今回で春学期の哲学の文章講義は終わりである。
今年の春学期は前代未聞のオンライン授業ということになり、当初動画配信も考えたが、通信環境を考えると無理なので、毎回文章講義とした。
秋学期もオンライン授業ということが決定したので、またこの形式で行く。
もともと一般教養の授業は出席率が低く、興味があり意欲的な学生とそうでない学生に大きく分かれ、必要不可欠というものでもない。
ただ単位がもらえれば、という学生も多い。
文系の学部はゼミ以外は専門科目でもだいたいそういう感じである。
勉強したい人はとことん勉強するし、ただ卒業証書がもえればよいという学生もいる。
勉強とは本来自分一人で自主的にやるものであり、授業はその補助にすぎない。
ただ、勉強好きないし知識欲旺盛な学生が少ないので、授業への依存度が高くなる。
授業に出席して、教授の話を聴いているだけ、という学生も多い。
ひどいのになると寝ているか、スマホをいじっている。
私は去年まで30年近く、対面形式の授業、それも大教室での講義を行ってきたが、もし学生が毎回指定されたテキストの箇所を読んでいるなら、
このオンラインによる文章講義のほうが効果的とすら言える。
ある学生は、私の話し方は非常にうまく、その絶妙な間の取り方に感心した、と書いていたが、人によってはテキストの読みと解説だけでつまらないらしい。
それなら、わざわざ土曜日の夜に遠方から大学にやってきて、眠い講義を聴くよりは、好きなときに家でネットの文章講義を読んでいたほうがよいのだ。
私にとってこのオンライン授業は利便性がある。
まず、片道1.5時間の通勤時間がなくなる。
それと、ブログに週2回ぐらい文章講義をupし、最後に好きな猫の画像を付加する。
これがまたたまらない。
どれも効果的で面白い、その回の内容にふさわしい猫の画像を載せたつもりだ。
独り部屋で自粛生活しているときは、この猫に癒されてほしい。
ところで、テキストの最終章だが、これは興味がある者が各自読んでもらうことにして、今回は秋学期につながる話と、コロナ禍の自粛生活についてアドバイスしておくことにする。
最終章にはinformationの話が出てくる。
これは第7章にも出てきたものだが、秋学期の講義では主役に躍り出る。
現代は高度情報化社会であり、様々なオンライン授業やインタビューや会議が有力となり、テレワークもオンラインないしIT技術、そのスキルによって充実してくる。
無駄な会議や出社が必要なくなり、東京の住居を捨てて、地方や実家に転居してテレワークにしたり、起業したりする人も増えている。
今後、無駄な人と人との交流が削減され、情報ないしIT技術が社会の主役になるかもしれない。
デジタル社会の登場である。
しかし、そうなっても人間社会の本質はやはり自然に根差した独自の生命性に満ちたものなので、機械的な情報技術では齟齬が生じてくるであろう。
そこで、あらためて情報の本当の本質を見極める必要が出てくるのだ。
それは情報と意識と生命の三者関係を知ることによって可能となる。
ところで、我々の意識は情報によって形成されている。
自粛生活で暗くなり、寂しくなる意識も情報の結合様式、そのシステム形成によって造られる。
他人とコミュニケーションしないと情報が自分の脳内で循環するだけで、鬱っぽくなる。
オンライン飲み会というものが流行っているが、やはり生身の飲み会には到底及ばない。
通信機器がこれほど発展して便利になっても、やはり機械的なオンラインの付き合いと生身の会話では格段に違う。
今年の新入生は可哀そうである。
こんな事態は想像もできなかったし、かつてなかった。
しかし、第二次世界大戦中や先の原発事故による避難生活に比べたら、大分楽だし、不満や不快を吐露するのは贅沢とも言える。
キャンパスライフはないし、友達もできない、お金が減り、ひもじくなる。
私の見るところ東洋大の二部の学生からは、毎年生活が苦しいという話はほとんど聞かない。
全国の多くの大学で、学生が生活の貧窮で悲鳴を上げ、退学すら考えている、と言われるが、この哲学の授業を取っている学生は比較的安泰だと思う。
それは課題の提出率にも表れている。
ただし、苦境にある学生は、遠慮なく学生相談室や市役所や両親に相談して、前向きな対策を考えてほしい。
苦労を乗り越えた体験は後の人生の大きな糧となるのだ。
それでは、また秋学期のオンライン授業で会いましょう。
また会いたいにゃ