うろ覚えライフ。

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小沢昭一さん逝く‥

2012年12月24日 | Weblog

○小沢昭一さん83歳で死去 独特な一人語りもう聞けない

 

    俳優でエッセイストの小沢昭一(おざわ・しょういち)さんが10日午前1時20分、前立腺がんのため都内の病院で死去した。83歳だった。個性的な脇役として舞台や映画で活躍したが、日本の伝統芸能に興味を持ち、研究の道へ。芸能にまつわる数々の著書を残すと同時に、劇団を主宰するなど幅広い活動で知られた。1973年にスタートしたTBSラジオの長寿番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」では、名パーソナリティーとして幅広い層に親しまれた。

 40年近い間、ラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」で独特な語り口と豊富な話題でリスナーを楽しませ続けてきた小沢さん。その声を聴くことは、もうできなくなってしまった。

 所属事務所によると、1998年に前立腺がんが見つかり、定期的に治療を続けていたが、一昨年、頸椎(けいつい)に転移。今年8月に検診を受けた際、体力低下の診断を受けて入院することになった。一時退院したものの、9月13日に再入院すると同時にラジオの休養を発表。が、入院中は売店に自力で歩いて買い物に行けるほど元気だったという。

 本人の意向で10月22日に退院。外出なども控えて療養に専念した。11月にはラジオに肉声でのメッセージを寄せるなど復帰に意欲をみせていたが、今月10日未明に容体が急変。妻の英子さんにみとられながら息を引き取った。

 マネジャーを務める津島滋人さん(63)は「ラジオは生活の一部だった。休んでから寂しそうだった」という。先週、小沢さんを見舞った際は、ベッドに横になっていたが、津島さんを確認すると「ヨッ」と右手を上げたという。

 早大在学中から演劇に目覚めた小沢さんは俳優座養成所に入所。卒業後、すぐ舞台に立ち、俳優としてのキャリアをスタートさせた。その後、映画に活躍の場を広げ、主に日活作品に出演。三枚目の脇役を好演することが多く、川島雄三監督の「幕末太陽傳」、その弟子で大学時代の同級生でもあった今村昌平監督の「にあんちゃん」など、映画史に残る名作に多数、出演した。

 俳優として着々と歩んでいた小沢さんに転機が訪れたのは69年。初の著書「私は河原乞食・考」を出版したことだった。以前から興味を持っていた日本古来の芸を研究した成果と、自分の芸観を発表したことで、自らの中に眠っていた伝統芸能への情熱に火がついた。71年にはレコード「日本の放浪芸」シリーズを発売、同年の日本レコード大賞で企画賞を受賞した。

 73年には「小沢昭一的こころ」がスタート。軽妙な一人語りで注目を集め、放送回数が1万回を超す人気番組になった。82年には「劇団しゃぼん玉座」を創設。井上ひさし作品などを全国各地で上演するほか、歌手としてもコンサート活動を行っていた。

 芸能のあらゆる分野で精力的な活動を続けていた小沢さん。誰よりも日本の芸能を愛していた人が、静かに逝った。

 ◆小沢 昭一(おざわ・しょういち)本名・小澤昭一。1929年4月6日、東京都生まれ。51年に初舞台を踏み、映画、舞台で活躍。著書に「ものがたり 芸能と社会」「小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ」など多数。94年に紫綬褒章、2001年に旭日小綬章を受章。04年には愛知・犬山市の「博物館明治村」の村長に就任。「小沢変哲」という俳号の俳人でもあり、永六輔らと「やなぎ句会」を発足している。

 

最愛の妻に看取られ…小沢昭一さん、先月16日のラジオ出演が最後の仕事に

 

  俳優でエッセイスト、小沢昭一(おざわ・しょういち)さんが10日午前1時20分、前立腺がんのため死去した。83歳だった。自宅で夫人の英子さん(79)に看取られ、亡くなった。小沢さんは1998年に見つかった前立腺がんが、2010年に頸椎(けいつい)に転移。入退院を繰り返し、10月22日に退院してからは自宅療養しながらラジオ番組の収録をするなど、本格復帰へ並々ならぬ意欲を見せていた。が、それもかなわず、帰らぬ人となった。(サンケイスポーツ

 個性的な脇役として活躍し、日本の語り芸にも通じた小沢さんが、大好きだった自宅で最愛の妻に看取られ、逝った。

 関係者によると、9日深夜、英子さんが小沢さんの異変に気付いたが、手を施す時間もないまま息を引き取った。苦しんだ様子はなかった。

 小沢さんは1998年に前立腺がんが見つかり、2010年に頸椎への転移が判明。11年2月にがんを公表後、入退院を繰り返しながら闘病生活を続けてきた。が、今年8月に体調不良と体力低下で約10日間入院。9月13日に再入院したものの「自宅に帰りたい」という強い意志を主治医が尊重し、10月22日に退院して自宅療養に入った。

自宅では、出版を予定していた俳句集や自ら撮影した写真集の打ち合わせをこなしてきた。今月17日にはTBSラジオ系の長寿番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の収録を予定するなど、最後まで本格復帰に意欲をみせた矢先の死だった。この1カ月間は食も細くなり、点滴と流動食に近い食事をしていたという。

 先月16日放送の「-小沢昭一的こころ」への出演が最後の仕事に。自宅のベッドで声を収録した際には「早く元気になって、この心の空(くう)の穴を、みなさんと埋めていきたい、そう思うんであります。よろしく」と小沢節を披露した。

 小沢さんは早大在学中に俳優養成所に入所。卒業後に俳優座公演で初舞台を踏み、大学の同窓だった故今村昌平監督の紹介で54年に映画デビューを果たした。「幕末太陽伝」「にあんちゃん」など多くの映画に出演し、脇役中心ながら、鮮烈な存在感を示した。特に性風俗を描いた今村監督の「『エロ事師たち』より 人類学入門」で主演し、賞を総なめに。以降も名脇役として200本以上の映画に出演した。

 73年には「-小沢昭一的こころ」がスタート。軽妙洒脱な語りが人気を集め、放送1万回を超すギネス級の長寿番組に。また、浪花節や猿回しなどの伝統芸、放浪芸の収集にも力を注ぎ、69年に著作「私は河原乞食・考」を刊行。早大演劇科大学院に入学して芸能史研究を深めるなど、小沢さんならではの視点から放浪芸を見つめ直した。

俳優にとどまらず、芸能と風俗を愛した昭和の語り部が、また1人天国へ旅立った。

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道楽三昧―遊びつづけて八十年 (岩波新書) 

■ 日々談笑 小沢昭一対談集 (ちくま文庫)

夢は今もめぐりて~小沢昭一がうたう童謡

■ 辻説法 (紙ジャケット仕様) 野坂昭如,小沢昭一,永六輔, Akiyuki

小沢昭一の小沢昭一的こころ ゴールドボックス

小沢昭一の「新日本の放浪芸」~訪ねて韓国・インドまで~ [DVD]

 

   小沢昭一さんといえば、やはり僕も、ラジオの「小沢昭一的こころ」ですね。僕が聞いていたのは相当昔な話で、僕が二十代後半、僕が当時勤めていた企業の、東京都心部の中央の営業所から飛ばされて、群馬大田や埼玉熊谷・行田に居た頃のコトですね。夕方でしたよね。午後から会社セールス車バンを運転して田舎道をあちこち走って、夕方・夕暮れ時、調度、営業所に帰って来る道のりだろうか。田舎の営業所のテリトリーは広いから、田舎道を相当遠くまで走って行ってましたけどね。埼玉の関東平野、田圃と畑ばっかりのところ、ひたすら。お客によっては行って帰って来るだけで三時間近く、とか。まあ、ここでは、当時の私の仕事の有様、成績などを語るのは省かせて貰いますけど‥。当時のバンのカーラジオで毎日毎日聞かせてもらってましたよ、一回の時間は短い番組でしたが、「小沢昭一的こころ」。あの当時、いっぱい爆笑もさせて貰っていたと思います。今から思い出すと、あの頃は、会社のバンで、一日中、関東平野を走り回っていたという感じでしたから、ラジオは毎日の友達でしたね。まあ、一応、営業業務で、バンは一人で運転して回っていたから。懐かしいな。

 僕が継続的読書を始めたのは、16歳で高二の春からですが、最初に虜になった作家は、松本清張と五木寛之です。そして、五木寛之ほどではなかったけど、当時の売れっ子作家、野坂昭如に辿り着く。野坂昭如には心酔してしまいました。憧れ、信奉。あの時代の僕の「人生の師」みたいな存在でした。五木寛之も野坂昭如も、放送作家やCMソングの作詞家など、当時のメディア方面から出て来て小説家として売れた人ですね。小説で流行作家となってからは、五木寛之さんは文筆業一本でしたけど、野坂昭如さんは小説やエッセイ集も人気作家でしたが、メディアでの活躍は八面六臂で、タレント業から歌手(シンガー)としてもステージに立ってました。売れなかったけど、野末陳平さんと漫才師をしてたコトもあったそうですね。17、18、19歳頃の僕はもう、まるで野坂昭如教信者みたいなもので、当時の野坂小説も、直木賞受賞作の「アメリカひじき・火垂るの墓」も含めて、長編・短編集いっぱい読んだし、エッセイ集も大好きでした。特に野坂さんの数々のエッセイには、当時の若き僕は、相当影響されたと思っています。あの当時、野坂さんメイン司会のバラエティー番組もあったな。後に、野坂さんは政治の世界にまで入って行ったりするし、その後も「朝まで生テレビ」や「TVタックル」などの討論番組で、言論人としても活躍して行く訳ですけど。まあ、僕自身が野坂信者だったのは、10代の終わりまでですけど。

 小沢昭一さんでした。野坂昭如さんは、僕が高三くらいの頃、歌手として、「黒の舟歌」とかヒットさせて活躍してたんだけど、当時、小沢昭一さんともコラボというのか、一緒に組んで歌のステージをやってました。「中年御三家」のライブ。「中年御三家」って、小沢昭一と野坂昭如ともう一人は、永六輔さんだったっけか。そういえば、あの当時、野坂昭如ソロのオリジナルアルバムのレコードを買って来て粗末なステレオで聴いてたな。「バージンブルース」や「マリリンモンローノーリターン」だとか。懐かしい。小沢昭一さんの歌う、「♪ハーモニカが欲しかったんだよ~」という歌は何度か聴いたけど、ジンと来ていつも涙が出そうになってた。この「生きたまま極楽」の記事は訃報ニュースが多いんで、訃報ニュースに寄せる僕のコメント文もいつもいつも同じになっちゃうんだけど、やはり、昭和を作った人々、昭和を彩って来た人々、子供の頃や青年時代、TVなどのメディアでしょっちゅう見聞きしていた有名人たちが、鬼籍入りしてこの世を旅立って二度と帰っては来ないというのは、本当に寂しいものです。昭和は遠くへ、遠くへ、と‥。

 


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