今日は「不老不死を否定した永愛君」の残りの部分について説明する。
永愛はがん研有明での膵臓がんの治療に成功し、健康を取り戻した。
そして、その後生命科学の研究に精を出し、定年まで大学に務めた。
また、がん寛解後、出版社から闘病記の執筆を依頼され、それに応じた。
その後、皮村のアドバイスを受け、何冊も本を書いた。
皮村は執筆王であり、著書は既に30冊以上になっていた。
長嶋は、その方面は駄目だが、日立製作所で研究開発に勤しんでいた。
しかし、永愛の幸運は長く続かなかった。
74歳のとき、今度は悪性脳腫瘍が発覚したのである。
しかも、最も予後の悪い神経膠芽腫である。
唯一の救いは、永愛が高年齢のためがんの進行が遅いことであった。
だが、2050年になっても神経膠芽腫は難敵であり、膵臓がんのような奇跡的治癒は望めなかった。
ただし、進歩した緩和医療のおかげで永愛は、痛みと痺れ、麻痺などを緩和しつつ、まだまだ思索と執筆に勤しむことができた。
そこで、自分で『生命の本質と安楽死の選択 ― 生命科学と哲学を融合する視点から』を仕上げた。
全身全霊を賭けて、最後の思いを後世に遺そうとしたのである。
それはまさに不老不死の否定による生命の本質の把握であった。
また、この作品の最後の方で興味を引くのは皮村が太宰治の『人間失格』の生命学的意義、トランスパーソナル・エコロジー的意義を主張することである。
これは三人が共通の理解に到達した「人間はくだらない存在だ。利己的に自然環境を利用し、それを破壊し、地球を滅亡に追い込む悪魔のような存在だ」という思想に集約される。
野放図に「私は人間合格だ」という人間ほど中身は俗悪で野蛮極まりない。
人間合格者よ、恥を知れ、恥を!!!!!
これがこの作品の最後の方の文章に込められたメッセージである。
皮村は永愛が安楽死の施術によって死去した後、『新・人間失格 不老不死を望む人間合格者を徹底して叩く』と『不老不死を拒否した永愛君の栄光』を上梓した。
日本では現在、安楽死は法律によって禁じられている。
そこで、それを望む者はスイスなどに行って、それを施術してもらう。
なぜ、日本は安楽死を嫌うのだろうか。
自殺率が高い割には安楽死を合法化しようとしない。
ちなみに、宗教の全部は自殺を禁じ、最悪の罪とみなす。
なぜ、そうするのか。
お前らにそんな権限なんかないだろう。
なんのことはない。
自殺されると、自分たちの死後の世界詐欺商法が倒産し、信者に自殺されると寄付金を搾取できなくなるからなのだ。
私は自殺した者が地獄に落ちるという宗教の思想を全否定する。
そもそも死後の世界など存在しないのだ。
しかし、死後の世界がないとなると、宗教家たちは困る。
死の恐怖に怯え、死後の世界での幸福の再獲得を求める信者を失うからだ。
金蔓が減るからだ。
彼らの詐欺を信じてはならない。
ぜひ、哲学と生命科学と医学と生物学と心理学の知見を総動員して、あくまで自然主義的、合理的に「死」の意味について考え、死後の世界の全否定の境地に到達してほしい。
人間はたしかに利己的な動物である。しかし、限度をわきまえれば問題はないのだ。
しかし、限度を知らず、利権と派閥形成によって一部の富裕層だけが健康と富を何代に渡って確保しようとする。
その代表が裏金政治家たちなのは言うまでもない。
各個人がみな90歳以下で死ぬからこそ、人類は存続できるのである。
これは分かりやすいようでいて、ナカナカその真の意味を掴むことができない。
だから、気軽に不老不死などを求めてしまうのだ。
そこの君、君もそう思っていただろう。
いや、今でもそう思っているだろう。
不老不死を求めて何が悪い。
そう思ってないか。
この作品を読み、私の解説を聴いてもまだそう思うなら、あなたはもう生きている資格はな
あっ、大丈夫よね。
だって、死後の世界における霊魂、いやレンコンの不滅があるんだから(笑)
それにしても、不老不死はまた意味が違ってくるよなー。
これを修正するのは難しい。
「君自身にではなく自然に還れ」という私の思想を理解してほしい。
これが最も切実に描かれているのは『心の臨床哲学の可能性』の末尾に付された実験小説「ある不幸な唯物論批判者の死」である。
興味ある者は一読を勧める。
23歳の大学生が前立腺肉腫(キング オブ がん、悪魔のようながん)によって死ぬ間際にこの真実に気づくという短編小説だ。
怖いけど、読んでみるにゃ。
面白そうだにゃ。