心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

ニューバランスと歩む人生  最新版

2022-01-30 17:24:46 | 日記

最近またニューバランスにはまっている。

二年ぐらい前まで買い控えていたのだが、ヤフオクなどで格安や超お買い得のものを見つけては買いまくっている。

これまで買おうと思っても高価格なので諦めていた履き心地最高モデルも初めて買えた。

 

このマイブームの発端は1500の復刻版を池袋の東武のオシュマンズで見つけたことに始まる。

ニューバランスの中でも高い人気を誇るM1500のこの色のモデルは、1999年に私が初めて買ったニューバランスのスニーカーである。

これは当時から店頭での新品の価格が約25000円であり、今も同じぐらいである。

しかし、1999年に私は池袋のマルイで15000円で買った。

そして、2019年にもセール価格の15000円で買えたのである。

もうこの色のは二度と買えないと思っていたので、昇天した。

 

次は古典的なM997を最新版にアレンジしたMS997のうち日本で未発売の珍しい逸品を二足買った。

輸入サイトからである。

これを履いている人を東京でも埼玉でも見たことがない。

ソールがENCAP-REVERL+ABZORBというハイブリッド型のもので、ふわふわ感が半端ない。

本当に「雲の上を歩いているような感覚」。

デザインも宇宙的で格好いい。

まずイエロー。

次にターコイズ。

 

これもし店頭で新品なら28000円ぐらいになる。

それを輸入サイトで、どちらも12000円ぐらいで買った。

日本でこれを履いている人、いったい何人いるだろうか、という優越感に浸れる、超履き心地のいいイケメンなモデル。

カラー配置と発色も最高。

 

次にM996。

CM996というアジア製のものは前に履いていたことがあったが、本家のUSA製のM996は初めて買った。

アジア製とUSAでは、素人目には外観の違いが分からないが、二つ並べてみると、素材と造りの高級感が違う。

そして、何よりも履きこごちが全く違う。

もちろんUSA製が数段上。

新品の店頭価格は26000円ぐらいだが、次のものはヤフオクで新品を何と5000円で買えた。

こういうチャンスは、よく狙っていると、たまに出会える。

本当に新品が送られてきた。

26000円相当のものを5000円でゲットできた。

ルックスも履きこごちも最高。

ちなみに、これを買った一年後に、またヤフオクで新品を15000円で買えた。

前からほしかったパープルのものである。

これはヤフオクで使われていた画像そのものである。

完全な新品で箱付き。

26000円もするので臆して買えなかったのが、幸運にも15000円で手に入った。

もちろん、大大満足!!

 

次に大好きなM1500の色違い。

ニューバランスのアウトレットの公式サイトに14300円で売り出されていたもの。

これも店頭新品なら25000円ぐらいする。

このほれぼれする色合い。

またコレクションが増えた。

超格好いい。

夏向き。

 

次に、これまた大好きな998の色違いを久々に買った。

これで三足目である。

次のものはヤフオクで新品を10000円(!!)で奇跡的に買えた998。

店頭新品なら26000円はする。

この色、最初に見たときビビっときた。

で、実際届いてみたら、格好いいの、美しいのなんのって。

最高だー!!

スムースレザーとスエードの質も高くて最高だ―。

この世で一番のスニーカーかと思った。

夏向き。

 

これに続いて、これまた前からほしかったカラーの998をヤフオクで7000円で買った。

説明書きではB状態の中古ということだったが、届いてびっくり。

何とほぼ新品。

箱なしだったけど、新品とほとんど同様のものが来た。

強いて言えば、新古品ぐらいか。

それにしても7000円は超買い得。

最近、いや、前からだが、私は悪運が強い。

この画像はヤフオクで使われていたものそのもの。

やはり新古品って感じ。

 

次は前々から気になっていたニューバランス史上最高傑作と言われる1400を初めて買った。

実は1400は去年で生産中止となっており、プレミアがつきはじめていた。

そうした中で好みのブルー系の中古が7000円即決で出ていて、速攻落札した。

クーポンが使えたので5800円になった。

これも店頭新品なら28000円ぐらいする。

少しだけへたっていたが、かなりいい状態だった。

 

これもヤフオクで使われていた画像そのもの。

美品の中古である。

特にソールは「張り替えたの」というぐらい綺麗だった。

それよりも、履きこごち。

前から世界一の履きこごちのスニーカーという話は聞いていたが、本当にその通り。

びっくりした。

これほどのものだったのか、ニューバランス1400!!

最初は前出のMS997のふわふわ感に圧倒されるが、この1400はじわじわとその典雅なふわふわ感と安定感のミキシングが足から上に、身体に登ってくる。

これこそ、まさに世界一の履きこごち。

特に一日、いや半日履いて歩いていると分かる。

恐れ入り之介だ。

 

次に、これまた久々に買った二足目の1300。

前のものが不満だったので、今回は27cmのを買った。

実は1300は実質ニューバランスのナンバーワン。

1980年代に日本で初めて売り出されたとき、なんと39000円。

今の感覚では60000円であろう。

こんな高いスニーカーってありえるのか、最初引かれたが、実際味わった人から人気の波がどんどん広がって行った。

かのラルフ・ローレンをして「まるで雲の上を歩いているようだ」と言わしめたのが、この1300。

ニューバランスの神である。

その一番人気のものは中古でも高いので、外したカラーのものを狙って買った。

次のものはヤフオクで7000円、しかも税込み・送料なし。

店頭・通販新品なら26000円はする。

これもヤフオクで使われていた画像そのもの。

デザインもよく、カラーもいい。

履きこごちもいいが、1400より少し落ちる感じ。

人によるのだろう。

ただし、格好は1300の方が少し上だと思う。

 

次に574の珍しいモデルがヤフオクに売り出されていた。

Mita Oshmansの特注品というもので、他のアジア製の574とは格段に違う。

まず、見た目の高級感が段違いだし、履きごこちも造りの高級感も違う。

576の廉価版と言われるアジア製の574だが、この特注品は次元が違う。

これをヤフオクで新品で10000円でゲットした。

店頭なら20000円前後だと思う。

これも非常に珍しいモデルで、ほとんど見ることがない。

 

最後にイングランド製の596。

サラブレッドなのは知る人ぞ知ること。

ヤフオクで7000円即決で出ているのを見つけて、即落札した。

状態の比較的良い中古ということだっだが、これまた届いてびっくり。

何だ新品じゃないか。

またしても大儲け。

これも新品店頭なら26000円ぐらい。通販でもそれが相場。

これもヤフオクで使われていた画像そのもの。

まさに新品。

まぁ、新古品か。

とにかく、サラブレット。

春まで履かずにフローリングに飾っておく。

 

 

 

 

 


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哲学B1 文章講義(第31回目)

2022-01-28 21:53:28 | 哲学

今日で一応、哲学B1の講義は終わりだが、期末試験も終わったので、休講とする。

興味がある者は各自で第10章や三つの付論や実験小説を読んでおくこと。

とにかく、この授業はもういいので、他の授業の試験やレポートに力を傾けてください。

 

新型コロナウイルス蔓延は、まだまだ終わりが見えません。

来年は原則的に対面授業にすると12月頃に大学から連絡があったが、それはコロナが終息しかけていた頃のことである。

その後、何の連絡もない。

おそらく、オンラインにするか対面にするか検討しているのだろう。

この授業のような大人数のものは、この際オンラインの方がいいのである。

コロナが終息しかけても、そうした方が良い。

 

欧米の大学では無駄な対面授業を減らして、オンラインにできるものはそれにするという方針に転換している。

友達とコミュニケーションできないのはつらいが、この際、読書と思索と知識収集に没頭するのもいいと思う。

最初にアメリカの医学者が予想したようにコロナの終息は2024年になるであろう。

 

            僕も孤独に耐えて、勉強するにゃ。

 


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期末試験の最後の問題

2022-01-22 18:30:27 | 日記

哲学B1の期末試験の最後の二択問題は答えなくてもいいよ。

これに答えるとボーナス点が付くだけだから。

最後までちゃんと答えると130点満点。

最後を抜かすと100点満点。


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期末試験について

2022-01-20 11:00:57 | 日記

哲学B1の期末試験は予定通り22日に実施します。

Net-ACEへの解答の入力は当日の6:35から出来ますが、問題自体は0:01には閲覧できます。

その時刻から解答に取り組んで、かまいません。

 

  僕も試験を受けて、解答するにゃ。特に最後の問題は頑張るにゃ。

                僕も頑張るにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第30回目)

2022-01-18 17:57:58 | 哲学

今日は「4 鬱と人生の意味への問いかけ」について話す。

 

この節は言うまでもなく第9章の総括である。

ただし、この短い節について詳しく解説する必要はないであろう。

各自で読めば分かるからである。

しかし、分からない人もいる。

そういう人のために一般的な話をしよう。

 

我々は、何か障壁に突き当たらない限り「人生の意味」について深く考えない。

「私は何のためにいきているんだろうか」

「人間はなぜ生きていくのか」

「苦しいことばかりだし、どうせ時が来れば死ぬのだから、生きていることには大した意味はない」

 

こうした考え方が悪い方に傾き、厭世観がマックスになると、人は自殺する。

この過程を多くの人は純粋に精神的悩みと受け取っている。

しかし、肝要なのは、こうした希死念慮が意識の中に生じているとき、脳内の神経化学的活動はどうなっているのだろうか、と少しは考えることである。

テキストではそのことに注意を促している。

 

人は「人生の意味への問い」があまりに抽象的で、公理や定理や法則を当てはめて答えを導き出すことができないので、考えてもしょうがない、と投げ捨てがちである。

しかし、人生論と脳科学、人生の意味への問いと神経遺伝子、自殺関連遺伝子の関係に目を開けば、この問いが必ずしも観念的で空虚なものとは限らないことが

分かるようになるはずだ。

 

抗うつ薬の効き目などもこれに関連する。

生理学的次元と価値観、人生観、幸福観は密接に関係している。

 

私は年末から年始にかけて右の奥歯の歯茎が大きく腫れ、かなり痛んだ。

もしかしたら歯肉癌か、とも思ったが、よく調べたら、単なる歯肉炎による腫れと結論できた。

歯根に膿が溜まり、大きく腫れ、痛んだのである。

そして、今日、歯科に定期検診に行ったら、まさしくその通りの診断。

しかし、根を治療しても完治する可能性は低く、結局は抜歯になると思うので、しばらく様子見しよう、ということになった。

 

昨日の夜は31歳で大腸がんになり、その後肝臓と肺に転移した女性のブログを読みふけり、私も明日、歯科で「歯肉癌だ」と宣告されるんだろうな、

と一晩中うなされた。

ここにおいて人生論的思考と生理学的、病理学的次元は切っても切り離せない。

 

そして、私は大いなる苦悩を越えて歓喜に至った。

また、あの女性のブログの続きを読もう、と思う。

 

     それって、なんか高みの見物みたいで、いやだにゃ。

 

そうじゃなくて、主は病気の知識を増やして、病人にアドバイスするのが好きなんだにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第29回目)

2022-01-16 09:47:07 | 哲学

今日は「3 心身関係と鬱、そして人生」について講義する。

 

この節ではまず、鬱病が脳の病気であることを強調している。

ただし、脳の病気であるとしても脳腫瘍や脳梗塞やアルツハイマー型認知症のように脳の実質が侵される器質的病変はなく、機能的病変によるものである。

どういう機能的病変かと言うと、セロトニンやノルアドレナリンというモノアミン系神経伝達物質の枯渇であり、これによって絶対的倦怠感に至るような抑鬱症状が発生するのだ。

しかも、この脳の機能的病変には心理的、生活的ストレスが密接に関わっている。

つまり、鬱病における脳の機能障害は神経遺伝子のアンバランスによるモノアミンの枯渇しやすさと枯渇の持続であると同時に精神的ストレス、慢性疲労、過剰労働、パワハラ被害

による心理的発生機序も併せ持っているのである。

しかし、素人目には後者の精神的ストレス、落ち込みのみに目が言って、背景にある脳内の神経遺伝子のアンバランスな働きとモノアミンの枯渇は視野から外れる。

そこで登場するのが「鬱病は甘えであり、本当の病気ではない。根性で乗り切れ」という俗流の精神論と根性論による軽薄な鬱病理解である。

 

我々はこのような軽薄な精神論と根性論を乗り越えて、ぜひ脳と精神両面からの鬱病理解な至らなければならない。

また、鬱病における身体症状を心身症の発生機序に照らして正確に理解しなければならない。

 

そのための貴重な例は芥川龍之介の晩年である。

晩年と言っても、30~35歳なのだが、ここに彼が自殺に至った理由が簡略に、しかも正確に記述されている。

よく読んだほしい。

 

鬱病には人生への絶望からの自殺が伴うが、鬱病でなくても人は人生への絶望から自殺する。

芥川は鬱症状が強い不安神経症だったので、子供の頃からの厭世観、性悪説、悲観主義、人間不信と相俟って、自殺は必然的となったのである。

しかし、彼がその断末魔の苦悩を短編小説に結晶させた芸術家精神は不滅であり、人類の文化が存続する限り、彼の作品は世界中で読み継がれ、

影響力をもち続け、賞賛され続けるであろう。

とすれば、彼の短い一生を無碍に不幸なものと言い切ることはできないであろう。

 

しかし、この節の末尾に書いてあるように、若い頃彼に共感し、私も若死にすると思い込んでいた私は63歳になった今、ますます心身共に健康になり、創作に没頭している。

私の方が哲学を習得しており、浅い哲学理解の芥川は私に負けたのだ。

しかも、私の方がはるかに医学と生理学、特に精神医学と心身医学に通じていたし。

それよりも、生得的資質が違っただけとも言えるが。

 

                うーん、感慨深いにゃ。

 

                うまいにゃ。


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哲学B1 文章講義(第28回目)

2022-01-13 07:42:07 | 哲学

今日は「2 悲哀 対 絶対的倦怠感」について話す。

 

この節は前回言ったことを詳しく掘り下げたような内容となっている。

 

ポイントは「心理的落ち込み」と「本来の医学的鬱病」の違いを「悲哀」と「絶対的倦怠感」の違いとして把握することにある。

普通、うつと言うと、精神的落ち込みを連想するが、本来の精神医学的な鬱病は単にそのような精神的落ち込みではなく、身体症状を伴った心身的生命エネルギーの減衰である。

そこで、甘く見ていると、自殺に至ることになる。

精神的落ち込みでも自殺するが、心身的生命エネルギーの減衰でも自殺するのである。

とすると、自殺は本来の鬱病の病理の核心にはない付随現象であることが分かる。

 

自殺は大変な出来事なので、ついそれにばかり着目して、「鬱病になると自殺の率が健常者の24倍になる」という俗説を鵜呑みにすることになる。

実はこの説に裏がある。

精神的落ち込みと医学的鬱病を一緒くたにして、自殺した人は何らかのうつ状態にあった、というバイアスをそのまま通してしまう、素人の悪癖である。

鬱病の病理の本体は自殺に導くような暗い気分、精神的落ち込みではなく、脳の機能障害を基にした心身的生命エネルギーの減衰なのである。

 

この心身的生命エネルギーの減衰をこの節では「絶対的倦怠感」と表現しているのである。

それに対して、落ち込みの方は「悲哀」と表現している。

この絶対的倦怠感と悲哀を対比して、本来の「鬱病」とにせの「うつ」、いわゆる「落ち込み」を区別しなければならない。

 

      そうだにゃ。全くをもってそうだにゃ。

 

               僕もそう思うにゃ。

 


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哲学B1 期末試験

2022-01-11 21:20:37 | 日記

哲学B1 の期末試験は22日(土)に実施します。

試験範囲はテキストの第6~10章で、解答をNet=ACEのレポート欄にオンライン入力するのは中間試験と同様。

 

                      同様だにゃ。

 

                動揺しないにゃ。

 


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哲学B1 文章講義(第27回目)

2022-01-10 07:38:01 | 哲学

今日から第9章「鬱と人生の意味への問いかけ」に入る。

この章では「うつ」と書かないで、わざと「鬱」と漢字で書いてある。

それの方がインパクトが強いからである。

その意図は読んでもらえば分かる。

 

本章の構成は次のようになっている。

 

はじめに

1 がん 対 鬱

2 悲哀 対 絶対的倦怠感

3 心身関係と鬱、そして人生

4 鬱と人生の意味への問いかけ

 

相変わらず整合的で論理的な構成であり、順を追って読んでいけば、誰でもよく理解できるはずである。

 

今日は「はじめに」と第1節について話す。

 

序では鬱が単なる精神的苦悩、あるいは心理的落ち込みではなく、心身両面に渡る生命エネルギーの減衰であることが指摘されている。

これは最も基本的で重要な「鬱」ないし「鬱病」理解のための基盤なので、しっかり把握しておくこと。

 

単なる落ち込みとしての「うつ」と精神疾患としての「鬱病」ないし「鬱状態」の違いは何か、というと、それは身体症状の合併の有無だと言える。

精神疾患としての鬱病には自律神経失調を中心とした様々な身体症状が付帯する。

不眠、倦怠感、便秘、性欲減退、食欲の著しい減退などがその代表である。

その他、原因不明のしつこい眩暈、原因不明の慢性疼痛、視力減退、記憶力低下などがある。

 

鬱病を素人でも、あるいは自力で治せる「単なる落ち込み、心の不調、精神的苦悩」と考えてはならない。

それを示最も極端な例は、鬱病、うつかと思ったら実は脳腫瘍、脳梗塞だったというものである。

素人が脳腫瘍や脳梗塞を治療できますか。

これぐらいの重みを顧慮して鬱病を理解してほしい。

 

とはいえ、鬱病には他の身体科と違う特殊な心理学的配慮が必要となる。

そこで、医学用の病理心理医学たる精神病理学を習得した精神科医のお出ましとなるのである。

臨床心理士のサポートも極めて重要である。

心理面では精神科医よりも心理士の方が強いし。

 

なお、ここでも芥川龍之介が引き合いに出されているが、重要なので注意すること。

 

次に第1節について。

 

ここでは「がん」と「鬱」のどちらがつらいかについて説明している。

結論を言うと、鬱ないし鬱病の方である。

これは意外と思うかもしれないが、両方を体験した患者の多くが証言している事実なのである。

 

「先生ね、抗がん剤の副作用は一週間で終わるけど、鬱病の苦しみはずっと治らない気がするんですよ」。

 

この患者の切実な訴えに傾聴しなければならない。

絶望は死に至る病である、と言われる。

がんもそうである。

鬱病もそうである。

そして、最も死に隣接しているのが鬱病なのである。

今日、がんは治るようになった。

しかし、神田沙也加は・・・・・・・

 

あの例をよく考え、喪に服してほしい。

 

 

       僕は神田沙也加のファンだったにゃ。悲しいにゃ。

 

              僕も喪に服すにゃ。


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哲学B1 文章講義(第26回目)

2022-01-07 07:33:36 | 哲学

今日は「4  崩壊する自我の自然」について話す。

 

自殺の「自」は自然の「自」である。

自殺とは自然へと還る一つの方策なのである。

だから、闇雲にそれを否定してはならない。

快楽主義者のリア充は自殺を蛇蝎のように忌み嫌うが、それは彼らの浅い心と薄っぺらな人格の表れである。

 

滅びの美学を理解できる人は心が深い。

ダンディズムとは過去の栄光を一身に背負いつつ、身をもち崩し、破滅していくことである。

それは最高の美学であり、根源的自然への還帰、魂の故郷への還帰なのである。

 

我々は哲学を通して幸福と不幸の通俗的対置を乗り越え、知的ダンディズムを身につけなければならない。

悲劇のヒーロー、ヒロインになることを目指すのである。

そうした意識が陰りのある美貌となって表れ、脱我(ecstasy)の雰囲気を醸し出すのである。

 

自殺する者は勇気あるものである。

小心者の私にはけっしてできない英雄的行為である。

しかし、真の天才中の天才は、意外と小心者で、地味で、自殺なんかしないけどね。

大器晩成型だから。

 

 

             僕も大器晩成型の天才だにゃ

                  

                  僕は凡猫だにゃ。


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哲学B1 文章講義(第25回目)

2022-01-06 07:25:08 | 哲学

今日は「3 自殺の臨床哲学の可能性」について話す。

 

君たちは自殺したくなったら誰に相談するであろうか。

あるいは、人が自殺したくなったら、どこに相談に行くと思うか。

 

第一選択肢は精神科のはずだが、精神科は思いの外信頼されておらず、親、友人、先生、民間の心理カウンセラーのような人、宗教関係などを頼りとするようだ。

大学にも学生相談室や保健室があるから、とりあえずそこに行く者もいるであろう。

 

なぜ、精神科に直行しないのか。

それは日本人の意識に深く刷り込まれた心身二元論、つまり精神と物質の二元分割によってである。

医学はあくまで物質科学として病気を治すものであって、精神という聖域に関わることは許されない、というわけである。

かなり軽薄な信念だが、本人は確信しており、揺るがない。

精神科は脳の機能障害に定位して、諸々の精神の不調、精神疾患を治療するものなのだが、誰もこのことを知らない。

精神科では薬物療法が中心となっていることは知っているが、それを「薬漬け」とか「麻薬で誤魔化すようなもの」と受け取り、精神という聖域を守ろうとする。

そういう思い込みに囚われた者が、実際に統合失調症になったらどうなるか、という例をテキストで取り上げて説明している。

 

他方、軽薄な唯物論によって「脳を薬によってチューニングして、楽チンして精神の不調を治そう」と主張する馬鹿者もいる。

かつてベストセラーになった『完全自殺マニュアル』の作者である。

この作者は、その後覚醒剤不法所持によって逮捕され、その後どこに行ったか分からなくなった。

 

心の臨床哲学は、こうした二つの両極端な立場、軽薄な精神主義と薄っぺらな唯物論の中道を行く観点から、自殺の意味を捉え、それに対処しようとする。

それは簡単なようでいて、意外と難しい。

その意味を深く考えてほしい。

 

なお、自殺は安楽死の問題にも関わる。

多くの人は闇雲に自殺を否定し、それを蛇蝎のごとく忌み嫌う。

しかし、私は自殺を必ずしも否定しない。

特に、前にあげた四人の作家のような例はむしろ賞賛に値する、と思う。

 

人類は人口爆発の状態にある。

このままでは地球の自然環境を破壊し続け、多くの生物を巻き添えにして、地球自体を物理的破滅に追い込むであろう。

単に人類が滅亡するだけではなくて、地球自体を破壊してしまうのである。

しかし、もし地球が自己組織化する有機体として、自動的に自己を存続できるように舵を切るなら、ある手段をもって人類の数を間引こうとするであろう。

能産的自然の自己組織性とは、そういうものなのである。

そして、新型コロナのパンデミックはその一環だとも言えるのである。

 

我々は人間を神の子、神聖な精神的生物として特別視する観点を捨てて、自然に対して少しは謙虚になるべきなのである。

そのためには、宗教というものをこの世から抹殺する必要がある。

それと、悪徳政治である。

科学に関しては、科学哲学による厳しい監視が必要となる。

 

ちなみに、この講義は来年は一応対面授業になる予定だが、多分オンラインに切り替わると思う。

我慢して、多量の本を読んでほしい。

 

 

                                  僕は毎日大量の本を読んでるにゃ。

   

         僕は陰から君たちを監視してるにゃ。


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哲学とは「無我の境地」を軽蔑することである

2022-01-01 19:20:00 | 備忘録

というタイトルの対篇小説の書き出し。

 

竹脇無我は自分の名前が嫌いだった。

 

にする。


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