心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学A1 文章講義 第1回目

2024-06-23 10:15:45 | 哲学

22日の対面授業をオンラインの文章講義に置き換える、と通達したので、それを実行する。

まだ、体調が不十分なので、今日は書けるだけ書いて、残りは火曜日にupする。

 

15日の講義では「不老不死を否定した永愛君」の前半三分の二を読んで説明した。

そこで、今日は残りの三分の一を要約して説明することにしよう。

 

既に前半部で『アンドリュー』というSF映画にこめられた死生観、生命観、哲学、そして不老不死の否定についての三人(永愛と皮村と長嶋)の議論について詳しく説明した。その際、三人それぞれの考え方と視点の相違についても説明した。

これについては繰り返し説明する必要はないであろう。

しかし、ぜひ読み直して、それぞれの観点の相違について吟味・把握し直してほしい。

生命科学専攻の永愛と機械工学専攻の長嶋と哲学専攻の皮村では、同じ問題についても観点と理解と解法が違ってくることに気づいてくれたと思う。

ただし、皮村は哲学専攻とはいえ、自然科学や工学や医学にもかなり通じた博学の人であり、最も視野が広く、包括的観点に立てることに注意してほしい。

前回までの部分では生物としての人間の心と人工知能の相違と接点が顕わとなり、一見異質に思われる両者に共通の起源があることが示唆された。

それが「能産的自然の自己組織性」というものである。

皮村がこれを説明すると、頭の固い長嶋でさえ納得し、永愛はさらに理解を深めた。

以上は三人がまだ学部生の頃の対話の内容である。

 

今日扱う残りの部分は、その後30年以上経った日の出来事である。

三人は55歳になっていた。

そして、それぞれ希望の職に就き、充実した日々を送っていた。

しかし、ここで悲劇、というより事故が起こる。

永愛に膵臓がん罹患が発覚したのである。

しかも、ステージ4であった。

膵臓がんはすべてのがん種の中で最も悪性度の高いものの一つであり、見つかったときはかなり進行していることが多いので有名だ。

案の定、永愛の膵臓がんはステージ4の状態で発見された。

現在の医学ではこのステージの膵臓がんの5年生存率は7%以下であり、多くが2年か年以内に死んでしまう。

しかし、この短編小説の時代設定は2050年頃になっているので、末期膵臓がんも死病ではなくなっていた。

永愛は最初母校の大学附属病院に入院していたが、ここでは完全な治癒は望めない。

そこで、医学全般に詳しい皮村が腫瘍内科の教授と相談して、現在国内一の治療成績を誇る東京の癌研有明病院への転院を決めたのである。

もちろん、永愛は大賛成であり、すぐに転院した。

そして、有明病院の肝胆膵腫瘍内科で最新の分子標的薬治療と重粒子線治療を受け、見事寛解したのである。

このとき永愛は55歳であった。

2024年時点ではまだほとんどの転移性膵臓がん、末期膵臓がんの患者は二年以内ぐらいに死んでいる。

しかし、医学の進歩はそれを克服した。

ちなみに昭和の時代、がん告知=死であり、かなり高率でがん患者は死なざるをえなかった。

そこで、多くの人が宗教や超自然的力や代替療法に助けを求めた。

2024年時点でもまだこの傾向は残っている。

しかし、医学はその道に逃げることなく、飽くなく合理的な治療法を求め、研究を進めてきた。

不老不死や死後の幸福を求める代わりに、あくまでこの世の人生の内部で可能な限り解決しようとしたのである。

ちなみに、死後の復活、幸福の再獲得を目指すのと、不老不死を求めることは次元が違う。

不老不死は健康な人でもかなりの率で求めるものなのである。

 

なぜ、人は85年の天寿で満足せずに不老不死を求めるのだろうか。

講義でも触れたが、人々が希求する、あるいは想定する「不老不死」は非常に曖昧な概念であり、多くの人は単に死なずにいつまでも生きたいと思うだけである。

私はこの短編でその考え方の愚かさ、軽薄さ、不合理さ、薄っぺらな俗物根性を示唆した。

その私の意図をしっかりとらえることが本短編の精確な読解につながるのである。

 

なお、まだ体調不十分なので、件の作品の残りの部分の解説とその他の講釈は火曜日あたりにupする。

 

ただ、今言っておきたいことがある。

不老不死を望むということは何も個人の生命の永遠の持続、老化を忌避していつまでも健康に生きるという欲望、希望として現れるだけのものではない、ということである。

今、都知事選の選挙運動の最中だが、小池と蓮舫とその他売名、利権がらみで出馬している候補たちの「俗な欲望」にそれは別の形で表れてくる、このことに少しは気づいてほしいのである。

新鋭の石丸伸二は石丸、小池、蓮舫、田母神という代表的候補四人の公開会見で、自分の目的を小池の横の席で力強く「政治屋の一掃」と言い放った。

権力獲得や売名や富の獲得のために政治を利用し、庶民を貧困に陥れて、良心の咎めの欠片もない政治家たち。

仕事をしているふりをしているだけの無能な著名人。

こうした人たちを石丸は「政治屋」と言っているのだが、そういう人たちを全員消し去るべきだ、と主張しているのだ。

彼の口調は極めて堂々としていた。

不老不死へ俗な憧れは、現世においては貧しい人の生き血を吸って富を得ようとする政治屋の「派閥形成」にはっきり表れている。

行政と経済の素人たる小池や蓮舫がなぜ当選し要職につけるのか。

それは政治家たちが「現世における不老不死」「派閥内の繁栄と富の確保と継続」を、マジックと詐欺によって実現しようしているからなのだ。

不老不死の希求は実際の老化と死の忌避ではなく、こういう俗な欲望としても現れてくるのだ。

 

少し話がそれたが、次回はまた作品の残りの部分の解説から始める。

 

なんか、外界では怪しいことがやられてるにゃ。一人だけ信頼できる人がいるにゃ。

 

不老不死を望むのは人間という馬鹿な生物だけだにゃ。特に政治屋。

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