うろ覚えライフ。

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太平サブロー・シロー漫才

2012年02月12日 | 芸能ログ

○大平シローさん急死 サブローと名コンビ

 

  漫才コンビの太平サブロー・シローとして80年代の漫才ブームで人気を博した、タレントの大平シローさん(本名・伊東博)が9日、大阪府内の病院で亡くなった。55歳だった。死因は不明。所属事務所によると、シローさんは今月4日に大阪市内の事務所で突然倒れ、医師から「難治性心室細動」と診断されていたという。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。

 昭和の漫才ブームを沸かせた人気者が、静かにこの世を去った。まだ55歳。早すぎて、突然すぎる旅立ちとなった。

 所属の吉本興業によると、シローさんは4日昼ごろ、大阪市内の事務所で仕事中に突然倒れ、スタッフの通報で病院に緊急搬送された。一時は心肺停止となり、蘇生措置で一命は取りとめたものの、意識不明の状態が続き、回復することなく9日午後2時32分、息を引き取った。医師からは「難治性心室細動」と診断されていたが、現在のところ死因は不明。最期は、両親ら親族と一部の弟子がみとったという。

 75年に漫才トリオ・レツゴー三匹に弟子入りしたシローさんは、76年に大平サブロー(55)とコンビを組み、太平サブロー・シローとしてデビュー。80年代の漫才ブームで、紳助・竜介、オール阪神・巨人、ツービート、B&B、ザ・ぼんちらとしのぎを削り、若手ながら一気にスターダムへと駆け上がった。サブローとの息のあった掛け合いで、「花王名人劇場 花王名人大賞」や「上方漫才大賞」などの賞を総なめにし、万人から愛される笑いを届けた。

 昨年、芸能界を引退した島田紳助さん(55)も、サブロー・シローのお笑いセンスをリスペクトしていた。紳助さんは85年に紳助・竜介を解散して漫才から身を引く際、「サブロー・シローとダウンタウンには勝たれへん」と“完敗”を認めていたほどだった。

 順調だったはずの漫才人生は、80年代後半に一転した。88年4月に、所属していた吉本興業をケンカ別れの形で飛び出したため、芸能界追放の状態に。92年にはサブローとのコンビを解消。同年、参院選に出馬するも落選し、失そう騒動まで起こした。

 97年には紳助さんの仲介もあり、放送作家として芸能界に復帰し、98年に吉本興業に戻ることも許された。その際、芸名を太平から大平に改めた。その後は、タレント業や劇団での役者業に加え、自身がプロデュースしたお笑い興行を定期的に開催。その一方で、飲食店を経営するなどしていた。最近は表舞台から遠ざかっていたシローさん。波瀾(はらん)万丈の人生は、あまりにも短い55年という時間で幕を閉じた。

○大平シローさん急死 55歳、心室細動…サブロー「信じられない」

 

  漫才コンビ「太平サブロー・シロー」(旧コンビ名)として1980年代の漫才ブームを築いたタレント・大平シロー(本名・伊東博)さんが9日午後2時32分、大阪市内の病院で死去した。55歳だった。シローさんは4日に大阪市内で倒れ、心肺停止に。その後、一時蘇生したものの、意識不明の状態が続き、ついに帰らぬ人となった。葬儀・告別式は近親者のみで行われる。

 漫才の歴史に一ページを築いた大物が、その生涯に早過ぎる幕を下ろした。所属の吉本興業によると、シローさんが倒れたのは4日昼ごろ。大阪市内にある自分の事務所だった。緊急搬送されて一命は取り留めたが、意識不明状態に。心臓が小刻みに震え、全身に血液を送れなくなる「難治性心室細動」と診断された。懸命の治療のかいもなく、この日帰らぬ人に。両親、弟子らが最期をみとったという。

 シローさんは1975年、松竹芸能の漫才トリオ・レツゴー三匹に弟子入り。76年に大平(当時太平)サブロー(55)とのコンビでデビューした。80年代にNHK上方漫才コンテスト最優秀賞など多数の賞を獲得。先輩芸人らのモノマネも得意とし、人気者となった。88年、サブローと一緒に吉本を離れ、東京の芸能事務所に移籍。全国区の活躍を見込んでの移籍だったが、これが苦難の幕開けだった。

 大プロダクションの吉本に反旗を翻した影響は大きく、仕事は激減。コンビ仲にも亀裂が入って92年に解散。参院選に出馬するも落選し、ノイローゼ説や失跡騒動まで浮上した。サブローはこの苦境に耐えられず、93年に吉本に復帰。しかし、シローは自らの才能に対するプライドから謝罪を渋り、吉本への復帰を認められたのは6年後の98年だった。

 復帰後は昨年、芸能界を引退した島田紳助さん(55)らの後押しで放送作家としても活動したが、芸人としてひのき舞台に立つことはなく、一時、新たなコンビを組んだこともあったが、長続きしなかった。

 関係者によると、近年はほとんどタレントとしての活動をしておらず、大阪市内での居酒屋やバー経営が生活の中心だった。旧知の芸人らも、もはやシローさんを芸人とはみなしておらず、調理人として「大将」などと呼んでいたという。居酒屋経営は順調だったようだが、日頃の不摂生が続いていたためか、大幅に体重が増加、健康状態が心配される様子だったという。

 ◆サブロー悲痛
  シローさんとのコンビで、一世を風びした大平サブローは9日深夜、吉本興業を通じてコメントを発表した。「55歳というあまりにも若い年齢でのことにショックを受け、まだ信じられない思いです」。コンビ解散後は絶縁状態と言われた時期もあり、「どうしているんだろうなと思うことが多かった」と、近年も親交がなかったことをうかがわせた。

 ただ、現在のサブローがあるのもコンビで出発したからこそ、という思いは強い。「僕が世に出ることができたのも、『サブローシロー』というコンビがあったおかげ。ましてやシローさんという天才芸人と一緒にやれたことが、今、現在もこの世界で何とかやれることになっていると思います」と感謝の思いを表現した。

 山田邦子(「オレたちひょうきん族」などで共演)「同じ青春時代を過ごし、よくお酒を飲んだ同志。当時のサブシロは格好良く、シローさんはストイックでいろいろな夢を見ていた。『(米の番組)「サタデーナイトライブ」のジョン・ベルーシみたいになりたい』と熱く語り、彼のビデオを米国で買ってきたらすごく喜んだ。一方でネクラなところもあって、政治家になると言って騒がせたのも彼らしい。2人とも最近は大人になって、これから楽しみだったのに…」

 ◆大平(たいへい)シロー 本名・伊東博。1956年10月30日、大阪・泉大津市出身。子役から松竹芸能の俳優養成所に入り、レツゴー三匹に師事。76年、養成所で知り合った太平サブローと「太平サブロー・シロー」結成。吉本興業に移籍し、西川きよしらのものまねで人気を呼び、80年代の漫才ブームを支える。フジ系「オレたちひょうきん族」などに出演。86年、上方漫才大賞受賞。92年コンビ解散。99年、放送作家として芸能界復帰。

 ◆難治性心室細動 心臓の心室が痙攣(けいれん)した状態になり、全身に血液を送れなくなる。数秒で意識がなくなり、数分続くと死亡する。心臓に血液を送る冠動脈の異常や、心筋への血流低下が主な原因に。自動体外式除細動器(AED)による電気ショックで細動を防ぎ、正常な心拍のリズムに戻す治療が中心。2002年11月に高円宮憲仁さまは、この心室細動で亡くなっている。

 

 ホントに、太平サブロー・シローの漫才は面白かったなあ。あの時代、楽しくて大好きなお笑いだった。太平サブロー・シロー漫才にはハズレがなく、いつも爆笑した。今の大平サブローさんが、大平シローさんを「天才」だった、と評していたけど、やはり、ああいう面白さを出せる人って、天才だよなあ。例えば明石家さんまも島田紳助もそうだけど、ああいうふうに普通の会話の中に、即座にしかも幾つでも無限に、おかしいこと、面白いこと、ゲラゲラ笑えること、ギャグを入れ続けていける人って、やはりそれは「天才」なんだろう。普通の人ではとても出来ない。あの時代、太平サブロー・シロー漫才はもう、台本なんか考えてなくて、打ち合わせなんて簡単な設定だけで、後は舞台での即興だったらしい。そんなもので会場の大爆笑を取る。本当に「すごい!」と思う。ああいうのは、やはり「お笑い」の天分であり、戦後歴代を飾るお笑いのスターたちは、やはりその道の「天才」ですね。

 お笑いの天才児の一人でもあった大平シローさんは、漫才舞台で見せる顔とは真逆の、繊細な人であったらしい。とても気を使い、細心の注意を払う、神経の細やかな人。クレバー。ナーバス。ナイーブ。一面、そういう人でないと、クリエイティブな才能は現せないのかも知れない。

 昭和のバブル突入期の漫才ブームから「ひょうきん族」の時代。あの時代の「お笑い」は本当に面白かったなあ。おかしかった。昭和後期の輝けるお笑いのスターたちが居た、ひょうきん族は「お笑い」の宝庫でしたね。55歳はあまりにも早過ぎる。波乱万丈、全速で駆け抜けた人生だったんだろうか。大平シローさん、御冥福をお祈りいたします。


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