作だからぜひDVDを借りてきて、観るように」と講義中に勧めたら、学生は鼻で笑っていた。

ところが、まさかのことに、その次の年、再制作された唐澤バージョンの『白い巨塔』が、ちょうど学生の冬休みから春休みにかけて放映されたのである。

これは社会現象、国民的関心事になるほど注目され、驚異的な視聴率をたたき出したが、学生の多くも観ていたと思われる。

そこで、2004年の講義の始まりに「財前教授と里見助教授の・・・・」と言ったら、学生全員が顔を上げて目を見開いた。

そして、どよめきと歓声が上がった。

 

鼻で笑った学生はもういなかったと思うが、わずか一年半後、この態度の変容である。

軽薄はよくないよ。

無知の自覚をもち、教授の言うことを信用した方がいいよ。

今からでも遅くはないから、レンタルで三つ出ているバージョンのうち唐澤版から観始めてね。

 

次に第5節について。

 

この節の趣旨は最後の文章に凝縮されている。

 

「いずれにしても、悩みのない健康馬鹿になるよりは、生命に関する深い哲学的意識をもち、医学的知識も交えて自らの健康哲学を模索し、実践すべきである」。

 

人はいずれ死ぬものである。

しかし、自然から授かった生命を価値あるものにするのは、自ら健康哲学を実践し、人生を実り豊かなものにすることである。

しかし、それは悩みのない健康馬鹿になることではない。

医学と哲学を融合されて心身の健康を増進し、たとえ死病に罹ったとしても、自殺することなく最後までもちこたえ、天寿を全うするのである。

それは極端な例であり、だいたいは小さな病気を繰り返しながら、80~90歳の間で死ぬのだが、若くして死なざるを得ない者への畏敬の念とできる限りの援助はしてほしものである。

 

               してほしいものだにゃ。

                僕もそう思うにゃ。

 

 

 

 

 


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哲学B1 文章講義(第7回目)

2021-10-09 01:02:31 | 哲学

今日は第2節「医学的人間学と心の臨床哲学」ならびに第3節「精神医学と心身医学」について説明する。

 

まず「医学的人間学と心の臨床哲学」について。

 

医学的人間学の創始者はドイツの心身医学者(兼神経学者)ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカーだが、我々はこの創始者の見解を離れて、独自にそれについて考え、理解することかできる。

要するに、医学的人間学とは医学の観点から見た人間の本質の探究ということである。

換言すれば、医学の臨床の現場で、治療の経過の中で、あるいは患者の病気の進展や治癒や死亡の過程で人間の存在の意味を考えるものである。

その際、死生観や人間の生物学や医学の学問的本質を媒介として、人間存在の意味と生命の本質へと目が開かれる。

そのとき、哲学的観点が加味されるのは必然的である。

元々は精神分析や心理学の観点が加味されていたが、哲学はそれらを包摂し、医学すらも包摂する知の総本山なので、哲学的観点が付け加わると格段に思考が深まるのである。

 

本節ではこの医学的人間学と心の臨床哲学の関係が述べられている。

ある意味で医学的人間学は心身統合的な、あるいは生命論的な「心の臨床哲学」そのものである。

しかし、日本でヴァイツゼッカーの影響を受けた臨床哲学の一派は「心の哲学」の観点を欠いている。

つまり、心脳問題に特化した英米の心の哲学の観点を欠いているのである。

そこで、私はそれを取り入れて、新たな心の臨床哲学を提唱しようとするのである。

 

とにかく、患者の心理と人生観を臨床医学の観点と結びつけ、そこから人間存在の意味と生命の本質を探索しようとすることは非常に有益である。

それは、患者の心のケアを超えて身体疾患の治療そのものにも役立ち、さらには死生観を深め、死の受容を経て、自然の大生命と生命の大いなる連鎖へと目が開かれるのである。

しかも、うまくいけば、難病や慢性疾患から解放されて健康を取り戻し、生命の歓喜を享受するのである。

 

次に「精神医学と心身医学」について。

 

心の臨床哲学はすべての臨床医学領域に関与するが、その中でもとりわけ精神医学と心身医学との関係が深い。

そもそも身体医学における心のケアを受け持つのが両者なのだから、それは当然のことである。

しかし、精神医学と心身医学は身体病の心のケアに関わるだけではなく、それ本来の仕事をもっている。

言うまでもなく、精神疾患と心身症の治療である。

それについては前期で学んだので、ここでは省略する。

ただし、この本でも後の章で別の観点から詳しく説明される。

特に闘病記と関連して、精神医学と心身医学の意味が説明されるので、具体性を帯びていて、分かりやすい。

 

とにかく、心の臨床哲学は精神医学と心身医学と深い関係をもっている。

ここではそのことを銘記しておけばよい。

 

               そうだにゃ。

      僕は心の臨床哲学の甘い蜜を吸ったんだにゃ。


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哲学B1 文章講義(第6回目)

2021-10-06 10:44:02 | 哲学

今日から第3章に入る。

第2章「病気と心身関係」は省略するので、各自で読んでおくこと。

第2章ももちろん中間試験の範囲に入るし、ここからも出題される。

また、第2回目のレポートの選択肢にも入っている。

文章講義のない章に関して自力で理解しようとして熟読しないと、力がつかない。

ただし、省略する章は、他の章と内容が重なっていたり、内容がそれほど難しくなく、かつ短めのものなので、心配しないこと。

とにかく、解説なしに自力で理解しようとすることも大事なのだ。

 

では、第3章「哲学と医学」の解説に入る。

 

この章の構成は次のようになっている。

 

はじめに

1 人間の本質をめぐる哲学と医学の関係

2 医学的人間学と心の臨床哲学

3 精神医学と心身医学

4 病の自己言及的意識 ― 医者が患者になったとき

5 人生観と健康哲学

 

非常によく練られた構成と論述順序であり、よく読めば誰でも分かるはずである。

しかし、こういう問題を考えたことがない人も多いと思うし、専門用語も出てくるので、解説が必要となる。

今日は「はじめに」と第1節について説明しよう。

 

序で述べているのは、哲学と医学が「人間における心と身体の関係」を媒介として、あるいは共通関心事として関係し合う、ということである。

そして、それに着目して、心と生命の意味、ならびに哲学と医学の関係を理解せよ、ということである。

その際、特に「死」という現象に着目することが促されている。

死の問題が哲学と医学の共通関心事であることは、容易に理解できると思う。

 

ただ、一般的見方では哲学は精神論的に死の問題に対峙し、医学はそれに延命と健康維持のために自然科学的ないし技術的に関与する、と思われている。

しかし、そう割り切るのは、これまで何度も述べて来た二元論の悪しき習慣である。

二元論とは精神と物質の二元論であり、哲学と科学の二元論である。

 

哲学には人生論や死生観の他に心身問題と科学基礎論という分野がある。

これは理系に三分の二身を浸したものであり、科学や医学と非常に親近的である。

前期からこのことは何度も述べて来た。

これに着目しないで、哲学と医学の関係を捉えることはできない。

 

また、序では前世紀の後半以降、医学が「心」というものを重視するようになってきた、ことに注意を促している。

普通、科学の進歩は自らの探究領域から精神的要素を排除することそのものである、と思われているが、それは近代の物心二元論的科学観と機械論的自然観

に毒された軽薄な見方である。

我々は、こうした分別臭い猿知恵を超えて、心身二元論を乗り越えつつ、哲学と医学を協力関係において、生命と人間の本質を探究する姿勢を身につけなければならない。

 

しかし、自己存在の意味をめぐる実存哲学的観点や人生論的次元や文学的死生観も決して軽視されることはない。

それは、後の章の解説で明らかとなるが、とにかくここではそのことを銘記しておいてほしい。

問題は科学哲学的観点と人生論観点の接点に目を開くことなのである。

 

次に第1節「人間の本質をめぐる哲学と医学の関係」について。

 

人間は生物学的に見て、生物進化の頂点に立つ高知能の利口馬鹿である。

それはコロナに脅かされている現状を見ればわかると思う。

それはさておいて、とりあえず高知能であることには間違いない。

しかし、高知能な者は神経質になりやすい。

そこで、死について必要以上に恐れ、それから逃れるための妄想を構築するのである。

宗教における霊魂不滅や不老不死の思想は、まさにこの傾向の産物である。

 

医者や科学者でも哲学を欠くと、こういう思想にはまってしまう。

我々はそれを避けて哲学と医学を融合する観点から人間と生命の本質を合理的、自然主義的捉えようとすべきである。

 

この節ではまた生命倫理学というものが馬鹿にされている。

生命倫理はたしかに大事だが、それで病気を治せるわけではないし、人間と生命の本質を捉えるには役不足である。

生命の本質を深く理解するためには、科学と医学の知識を携えた生命哲学が必要なのである。

この節で重要のなのは、この生命哲学と生命倫理学の区別と優劣関係である。

 

なお、「より善く生きる」ためにも最終的には生命倫理学よりも科学哲学的な生命哲学の方が有益だ言っておこう。

それはコロナの現状を見ればよく分かると思う。

次の危機は何か。

人類の存亡はいかに。

そもそも人間がこの地球を支配することは許されるのか。

人類が滅亡して何が悪い。

少しはそのことを考え、二度とない青春と大学生活が楽しめないなどと嘆くのは、阿呆の極みである。

二十歳前後で白血病その他の重病で亡くなる人のことも少しは考えろ。

そこから、自然界における人間存在の意味と個々の自己の人生の意味を考えろ、と私は言いたい。

 

           僕も言いたいにゃ。

             僕も陰から監視してるにゃ。


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今後の試験とレポートの予定

2021-10-03 22:48:42 | 日記

哲学B1は一回目のレポートの提出期間中ですが、今後の試験とレポートの期日と内容について書いておきます。

予定ですが、ほぼこの通りになると思います。

 

中間試験→11月6日(土)に実施。前期と同じようにNet-ACEのレポート欄にオンライン解答。範囲は第1章~第5章ぐらいで、既習の部分と未習の部分から出題される。

二回目のレポート→11月下旬~12月中旬に提出。テキスト『心の臨床哲学の可能性』の第2章から第10章で二つか三つの章を選択して、要約と感想を書く。オンライン入力。

三回目のレポート→私の新著『哲学的短編小説集』(下)の中から二つ以上の作品を読み、要約して感想を哲学的に述べる。このレポートは必修ではなくて自由提出。出したい人だけ出せはよい。

         どういう人に勧めるかというと、前の二回の課題のうち一つか二つ提出していない人のリベンジ、論述よりも小説の方が好きという人、Sの獲得をより確実にしたい人(これなしに

         も可能だが、より確実になる)。もちろんオンライン入力で期間は12月下旬から1月上旬。なお、この新著は300円のAmazon・Kindleである。

期末試験→1月22日(土)に実施。やり方は中間試験と同じ。範囲は第6章~第10章で、既習の部分と未習の部分から出題される。

 

はっきりし次第、Net-ACEとこのブログで通知します。

 

             頑張って全部提出するにゃ。

 

                楽勝だにゃ


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哲学B1 文章講義(第5回目)

2021-10-02 01:04:12 | 哲学

今回は「3 人間的死生観と生物学的生命概念の相克と統合」「4 こころはいのちである」「5 臨床哲学における心と生命の関係の定式化」について説明する。

 

まず、第3節について。

 

人間的死生観と生物学的生命概念は、ちょうど文学的人生論と理科的生命論の対立に相即する。

我々は、小説や映画やテレビドラマ、あるいは漫画から人生の意味を学び、死と生の関係を深く考えさせられる。

これは死生観という感情にダイレクトに訴えかけてくるものであり、非常に親しみやすく、分かりやすいものである。

感情で共感しやすいからである。

 

それに対して、中学・高校の理科の生物分野から始まって、大学での自然科学から学ぶ生物学的生命概念は、死生観的感情に訴えてくるものではない。

なぜなら、それは生命の物質的組成やメカニズムを扱うものだからである。

人間や生物の身体の物質的組成や生理的システム、生物進化、生態学など多様な現象を扱うが、どれも死生観や人生の意味への問いに直結するものではない。

 

以上のように人間的死生観と生物学的生命概念は対立し、一見接点がないように思われる。

しかし、ある分野に突入すると、突然両者の一体性に目が開かれてくる。

それは医学であり医療であり病気治療の現場であり患者としての闘病である。

そして、面白いことに医学分野に属す医療ドラマは、人間的死生観の感情に強く訴えかけてくる。

制作者もそれを意図してドラマを構成する。

 

テキストにも書いてあるが、もともと理科系の自然科学と思われている医学は、実は非常に人間臭い学問であり、文系的要素も多分にもち合わせているのである。

医学は理系と文系の統合である。

あるいは、医学は理系でも文系でもなく、文字通り「医系」である。

医学の中でも精神医学と心身医学は最も文系的色彩が濃い。

また、がん医療における精神腫瘍学、つまりがん患者の心のケアもまた哲学的、心理学的、あるいは文学的色彩が濃い。

 

テキストでは特に若くして罹患した白血病が特記されているが、自分がその立場に置かれたら、生命の本質を文系と理系の接点から問うようになると思わないであろうか。

また、テキストでは文系人間ががんなどの重病に罹患した場合、にわかに素人生理学者に変貌することに注意が促されている。

手術、抗がん剤、放射線治療が自分の実存的身体にどのような影響を及ぼすかを考えれば、生理学的次元に無関心ではいられないであろう。

 

で、結局、文系的人生論と理系的生命論は根底においては一体なのである。

今問題になっているコロナのワクチンの副反応やコロナの後遺症などを知るにつけ、その観点はますます切実なものとなるであろう。

 

次に第4節について。

 

ここでは「こころ」は「いのち」であることが論じられている。

日本語の「心」は「こころ」と読むのが常識だが、私はその常識を打ち破って、あえて「いのち」と読むことを推奨する。

その際、漢字の「生命」と平仮名の「いのち」も微妙にニュアンスが違うことに気づいてほしい。

「いのち」は「生命」よりも、むしろ「こころ」に近く感じないであろうか。

特に生物学的「生命」概念よりは心ないし「こころ」に近く感じるはずである。

 

心は「生きていくこと」と深く関係し、単に意識や思考や認知や感情の個別的内容の総合を意味するものではない。

このことを闘病記などを参照しながら、後でまた説明する。

 

以前、私の毎日の通勤経路に「心」という店名の看板がある居酒屋があった。

毎日、その看板の文字を見ているうちに、「心」が「生きていくこと」そのものに隣接した現象として「いのち」と読めるんじゃないか、という気持ちが浮かび上がってきた。

言うまでもなく、居酒屋には人生ドラマの話題があふれている。

 

第5節はこの章の統括である。

臨床哲学は以上のような事柄を踏み台として心と生命の関係を文理融合の観点から深く捉えようとする。

特に医学ないし臨床の知が重視される。

医学の中では精神医学である。

自殺も問題となる。

それについて、以下の章で多角的視点から論が展開されていくので、楽しみにしてほしい。

 

 

             僕も心はいのちだと思うにゃ。

 

        いのちは生きていく心だと思うにゃ

 

 


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